忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

私のここで言っている「純粋な思考」とは

2013年01月09日 | 無意識の働きをめぐる対話
 いつもながらNoboru氏は、議論全体からいま焦点となっているところを整理して示され、具体例も挟んでの展開は大変わかりやすく、気づいてみると私の議論はNoboru.氏のそれに依存して進めているようなところがあり、だから私の議論は部分に片寄ったように見えるのではないかと思いました。それに、私の議論は具体例にも乏しく不親切なものになっているなと反省しているところです。反省はしても難点を克服した議論ができるかは心もとないですが、出来るだけ努力していこうと思います。
 さて、議論が噛み合わないと感じさせる点は私の説明不足によるのは明らかですが、「純粋な思考」というもののとらえ方に齟齬を来していることも大きいのだと思われます。それではまずその点から説明していこうと思います。

 Noboru氏は、思考が純粋に行われる場合というのは数学や論理学を除いては考えられないと言われます。思考が「個人の欲望や感情や利害や無意識に多かれ少なかれ影響される」からだというわけです。実はその点では無意識を除いてですが私も同じで、具体的な思考のプロセスにおいては思考に欲望や感情等が絡んで影響され、常識的に見たらゆがんだ認識や判断に行き着く場合も多かろうと思っています。同じ講演を聴いても人によってその理解に違いが生じるのも、それぞれの欲望や価値観、それにともなう感情の違いからきていると言えます。そうした理解では両者はほとんど違っていないと最初から思っていました。違っているのは次の点です。

私が言っている「純粋な思考」というのは、利害関係などのバイアスがかからずに展開される思考のことではありません。実際には思考に欲望や利害関係その他が影響しないことなどほとんどないのです。と言うか思考はそれらに影響されるのが当然なのです。しかし、そうなるのは思考が不純なわけでも、思考そのものがゆがんで機能してしまうからでもないのです。どのような思考結果・思考内容が導き出されるにしろ、思考そのものはいつも本来の働きを営んでいるのです。思考は数学を解くときも、自然科学の特定の研究をするときにも、あるいは社会科学を学ぶときにも、変わらず働きます。その本来の思考そのものの働きを、私はたまたま「純粋な思考」と言ったわけです。(ネーミングの仕方はよくなかったかもしれませんが。)

 この点をもう少し具体的に述べてみることにします。思考はもとより言葉だけでなく、イメージ思考もありますよね。何か機械を発明する場合、たとえばエンジンの機能強化を図ろうと工夫しているエンジニアなどの場合、言葉で考えるというよりは改良されるべき所のあるべき形が次々とイメージされ、それと関連か所との望ましいあり方をイメージさせながら考えていくというケースは多いのだろうと思います。
 シュタイナーによれば概念は思考にもともと備わっているといわれ、思考を働かせると同時に概念が獲得され、思考対象に概念が結びつく。思考が展開されているところでは思考によって原因と結果、客観と主観、物質と力、大小、上下、遠近といった様々な概念のうち適切な幾つかの概念が思考対象に結びつき、事柄の関連性や本質が認識されていきます。2つの異なる現象の関連や異なる体験の相互の関係性は思考抜きにはつけられないのです。こうした思考本来の働きを「純粋な思考」と言ってきたのですが、その思考は次のような場合も当然働きます。

 ある悪い心根の人がお金を手に入れたいと思い、その手段として老人からお金を巻き上げることを思いつきます。詐欺の手順が練り上げられます。その人の思考はそうした悪い目的にも働きます。もちろん思考が悪いのではなく、その人の目的が悪いのです。しかしこの場合の思考は、その悪い目的のために奉仕させられているわけです。
 巨額の内部留保を抱えている大企業が、少し景気が悪いからといって人件費を削る算段をし、不当な理由をでっち上げて派遣社員法のギリギリのところで首にしたり、正社員にしなければならない勤続年数3年間の直前で一端やめさせ、その上で新たな派遣社員として採用し低賃金でつなぎ止める、といったことが行われています。ここでも人件費を削るという目的に会社経営者の思考が働いた結果です。思考そのものは能動的で純粋な働きをするのですが、会社の歪んだ目的のために言わば思考は奉仕させられていると見ることができます。

 もちろん当然ながら思考は前向きの様々な目的のためにも働きます。先ほどの優れたエンジン発明のためや、ips細胞の応用によって心臓疾患等の難病を救う研究も、その目的を自覚する人の思考として働くことによって成し遂げられていくことでしょう。
 Noboru氏も社会科学的な学問上の思考を取り上げて、利害関係のバイアスゆえに研究結果が恣意的にゆがめられる例を上げておられますが、そういうことはいろいろあって、たとえば今日日韓両国の歴史認識の問題で対立が深刻になりつつありますが、「これではいけない!」ということで認識の齟齬を出来るだけ払拭する必要があるという意図を持った場合には、両国の学者が丁寧に事実を調べて出し合うことである、と考えるのもまたその意図所有者の思考の働きの結果であるわけです。
 また、言葉としての概念の理解にズレがあるために議論が進展しないことがわかれば、概念の定義づけを再検討するといったことも、議論を交わす人たちに建設的な目的が共有されているのであれば進められていくはずです。思考は人間に備わった資質・能力であり、それをどう使うかはその人によるわけです。

 そこで、ひとまず上に述べた意味で、思考の働きそのものを「純粋な思考」とし、しかしその思考はそれぞれの人の目的(悪い結論を得るための場合もあるが)に向かって働くわけですから、私はその目的のもとに紡ぎ出された思考結果を「思考内容」として、「純粋な思考」と区別してきたわけです。

 ところで無意識は別として、思考がその人の抱く欲望や利害関係やそれらにもとづく感情にも影響されて具体的に展開していくというのが、思考展開の現象的姿です。しかし、私がこれまで述べてきた思考というのは、その人自身がはっきりとした思考対象を持たなければ、何となく自然に目的もなくはじまっているというものではないと思っているわけです。気分や感情の流れであればそういうことはあるでしょう。いや、たいていはそのようであるのではないでしょうか。
 しかし思考はそうした気分や感情とは違い、大変に能動的な作業であって、思考し続けるにはかなりの集中力が必要で、結構しんどい作業であるわけです。それだけに、どのような思考内容が紡ぎ出されようとも、自我(私)は明確な意識のもとに逐一そこでの思考に立ち会っており、すべてを把握していると言えるのです。だからこそ、自分の思考が何者かによって知らぬ間に遂行されていたなどということはありえず、思考内容は自分が生み出したものと言えるのです。それゆえ思考内容、すなわち思考して生み出した結果については思考主である私が責任を持たなくてはならないし、また持てるのだと思います。

 思考は集中を要する精神作業なので、日常生活においては苦手とする人が多いのです。日常の生活意識においてはあまり考えることはしていないもので、他人の考えに何となく耳を傾けて理解していたり、直近で起きた生活上の出来事の印象をぼんやりと引きずっていたり、もちろん心配事でもあれば、その心配な気分が通奏低音のように心を支配しているといった案配で、全体に日常生活での心のありようは受け身的と言えるものではないかと思います。無意識の働きもそういうところに忍び込むのかもしれません。

 そこで、ここで思考と無意識・潜在意識との関連にふれたいと思います。すでに述べているように、私は思考に無意識が入り込む隙はないと思っています。ですが、そう言う前に、無意識を私がどのように理解しているかについて述べなければなりません。
 さしあたって私の理解する無意識は、意識内容がないという意味ではなく、現在意識に現れていない意識内容ともいうべきもので、つまり記憶です。幼いころからの体験や様々なことで多く学習してきたことの大半は必要に応じて意識化されますが、普段は意識下に沈んでいます。それらは自分の必要に応じて思い浮かべることが出来るものです(この頃はそうもいかなくなってきていますが・・・)。
 それと、フロイトの精神分析学でいう心の中の無意識的なしこり、ヒステリー症状などは抑圧された性欲が原因とされていて、そうした無意識的しこりが人間の行動に影響を与えるというものです。 もう一つ仏教でいう阿頼耶識といって、過去からの業を貯えている深層意識をさすものと、潜在的な自我執着心を意味する未那識のことを、私には無意識というときには気になるものとなっています。しかし、それらが現実に生きる人間にどのようにかかわるのかについては私にはわかっていません。

 それで、そうした無意識が、人間の意識生活だけではなく人生の道程において運命をもともなって作用するようにも聞いていますが、私はこと思考においては、思考の土俵の中に限っては意識されないままに思考そのものに作用することはありえないと考えているわけです。それはおまえがたんに認めないだけで、現実には無意識の作用が及んでいるのだということが真実であるとすると、それはNoboru氏の仰ることでもあり、そうすると、私は自分の思考内容や判断に責任が持てないことになります。自分の言っていることが実は自分が言っていると思っているだけで、実際には自分のその時点で意識していない何らかの作用を受けて、あるいは自分が意識できていない何かの作用に促された結果ということになり、それを自分の考えのように思わされているに過ぎなくなるからです。

 こうしてNoboru氏との議論も、Noboru氏の主張にしたがえば、この議論が真剣であればあるほど、氏の説得力を持った論調の部分でさえ、それを氏自身が私に対して真剣に主張する意味合いが薄れることになりはしないかということです。もしかすると氏が意識できぬ何らかの作用によって思考が展開されているかもしれないからです。そうすると自分の思考に確信が持てず、責任を持って、あるいは信念を持って人に何かを説得することができないことにも、理論上はなるのではないでしょうか。その点をNoboeu氏はどうお考えになりますか。(Takao)

無意識はあるのかという根本問題

2013年01月06日 | 無意識の働きをめぐる対話
今回は、01月03日にご投稿いただいた

「純粋な思考(思考そのものの働き)」とは Part2

に関しての応答になりますが、これも二つの部分に分けて、まずは前半部分を考えてみたく思います。前半は、Takao氏が「このように日常における大事な判断や決断場面での実感からも、その判断がいかなる作用ともしれないものや無意識等によって左右されるものではない」と「実感」に基づき判断されている、短い部分です。後半は、シュタイナーに即して自我と思考の関係を述べておられる部分です。

まず、前半部分ですが、ここを読む限り、Takao氏と私との間で、無意識についての理解に大きなズレがあるようです。「自分以外の何ものかがいつのまにか(それこそ無意識のうちに)からんでしまっているとしたら」とか、「自分にとってわけのわからないものに憑依されているようには感じずに判断や決断を下しています」(強調Noboru)とかいう表現を用いられていますが、これらの表現では無意識が、まるで自分とはまったく別の他なるもののような印象を与えます。

私にとっては、無意識はきわめて身近なものであり、日々、自分自身の無意識の心の働きに気づいては、「ああ、そうだったのか」と納得したり、少し成長したなと思えたり、ともあれいつも連れ添い、お付き合いしている親しい存在なのですが、上の表現を見る限り、Takao氏にとってはそういうものではないようですね。

さらに「人間にとって私・自我が事態にしっかり向き合って思考を働かせ、有効な判断や問題の解決に導こうとしていても、そこに無意識がからむとすれば、下した判断や解決法に責任が持てないことになります」という認識も、無意識をどのように理解するかで、見方は違ってきます。

また「このように日常における大事な判断や決断場面での実感からも、その判断がいかなる作用ともしれないものや無意識等によって左右されるものではない、という実感が思考のたしかさを示していると言えるように思うのです」と言われますが、無意識はまさに無意識であるがゆえに、自分がそれに左右されているとは気づかない場合が多いのではないでしょうか。実感がない(意識できない)からこそ、無意識なのです。

このような、無意識についてのとらえ方の違いは、最初から感じていたので、まずは無意識をどうとらえるかについて、共通理解をもつ必要を感じたのです。それもあって、

(1)無意識とはどのようなものか。

(2)無意識と意識との関係はどうなっているか。

(3)無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定するのか。

という項目を立て、この順番に議論を進めた方がいいかなと思ったのです。

それで、いちばん根本的な問題を質問しますが、Takaoさんはそもそも、人間に無意識の心の働きがあることをお認めになるのですか、それとも認めないのですか。もし認めるのだとしたら、それをどのようなものとして認めておられるのですか。そして、もし認めないのだとすれば、無意識についてのこれまでの研究の蓄積に対して、どのような態度をとられるのですか。

このような質問をさせていただくのは、これまでのTakaoさんの発言から、最初に「無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定する」という前提があって、その前提から、「だから無意識の存在は認められない」という結論を導き出そうとする姿勢があるように感じるからです。

上の3項目でいうと、まず(3)の問題意識があり、その視点から、無意識の存在を否定しているように見えるのです。私は、そのような視点から自由に、無意識について事実は事実としてきちんと理解していくことが必要だと思うのですが、いかがでしょうか。

Takao氏が、無意識についてどう理解しているかという問題は、前回、私が投げかけた、言語の曖昧性や多義性、解釈の違いをどのように理解するかという問題とも、一部関係すると思いますので、合わせてお答えいただければと思います。

なお、シュタイナーに即しての自我と思考の関係についての議論は、これはこれで大きな問題ですので、何回か後で、議論の展開を見ながらお答えすることになると思います。ご了承ください。(Noboru)

再度、日常の中で「純粋な思考」は成り立つか

2013年01月04日 | 無意識の働きをめぐる対話
最初にこれまでの議論の展開を整理してみたいと思います。

Takao氏の問題意識は、「無意識というものが存在し、それが意識的人間にそれこそ無意識・無自覚のうちに作用するとなると、人間の本質的特徴である主体的なあり方をそこなってしまうし、そうなると人間は自由ではありえず、みずからの判断や行為に責任を負えぬことになるのではないか」というものでした。

私は、Takao氏が提起してくださった問題を三つに整理しました。

(1)無意識とはどのようなものか。

(2)無意識と意識との関係はどうなっているか。

(3)無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定するのか。

問題の根本は、3)にあるけれどこの問題を考える上では、1)と2)について共通の認識がないと、議論の前提が曖昧になるので、まずはそれをはっきりさせようと確認し合いました。

その上でさらにTakao氏は、「純粋で鋭い論理的思考のはたらくところには、その人の自我意識、すなわち私という意識がしっかりと寄り添っています。寄り添うというよりは、まさにその私という目覚めた意識が具体的な思考を展開しているのです」と言われました。純粋な思考には私という目覚めた意識が伴っているので、そこに無意識が影響する余地はないと、Takao氏は主張しておられることを確認しました。

そこで私は、「純粋で鋭い論理的思考」とは、具体的に何を指すかを問題にしました。そして、Takao氏の発言の内容を整理すると、次のようなレベルのそれぞれにおいて「純粋な思考」が成立しているとお考えであることを確認しました。
 
1)数学、論理学の思考
2)自然科学の研究をする科学者の思考
3)人文科学の研究をする科学者の思考
4)科学の成果を共有しようとしている人の思考
5)新聞や雑誌を書いたり、講演をしている人の思考、またそれを共有しようとしている人の思考
6)人生の重要局面で、どう生きるかの責任を負うような決断をするときの思考

その上で私は、無意識の影響を受けない「純粋な思考」が成り立つとすれば、それは厳密な意味では1)の数学的、論理的思考のレベルのみではないかと指摘しました。これに対してTakao氏は、「思考そのものの働きと思考内容との区別を意識すること」で、私の見解とは違った見方ができると主張されました。

Takao氏は、「数学、論理学の場合は思考が他の要素の干渉を受けず純粋な思考結果を生む」が、一方「2)~6)の場合は多かれ少なかれ他の要素、すなわち既知の知識の量の違い、価値観の違い、利害や欲望等の違いがからむため、思考結果としての思考内容(認識、判断)が人によって異なってくる場合がでてくる」、しかし「いずれの場合においても思考そのものは正常に機能しているのです。つまり、いずれのケースも、思考の対象に対して自我・私が思考を働かせ、概念あるいは理念とそれら相互の結びつきを見出そうとする営みを行っているから」という見解を示されました。

そこで私は「数学や論理学以外で、他の要素がからまない純粋な思考が果たして可能なのだろうか」と問い、人間が言葉を使って思考する以上、言葉の曖昧性、多義性、個々人による概念理解の差異が生じるのは避けられず、そこに無意識に根ざす解釈の違いが不可避に生じるのではないかという私の見解を示しました。これはTakao氏の問題提起の3点のうち(2)「無意識と意識の関係はどうなっているか」という問題の一端に、言葉の概念に焦点をあてて触れたということです。

これに対しTakao氏は、「私には実によくわかるものになっています」とおっしゃられました。しかし、「よくわかる」と言われるのであれば、Takao氏の問題意識からして、どの部分がよくわかり、どの部分が納得できないかを明確にすべきではないでしょうか。

私は、思考が言葉を用いる以上、社会科学的思考も含めたほとんどすべての思考が、個人の欲望や感情や利害や無意識に多かれ少なかれ影響され、純粋な思考は数学や論理学以外あり得ないと主張したのです。

そして、もし仮に数学、論理学以外でも「純粋な思考」が成立するとして、現実には、たとえば講演を聴いていてそれを理解する場合も、あるいは人生の重要局面で重大な決定をする場合でも、ふつうは、他の要素に影響されずに、Takao氏のいう「純粋な思考」を貫徹することなど不可能なのでないか。ほとんどすべての日常的な思考は、多かれ少なかれ無意識を含めた他の要素に影響されており、日常的には不可能な「純粋な思考」を強調することにどれほど意味があるのか。そういう疑問を投げかけました。

その上で、議論を具体的な形で深めるため、日常生活の中での「純粋な思考」の具体例を示して欲しいとお願いしたのです。とすれば、私の議論のこの部分までは「よくわかり」納得できるが、この部分はこういう理由で納得できない、という議論を、具体例を用いながら指摘していただくのが、議論の筋ではないでしょうか。

Takao氏は、日常生活の中でも「純粋な思考」が働いている事例として、ちょっと先の草むらで草が揺れ、音がしているという現象に対して、なぜかと疑問をもち、溝の中でカラスが羽ばたいていたという原因を知るという例を挙げておられます。この事例で述べられていることは、私たちには因果性の概念がアプリオリに備わっており、この思考能力が純粋に働くかぎり、私たちは無意識なるものによって曇らされず、自律的に思考でき、人間の主体性や自由を失うことはない、ということだと理解しましたが、よろしいですか。

これは一例に過ぎないのでしょうが、もし仮に私たちに因果性の概念がアプリオリに備わっているとしても、私たちの日常的な思考においては、それどころか社会科学的な学問上の思考においても、原因と結果を、利害関係などのバイアスがかかった状態で、かなり恣意的に結びつけたり結びつけなかったりすることが多いのではないでしょうか。私は、思考と言葉の概念との関係で、そういう主張をしたはずです。これが、前回提示した疑問の主旨でした。

そこで、もう一度、同趣旨の質問を繰り返すことになりますが、

5)新聞や雑誌を書いたり、講演をしている人の思考、またそれを共有しようとしている人の思考
6)人生の重要局面で、どう生きるかの責任を負うような決断をするときの思考

という、Takao氏がおっしゃる日常的なレベルで、「思考そのもののはたらき」「純粋な思考」がどのように働いているのか、具体的なあり方を示していただけないでしょうか。それが、議論がかみあっていく前提となると思います。

無意識と人間の思考の自律や自由という問題を考えるとき、私たちの日常の思考こそを問題とすべきだと思います。私たちが、毎日の生活の中で行っている思考がどのようなものであるかどうかを問題にしない限り、自由や主体性も問題をいくら議論してもほとんど意味がないと思うからです。

だからこそ、日常的な思考の中での「純粋な思考」の具体例を示していただきたかったのです。たとえば、人生の重要な決定をなす場合の、両者の区別はどのようにしてなされますか。もし区別されたとして、そのことが人間の思考の自律や主体性、自由とどのようにかかわりますか。そこが具体的に説明されないかぎり、人間の主体性や自由がいかに成立するかを説明することはできないと思うのです。その前に、こうした議論の前提となっている問い、(1)「無意識とはどのようなものか」、(2)「無意識と意識との関係はどうなっているか」についても、話を深められないと思うのです。

(以上は、Takao氏の「「純粋な思考」とは具体的に何をさすか」への応答として書きました。「「純粋な思考(思考そのものの働き)」とは Part2」への応答については追って書きますので、お待ちください。Noboru)

「純粋な思考(思考そのものの働き)」とは Part2

2013年01月03日 | 無意識の働きをめぐる対話
 人間にとって私・自我が事態にしっかり向き合って思考を働かせ、有効な判断や問題の解決に導こうとしていても、そこには自分以外の何ものかがいつのまにか(それこそ無意識のうちに)からんでしまっているとしたら、下した判断や解決法に責任が持てないことになります。
 しかし一般的にいえば、日常の感覚において、酔っぱらっていたり、神経に影響を与える薬を服用していたりするのでなければ、自分にとってわけのわからないものに憑依されているようには感じずに判断や決断を下していますし、判断の後も原因不明の作用によってその判断等に納得のいかないものが感じられる、といったことはないものです。

もちろん後で明確な理由により判断ミスをしてしまったと気づく場合はありますが。その場合は自分の責任として受け入れられるものです。このように日常における大事な判断や決断場面での実感からも、その判断がいかなる作用ともしれないものや無意識等によって左右されるものではない、という実感が思考のたしかさを示していると言えるように思うのです。

 ここでは、いま少し論理的に、私がたまたま名づけた「純粋な思考」すなわち「思考そのものの働き」について述べさせていただこうと思います。
どんな存在の仕方が考えられるにしても、その存在をとらえるにはまず思考という形式をとらなければならないというのは真実であると思います。その思考が人間には備わっている。そして思考には他の魂の営みとは重要な違いをもっています。それは思考活動の場合だけが、「自我(私)」はどんな活動においても、自分と活動者が同一存在であることを知っているということです。

 「思考においてこそ、そこで何かが生じるときには、必ずわれわれ自身がそれに立ち会っている。そしてまさにそのことが大切なのである。」とシュタイナーは言います。したがって「思考そのものの中に見いだせないものは思考の本質とは見なせないということであって、(ひとたび)思考の領域から離れてしまったら、思考を生み出すものが何であるかに思い至ることはできない。」とのシュタイナーのこの指摘は、私もことのほか重要であると思っています。思考だけは、それがどのようにして作られるかを知っている。われわれは思考の働きを自分で生み出す。だからこそその過程の特徴を知り、その働きの行われる仕方を理解しているのだと思います。

 「思考を観察してまず第一に気づくのは、それが通常の精神活動の中では観察の対象になっていないということである。その理由は、それがわれわれ自身の生産活動だからである。自分で生み出さないものだけが、対象として、私の視野の中に入ってくる対象を考察するとき、私の目差しはそれに向けられている。私の注意が向けられているのは私の活動ではなく、活動の対象である。思考する私は、自分が生み出す思考にではなく、思考対象に目を向けている。」

 「思考以外の精神活動はすべて、外界の事物同様、観察の対象になる。しかし思考活動(思考内容を生み出す働き)だけは、もっぱら観察する方の側に留まり、自分を観察の対象にはしない。」

 「思考は思考する存在(「自我」・私)を通して働くものである。概念と観察が出会い、互いに結び合うのは人間の意識という舞台においてである」

 こんなふうにシュタイナーは人間の意識・自我と思考とのかかわりや特徴を明確にしていて、そこから彼の哲学をスタートさせているのです。それがシュタイナー哲学に信頼を寄せる人たちのひとつの大きな根拠にもなっていると私は思っています。

 ところで、これまで哲学者はいろいろ基本的な対立概念から出発しています。それらは観念と現実、主観と客観、現象と物自体、意識と無意識などというようにです。だけれどもシュタイナーは、これら全ての対立に先行しているものとして観察と思考の対立を挙げなければならないと述べています。
というのも「私たちがどんな原理を打ち立てようとも、それはどこかでわれわれによって観察されたものであることが証明されねばならず、そしてまた他の人が後から辿ることのできる思考形式をとって明瞭に述べられなければならないもの」だからだというのです。

 ここで、シュタイナーの世界観獲得のプロセスについてふれると、そのプロセスを彼はいかなる概念によってもまだ規定されていない直接的に与えられた世界像から出発しています。そこでは物質と精神、意識と無意識といった対立はまだ生じていないのです。認識のスタート時点ではすべてが現象です。魂の中に現れてくるものもそうですし、意識そのものもそうです。この直接的に与えられた世界像の中にひとつの固定点が、つまり、他のすべてのものとは本質的に異なったある領域が求められるというのです。それが思考であると。思考は、われわれ自身によって産出されるという点で、他のすべてのものと異なっているものなわけです。われわれの内部にある表象、感覚、感情、衝動はわれわれの関与なしに存在しているが、思考だけは例外をなしているというのです。思考はわれわれ自身の活動を通してのみ生じるからです。さらに、思考にはもう一つの特徴があって、思考は、世界内容から切り離されたそれ自体において意味を持つ活動によって形作られるのではなく、思考を形成する活動の中には全世界内容が含まれているというのです。思考とは「世界内容そのものを取り入れる」活動であると。こうしてシュタイナーにあっては、カントによってその境界が鋭く区別された主観と客観の世界領域は、思考によって結合されていくのです。

さらにシュタイナーは、「思考は世界現象の原初のカオスに秩序をもたらし、形成し、形態を賦与する原理である。思考のこうした形成作用を経てはじめて現実が成立する。世界はわれわれには不完全な形で現れるが、その不完全な形態は人間の思考によって改造される。」と述べ、「世界法則は、普段はすべての存在を支配しながら、自ら存在として現れることは決してない。この世界法則を、現象する現実の領域へ置換すること、これが人間の使命である。客観的現実のうちには決して見いだせない世界根拠を表現すること、これが知識の本質である。われわれの認識活動とは、比喩的にいえば、世界根拠へと絶えず肉薄しようとする行為である。」 こんなふうに述べて、人間精神の中で思考の占める独自性、不可欠性を主張しているのです。

 先の「純粋思考」の説明だけでは理解困難であるように思われ、説明を付けたしたつもりですが、かえってややこしくなったかもしれません。こうした思考のとらえ方にはNoboru氏から見ると決定的な欠陥があるのであれば、ご指摘いただけたらと思います。(Takao)

「純粋な思考」とは具体的に何をさすか

2012年12月24日 | 無意識の働きをめぐる対話
 noboru氏の議論内容は、私には実によくわかるものになっています。私の主張の何を問題にされ、それをどのように考えておられるのか、まさによく思考された、思考本来の働き「私の言う純粋な思考」が機能した結果だからだと私には思えます。しかし、ここでちょっと問題なのは、私の言う「純粋な思考」を具体的に述べよというnoboru氏の要求に、おわかりいただけるように答えられるかどうか心もとなさがあることです。

 そういうことであっても、ともあれ「純粋思考」の具体例を述べてみたいと思います。私は普通の人間であれば誰もが備えていると思われる「思考というものの働き」を、とりあえず「純粋な思考」と言ってみたまでです。それによって思考の働きそのものと思考を働かせた結果の具体的な思考内容とを区別しようとしたのでした。それでまずその思考の働きそのものを日常の中での具体例で説明してみようと思います。と言いましても、それは『自由の哲学』の中でシュタイナーが挙げている事例をアレンジしたものですが。

 私たちがときおり通る畑があるとします。その道を今日も歩いていると、15メートルほど先の溝のある当たりで物音が聞こえてきます。その溝の片隅で草が揺れている。そのようなとき、多分私達はそこへ行って、物音や動きの原因を知ろうとする(好奇心を持つ)のではないかと思います。近づいてみると、一羽のカラスが溝の中で羽ばたいています。そこで私たちの好奇心も充たされることになります。
 私たちが現象の説明と呼んでいる事柄はこのようにして生じると言えます。しかしシュタイナーはもっとよく観察すれば、物音を聞いたとき、物音以上の何かへ私たちを導くのは、そのとき見出した概念だというのです。そもそも物音について何も考えようとしないのなら、ただその物音を聞くことだけで満足してしまうはずだからです。けれども考えることによって、私たちはその物音を何かの結果であると理解する。すなわち、物音の知覚と結果の概念とを結びつけることにより、その時はじめて私は個々の観察に止まらず、原因を探求するように促されることになるのだというのです。
「結果」の概念が「原因」を求めるというわけです。それから私は、その原因となる対象を捜し、カラスを見出すことになったというわけです。
 このような原因と結果の概念は決してたんなる観察によっては獲得できないとシュタイナーは言っていて、私もそうだと合点できるのです。原因と結果の概念は思考にアプリオリに備わっているものだと。たとえ同じような観察をどれだけ多く重ねたとしても、原因と結果の概念は得ることはできないのだと思います。ただ、しかし、観察は観察に止まらず思考を求めるのだとシュタイナーは言います。そしてその思考によってはじめて、ある体験を別の体験と結びつける途が見いだせることになるのだというのです。

 ところでシュタイナーは、概念と理念は思考によってはじめて獲得されるもので、概念と理念は思考をあらかじめ前提にしているのものと考えています。noboru氏は言葉と概念を同じものととらえておられるようですが、それに関してはシュタイナーは「概念とは何かを言葉で述べることはできない。言葉は人間が概念を持っているという事実に注意を向けさせることができるだけである。・・・また、理念は質的には概念と区別されない。理念とはより内容豊かな、より飽和した、より包括的な概念であるに過ぎない。」と述べています。そして、ここで特に強調しておきたいことがあるとして、次の点を指摘します。
 「私にとっての出発点が思考であり、決して概念や理念ではないということである。概念と理念は思考によってはじめて獲得される。それらは思考をあらかじめ前提にしている。したがって、それ自身に基礎を持ち、他の何者からも規定されないという思考の本質を、そのまま概念に当てはめることはできない。この点で私の立場がヘーゲルと異なっていて、ヘーゲルは概念を最初のもの、根源的なものとしている。」
 こう述べているのですが、ここには思考と根源的存在に関する非常に重要な指摘がなされているようにも思います。しかしここでは、シュタイナーが概念を観察の中から取り出すことはできないと言っている点に注目しようと思います。この点では、成長する人間が自分を取り巻く周囲の対象に対応する概念を、観察に思考を重ねながら後からゆっくりと創り上げていくという事実からも明らかで、概念とはそのようにして観察内容に思考によって付け加えられると考えるのが妥当なように私にも思われます。したがって本来人間に備わっているはずの思考も、子どもの場合は未発達であり、大人であっても強靱であったり脆弱であったりすることはありえます。観察体験や思考訓練の多少によってもその発達レベルは違ってくるのは当然と言えるでしょう。

 それはともあれ、私の表現した「純粋な思考」とは何かを今一度言うなら、事象相互の関連を求める働き、それは人間の能力のうち思考によるしかないということです。事柄と事柄、事柄と自分あるいは事柄と他者とのそれぞれの関連、あるいは事柄と全体との関連といったように、関連づけるのはすべて思考の働きであるということです。関連づけを可能にするものが唯一思考であると。単なる観察だけでも特定の出来事の諸部分の経過を辿ることはできるけれども、概念の助けを借りなければ、それら相互の関連は明らかになりません。観察が思考と結びつくとき、はじめてその相互関係が明らかになるわけです。「観察と思考こそは、それが意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の二つの出発点である」とシュタイナーは言います。「どんな常識的な判断も、どんな高度の科学研究も、われわれの精神のこの二つの柱に支えられている」というのは事実に思えるのです。
 思考についていま少し違った表現をするなら、思考の本質的機能は、概念によって事柄・事態の法則的な関連をとらえることであり、さらに判断、推理の作用であるということができるように思います。そのように思考に備わる本来の機能を私は「純粋な思考」と、たまたま命名したに過ぎません。そうした意図は、思考の働きそのものと個々人が思考の結果生み出される思考内容とを区別するためでした。

 よく説明できたか、自信ありませんが、今回はひとまずここまでとします。(takao)

日常の中で「純粋な思考」は成り立つのか

2012年12月21日 | 無意識の働きをめぐる対話
Takao氏のご意見では、「純粋な思考」と、「純粋な思考にそれ以外の要素がからんでくる場合」とを分けておられます。そこでさっそく私には疑問が生じます。数学や論理学以外で、他の要素がからまない純粋な思考が果たして可能なのだろうかと。これが第一の疑問です。

次に、もし仮に数学、論理学以外でも「純粋な思考」が成立するとして、現実には、たとえば講演を聴いていてそれを理解する場合も、あるいは人生の重要局面で重大な決定をする場合でも、ふつうは、他の要素に影響されずに、Takao氏のいう「純粋な思考」を貫徹することなど不可能なのでないか。ほとんどすべての日常的な思考は、多かれ少なかれ無意識を含めた他の要素に影響されており、日常的には不可能な「純粋な思考」を強調することにどれほど意味があるのか。これが第二の疑問です。

Takao氏の問題意識は、「無意識というものが存在し、それが意識的人間にそれこそ無意識・無自覚のうちに作用するとなると、人間の本質的特徴である主体的なあり方をそこなってしまうし、そうなると人間は自由ではありえず、みずからの判断や行為に責任を負えぬことになるのではないか」というものでした。もし、「純粋な思考」がありうるにしても、それが日常生活の中でほとんど見られないのであれば、それを根拠に人間の主体性や自由を主張するという議論が成り立つのか、ということです。

いずれにせよ、数学、論理学以外でも「純粋な思考」が成立するという前提が崩れれば、第二の疑問は無意味になります。ですから、実質的に検討すべきは、第一の疑問でしょう。

Takao氏は、「純粋な思考」とは何で、それはどのようにして成り立つとお考えなのかを次のように説明しておられます。

「思考のそもそもの働き(すなわち純粋な思考)というのは、思考対象(観察対象)に対して概念と概念相互の結びつきを見出そうとする行為であると言えるからです。」

「実際、数学や論理学ばかりでなく、すべての学問はもとより生活上のあらゆる認識行為や判断には、この思考がともないます。何かを認識し、それを自分の体験や知識体系に位置づけようとするとき、そこには必ず思考がともないます。あらゆる事柄の理解と判断は思考抜きにはありえません。そうした思考そのものと、思考の結果生み出された思考内容とはひとまず別に考える必要があるように思うのです。」

さて、概念は言葉と不可分ですから、「純粋な思考は、対象に対して言葉の概念と概念相互の結びつきを見出そうとす行為である」と言い換えてもいいですね。この場合、言葉の概念は、すべての人に一義的に規定されていることが「純粋な思考」の前提となると思いますが、いかがですか。もし、言葉の概念に曖昧さやブレがあるとすれば、また人によって同一言語の概念規定に違いやずれがあるとすれば、それは「純粋な思考」以外の他の要素が紛れ込んでいるためということになります。

数学や論理学の分野で「純粋な思考」が成立するは、概念が数字や記号で表示され、一義的に規定されているからです。自然科学においても数式や化学記号などによる思考の部分は、同様な理由で「純粋な思考」と言えるでしょう。またそれは、一義的に規定された数字や記号により数理にしたがって思考する以上、いつどこで誰が思考しても同じ結論が出る、という意味で「普遍的」であると言えます。

しかし、社会科学の場合はどうでしょうか。たとえば「階級」という言葉を一義的に定義できますか。その概念規定自体が言葉によってなされます。たとえば「同一の政治的、経済的利害やイデオロギーを共有することによって、他と区別され、あるいは対立する社会集団」という辞書的な定義すら、定義する者の主観が入り込み、無意識の利害関係によるバイアスがかかっている可能性は充分にあるのです。

さらに、この定義に使われる言葉のひとつひとつが一義的に規定されたものではありません。「イデオロギー」という言葉ひとつとっても、さまざまな立場から多くの定義がなされているのです。すなわち、言葉の概念の理解の仕方そのものにすでに、個人の経験や知識、価値観や利害、欲望が反映しているのです。

社会科学で用いる概念でさえ、一義的な規定などあり得ません。「純粋な思考」とは言えぬ、さまざまな他の要素が入り込んでくるのです。だからこそ、さまざまな学派が生まれ、無数の学説が論争しあっているのではないですか。比較的に数学的な要素が含まれ、数量的な処理も行われる経済学でさえ、例えば今、新自由主義経済学とリフレ派経済学が真っ向から対立し、今回の選挙の結果さえ左右しているのです。まして「歴史学」に至っては、国と国同士が、その解釈をめぐって激しくぶつかり合っています。もし唯一正当の歴史解釈があると主張する人がいるとすれば、それこそもっとも疑うべき主張でしょう。

つまり、たとえどのように定義を厳密にしようと、私たちが言葉を用いて思考する以上、数学のような「純粋思考」は成立しえないというのが私の考えです。すべての言葉には多かれ少なかれ曖昧さが含まれ、個人による理解の違いが生じます。言葉の意味は、無意識的なものも含む多くの要素がからんで成り立っているからです。人間が、言葉を用いて思考する以上、日常生活の中で「純粋な思考」がな成り立つことは不可能だと思います。

最後にひとつお願いがあります。「思考のそもそもの働き(すなわち純粋な思考)というのは、思考対象(観察対象)に対して概念と概念相互の結びつきを見出そうとする行為であると言えるからです」は、抽象的でTakao氏がおっしゃる「純粋な思考」の具体的な姿が見えません。「純粋な思考」の日常の中での具体的な例を語っていただけると、もっと深い議論ができると思いますので、よろしくお願いします。(Noboru)

思考の普遍性

2012年12月14日 | 無意識の働きをめぐる対話
 身辺に少々問題を抱えてしまい、その対処のためにしばらくこの対話に参加できませんでした。ご迷惑をおかけしました。

 さて、思考をどうとらえるかという、いきなり重要な問題にぶつかって驚きつつも、頭書の問題意識が誘う必然でもあろうと受け止めています。

 私は人間の心(魂)が持つ資質、能力の中で思考ほど信頼のおけるものはないのではないかと考えています。感情は私にとってコントロールの利かない見通せない部分があります。ひとたび怒り出すとその怒りの感情は自分でも抑えが効かない場合があるからです。意志も不透明な部分があります。明日は絶対早く起きると決意しても、起きられなかったり、今年こそ日記を続けるぞと誓っても、三日坊主に終わることもあったりするからです。しかし思考だけは透明で、すべて見通せるという点に特徴があります。

 ヘーゲルの次の言葉をご存知かと思いますが、「動物にも備わっている魂を精神につくり変えるのは思考の働きである」。シュタイナーはこの言葉を引用し、「その意味で思考こそが人間の行為に人間らしさの特徴を与えている」(シュタイナー著『自由の哲学』)ものだとと述べています。そして「思考こそは宇宙の進化の最先端にあるはたらきである」ともシュタイナーが言っていて、それに私は同意するものです。

 では、その思考とは具体的にはどのような働きをさすのか、これについてはしっかりした議論を交わす必要があるように思いますが、それはこの後必要に応じて行うこととし、ここではひとます端的に私の考えを述べさせさていただこうと思います。私が純粋な思考と言っているのは、思考そのものの本来の働きを言っているだけです。
 noboru氏は思考が純粋なものばかりでなく、無意識に影響される場合も十分あるとのお考えで、数学や論理学は別として、自然科学であっても時代のパラダイムの影響を無意識のうちに受けるものだとのことでした。

 しかしこの見解は、思考そのものの働きと思考内容との区別を意識することで違ったものになるように思うのです。と言いますのも、思考のそもそもの働き(すなわち純粋な思考)というのは、思考対象(観察対象)に対して概念と概念相互の結びつきを見出そうとする行為であると言えるからです。
実際、数学や論理学ばかりでなく、すべての学問はもとより生活上のあらゆる認識行為や判断には、この思考がともないます。何かを認識し、それを自分の体験や知識体系に位置づけようとするとき、そこには必ず思考がともないます。あらゆる事柄の理解と判断は思考抜きにはありえません。そうした思考そのものと、思考の結果生み出された思考内容とはひとまず別に考える必要があるように思うのです。

 その意味でnoboru氏が私の発言を整理して示された
1)数学、論理学の思考
2)自然科学の研究をする科学者の思考
3)人文科学の研究をする科学者の思考
4)科学の成果を共有しようとしている人の思考
5)新聞や雑誌を書いたり、講演をしている人の思考、またそれを共有しようとしている人の思考
6)人生の重要局面で、どう生きるかの責任を負うような決断をするときの思考
これらすべての思考のうち、1)の数学、論理学の思考は純粋思考が働くが、その他の思考は無意識に左右されるということについては、私はこう考えます。数学、論理学の場合は思考が他の要素の干渉を受けず純粋な思考結果を生むからであると。それに対して、2)~6)の場合は多かれ少なかれ他の要素、すなわち既知の知識の量の違い、価値観の違い、利害や欲望等の違いがからむため、思考結果としての思考内容(認識、判断)が人によって異なってくる場合がでてくると解釈できるからです。

 しかし、いずれの場合においても思考そのものは正常に機能しているのです。つまり、いずれのケースも、思考の対象に対して自我・私が思考を働かせ、概念あるいは理念とそれら相互の結びつきを見出そうとする営みを行っているからです。

 こうした考え方に立つとき、思考はシュタイナーが言うように「われわれの思考は感覚や感情のように個別的なものではなく、普遍的である」ということができるのだと思います。「感覚と感情(さらに知覚)は、われわれを個別的な存在にする。思考するとき、われわれはすべてに通用する全一の存在にする。」だから、私たちはこの思考を通して、個的な状況を抜け出て、他者や外界の事象を互いに理解可能にしていると言えるのです。

 このように思考が人間にとって特別大事な意味を持つ存在であるとする考え方について、noboru氏、kami氏、suzuki氏のお考えをぜひお聞かせいただけたらと思います。(takao)

「日常的な思考」と「論理的な思考」

2012年12月01日 | 無意識の働きをめぐる対話
まず用語についてですが、私は「日常的な思考」という用語を充分に吟味した上で使用していることをご理解ください。Takao氏がおしゃるような純粋な思考が、数学や論理学という限られた分野以外で成立するかどうかということ自体がすでに大問題であり、自明なことではありません。まして新聞や雑誌を読んだり、講演者の話を聴く場合、個人的な感情や思い、無意識の解釈枠を通して受け止めるからこそ、様々な理解の仕方、解釈、そして誤解が生まれてくるのではないでしょうか。ここで言われる「思考」は、すでに「純粋」なものではありません。この問題は、そのうちテーマになることもあると思いますので、ここでは立ち入りません。

私は、「日常的な思考」という表現を、ある程度やむを得ず使用しています。思考が自覚的で論理的なというニュアンスを持つ言葉なので、必ずしもそうではない日常的な想念を語るときには、若干の断りが必要だろうとは思います。

しかし、Takao氏がおっしゃるように「日常的な思い」としてしまっては、大切な視点が抜け落ちてしまうのです。それで、わざわざそのような言い回しは避けています。思考という言葉には、働き、作用、プロセスと言った意味合いが含まれています。しかし、「思い」にはそれが含まれていません。たとえば「鋭い思考」という表現は自然ですが、「鋭い思い」という表現は可能だとしても日常あまり使われません。あるいは「日常的な思考の流れ」という表現はできても、「日常的な思いの流れ」はどことなく馴染まず、こなれていません。「思い」は個々の想念や観念を意味することが多く、作用や働きの意味をふくまないのです。

私が「日常的な思考」になぜ関心を持つかと言えば、それが流れであり、連続性であり、連想だからです。私は「日常的な思考」の、次々と無自覚のうちに流れゆく連鎖の面に注目しているのです。そこに日常的な思考の本質があると捉え、まただからこそ無意識と深くからんでくると考えるのです。その作用、働きの面は「思考」という言葉でないとうまく表現できないと思っています。また私は、思考が純粋なものとばかりは思っていませんので、「日常的」という形容を入れて「私たちが常に頭の中で繰り返している思考のことだ」と説明をした上で使用すれば、用語としてとくに問題はないと思っています。

ともあれ、用語の問題について語る中で、すでにお互いの思考や無意識をめぐる理解の違いが鮮明に出てしまっていて、とても興味深いですね。私は、無意識に影響された思考も充分にありうると思っていますから、「日常的な思考」という表現を今後も使用していくつもりです。

さてTakao氏は、「純粋で鋭い論理的思考のはたらくところには、その人の自我意識、すなわち私という意識がしっかりと寄り添っています。寄り添うというよりは、まさにその私という目覚めた意識が具体的な思考を展開しているのです」と言われました。純粋な思考には私という目覚めた意識が伴っているので、そこに無意識が影響する余地はないということですね。

ここでまず問題にしたいのは、「純粋で鋭い論理的思考」とは、具体的に何を指すかという問題です。Takao氏の発言を読むと、次のようなものが含まれると思われますが、よろしいでしょうか。

1)数学、論理学の思考
2)自然科学の研究をする科学者の思考
3)人文科学の研究をする科学者の思考
4)科学の成果を共有しようとしている人の思考
5)新聞や雑誌を書いたり、講演をしている人の思考、またそれを共有しようとしている人の思考
6)人生の重要局面で、どう生きるかの責任を負うような決断をするときの思考

これらはみなTakao氏のいう「純粋で鋭い論理的思考」の範囲に含まれると考えてよいでしょうか。たとえば、6)で言われるような人生の重大局面では、「ことの性質上無自覚でぼんやりとした意識とは逆に、否応なく鮮明な意識において「私」が決断をし、その結果責任を担うことになる」ので、「日常的な思い・雑念」は、
脇役的な立場にあり、自覚を伴った「論理的な思考」が中心的な役割を果たすという理解でよろしいでしょうか。

この場合Takao氏は、重大局面で中心的な役割を果たすのは、鮮明な意識を伴った思考による決断だから、性格形成の上で「日常的な思考」は脇役的な立場でしかないという見解も示されていますが、今この問題に立ち入ると錯綜し、論点が曖昧になりますので、とりあえず論理的な思考と無意識という問題に限定して話を進めたいと思います。

もし上のような理解でいいとすれば、私の考えでは、無意識の影響をほぼ受けないだろうと思えるのは1)だけです。2)の自然科学、たとえば物理学や化学なども無意識とは関係ないだろうと思う人は多いかもしれませんが、時代のパラダイムという科学者の無自覚な「思考枠」が自然科学の発見にすら影響を与えるという研究があります。3)以下は、多かれ少なかれ、無意識の問題を抜きにして議論はできないと考えています。

しかし、それらを個々に語る以前に、ここでTakao氏に私の整理の仕方で対話を進めてよいかどうかを確認したいと思います。(Noboru)

性格・人格の質を決定するもの

2012年11月29日 | 無意識の働きをめぐる対話
私が無意識の意識へのかかわりを問題にした意図は、noboru氏が論点整理してくださったように、無意識というものが存在し(それは、ここではまだ明確になっていませんが)、それが意識的人間にそれこそ無意識・無自覚のうちに作用するとなると、人間の本質的特徴である主体的なあり方をそこなってしまうし、そうなると人間は自由ではありえず、みずからの判断や行為に責任を負えぬことになるのではないかということでした。

これに対してnoboru氏は、まず無意識と深く結びついている「日常的な思考」をとりあげます。
「日常的な思考」とは「散漫でとりとめもない無自覚的な思考(雑念)」で、それが「私たちの心理に影響し、性格を形づくり、人生の方向や質を決定する」ものであるというのです。 
その上でさらにnoboru 氏は、私たちの人生をも決定するこの重要な要素である「日常的な思考・雑念」に人々が気づいておらず、心理学の対象にすらされていないという学問の現状を深く憂いてもおられます(そしてこの雑念に気づかせてくれる瞑想法があることにもふれられ、それがnoboru氏が実践されているヴィパッサナー瞑想というものであると。私にとってはその瞑想法自体興味深く思っているところでもあります。)

さてこの先議論を進めるに当たって、実は思考という用語の用い方についていま少し留意していただければと思うことがあります。と言いますのは、普通「思考」とは思考の対象(現象)を理念や概念と結びつけ、論理的妥当性を求めて概念体系に組み入れる作業を意味します。この思考によってまさに学問が成立し、研究が進められるわけです。また学問の成果は思考が正常にはたらくどんな人にも共有できるものです。さらにその思考は学問だけでなく講演者やそれを聴く聴衆の一人ひとりにも共通にはたらくものであり、また新聞や雑誌を読んだりする際もその思考がはたらいているからこそ理解できるというわけです。
したがってそのような思考は、個人的な諸感情や思いから離れたところにあり、言わば純粋な思考として鋭くはたらきます。言わばこうした純粋思考によって基本的には誰でもが数学を初め諸学問を学び理解することを可能にしているといえるのです。

そこで、思考をひとまずそのように用いる前提で議論を進めさせていただくと、noboru氏の言われるように、たしかに私たちの日常生活では、「実に様々な雑念が次々ととりとめもなく湧いては消えていく」という側面があります。それをnoboru氏は「日常的な思考」とネーミングされているのですが、私はこの「日常的な思考」という表現をひとまず「日常的な思い」に替えてみたいのです。その理由として、
・生活の何らかの刺激から連想が繰り広げられたり、
・何か気になることにかかわる漠然とした心配や不安
等を、先に述べた論理的妥当性を求める思考とは区別して、ここではひとまず「~の思い」と表現した方が相応しいように思うからです。

実は先の純粋で鋭い論理的思考のはたらくところには、その人の自我意識、すなわち私という意識がしっかりと寄り添っています。寄り添うというよりは、まさにその私という目覚めた意識が具体的な思考を展開しているのです。noboru氏も述べておられる夢の表す世界にはイメージと感情の流れが飛び交っていて、筋書きのつかめぬ内容が展開されていきます。それはこの夢の中に意識内容をコントロールする自我意識、すなわち「私」がいないからだといいます(R.シュタイナーの人智学より)。

シュタイナーによればこの自我意識(「私」の意識・自己意識)こそが人間の中核に据えられるべき存在であるとされています。人間の意識世界(魂)には三つのはたらきがあって、それは感情、思考、意志のはたらきです。そしてその意識世界を統括しているのが自我、すなわち自己意識、「私」という意識存在だというのです。そして三つのはたらきのうち「私」の意識から見て感情は、半透明的なあり方をしているのでコントロールしきれないのだとシュタイナーは言います。意志も暗い部分を持つとされ、思考のみが「私」にとってそのはたらきの始めから終わりまで見通せるものになっているものである、とこのようにシュタイナーは言っています。こうしたシュタイナーの主張は私の胸に落ちるところがあり、さらなる理解を深めようとしているところです。

そこで私は、そのようなシュタイナーの説を踏まえて、少し飛躍するかもしれませんが、人間の性格(人格)の質を何が決定しているかということについて言及してみようと思います。それは人間の「私」の意識を支えるものは何かということと、肝心の無意識と意識のかかわりに迫る上で欠かせない議論になるように思うからです。

noboru氏は性格(人格)の質を決定するものは半ば無意識的に為される「日常的な思い」であるとされているのですが、たしかにそれが性格形成に影響するとしても、性格の質を決定するとまでいえるかについてはいささか疑問があります。なぜなら性格形成の担い手はまさに「私」(シュタイナー的には自我)であり、「私」が人生の大事な局面に出会うたびに真剣に全力で立ち向かうことになり、そのたび重なりの中でその人の性格の核が形成されるとも言えるからです。

人生における重要局面と言えば、一般的には進路を決める際や結婚、転職や離婚などを挙げることができるかと思います。こうした重大局面では、ことの性質上無自覚でぼんやりとした意識とは逆に、否応なく鮮明な意識において「私」が決断をし、その結果責任を担うことになります。そこでは「私」が、場合によっては苦悩し苦労することにもなるでしょう。あるいはあふれる喜びを体験することになるかもしれません。いずれにしろ、それこそがその人の性格(人格)形成に資する中核的な要素になるのではないかと思うのです。そこでは「日常的な思い・雑念」は性格形成上脇役的立場にあるように思われるのです。

ところが一方で、noboru氏によれば、日常にくりかえされる「雑念」(日常的な思い・脳内会話)が実は無意識と深いかかわりがあるというのです。しかも本人の意識には隠されている「本人が無意識のうちに執着している何か」であるということです。
それが何であるにしろ、そのような本人が意識できないところで蠢くものがあり、それによって「私」が如何ほどにしろ左右されるのであれば、人間の主体性や自由なあり方にかかわる重大事です。

この無意識及び「日常的な思い」についての私の理解は、noboru氏の述べておられる内容とそれている部分があるかもしれません。あるいは無意識との絡みで人間が持つ本能や欲望、あるいはそれ以外の何かがあるのかもしれません。その当たりについてもさらにお話しいただければありがたいです。(takao)

二つ目の盲点

2012年11月26日 | 無意識の働きをめぐる対話
あまり長くなってしまうのは対話としてふさわしくないし、内容的にも区切りがいいので、私からの発言はとりあえず今回で一区切りとします。

日常的な思考が私たちにとっての盲点になっている、ということには二重の意味がある書きました。一つは、まさに私たち自身が、自分の脳内独語に充分気づいておらず、多くの場合は、半ば無意識に、受動的におしゃべりが続き、時には強迫的に同じテーマをくりかえし考えている、ということでした。そして大切なことは、その受動的なおしゃべりの内容が、私たちのあり方を規定し、人格の質を決定しているということです。無意識の思考がエゴを形づくり、強化している。日常的な思考に無自覚に埋没し、それに固執しているのが私たちのエゴの実態ではないでしょうか。半ば無自覚な脳内おしゃべりが、私たちの「無明」を、迷いの世界を形づくっているのです。

さて、盲点の二つ目の意味は、学問的なものです。これほどに多くの時間を脳内おしゃべりに費やし、しかもそれが、私たちの人格にとって決定的な意味をもっているにもかかわらず、日常的な思考のあり方を真正面からテーマして研究する現代の学問分野がないのです。私たちの日常のこれほと基本的な営みであるにもかわらずです。思考心理学というのはあるでしょう。しかしそれはあくまで意図的、意識的な思考のあり方を研究するもので、私たちの誰もがひまさえあれば行っている日常的な思考を研究するものではないようです。

なぜ、それを研究する学問分野がないのでしょうか。まさに盲点だからなのですが、ではなぜ盲点なのか。おそらく私たちのあまりに主観的で、しかも日常の意識にとって盲点になっている営みなので、学問的な研究の対象になりにくいからでしょう。瞑想を行えば、私たちの日常的な思考のあり方がある程度見えてきますが、瞑想などをしなければ、私たちの頭の中をたえず流れている思考のざわめきを問題としてとらえることもないでしょう。ましてや、学問的な研究の対象として捉えることもないのです。

このようなことをかつて別ブログで語ったとき、いくつかのコメントを頂きました。たとえば、初期仏教が日常的な思考を詳しく研究し、これらを「浄心所25種、不善心所14種、同他心所13種に分類している」ということです。もちろん仏教は、「迷いから悟りへ」を目指す以上、迷いの世界の分析にも並々ならぬ情熱を注いできました。ただ問題は、現代心理学が現代の研究成果を参照しながら、私たちの意識の大部分を占めている「日常的な思考」のあり方を、なぜ研究対象としないか、ということなのです。

また、認知行動療法やポジティブ心理学は「日常的な思考」を扱っているのではないかというコメントも頂きました。しかしこれらは、全体として常態での「日常的な思考」を対象とするのではなく、特定の症状の治療や特定の目的という限られた視点から取り扱っているに過ぎないのではないでしょうか。これらを何らかの形で参考にしていくことは、もちろん大切でしょうが。

ということで、私たちの日常的な意識の中心をなす脳内独語を、無意識との関係で追求したいというのが私の関心です。このような視点から意識と無意識の関係に迫ることは、Takao氏の問題意識と交差する面がたぶんにあると思うのですが、いかがでしょうか。

いきなりだいぶ長くなってしまいました。とりあえずここで一段落とさせていただきます。(Noboru)

盲点としての「日常的な思考」

2012年11月25日 | 無意識の働きをめぐる対話
「日常的な思考」そのものを研究の対象とする現代心理学の分野はないのではないかと書きましたが、もちろん現代心理学に思考を扱う分野(「思考の心理学」)はあるようです。たとえば、思考についてその論理性を追求する方向から研究することもあるでしょうし、あるいは、思考と言語の関係を考察する研究もあるでしょう。

しかし、日常生活の中で毎日、一瞬一瞬繰り広げられていく日常的な思考を、それがどのような性質をもち、どのように展開する傾向があり、性格傾向や心理的な問題とどのように関係するか、無意識領域とはどのように関係するかなど、その全体的な性格を体系的に研究しようとする現代心理の分野を私は知りません。もしご存知の方があればぜひ教えてください。

私は、先にも書いたようにヴィパッサナー瞑想を少し行い、日常生活の中でも、自分の知覚や思考につねに気づき続けるという「サティ」の訓練をしています。そうした訓練をしていると、ほとんど無自覚に(客観視や対象化されずに)無限に繰り返されていく思考に、自分が縛り付けられているという感じを持つことが多いのです。それで、日常的な思考とはどのような思考なのか、客観的にその構造を明らかにしていきたいという想いがありました。

しかし、現代心理学の中にそのような分野を発見できません。結局、まずは自己観察から出発するほかありませんでした。自己観察は、そのままヴィパッサナー瞑想の修行にはなるのですが、その自己観察の結果を、日常思考のプロセスや構造として概念的に対象化し、構造として記述していくなら、それはひとつの研究分野になるだろうと思うのです。

さて、日常くりかえしくりかえし行っている思考(雑念、脳内のおしゃべり)は、私たちにとって二重の盲点となっていると思います。

私たちは、日常たえず脳内おしゃべりを続けながら、その事実およびおしゃべりの内容にほとんど無自覚です。それが第一の盲点です。

たえず脳内の独り言を続けているという事実そのものに無自覚である場合もあるのですが、たとえその事実に気づいても、その内容についてはほとんど無自覚である場合が多いようです。「そんなはずはない」と思うなら、数分前、いや一分前に自分が考えていたことを思い出してみるとよくわかります。ほとんど忘れている場合が多いのではないでしょうか。

なぜ無自覚の脳内おしゃべりが問題となるのか。それがほとんど受動的に続けられていく習慣性の思考だからです。同じようなことをくりかえしくりかえし考えながら、そのくりかえしに気づいていない。そして何回もくりかえされる脳内おしゃべりにこそ、本人が無意識のうちに執着している何かが隠されているのです。

私たちの日常的な思考、脳内おしゃべりは、なかば夢に似ていると思います。多くの場合それは、何かを意識的に考えようとして始まるのではなく、自分の自覚的な意図とは関係ないところで始まり、展開していくのです。夢が自分の意図とは関係なく展開していくように。

脳内おしゃべりが展開する仕方にはいくつものパターンがあるでしょう。よくあるパターンをひとつあげてみます。

(1)家の外のクラクションの音→(2)クラクションの音に関係する思い出のこと→(3)その思い出にかかわる人物のこと→(4)人物にかかわる別の思い出①→(5)①にかかわる別の思いで②‥‥‥

こんな風に思考が展開していったとしましょう。きっかけはクラクションの音ですがが、そこからなぜ思い出が連想されたのかは、多くの場合、無自覚でしょう。思い出BやCが思い出されず、Aだったのはなぜか。意図的に振り返れば理由がわかるかもしれませんが、わざわざ振り返ること自体が特殊ケースでしょう。多くは、無意識のうちにAが連想されるのです。(3)の人物Xについても同じことが言えます。人物YやZが連想されても不思議ではありませんが、なぜXだったのか。これも無自覚のうちの連想です。

このようにして無自覚のうちに、次から次へと連想が展開していく場合が、日常的な思考の多くの部分を占めているのです。その意味で日常的な思考は、同じように無自覚のうちに展開していく夢に似ていると言えましょう。

夢と日常的な思考は、似ていない部分もあります。夢はイメージ中心に展開しますが、脳内おしゃべりは、言葉によります。しかし、ぼーと何かを考えているうちにイメージの展開が中心になっていたなどということもあるでしょう。ハッと我に帰って今日の仕事の段取りを考え始めたとすれば、それは意図的な思考となります。

結局は、私たちは絶えず脳内おしゃべりを続けていながら、そのおしゃべりについて、無自覚で受動的だということです。自分で充分コントロールもできず、なかば気づくこともない何かが、頭の中でたえず活動しているのに、とりたててそれを問題にしない。問題にする必要も感じていない。それが「盲点」という言葉で言いたかったことです。(Noboru)

「日常的な思考」からの出発

2012年11月25日 | 無意識の働きをめぐる対話
さっそく「日常的な思考」と無意識の問題に入っていきたいと思います。私は、瞑想(上座部仏教に受け継がれるヴィパッサナー瞑想)を少し行っているのですが、その関係で気づいたことがあります。

座禅・瞑想などを行っていると誰もが痛烈に感じることと思いますが、何かに集中しようとしても次々に雑念が湧いてきてなかなか集中できないのです。「無」とか「無心」とか言葉でいうのはかんたんですが、実際はそうかんたんではないことがつくづく分かります。

ところで、この「雑念」ですが、何も瞑想中に限らず日常生活のなかでは、実に様々な雑念が次々ととりとめもなく湧いては消えていきます。そういうとりとめもない思考が、間断なく続いていくのが、私たちの日常的な意識の現実でしょう。まず、私達が日常そういう思考にとらわれていということに気づくことが大切です。

もちろんある特定の目的のために系統的に思考をすることもあるでしょうが、大部分は、その場でたまたま知覚した場面や音からの連想、そこからさらに連想、また別の刺激が入って来て、またそこから連想‥‥などと繰り返しているのです。あるいは、何か気になることについて、同じような思考を何度も反芻したりしています。

時には、自分は誰かにこう思われているのではないか、などという思考が、現実から遊離して妄想となり、悩みや苦しみの原因になったりします。

こういう日常的な思考の集積が、私たちの心理に影響を与え、性格を形づくり、人生の方向や質を決定していきます。

ということは、日常的な思考は、私たちの心についての学問、すわなち心理学にとって重要な要素をなし、あるいは中核的な分野をなすといってもよいはずなのです。しかし、私の知る限り、日常的な思考(散漫でとりとめもない無自覚的な思考)そのものを研究の対象とする現代心理学の分野はないようです。

しかし、私たちの日常的な思考の集積が私たちの性格や人格、生き方すら決定しているのであれば、これほど重要な研究テーマはないのです。しかも日常的な思考は、無意識と深く結びついています。どのように結びつくかについては、これから徐々に明らかにしていくつもりです。ということで、何回かにわたり私の見方を述べていくつもりですので、よろしくお願いします。(Noboru)

問題提起を受けて

2012年11月25日 | 無意識の働きをめぐる対話
興味深い問題提起、ありがとうございます。このような形で問題提起をいただいて、対話を繰り返していくことは、人間の心の在り方について理解を深めるためにも意義深いと思います。お互い自分のペースで無理をせず、ゆっくり取り組んでいければと思います。よろしくお願いします。

まず、提起していただいた問題を整理すると、三つになると思いますが、いかがでしょうか。

1)無意識とはどのようなものか。

2)無意識と意識との関係はどうなっているか。

3)無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定するのか。

Takao氏の問題提起の根本は、3)にあると思いますが、この問題を考える上では、1)と2)について共通の認識がないと、議論の前提が曖昧になり、かみあった対話ができないということだと思います。私もそう思います。

そこでまず、1)から始めることになると思いますが、1)は2)と絡み合っていて明確に区別しにくく、両方にまたがった対話になるかもしれません。

周知のように無意識の研究としては、すでに膨大な蓄積があります。西洋ではフロイト、ユングによって本格化し、それに続き、精神分析の多くの流派が生まれ、心理学、精神医学の分野での研究も進んでいます。東洋では、大乗仏教の唯識派がすでに4世紀から、深い瞑想体験から得られた知見をもとにして、これもまた膨大な体系を築きあげています。

私には、それらを逐一解説する能力はないし、ここでそれをすることにあまり意味はないと思います。それぞれについて優れた入門書や解説書があるので、必要に応じて参照していただければと思います。

私は最近、「日常的な思考」と無意識の関係という問題に少し興味がありますので、まずはその観点から私なりに無意識の存在を探ってみたいと思います。その上でTakao氏や他のお二人から、いろいろご意見をいただければと思います。(Noboru)

無意識の意識へのかかわりについて

2012年11月23日 | 無意識の働きをめぐる対話
前回の研究会で、ある話題から無意識について若干の議論が交わされたのですが、そのときは何気なく聞いていたのに、あとでとても気になり出したものですから、そのことを問題にしてみます。

それは、われわれの意識的な思考や判断、あるいはそれにもとづく行動の背後に、無意識が絡んでいるという問題です。無意識という意識的人間にとって不透明なものの絡む度合いがどの程度かはわからないとしても、そもそもその程度如何にかかわらず、無意識が私たちの意識における思考や判断にかかわるとすると、私たちは真の意味での主体性を確保できず、物事を主体的に考え判断することはできていないことになります。もしそうならば自分の考えや決断、あるいは行為には責任がとれないことにもなります。

それは論理的には、実生活上での法律上の問題をも含む幅広い深刻な問題を生じさせることになるはずです。

角度を変えて言えば、そのことは人間がほんとうの意味の自由を持ちえないということにもなります。
人間が本質的な意味で自由な存在でないとすると、道徳は成立せず、道徳教育も考えられないことになり、事柄は深刻です。

人間が自由でありうるかという問題は人間の本質にかかわり、道徳教育の成立基盤にかかわる問題です。この意味から無意識と意識の関わりの問題は道徳教育の研究を進める上でも抜き差しならない問題と言えます。

そこで、私たちはそうした観点から無意識というものにあらためて迫ってみてはどうかと思うのです。

さて、この問題をわれわれの間で本格的に議論しようとするとき、まず無意識なるものがどのようなものであるかの共通認識に立つ必要があります。

そこで、無意識とは何かについて、こうした問題に造詣の深いNoboru氏の方からお話しいただくことからスタートしたいと思うのですが、如何でしょうか。よろしくお願いします。(takao)