忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

私の原体験 ⑲ (妻の死)

2010年04月29日 | Yutakaの原体験
 学校にいる間、生徒と接している間は、
以前の元気がよみがえっていました。
 それは生徒たちのお陰かもしれません。
学校現場では、色々なことが起きます。
楽しみも、苦しみも、喜びも、悲しみも含めいろいろなことが起きます。
感動もあります。
 教職という仕事を選んで良かったと思います。
私の天職なのかもしれません。
 妻の葬式を終え、12月の頭に復帰すると
当時3年生の私のクラスの生徒が私を体育館で呼んでいました。
 体育館に行ってみると、誰もいません。
私が体育館の真ん中あたりまで歩きながらさしかかると、
突然舞台のどんちょうが上がりステージのひな壇の上には、
クラスの生徒がならんでいました。
「文化祭で先生に合唱を聞いてもらえなかったから」と、
私のためにクラス全員で合唱曲を一生懸命に歌ってくれました。
 私は終始、涙が止めどもなくこぼれました。
合唱が終わると生徒達は私の言葉を待っていました。
「姿はありませんが、私の横にいる妻と一緒にみんなの歌を聴かせてもらいました。
本当にありがとう。」と答えたことを覚えています。
 その生徒たちも卒業し、新しい新入生を迎え、
今年は3年生の担任をしています。
 あれから3年が経とうとしています。
(つづく)



中学校では、なぜ茶髪やピアスがいけないのか?

2010年04月29日 | 教育談義
 日本の多くの中学校では「中学生らしい身なり」という理由から、
茶髪やピアスを禁止しています。
 それでもたまに、ピアスや茶髪の生徒がいます。
「いけません」と指導しても、聞く耳を持たないのが現実だと思います。
茶髪やピアスは現代社会の若者の流行であり、多くの若者が行っています。
 格好良さのシンボルであり、
アメリカでは小学生からピアスをしている子どももいるようです。
 ではなぜ茶髪やピアスがいけないのか、
と疑問をもたれても当然だろうと思います。
 教師であれば茶髪やピアスは「いけない」と生徒に話します。
理由はなんでしょうか。
ひとことで言えば、学校の「きまり」「ルール」だからです。
 もうひとつは、中学生の自律の力の弱さです。
身なりのことよりも、心を鍛えなければならない時期だからです。
多くの中学校では茶髪やピアスは禁止されています。
ですから、茶髪やピアスをすることによるトラブルが
生まれてくる危険性が大きくなります。
 そしてもうひとつは友人関係の変化です。
問題は茶髪やピアスそのものよりも、
「中学校の約束・ルールを守れない生徒」ということです。
人と違ったことをすることには勇気がいりますし不安です。
茶髪やピアスをしている生徒も、
学校の約束やルールを破っている不安感から同じように破ってくれる仲間を求めます。
 そこに集団が形成されのですが、
その集団は生活ルールを破るための集団となることが多いのです。
 時には同様な他校の生徒、卒業生、
暴走族などとの関係まで広がっていくことがあります。
 中学校の3年間は、
自分の考え方や将来の自分を創る上でとても大切な年代です。
それ故にできれば、夢や目標を大切にし向上し合える友人関係
であってもらいたいと思います。


私の原体験 ⑱

2010年04月18日 | Yutakaの原体験
 我が家に家計の問題と共に、家事の問題もふりかかってきました。
私は子どもの頃から、料理・洗濯・食器洗いなど
全くやったことがありませんでした。
 ご飯の炊き方から、洗濯機の使い方まで何も知りませんでした。
妻の死後、まず子どもたちと家事の分担をして滑り出したのですが、
毎日がイライラの連続でした。
 食器洗いがしていなかったり、掃除がしていなかったり。
おまけに室内犬の犬がオシッコやうんちをしていたり、
大事なものをかじっていたり。
 子どもや犬を怒鳴ったり、
イライラしている日が続くようになりました。
家計は余裕が無くとも、なんとか生活をしているのですが、
家事の方はイライラの連続でした。
 良いことと言えば、職場の女性とのコミュニケーションが
密になったことです。
 理由は、料理の作り方から食材の買い方、
保存の仕方など、知らないことばかりでしたので、
いちいち教えてもらっていたからです。
 子どもを怒りながらも、ある時私は決心をしました。
「私が家事全部をやろう。私が家事全部をやるのだ、
 と思えば子どもたちがやらなくとも腹は立たない。
 手伝ってくれれば感謝できる。」
その日から毎朝4時半に起きて、掃除機をかけ、
洗濯ものを乾燥機で乾かし、乾いた洗濯物をはかごに入れ、
お弁当を作り、犬の散歩をし(仏壇のお供えも)、
朝食の準備をする日々が始まりました。
 女性の先生から学んだ家事の鉄則、どんなに疲れ夜遅くに帰宅しても、
その日のうちに翌朝のご飯を炊くこと、
洗濯機を回すことを併せて実行していきました。
 それ以後、体は疲れますが、イライラも少しずつ無くなり、
子どもや犬に怒らなくなっていきました。
 子どもに頼る、私の心のずるさに気づいたのかもしれません。
妻が生きていた頃も、こうしたずるさがあったことを思い出しました。
 妻に「これをやっておいてくれない」と優しく頼んでいるようで、
やっていてくれないと妻に腹を立てている自分がそこにいました。
 忙しいからと、周りの人に頼る性格を、
改めて思い知らされたのでした。
 今から思うと、妻にお願いと言うより、
実質的には命令していた自分が情けなく思いました。
 男は仕事だ、とうぬぼれていた以前の私のから、
家事と仕事の両立の生活が始まりました。
 両立といえば格好良いのですが、
職場で夜8時を過ぎるとスーパーで食材が買えなくなることが頭をよぎり、
仕事が中途半端でもスーパーへ向かう今の自分、
今日の料理は何にしようかと職場で考えている自分、
弁当のおかずはどうするか、そんなことを考えている自分、
新しい自分が始まったのです。
(つづく)


温かい叱り方と冷たい叱り方

2010年04月18日 | 教育談義
 子どもを叱るのは、子どもがよりよく生きていけるように行動や態度を
正しくしてあげたいからです。
 ほめるだけでそれができれば越したことはありませんが、
子どもにしっかりとした生活習慣や考え方を身につけさせるためには、
いけない時には叱らなければなりません。
 しかし、その場合の叱り方はあくまでも心の通った温かい叱り方であって、
子どもを見放した冷たい叱り方ではいけません。
 冷たい叱り方とは、子どもに親の温かい心を感じさせない、
突き放した叱り方です。
子どもに反発心や敵意、孤独感を感じさせる叱り方です。
 温かい叱り方とは、たとえ厳しく叱ったとしても親に愛されている
という実感が子どもにつたわる叱り方です。
それはその子にとってかけがえのない体験となるでしょう。
 上手な叱り方や正しい叱り方、好ましい叱り方というものは、
叱られた結果その子どもが悪かった点を自覚し、
「これからは改めよう」という気持ちを起こさせる叱り方です。
 叱る者と叱られる者との間の人間関係がより深まる叱り方です。
子どもがこれからの生活を、
より良くしようとする意欲を起こさせる叱り方です。
叱られて、良い気持ちのする人などひとりもいません。
誰にとってもつらくいやなものです。叱る立場も嫌なものです。
 しかし温かい心から叱るのであれば、
必ず子どもに温かい親の思いも伝わっていくものです。
「温かい心で叱る」ということが、叱り方の基本なのでしょう。


良い集団と悪い集団 (yutaka の学級通信:第11話)

2010年04月16日 | 教育談義
 集団の中で生活する私達は、集団から計り知れない影響を受けます。
戦前の軍国主義下にあった日本や、共産主義の国、独裁政治の国では、
自分の考えを自由に話すができません。
国という集団ばかりでなく、
学校や学級という集団においても集団は個人に大きな影響を与えています。
 アメリカの教育困難校では銃や麻薬、
犯罪や暴力といった不正が蔓延しているそうです。
 ですからアメリカ社会では、
ジャスティス(正義)ということが声高に叫ばれます。
それは裏返すと正義が通らない土壌があることを暗示しています。
良い集団とは、正義が通用する集団です。
日本では正義を声高に叫ぶことが少ないようです。
そのことは逆に、治安や道徳の高い国である証拠でもあります。
しかし最近の日本は犯罪が増加し低年齢化し、
モラルの低下が大きな問題となっています。
他人を注意しただけでも殺されるなどという悲しい事件も発生しています。
学校の中でも、いじめや暴力などの不正や悪が広がることもあります。
学校は人を教育する場です。
良い人間を育てる環境は、正義が通用する集団でなければなりません。
そして学校は正義が通用する集団であることだけに留まることなく、
ひとりのためにみんなが助け合い、思いやれる集団でありたいものです。

私の原体験 ⑰ (妻の死)

2010年04月16日 | Yutakaの原体験
 妻がいなくなると、妻の役割が否応なしに家族に降りかかってきました。
すぐにやらなければならないことは、妻の通帳やら、妻の関係した取引先の整理でした。
 平日業務の私にとって、休日休みの役所や銀行との手続きが終わるまでに半年近くがかかりました。
 妻の収入分の家計の減少や妻の治療代、葬式にかかったお金の整理などなど、妻のいなくなった後の家計の見直しを始めました。
 長男のアドバイスを受けながら、スカイパーフェクトTVをはじめダスキン、有線放送、新聞、有機米といった、妻が生前に契約して今も続いているものの中で、優先順位の低いものから全て契約を打ち切っていきました。
 それまでは家計や家事は、妻がひとりでやりくりしていましたので、私は我が家が1ヶ月にどれくらいの生活費がいるのか、1年間の支払いがどうなっているのか等々、は全くわかりませんでした。
 残された通帳を眺めながら、手探りの状態での新しい家計のやりくりが始まりました。
親友に「俺の給料だけで生活できるのかな。」と聞くと、親友は「おまえの給料で生活できないのなら、国民の半分の人は生活できないよ」と言われ、なんとかなるかとその時始めて思えました。
 妻がいた頃は、家族で毎年旅行やキャンプなどレジャーの多かった家族ですが、妻の死後はレジャーに行くお金などなく、全くどこにもいかない状態になりました。
幸いなことに一番下の子どもも高校生でしたので、子どもたちとは子離れ、親離れの時期に入りつつある時でした。
 また私の精神状態からして、お金の余裕があったとしてもレジャーで楽しめる状態ではありませんでした。

(つづく)by yutaka

私の原体験 ⑯ ( 妻の死 )

2010年04月11日 | Yutakaの原体験
 妻が亡くなった時のショックの大きさは、私の人生の中で味わったことのない大きなものでした。
実の父が亡くなったとき、終始冷静に父の死を受け入れられたのですが、妻の死は全く違っていました。
妻との想い出が次から次に私の頭をよぎり、そのたびに涙が止めどもなく流れてきました。
夜、いつものベッドで寝ようとしても過去の想い出が次から次に頭に浮かび、涙ばかりがあふれてきて眠れませんでした。
寝室を別の部屋に替え、明かりをつけっぱなしで眠るようにしました。
それでも、頭の中には過去の出来事が止めどもなく浮かび、寝付けないままうとうとと夜を過ごしていました。
 親友からのアドバイスを受け、心療内科へ行きました。
お医者さんは、「仕事や家族があって良かったですね。なければうつ病になっていたかもしれません。睡眠導入剤を出しますが、うつ病の薬も出しましょうか。」といわれました。
 うつ病の薬は断り、睡眠導入剤をもらって帰宅しました。
その日から睡眠導入剤を使い、ようやく眠ることが出来るようになりました。
それまでの家での過ごし方は、本を読んだり、勉強したり、テレビを見たり、新聞を読んだりしていたのですが、それら全てが見るのも聞くのも嫌になり何も出来なくなりました。
ただ、ただ、妻の写真を見てはぼんやりとしていました。
 妻とよく行った、鎌倉など想い出の場所へは、絶対に行きたくありませんでした。
夫婦の出てくるテレビや、夫婦ずれの人たちの姿を見るのも嫌になっていました。
(つづく)


魔法の言葉 (ゆたかの学級通信:第10話)

2010年04月11日 | 教育談義
 オーストラリアへホームステイをしていた高校生の話です。
その子がステイ先のお母さんやお父さんに、「コップをとってくれますか」などと頼むと、決まって返ってくる言葉が、「魔法の言葉は」という返事だったそうです。
 人に何かを頼むときにはまず「魔法の言葉」を言いなさい、ということなのです。
その言葉を言えば自分の頼みを聞いてくれるのでしたら、まさしく「魔法の言葉」です。
 その「魔法の言葉(Magic Word)」とは、実は「Please(お願いします)」という言葉なのです。
「なあんだ」と思うかもしれませんが、このたった一言が人と人の人間関係を大きく変えるのです。
 まさしく魔法の言葉です。
日本語にも、この Magic Word に当てはまる言葉がいくつかあります。
「お願いします」「ありがとうございました」、などがそうでしょう。
こうした言葉がしっかり身に付いている子どもは、周りの人達にかわいがられ応援される幸運な生き方ができます。
 しかし、「お願いします」と言いなさいとか、「ありがとう」を言いなさい、などと口調を荒げて言えばとげとげしくなります。
「魔法の言葉は」、と穏やかな口調で身に付けさせていく姿勢に懐の深さを感じます。
かけがえのない我が子です。
子どもが周りの人達にかわいがられ、応援される幸せな生き方ができるように、この魔法の言葉をしっかり身に付けてもらいたいものです。


言葉のキャッチボール(yutakaの学級通信:第9話)

2010年04月01日 | 教育談義
 キャッチボールは相手のボールをしっかりと受け止め、相手にとれるようにボールを投げ返すものです。
 このことは、「会話」についてもいえます。
相手の言葉をしっかりと受け止め、相手に投げ返してあげなければ、楽しい「会話」を交わすことはできないからです。
相手の言葉をしっかりと受け止めるということは、相手の話を耳で「聞く」のではなく、心で「聴く」ということです。
 子どもに限らず大人でも、外であった出来事や悩みを家族に聴いてもらいたい、自分の気持ちをわかってもらいたいと思うことがしばしばあります。
楽しかった気持ちや、困った気持ち、悔しかった気持ち、つらかった気持ち、その時々の気持ちを共有してもらいたいのです。
 「聴く」とは、相手の心情や思いを察してあげることです。
会話の内容だけでなく、感情をしっかりと受け止め、共有できることが大切なのです。
 アドバイスよりも、まずは相手の思いをしっかりと受け止めてください。
これからどうしたらよいかは、自分自身がわかっているものです。

私の原体験  ⑮ (妻の死)

2010年04月01日 | Yutakaの原体験
 退院の日、めずらしく妻は朝から一時も眠らず、とても嬉しそうな表情でした。
午前中に退院する予定が、退院手続きが完了するまでに、大変時間がかかり
退院できたのは、午後3時をまわり家に着いた時は夕方になっていました。
看護婦さんが総出で玄関まで出てくれ、自家用車の座席をフラットにし、
布団をひいて、妻と二人で横になっての退院でした。
「おめでとう」の声に、喜んでいいのか、悲しむべきなのか、
複雑でした。
最近の妻は、寝ていることが多い容態だったのですが、
その日は、自宅のベッドに横になっても、まだ起きていました。
1日よくがんばりました。
会話はできませんが、うれしそうな笑顔で、家の中を眺めていました。
 しかし、翌日にはもう寝返りもできない状態になっていました。
日々、スプーンで水や流動食を少しずつ摂取する状態でした。
目を覚ましている短い間に、1日に必要な水分を口から補給させようと、幾分あせっていました。
 点滴をするにも腕や足は細くなりすぎていて、血管は萎縮し、点滴が難しい状況になっていきました。
 時には手のひらから点滴がうたれました。
日々、点滴を看護婦さんに要請するか、しないかで、悩みました。
点滴が意味が無くなりつつあったからです。
栄養を点滴で入れても、体が受けつけなくなっていました。
 そのような状態の中で、すでに会話の力を失っていた妻が、
うわごとで、はっきりとした口調で「がんばるぞ」
と言いました。
そして「がっかり」と言った言葉が耳に焼き付いています。
「がんばるぞ」と言ったときには、私の目から大粒の涙が流れていました。
 妻の容態は、日々悪化の一途をたどっていきました。
足も手も動かすことができなくなっていました。
それでも私は、奇跡が起こることを信じて疑いませんでした。
妻は絶対に良くなる。そう思いこんでいました。
 毎日来てもらっている看護婦さんに、妻の手や足を動かしてもらったり、車いすに乗せもらい、外の景色を見せてもらい、
いつかまた歩ける日のために、リハビリの要請をしつこくお願いしました。
 妻は1日の大半を眠っているようになっていました。
わずかに目をあける短い時間が夜中の時もありました。
 一睡もせずベッドの妻を見つめ、起きている一瞬の間に、水分や薬、流動食を少しで飲んでもらおうと必死になっていました。
 だんだん目を開けても、何も受け付けなくなってきていました。
11月26日小澤先生から、妻の命はここ数日ということを宣告されました。
「これから自分の体に残っているエネルギーをすべて使い尽くすかのように、体温が上昇  し、エネルギーをすべて使い果たすと、体温が下がってきます。
  そして眠るように息を引 き取るでしょう。」
 それが小澤先生の説明でした。
妻の容態は小澤先生の言われたとおり、38度を超える体温が続き、
息づかいが荒くなっていました。
26日の夕方から、家族全員が妻のベッドの周りで見守っていました。
翌日の朝を迎えると、家族全員が不眠不休であったためウトウトしていました。
長女が「お母さんの息づかいが穏やかになっているよ」という声で、家族全員の目が覚めした。
そのわずか後でした、妻の呼吸が穏やかに止まったのは。
午前6時30分でした。
平成18年11月27日午前6時30分、自宅の妻の仕事部屋で、家族みんなに看取られながら私の最愛の妻である鈴木紀子(49歳)は静かに眠るように息を引き取りました。
死因は肺ガンでした。
(つづく)byyutaka