忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

日本的倫理性 1はじめに、目次

2017年02月25日 | 日本の原体験

「日本人としてどう生きればよいのか?」について以下に掲載することにしました。何回かに分けることになります。「はじめに」の後には、巻末に置いてあった「要約」を持ってきて読む負担を軽減できればと思います。

はじめに

日本的倫理性はこの小著の書名としては大きなテーマにすぎる。似たテーマとして私達は鈴木大拙の名著「日本的霊性」を連想する。この小著はそれには遥かに及ばず、比べることさえ非礼である。またそれ程の目的を定めているわけでもない。本著の願いは私個人が自分の青年期に抱いた課題「私は誰であろうか?」、「私は何をすべきなのか?」、それから「人間はなぜ生まれてきたのか?」、「人はどう生きれば良いのか?」、そして「最も優れた生き方は何だろうか?」という問いに答えようとして取り組んだ幾つかの中間的報告の1つに過ぎない。
 私の「私は何者であるか?」という一連の問いの向かった方向は「私は日本人である」処に一先ず帰着し、「日本人とは何か?」について関心を寄せていった。
この状態で青年期の疑問が向いた方向は哲学という進路選択であった。哲学は欧米のものを学ぶ領域であるが、迂闊にも私は哲学が私の課題を解決してくれるものと思っていた。長い間その思い込みで西洋哲学書を読み耽っていた。西洋哲学への取り組みは何時も挫折感を味わう事が多かったが、それは私の学習能力や思考の訓練不足のせいだと思い、頭を悩ましながら継続していた。しかしどうも見当違いのような感が拭えなく、悶々としていた。
 日本には哲学がないとか言われるが、哲学(西洋哲学)が日本人の問題を取り扱うものではないということである。そして日本人の問題を取り扱う哲学がないという状況の中で私は「日本人とは何か」という問題の哲学的な解決を期待していたということである。哲学は私の問題「私(日本人)は誰であろうか?」にフィットした問題解決からずれているのであった。哲学は欧米人が自分たちの問題解決に取り組んだものであり、そこで日本人の生き方を期待するのは難しい、ということを理解するにはだいぶ時間がかかった。
 渡部昇一氏が、英語を日本語のように母語として理解できないことを悩み、ニューヨークのホテルに泊まり込んで克服したというエッセイを読んだことがある。哲学を日本人である私が自分の問題を解決するものにするにも似たようなことが言われる。哲学用語を理解するには原典で読む必要があるというのは広く理解されているところである。原典を読んでも原意はゆがめられる(「異文化間の対話(翻訳)の可能性をめぐって」藤田正勝、「世界の中の日本哲学」昭和堂 収録 P.101 )というように、言葉以上の壁があるのである。
 しかし私はデカルトの「コギト」には大変興味を持った。「我思う故に我在り」は欧米哲学の問題解決であるが、私には私の問題(日本的問題)のように思えたのである。思考を巡らすにつれて、やがてだいぶたってからそのずれについて自覚するようになったが、私には日本的問題の解決に思えた事情は次のようである。大きな意味ではデカルトの自覚も日本人としての自覚も同じ覚醒点にあるということが言える。その故にデカルトのコギトは我々には強力なインスピレーションとなるのだろうと思う。つまり自己存在の論理や理由を超えた直観認知という点においてである。ずれている点は、デカルトから出た近代的自我観が日本人にはピントが合っていないという点である。この一致とずれのゆえに我々はデカルトのコギトには深く考えさせられるのである。以上のデカルトのコギトについては第1章で扱われる。 
その一方で、私は仏教や神道に基づくいろんな著書を目にしていたが、何故かそこに目新しい期待感をもてなかった。歎異抄や般若心経などには深く共感したが、馴染みすぎているのか取り組むことはなかった。
しかし私には学校でも社会でも日本人の生き方をテーマとする日本哲学や日本学を学ぶための基礎的な学習がされた記憶がない。およそ日本文学や文化にしても戦後及び明治以降の欧米ヒューマニズムやデモクラシーにも基づこうとするものが多く、私たちの深層から問いかけてくる課題に応えるものが十分にあったという記憶がない。哲学が欧米では自分達の生き方や世界観、自然観、倫理観、等々を扱うようには、日本では日本人の生き方を扱う哲学はなかったのである。若い頃に求めた問いに答える哲学は日本にはなかった。私たちは仏教や儒教や神道などの明治以前の日本人の探求してきた日本人の生き方を反故にされて来たのである。そうした古文や漢文には親しんでいないし、そうした思考回路が稼働しなくなっているのである。
こうして日本的倫理性は、明治以来押し寄せた欧米化の波に翻弄され、日本人らしい生き方がし難い状況が続いた中で、さらに太平洋戦争の敗戦によってはそれに一層の拍車が駆けられ続けているものである。
 昨今のクール・ジャパンブームやおもてなしのプレゼンによるオリンピック開催地決定以来日本の素晴らしさがマスコミを賑わせており、自分たちの生き方に良さを見出すような傾向が出てきている。それは望ましいことであるが、自分たちの生き方がどこにあるのかを再発見するには困難が伴う。
 この日本を見直す傾向があることに気づいたのは保坂幸弘氏の「日本の自然崇拝、西洋のアニミズム-宗教と文明/非西洋的な宗教理解への誘い」2003年を手にした頃からである。それ以前に1949年に比較思想学会という東西の比較をすることによって日本的精神性を捉えようという動きが生まれている。しかし保坂氏の著書によって日本的生き方が一種のトラウマから解放され始める端緒が来たような気がした。その後多くのその類の著書が出版されその動きは活発になっているような気がする。
 「『世界の中の日本の哲学』藤田正勝、ブレット・デービス編、昭和堂 2005年」によれば諸外国での日本哲学に関する膨大な出版があり、それがここ15年間のことだと報告されている。
 角田氏の右脳・左脳問題で日本人や日本文化が欧米人とは異なったものに基づくということが明るみに出たのは30年以上前の1981年のことである。
 日本人であれば誰しも日本的精神性や生き方を求めるものであろう。その生き方は最もなじみ深い家庭や地域でくつろげるところであり、小さいころから育った方言であり食べ物であり習慣や行事である。あまりに馴染んでいるので本当に嫌な、毛嫌いするものもある普段着の世界である。これを阿部氏は「世間」(「『世間』とは何か』阿部謹也著、講談社現代新書)と言っているが、いろいろ小うるさく煩わしいところである。日本人はこれを避けてきたが、ここにこそ私たちの生活があり、いのちが通うものがある。若い時に都会に出ても晩年には郷里にUターンする人々がいる理由であろう。
 こうした近代日本の幕開けで敢然と日本的な生き方を追求し、それを哲学的に完成させたのが西田幾多郎である。その「善の研究」が出版されたときは大歓迎されて日本人の心の支えとなった。ジェームズ・ハイジャック氏は前掲の著書『世界の中の日本の哲学』で「西田、田辺、西谷はただ日本の読者に向けて書いた」と述べているが、当時は欧米的生き方の中でいかに日本人の本質を持って生きるかという問題の解決を志向していたものと考える。
 哲学(philosophy)は欧米人の「生き方の実用学」であるが、我々にとっては欧米を理解するための物以上のモノではない。我々のための「生き方の実用学」としようとしているところに無理があるのである。我々のための「生き方の実用学」を私は「日本的倫理性の学」という。この小著はその目的を果たすにはまだはるかに遠いが、その一端を示し得ていると思う。読者は各々自分の日本的倫理性に取り組んでいただきたい。そうして各箇所で取り上げて、思考していることに触発されたならそこで十分に考察していただきたい。なぜならそこが私やあなたにとっての日本的倫理性のはじまりだからである。1つの課題はあらゆるほかの課題に連関しているので、そこが起点で私達の問題が広められあるいは深められるのである。この小著が役割を果たせるとしたらこの点だけであろう。
日本的倫理性に取り組むについて、脳科学から指摘されている「日本人と欧米人との違い」から日本的特性を知っておくのは、諸説に根拠を置くことができるので有効だと思う。
(「日本人の脳に主語はいらない」月本洋 講談社)によると、脳の言語野は左脳にあるが、日本人は母音を左脳の聴覚野で聞き、欧米人は右脳の聴覚野で聞くという。右脳と左脳は脳幹で結ばれているが、欧米人が右脳で聞いた音を言語にするには左脳の言語野まで時間をかけることになる。さらに右脳の聴覚野の近くに自他の区別をする部位があり、自他の意識が刺激されるのである。このわずかな差であるが、そこで欧米人には主語が存在することが必要なのである。一方日本人は同じ左脳の言語野近くにあり、即座に言語化するので、主語を定立しなくても不自由はないのである。
 右脳・左脳問題は角田忠信氏が「右脳と左脳―その機能と文化の異質性―」小学館1981年」で提示したものである。氏はこの著で、日本人は虫の音や川のせせらぎなどの自然の音を美しいものとして受け止めるが欧米人にとっては雑音でしかないし、庭のタンポポやスミレも日本人は美しい自然として愛でるが、欧米人には雑草にしか見えない。それはこうした右脳・左脳での言語の聞き方によると説明している。
 この違いは欧米人が近代的自我を基本とし、日本人はむしろ自我を無化することを基本とする違いを説明する根拠の一つとなっていることを示している。この点で日本人は近代に欧米文化に接して以降、両者の隔たりに悩んでいるのである。
この小著は筆者がそうした悩みに取り組んだ幾つかの考察を掲載している。第1章は近代的自我を基礎づけたデカルトのコギトについて私たちの視点から見るとどんな疑問があり、それが私達には異質なものであるかということを示している。第2章はジョン・ロック、第3章はライプニッツ、第4章はカントについて、近代欧米の自我論を基礎づけている各哲学者の中心命題を取り上げ、その疑問点を考察したものである。
第5章は先ほど上げた西田幾多郎の哲学に日本的倫理性の特徴を見てみる。第1章から第4章までの各哲学者の問題を西田幾多郎はどのように日本的に受け止め、批判したかを見ることで第5章の目的を達成したい。本小著の目的はここに集中していると言える。西田の哲学は読む分にはなんとなく分かって心地よいものだが、いざ欧米哲学と並べて理解しようとすると難解になる。しかし西田哲学の思考するところは明らかであるのでその光を見失わなければ欧米哲学ほどには分かりづらいということはないと私は受け止めている。基本的に我々の歴史的に積み重ねて来た世界であり、問題を共有しているからである。 
私は、西田哲学は自分の道を求める求道の哲学だと思う。ライフの哲学だと言う人もいる。その意味で倫理の徒であり、そこに日本的特徴がある。小坂国継氏は西洋の「学」に比して東洋の「教」と示しているが(「西洋の哲学、東洋の思想」小坂国継 講談社)、個人が道を歩むことだという主張である。仏教的には人間となるという道である。私はこれを個人倫理と言う。そしてここに日本的倫理性の特徴がある。
第6章は現代英国倫理学を見ることで、欧米的な倫理性を概観する意図で掲載した。英国倫理学には倫理的立場として直観主義と功利主義がある。上記の直観主義は個人倫理学の問題を共有する。功利主義は公共の倫理とされて、社会倫理をテーマとする。この2つの立場は長く論争を続けているが、日本的倫理性からの視点で問題を捉えて、我々の倫理性の理解を深めたいというところにこの章の目的がある。
第7章はソクラテスから学ぶものを掲載したが、私はソクラテスの「無知の知」からデカルトのコギト以上に人間としての生き方の影響を受けている。これについても長く考え続けているものだが、最終的な局面では己の力で知るということを放棄するところに人間の本質を直感するものだと理解している。この生き方は我々日本人の生き方に共通するものを感じる。ソクラテス哲学では産婆術や概念主義を取り上げられているが、それらは己が己を超えた世界にいることを明確に自覚することに到るための道である。この点は分析哲学が結果するところに共通する。但しソクラテスにおいてはダイモンの存在があり、我々のように自然や社会や不特定な、西田的には「無」の世界に基づくこととは違っている。しかし私はこのソクラテスの「無知の知」には馴染むことができる。そうした意味で掲載したものである。この日本的倫理性との関連は第5章で先取りして第3節 9)で述べられている。
 私の叙述の未熟さもあるが、内容が込み入って分かりづらい箇所が多々あると思う。巻末に理解を助ける意味で第1章から5章までの要約を添付してあるので必要なら参考にしていただきたい。



目次

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ⅰ
第1章 私は誰だろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
第1節 デカルトの求めたもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
第2節 デカルトの命題にある幾つかの我・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
第3節 「思う」と主体・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
第4節 コギトの発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
第2章 ロックのダブラ・ラサ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
第1節 タブラ・ラサのマジカル性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
第2節 ロックのタブラ・ラサ説とは何か・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
第3節 ロックの認識論の問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17
第4節 新タブラ・ラサの主張・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 23
第3章 ライプニッツのモナド論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27
第1節 モナドとは何か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27
第2節 モナドの認識・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    29
第3節 ライプニッツ・モナド論に見る近代的自我観の本質・・・・・・・・・ 33
第4節 我々にとってのモナド論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 36
第5節 「西洋の自我の確立」と「日本の自我の放棄」・・・・・・・・・・・ 39
第4章 カントの物自体論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42
第1節 物自体と認識・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42
第2節 カントの物自体は存在するか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 46
第5章 西田哲学に見る日本的倫理性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51
第1節 西田哲学の問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51
第2節 西田哲学の分かりにくさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 52
第3節 西田哲学と西洋哲学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 57
第6章 「英国直観主義と功利主義」の問題・・・・・・・・・・・・・・・・ 72
第1節 個人倫理と社会倫理・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 72
第2節 直観主義と功利主義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86
第7章 ソクラテスに学ぶもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 92
第1節 古代ギリシャア精神に見る「死」と「不死」・・・・・・・・・・・・ 92
第2節 ソクラテスの「無知の知」から与えられるもの・・・・・・・・・・・ 94
第3節 「生きる意味」の探究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 98
第4節 ソクラテスから学ぶもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 100
要約・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 102