忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって08:(2)至高体験の特徴③

2012年04月27日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《林武》 

まずは、その強烈な表現と独自の造形理論で知られた画家・林武(はやしたけし、一八九六~一九七五)の体験である。彼は、一番大事な絵を捨てようと決心した、あるときの心境と体験を次のように語っている。(『美に生きる―私の体験的絵画論 (1965年) (講談社現代新書)』)

『僕は、絵の道具を一切合財、戸だなのなかにほうりこんでしまった。愛するものを養うために、あすから松沢村役場の書記かなんかにしてもらって働こう。僕はそう決心した。それは実になんともいいようのない愉快な気分であった。からだじゅうの緊張がゆるんで精神がすっとして、生まれてこのかた、あんなにすばらしい開放感を味わったことはいまだなかった。』

『それは一種の解脱というものであった。絵に対するあのすごい執着を、見事にふり落としたのだ。僕には、若さのもつ理想と野心があった。自負と妻に対する責任から、どうしても絵描きにならなければならなかった。だからほんとうに絵というものをめざして、どろんこになっていた。そのような執着から離れたのであった。』

『外界に不思議な変化が起こった。外界のすべてがひじょうに素直になったのである。そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた。』

『同時に、地上いっさいのものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖をともなって僕に語りかけた。きのうにかわるこの自然の姿──それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る。僕は思わず目を閉じた。それはあらそうことのできない自然の壮美であり、恐ろしさであった。

この至高体験をまず取り上げたのは、マスローのいうD認識からB認識への変化をみごとに描写しているからである。B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる傾向がある。自然がそのまま、それ自体のために存在するように見られ、世界は、人間の目的のための手段の寄せ集めではなく、それぞれのあるがままで尊厳をもって実感される。 逆にD認識においては、世界の中の物や人は「用いられるべきもの」、「恐ろしいもの」、あるいは「自己」が世界の中で生きていくための手段の連鎖として見られる。

林武の事例において、木が「真の生きた木、ありのままの実在の木」として見えたとは、主体との関係や主体の意図によって歪曲されず、主体自身の目的や利害から独立した「それ自体の生命(目的性)において」見られたということであろう。そのとき「その情緒反応は、なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、謙虚、敬服などの趣きをもつ」のである。認識が、D認識(目的―手段の連鎖の中で見る日常的認識)からB認識(それ自体の尊厳性において見る)に激変したことの驚きを、画家は「きのうにかわるこの自然の姿──それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る」と表現している。

覚醒・至高体験事例集・林武の事例も参照のこと)

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって07:(2)至高体験の特徴②

2012年04月25日 | 覚醒・至高体験をめぐって
1 至高体験においては、自己の利害を超越し、対象をあるがままの形で全体的に把握し、認識の対象を完全な一体として見る。

2 至高体験においては、認識の対象にすっかり没入してしまう。

3 対象を、人間の目的とかかわりのある見地から見るのではなく、人間とは無関係なものとして、それ自体独立した存在としてとらえる。

4 至高体験においては、認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つことができる。

5 至高体験においては、対象に熱中し、没入するので、主観的に時空を超越している。

6 至高体験は、相対的ではなく、絶対的なるもの、永遠なるもの、普遍的なるものとして体験される。

7 至高体験は能動的な認識ではなく、受動的である、経験を前にして、謙虚で無干渉である。

8 至高体験においては、偉大なものを眼前にして前にして圧倒され、驚異、畏敬、謙虚、敬服といった色合い、感情をもつ。

9 至高体験では、「具体性を失わないで抽象化する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力とが同時に見出される。」また、対象を類の一員としてではなく、それ自体唯一の個別的存在として見る。

10 至高体験においては、人間性の本来もつ「多くの二分法、両極性、葛藤は融合し、超越し、解決せられる。」

11 至高体験においては、人の行動はすべて愛し、赦し、受け入れ、賛美し、理解し、ある意味で神のような心情をもつ。

12 至高体験においては、一時的ではあるが、恐れ、不安、抑圧、防衛、統制が失われ、純然たる精神の高揚、満足、法悦が体験される。

ここに挙げたそれぞれの項目はたがいに深く関係し、ひとつの現象を別の角度から捉えなおしたような表現も見られる(たとえば、1と2と4、3と7の関係等を参照されたい。)

また、既に触れたようにマスローは、高度の成長、自己実現の状態に達した人々の認識のあり方や、至高体験に見られる認識のあり方をB認識として特徴づけている。B認識は、ごくふつうの人々の日常的な認識のあり方であるD認識(D=deficiency=欠乏)と比べられる。

マスローによる以上のような至高体験の特徴と、それを認識面からとらえたB認識の特徴とを、今後「覚醒・至高体験」の事例を検討していくためのさしあたっての基準としたい。だたし、これはあくまでも出発点での目安に過ぎず、今後事例を検討していくなかで、他の重要な特徴が付け加えられたり、たんなる列挙ではなく、より構造化された記述に深められていくかも知れない。

われわれの当面の課題は、上にあげたような至高体験の特徴、とくにB認識の特徴を、具体的な事例にそって確認することである。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって06:(2)至高体験の特徴①

2012年04月24日 | 覚醒・至高体験をめぐって
2 至高体験の特徴

心理学者マスローは、「至高体験」と呼ばれる状態の心理的な特性や、自己実現ないし自己超越したと思われる現代の多くの人々の心理的、人間的特性を緻密に検討した。マスローの「至高体験」についての記述と分析は、彼が行った心理学的な調査の結果にもとづいている。彼は、八十名ほどの人々との個人面接、一九〇名にのぼる大学生に実施したアンケート調査、さらに五〇名ほどの人々からの個人的報告などをもとにして分析を行っている。

アンケートは、宗教的経験、美的経験、愛情経験、創造性の経験など、人生のうちで最も感動を覚えた瞬間の記述を求めるものであった。それは、「あなたの生涯のうちで、最も素晴らしい経験」、「おそらく恋愛に浸っている間や、音楽を聴いていながら、あるいは書物や絵画によって突然『感動』を受けたり、偉大な創造の場合に経験する最も幸福であった瞬間、恍惚の瞬間、有頂天の瞬間」に関して、「このようなはげしい瞬間に、あなたはどう感じるか、ほかの時にあなたが感じるのとは違っているか、あなたはそのとき、なにか違った人になるかどうか」を報告してもらう内容であった。

この調査をもとに彼がまとめた至高体験の内容のいくつかを、その著『完全なる人間―魂のめざすもの』(A,H,マスロー、誠信書房、一九九八年)等にもとづいて紹介しよう(上田吉一『人間の完成―マスロー心理学研究』誠信書房、一九八八年をも参照)。

覚醒・至高体験をめぐって05:覚醒・至高体験とは③

2012年04月23日 | 覚醒・至高体験をめぐって
◆至高体験は多く、覚醒は稀

こうして玉城氏は、その稀有な求道の果てに「爾来、入定ごとにダンマ・如来、さまざまな形で、通徹し、充溢し、未来へと吹き抜け給う」、「形なき『いのち』が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく。その凄まじい勢いは、何物にも警えようがない」という境地に至るのである。少なくともこれは、つかのまの「至高体験」ではありえない。
若き日の一時的な大歓喜の繰り返しの果てに至りついた、形なき「いのち」への目覚めだったのである。

さて、この事例によって、つかの間の至高体験と真の覚醒との間に横たわる深い溝を感じ取っていただけただろうか。事例を収集してきた私自身の感触から言えるのは、至高体験は一般的に予測されるよりも、はるかに多くの人々が持っているらしいということ。しかし、永続的な覚醒は、きわめて稀な出来事であるということである。

先に「覚醒・至高体験の事例集」には、80余人の体験が集まっているといったが、そのなかで永続的な覚醒と言えるのは、おそらくほんの数例だろう。「おそらく」としかいえないのは、事例の報告のなかに「永続的な覚醒」と言えるような表現や特徴がはっきりと現われているかどうかで、筆者自身が判断するほかないからである。

一言で「至高体験」といっても、その内容や深さには、事例によってかなり大きな差があるだろう。今後、至高体験のさまざまな事例を検討していくことになるが、そこにはほとんど無限といってよいほどのバリエーションがある。とすれば、永続的な至高体験としての覚醒にもまた、さまざまなレベルや内容の違いがあり、おそらくその深さの違いは無限といってもよいのだろう。

とすればなおさら、何を「覚醒」とし、何を「至高体験」とするのか、探求の出発点において、ある程度の目安がなければならない。現象としての覚醒や至高体験には無限といってよいほどの諸相があるにせよ、両者を成立させる何らかの共通の構造もまたあるはずである。この連載のテーマは、多くの事例を検討しながら、その「共通の構造」を探っていくことだといってもよい。その探求の手がかりとしてわれわれは、マズローの研究の成果を持っている。それが、この連載にとっての「循環的方法」の出発点となるだろう。

覚醒・至高体験をめぐって04:覚醒・至高体験とは②

2012年04月22日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《玉城康四郎》
ここで再び事例を取り上げたい。若き日に繰り返された至高体験が、やがて晩年の覚醒へとつながっていくという意味で、ここに紹介するにふさわしい事例だろう。

故・玉城康四郎氏は、専門である仏教研究にとどまらず、近代インド思想、さらには西洋の諸思想をも幅広く考察し、それらの〈根底にあるもの〉をつねに探求し続けた。また学者であると同時に、稀に見る求道の人であり、深い宗教体験も持つ人である。しかし、その求道は苦難の連続であったようだ。

まずは若き日の至高体験を取り上げる。『冥想と経験』(春秋社、1975年)その他、彼のいくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ』(大蔵出版、1995)から収録する。

東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

玉城康四郎の事例(1)

このように玉城氏は、若き日の苦悩のなかで一時的に大爆発を起こし、「覚醒」するものの、しばらくするとまたもとのもくあみに戻ってしまう、ということを何度か繰り返した。つまり、われわれの使い分けで言えば一時的な至高体験はあったが、永続的な覚醒には至らなかったのである。それゆえ一時は、今生で仏道を成就し覚醒を得ることに絶望することもあったが、それでもひたすらに仏道を求め座禅を続けた。

そして最晩年に、ついに下に見るような覚醒に至るのである。求道への、その真摯で変わることのない熱情には頭が下がる思いである。(以下も『ダンマの顕現』大蔵出版、よりの収録である。)

玉城康四郎の事例(2)


(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって03:覚醒・至高体験とは①

2012年04月21日 | 覚醒・至高体験をめぐって
1 覚醒・至高体験とは?

以上のように私自身は、覚醒と至高体験という二つの言葉をはっきり区別して使用している。この区別は、人間性心理学の代表的な提唱者・マズローに負っている。  

◆自己実現した人間
マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的傾向を持っている。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達しうる最高の状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼んだ。  
しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについてまわるだろう。そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循環的方法を採用した。
 
循環的方法とは何か。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた「人間性」を意味するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の上でも矛盾するところがあればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合すると思われる「自己実現した人間」のデータを集め、それによってもとの定義をもう一 度検討する。
 
こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。このようにラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。 このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的なものにしながら研究を深めていくのである。  

こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブーバー、鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、自己実現したと思われる多くの人々を研究した。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示しているということだった。
   
平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼はB認識と呼んだ。BとはBeing(存在・生命)の略である。こうした認識のあり方が、実は覚醒とか自己超越とか呼ばれるものとぴったりと重なるといえよう。

◆至高体験  
ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、 ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからである。
「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験のことだ。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れない。あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで体験されるかも知れない。  

ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもあるといわれる。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないだろうが、しかし、マズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに気がついたという。  

ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っており、その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではあるが、ある程度は垣間見せてくれるということだ。何らかの「至高体験」を持ったことがある者は誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示すのである。つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になる。私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者である。  

こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、多くの人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより一般的なものにし、その内容をより豊かなものにした。  

以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけただろう。至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのである。

覚醒・至高体験をめぐって02:はじめに②

2012年04月20日 | 覚醒・至高体験をめぐって
ブログに掲載するにあたっては、少し体系的な分類をして考察を加えてみようかと、あれこれ考えた。しかし、きっちりと分類することなどとうてい無理だということがすぐに分かった。事例をどのように分類するかということ自体が、事例のどのような特徴に注目をするかという視点と分離することができない。どの視点を取るかによって、ひとつひとつの事例が、様々な特徴を見せ、様々な洞察をもたらしてくれるように思う。

結局、今この時点で筆者がもっている関心から分類の当面の視点を選び、その視点からいくつかの事例を選んで若干の考察を加える。そうしているうちに関心が変化し、別の視点が芽生えたら、またその視点からいくつかの事例を選んで考える、そんなことを繰り返していくほかないだろう。

連載の出発点に立った今、取り上げたい二つ三つの視点はもっているが、それ以上の計画はない。体系的な分類とか、まとまった流れとかには、それほどこだわらずに進めたい。ある程度、一定の視点を保ちながらも、その時々の関心から、かなり自由に事例を選んだり、考察を展開したりしようと思う。また、考察は簡潔を旨とし、事例そのものが人々に与える感動が損なわれないよう考慮したい。

さて、始めるにあたって何よりもまずに明らかにすべきことがある。それは「覚醒」とは何か、「至高体験」とは何か、そして両者の違いは何かということである。これは、事例集に何をどんな基準で加えるのかという、この事例集の根幹にかかわる問題である。と同時に、第一に取り上げるべき分類ということになる。
しかし、これらの問いについていきなり論じ始めるよりは、まずはこの問いにふさわしい事例を取り上げたいと思う。事例を中心に、事例に沿いながら話を進める方が、この連載の展開としてはるかにふさわしい。

◆エックハルト・トールの体験
エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(徳間書店、2002年。原題は、The Power of NOW)は、「普遍的な魂の教え、あらゆる宗教のエッセンスを統合し、現代向けに書き改めた書」であり、「大いなる存在が、自分とともにある」ことがどんなことなのか、どうすればそうなるのか、きわめて分かりやすい言葉で、説得力をもって語られている。この本の冒頭には、エックハルト・トール自身の覚醒体験が語られている。最初に「覚醒」とは、何かを確認するのにぴったりの事例だと思う。

トールは、三十歳になるまで、たえまのない不安やあせりに苦しみ、自殺を考えたこともあるほどだという。

二十九歳の時のある晩、夜中に目を覚ました彼は「絶望のどん底だ」という強烈な思いにおそわれた。あらゆるものの存在が無意味に思われ、「この世のすべてを、呪ってやり たいほど」だった。しかも、自分自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じられたのだ。(下のリンクで、エックハルト・トール自身の言葉で、その体験が語られている。) 

エックハルト・トールの事例

◆増えも、減りもしない
トールの体験の記述は、その後のことなどまだ続くが、中心部分はここまである。彼は、この体験後、「なにものにもゆらぐことのない、深い平和と幸福に包まれた日々を送った」という。5ヵ月後、至福感はやわらいだような気がするが、それはたんに 至福感に慣れただけなのかも知れないとも言っている。

ともあれ、彼がこの体験でつかんだ「宝」は、増えも減りもしないことはよくわかったという。つまり、彼の体験は、一時的な「至高体験」ではなく、まぎれもない「覚醒」だったのである。

これで、エックハルト・トールの体験を最初に紹介した理由をご理解いただけたであろう。端的に言えば、「至高体験」とは、一時的な「覚醒」であり、「覚醒」とは、永続的な「至高体験」だといえよう。エックハルト・トールの場合は、体験でつかんだものが、増えも減りもしない永続的なものであることを明言しているのである。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって01:はじめに①

2012年04月20日 | 覚醒・至高体験をめぐって
以下は、Noboruのホームページ『臨死体験・気功・瞑想』のなかの「覚醒・至高体験の事例集」に関係する考察である。一部はすでに別ブログで発表したものであるが、「覚醒・至高体験」は、それを経験した人の「原体験」になることが多い。よってこのブログに再録する価値は十分にあると思う。もちろん概念としては「原体験」の方が広い意味を持ち、「覚醒・至高体験」は原体験の一部ともなりうるということである。覚醒と至高体験の意味は、これからの考察の中で明らかにしていきたいと思う。

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「覚醒・至高体験」の事例を集めたいという思いは、私の中にかなり以前からあった。私自身が、そうした事例に接する度に深く心を動かされ、勇気付けられ、影響を受けてきたので、それらを集めた事例集のようなものを作ることは大いに意味のあることだと感じていた。また、拙著『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』(アルファポリス刊)のひとつのテーマが、臨死体験と「覚醒・至高体験」とを比較することだったので、その意味でも事例を集める必要があった。

本格的に収集し始めたのは、1999年12月にサイト『臨死体験・気功・瞑想』を公開し、「覚醒・至高体験の事例集」という頁を作り始めてからである。事例の数が増えるにつれ、事例集は分量からしても反響からしても、このサイトの中心になった。そして、私がそうだったように、多くの読者が、事例集を読んで感動したり勇気付けられたりしているようだ。また、サイトを公開したことによって、ご自身の体験を投稿してくれたり、「この本にこんな体験が掲載されていた」と情報を提供してくれたりする人も多くなり、掲載される事例は徐々に増え、すでに80人を超える人々の事例が集まっている。

サイトの「覚醒・至高体験の事例集」では、数多い事例を以下のように整理して掲載している。すなわち「臨死体験者の場合 」「気功・ヨーガ行者の場合」「宗教家の場合」「スポーツ選手の場合 」「普通の人々の場合―1・2」 「『光』体験をともなう場合 」「『世界が輝く』場合」「病とともにある場合」「西欧の神秘家たち」「『あえて分類せず』の場合」の10項目だ。この分類はもちろん便宜的なもので、分類がないよりは、ある方が少しは見やすいだろうし、どこから読み始めるかのある程度の目安になるだろうという目的のためにすぎない。

たとえば「光をともなう場合」と「気功家・ヨーガ行者」など、性格や分類の視点が全く違う項目を並列的に分類するのは、研究という視点からはナンセンスである。また、普通の人々の体験が病をともなったり、宗教家の体験が光をともなったりする場合もある。どちらの分類に入れるかは私の感覚的な判断にしたがっている。(Noboru)