忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

中学生の時期の子育て(№16)

2013年04月06日 | 中学校教師のつぶやき
第16話 『競争はいけない?』

 学校生活の中にも、たくさんの「競争」があります。
合唱コンクールや体育祭、球技大会などです。

高校入試などは最も大きな競争かもしれません。

「競争」は「争い」ですから、必ず勝ち負けがあります。
勝ち負けという「優劣」をつけることは、人間を序列化し選別することですから教育上良くないことです。

したがって「教育活動の中ではいっさい優劣をつけるような競争はしてはいけない」という考え方もあります。

例えば、運動会のかけっこで順位をなくした小学校があるそうです。
かけっこの苦手な子どもが劣等感を抱かないための配慮なのでしょう。
では、かけっこで1等をとることを目標に「努力」することはいけないことなのでしょうか。

私は「競争」というものは、社会の必要悪だと考えています。

「競争」による優劣の結果を人間の評価として捉えることには大反対ですが、子どもの能力や良さを伸ばすためであれば、賛成します。

かけっこで1等をとることはすばらしいことです。

しかし、例えビリでも人間として決して劣っていることではない、ということです。

重要なことは「目標」をもって「前向き」に生活していることです。

「競争」はどちらが優れているかを調べるためではなく、共に前向きにがんばるために行われなくてはならないと考えています。


中学生の時期の子育て

2013年03月31日 | 中学校教師のつぶやき
第15話 『責任を自覚させるかかわり』

 子どもたちが大人に向かって、
「お母さんのせいだ」
「お父さんのせいだ」
「先生のせいだ」などと言うとき、
私達は子どもへのかかわり方を見つめ直す必要があります。

その原因が本当に大人の側にあるのか、それとも子どもの問題なのかです。

子どもに原因がある場合、
この言葉の奥にある子どもの心に問題があります。

「僕のせいではない」という、自分を見つめる気持ちがないことです。

遅刻しそうになると決まってお母さんに文句を言う生徒がいました。

「なぜもっと早く起こしてくれなかったんだ」と常にお母さんを責めます。
自分が毎日遅くまで起きていることの反省など、みじんもありませんでした。

こうした姿勢は中学生の時期までで終わることなく、高校生になっても大人になっても続くことがあります。

原因は、子どものときからの過保護であり過干渉にあります。
親の手助けを、子どもが当たり前と考えているからです。

いつまでも親にとっては子どもは子どもなのですが、親が手を出しすぎれば、それだけ子どもの自立は遅れ、依存する心が身についてしまうのです。

大人になるとは、年齢や体格ばかりではなく、心を成長させなければなりません。

子育てにおいては、勉強ばかりに目を奪われることなく、心の成長や生活面においても自立できるように育てることが大切なのではないでしょうか。


中学生の時期の子育て

2013年03月30日 | 中学校教師のつぶやき
第13話『中学校では、なぜ茶髪やピアスがいけないの?』

 日本の多くの中学校では「中学生らしい身なり」という理由から、茶髪やピアスを禁止しています。
それでもたまに、ピアスや茶髪の生徒がいます。

「いけません」と指導しても、聞く耳を持たないのが現実だと思います。
茶髪やピアスは現代社会の若者の流行であり、多くの若者が行っています。
格好良さのシンボルであり、アメリカでは小学生からピアスをしている子どももいるようです。

 ではなぜ茶髪やピアスがいけないのか、と疑問をもたれても当然だろうと思います。

教師であれば茶髪やピアスは「いけない」と生徒に話します。

理由はなんでしょうか。

ひとことで言えば、学校の「きまり」「ルール」だからです。

 もうひとつは、中学生の自律の力の弱さです。
身なりのことよりも、心を鍛えなければならない時期だからです。
多くの中学校では茶髪やピアスは禁止されています。

ですから、茶髪やピアスをすることによるトラブルが生まれてくる危険性が大きくなります。

そしてもうひとつは友人関係の変化です。

問題は茶髪やピアスそのものよりも、「中学校の約束・ルールを守れない生徒」ということです。

人と違ったことをすることには勇気がいりますし不安です。
茶髪やピアスをしている生徒も、学校の約束やルールを破っている不安感から同じように破ってくれる仲間を求めます。
そこに集団が形成されのですが、その集団は生活ルールを破るための集団となることが多いのです。

時には同様な他校の生徒、卒業生、暴走族などとの関係まで広がっていくことがあります。

中学校の3年間は、自分の考え方や将来の自分を創る上でとても大切な年代です。
それ故にできれば、夢や目標を大切にし向上し合える友人関係であってもらいたいと思います。

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2013年03月30日 | 中学校教師のつぶやき
第12話 『温かい叱り方と冷たい叱り方』

子どもを叱るのは、子どもがよりよく生きていけるように行動や態度を正しくしてあげたいからです。

ほめるだけでそれができれば越したことはありませんが、子どもにしっかりとした生活習慣や考え方を身につけさせるためには、いけない時には叱らなければなりません。

しかし、その場合の叱り方はあくまでも心の通った温かい叱り方であって、子どもを見放した冷たい叱り方ではいけません。

冷たい叱り方とは、子どもに親の温かい心を感じさせない、突き放した叱り方です。
子どもに反発心や敵意、孤独感を感じさせる叱り方です。

温かい叱り方とは、たとえ厳しく叱ったとしても親に愛されているという実感が子どもにつたわる叱り方です。それはその子にとってかけがえのない体験となるでしょう。

上手な叱り方や正しい叱り方、好ましい叱り方というものは、叱られた結果その子どもが悪かった点を自覚し、「これからは改めよう」という気持ちを起こさせる叱り方です。

叱る者と叱られる者との間の人間関係がより深まる叱り方です。
子どもがこれからの生活を、より良くしようとする意欲を起こさせる叱り方です。

叱られて、良い気持ちのする人などひとりもいません。
誰にとってもつらくいやなものです。叱る立場も嫌なものです。
しかし温かい心から叱るのであれば、必ず子どもに温かい親の思いも伝わっていくものです。

「温かい心で叱る」ということが、叱り方の基本なのでしょう。


中学校教師のつぶやき08

2012年07月29日 | 中学校教師のつぶやき
第11話 『良い集団と悪い集団』

 集団の中で生活する私達は、集団から計り知れない影響を受けます。
戦前の軍国主義下にあった日本や、共産主義の国、独裁政治の国では、自分の考えを自由に話すができません。
国という集団ばかりでなく、学校や学級という集団においても集団は個人に大きな影響を与えています。
 アメリカの教育困難校では銃や麻薬、犯罪や暴力といった不正が蔓延しているそうです。
ですからアメリカ社会では、ジャスティス(正義)ということが声高に叫ばれます。
それは裏返すと正義が通らない土壌があることを暗示しています。
良い集団とは、正義が通用する集団です。
日本では正義を声高に叫ぶことが少ないようです。
そのことは逆に、治安や道徳の高い国である証拠でもあります。
 しかし最近の日本は犯罪が増加し低年齢化し、モラルの低下が大きな問題となっています。
他人を注意しただけでも殺されるなどという悲しい事件も発生しています。
学校の中でも、いじめや暴力などの不正や悪が広がることもあります。
学校は人を教育する場です。
良い人間を育てる環境は、正義が通用する集団でなければなりません。
いじめが起こっても、傍観者だけの集団から、いじめを許さない、許容しない集団作りが、
学級、学年、学校に求められています。
そして、学校は正義が通用する集団であることだけに留まることなく、ひとりのためにみんなが助け合い、思いやれる集団でありたいものです。



中学校教師のつぶやき07

2012年07月27日 | 中学校教師のつぶやき
第10話 『魔法の言葉』
 オーストラリアへホームステイをしていた高校生の話です。
その子がステイ先のお母さんやお父さんに、「コップをとってくれますか」などと頼むと、決まって返ってくる言葉が、「魔法の言葉は」という返事だったそうです。
人に何かを頼むときにはまず「魔法の言葉」を言いなさい、ということなのです。
その言葉を言えば自分の頼みを聞いてくれるのでしたら、まさしく「魔法の言葉」です。
その「魔法の言葉(Magic Word)」とは、実は「Please(お願いします)」という言葉なのです。
 「なあんだ」と思うかもしれませんが、このたった一言が人と人の人間関係を大きく変えるのです。
まさしく魔法の言葉です。
日本語にも、この Magic Word に当てはまる言葉がいくつかあります。
「お願いします」「ありがとうございました」、などがそうでしょう。
こうした言葉がしっかり身に付いている子どもは、周りの人達にかわいがられ応援される幸運な生き方ができます。
しかし、「お願いします」と言いなさいとか、「ありがとう」を言いなさい、などと口調を荒げて言えばとげとげしくなります。
「魔法の言葉は」、と穏やかな口調で身に付けさせていく姿勢に懐の深さを感じます。
かけがえのない我が子です。
 子どもが周りの人達にかわいがられ、応援される幸せな生き方ができるように、この魔法の言葉をしっかり身に付けてもらいたいものです。


中学校教師のつぶやき06

2012年07月26日 | 中学校教師のつぶやき
第9話 『言葉のキャッチボール』

 キャッチボールは相手のボールをしっかりと受け止め、相手にとれるようにボールを投げ返すものです。
このことは、「会話」についてもいえます。
相手の言葉をしっかりと受け止め、相手に投げ返してあげなければ、楽しい「会話」を交わすことはできないからです。
相手の言葉をしっかりと受け止めるということは、相手の話を耳で「聞く」のではなく、心で「聴く」ということです。
 子どもに限らず大人でも、外であった出来事や悩みを家族に聴いてもらいたい、自分の気持ちをわかってもらいたいと思うことがしばしばあります。
楽しかった気持ちや、困った気持ち、悔しかった気持ち、つらかった気持ち、その時々の気持ちを共有してもらいたいのです。
「聴く」とは、相手の心情、思いを察してあげることです。
会話の内容だけでなく、感情をしっかりと受け止め、共有できることが大切なのです。
アドバイスよりも、まずは子どもの思いをしっかりと受け止めてください。
これからどうしたらよいかは、子ども自身がわかっているものです。


中学校教師のつぶやき05

2012年07月25日 | 中学校教師のつぶやき
第8話 『やって見せ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば人は動かず』

 どのように教育すれば良く身に付くのか?
企業でも、学校でも、家庭でも大いに苦心するところです。
 昔、第2次世界大戦時の連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は、
人を育てるには「やって見せ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば人は動かず」と言われたそうです。
 この言葉には仁将と言われた山本大将の教育者としての心構えが込められています。
教える側が「出来て当たり前」という気持ちでは、習う側は意欲を失うでしょう。
出来なければ落ちこぼれでは、劣等感を育てているようなものです。
一生懸命に努力している点を理解し、評価してあげなければ誰でもやる気は起こらないのです。
 「ほめてやらねば」という言葉には、前向きな姿勢を支えている「向上心」を育てていく姿勢がうかがわれます。
中学生を育てるのも、大人を育てるのも、年齢という違いはあるものの、人の本質に違いはありません。
努力している姿勢こそが大切であり、出来たことを上手に評価し自信を育て、ほめながらもうぬぼれさせるのではなく、前向きな姿勢を如何に育んでいくかに教育の本質があるのではないでしょうか。

中学校教師のつぶやき04

2012年07月24日 | 中学校教師のつぶやき
第7話 『ありがとうの一言』

家族の中や、親しい間柄のゆえに「ありがとう」の一言が言いにくいことがあります。
長年一緒に暮らしているから「何も言わなくとも思いが通じる」、と考えている人もいるでしょう。
しかし、本当にそうでしょうか。
あるお父さんは、会社から帰宅すると居間に座るなり、お母さんに向かって、
「お~い、ビール」「めし」「風呂」、お母さんと交わした言葉がたったこの三つだけだったそうです。
長年一緒に暮らしているのだから、この三つの言葉だけでもお互いを思いやり信頼し合える関係なのだと、本当に言えるのでしょうか。
お父さんは仕事で疲れていますが、お母さんにしてみても同じです。
女中さんのように命令されてばかりでは嫌になってしまうでしょう。
親しい間柄であっても「ありがとう」、という一言が大切なのではないでしょうか。
互いの心の距離は、ささいなすれ違いから生じてくるものです。
夫婦の間であっても、親子の間であっても、相手を思う心配りをおろそかにしてはいけないと思います。
「ありがとう」「おはようございます」のたった一言ですが、その一言に温かい心を込めて身近な人にも使いたいものです。

中学校教師のつぶやき03

2012年07月24日 | 中学校教師のつぶやき
第6話 『中学生の時期の子育て』

小学生の時期の子育ての主眼は躾です。
躾とは、漢字が表すように「身を美しく整えること」です。
挨拶や態度、目上の人への敬語など、社会生活を送る上で大切な習慣を身に付けさせることです。
中学生の時期の子育ての主眼は、「自律」や「自立」へと移っていきます。
自分で自分を律せる力、自分から行動できる力を育てる時期です。
中学生の時期は、自分の考えが出てくる時期でもあります。
ですから「いけない」と注意するだけでなく、「なぜいけないのか」という「理由」をしっかり理解させることも大切です。
中学生の時期は、自身で納得できなければ無条件に大人の言うことに従いません。
これが「反抗期」と呼ばれる所以です。
子どもに理由を納得させることも大切なのですが、他に重要なことがあります。
それは、注意する側の大人の姿勢です。
「自分を棚にあげて」という姿勢では子どもは決して納得しないということです。
納得しないばかりか、反発や反抗も生じてきます。
親や教師の姿勢が問われる時期が、「中学生の時期の子育て」なのかもしれません。
人として完全な親や教師など、どこにもいません。
大切なのは「よりよく生きようとする姿勢」ではないでしょうか。

中学校教師のつぶやき02

2012年07月23日 | 中学校教師のつぶやき
第5話 『見習い』

「誰もがわかるような教え方」ができて、初めて一流の先生と呼ばれます。
しかし、一流の先生であっても教えられない生徒がいます。
それは、「学ぼうとする意欲」のない生徒です。
昔の日本には、「見習い」という制度がありました。
「見習い」とは、「見て習う」という意味です。
今の世の中は、手とり足とり懇切丁寧に教えることが良いことだと考えていますが、
「見習い」の世界では、先輩は新入りの人に何一つ教えません。
下働きといって、先輩の仕事のごく一部を手伝わせるだけです。
それでもみごとな日本の匠の技は、みごとに伝承され発展してきたのです。
「先輩の仕事を手伝わせるだけ」という関係は一見すると、とても意地悪な世界のように見えます。
しかし、「見習い」の人達は先輩に怒られ続けながらも、わずかな時間を惜しんで先輩の技を盗み取っては、先輩の匠の技を身に付けていったのです。
「学ぶ」とは、「まねる」という言葉から由来しているように、まねることから勉強は始まるのです。
ややもすると最近の生徒たちは、「教え方が悪い」と原因を相手に転化をしがちです。
しかし、自分の力で「分かろうとする思い」や「マスターしようとする思い」、そうした強い意欲をもっていれば、たとえ何一つ教えてくれない先輩であっても、匠の技が習得できることを「見習い制度」が教えているのです。
物事は、「学ぼう」「習得しよう」という強い意欲が湧き起こったときは、どんな悪い環境の中であっても、その願いが成就できるものです。
「意欲」をもつこそが、勉強の第一歩なのです。

中学校教師のつぶやき01

2012年07月22日 | 中学校教師のつぶやき
『暴力は暴力を生む』

子育ては、時として子どもを厳しく叱らなければならない場面があります。
子どもを厳しく叱ることも、時にはとても大切なことです。
しかし殴られて育てられた子どもは、殴られることを嫌悪しながらも、暴力をふるう子どもになることが多いように思います。
暴力を、知らず知らずのうちに学習しているからです。
家庭内暴力や幼児虐待のニュースが時々流れてきます。
幼児虐待や、子どもに暴力をふるう多くの親は、子どもの頃に同じように親から虐待や暴力を受けていたケースが多いとの研究報告がなされています。
心の深層に知らず知らずのうちに、暴力がすり込まれているからです。
子どもは、親や教師の行動様式を無意識の内に学習します。
心理学ではモデリングなどと呼びますが、教えてもいない親の行動様式が子どもに伝わる現れる現象です。
子どもは無意識の内に学習しているのです。
「子どもは親の背中を見て育つ」などと言います。
子どもは大人の姿勢を見て学習するのです。
子どもの模範となる姿勢で、親や教師は生活したいものです。