忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

日本の原体験

2012年10月26日 | 日本の原体験
日本的自閉症
敗戦により、明治期からの誇りと気概がモロクも打ち潰され、以来トラウマ化している日本という視点はまだ
自閉症のなかにいる。
日本人の本質を知ろうとしたり生き方を探ろうとすることは敗戦から60年以上経っても軍国主義的と感じる人達の感覚はどうしても理解しにくい。
岡潔の日本人論を見つけたのは高校生の頃だった。自ずと日本人の生き方を知ろうとし始めたのである。
学園紛争の最中、岡潔はあちこちの大学で公演をしていたようだった。
その頃、偶然早稲田大学の講堂でその公演を聞いたことがある。
その頃には、日本人の生き方は、私のどう生きたら良いかというテーマと重なり、馴染み深い普段着の思索であった。
西欧のphilosophy,、我々の日本人論
専攻のphilosophyは欧米人の問題であり、私達日本人にとっては日本人論がそれであることに気づいたのは大分年取った40才近い頃だろうか?
日本人の生き方を知りたい作業はすぐ障害に遭遇した。日本の中の反日である。敗戦後は日本全面否定というヒステリー症状が蔓延していた。
私は深く挫折した。「なんという国に生まれたのだ!」心からそう思い、いまもその思いは変わらない。自分達本来の生き方を否定、封印した国なのである。本来の生き方をすることは犯罪的なのである。
直視し、受け止めよう。
懺悔と自閉症とは区別されるであろう。自閉症では贖罪はできない。敗戦をしっかり受け止め、日本人の本来の生き方で過去からの逃避を止めなければ、日本は失われるであろう。
やみくもに日本を自閉状況に閉じ込めようとする動きは仲間とは言えない。
2っの(or3っとも言われる)原爆や空襲による無数の一般人殺害、沖縄などの米軍基の性犯罪と治外法憲などその蹂躙の継続は止んでいない。
我々日本人の深層には直視し、正当に受け止めねばならない戦争の課題が脈打っている。
我々自身でその戦争を検証し、目を背けてはならない。

乳幼児の原体験

2012年10月24日 | 原体験をめぐって
―母性の没頭と自我形成―
自我がまだ未形成な乳幼児の世界。メラニー・クラインのインスピレーションは母親と子のカオスの世界の共有と母親によるカオスの秩序化と理解される。
生後3~6ヶ月のこの期間では母の不在は存在の喪失の恐怖に見舞われることになる。たとえ一時的な家事等で乳幼児の目前から消えた程度のこととしても。
諸々の感覚現象は未完な自我がカオスの海に呑み込まれる恐怖となる。
こうして私達の乳幼児期に自我が生まれる。
古事記にクラゲなす漂える中に葦かびの如く萌え出る神、アシカビヒコジの大神とあるのがそれと思われる。
―対象喪失の原体験―
しかし、乳幼児期に母がそのそばを離れずにすむことはあり得ない。
この対象喪失が私達の対象喪失による悲哀や苦悩の原形となり、対象喪失への恐怖などからの逃避を原因とする心の苦痛となるのである。
この対象喪失は乳幼児における原体験として誰にでもあり得、私達の基底に横たわっているものである。

覚醒・至高体験をめぐって21:  (4)自己超越①

2012年10月23日 | 覚醒・至高体験をめぐって
4 自己超越

精神分析派の思想家であるフロム(Erich Fromm,1900~1980)は、「精神分析学と禅仏教」という論文のなかで次のようにいう。私たちは、日常的な現実を自分達の必要に応じて取捨選択して見ており、しかも多かれ少なかれ私たち自身によって歪められた現実を見ているのだ。したがって、私たちが現実であると信ずることのほとんどは、私たちの心が作り出した虚構の産物なのだ、と。私たち普通人の意識は、主として虚構や幻想から成り立っているとも言えるであろう。(鈴木大拙、E・フロム、R・デマルティーノ『禅と精神分析 (現代社会科学叢書)』東京創元社)

もちろん日常的な認識のこうした捉え方は、マスローのいうD認識のあり方に対応する。マスローにとっても、ごく普通の日常的な認識(D認識)は、多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、抽象化し、概念化して見る(概括)という性格をもっている。観察者は、自分が見ようとするものを選び、さらにそれを欲求や恐れや利害関心によって歪め、こうして私たちが経験する世界は、一種の構成と選択によって組みたてられ、再配列されているのだ。

一方、現代の心理学者たちのこうした主張に対応する見方は、東洋の伝統的な思想のなかにも見られる。たとえば、大乗仏教の「空」の哲学者ナーガールジュナはいう、生滅し、たえず変化するこの世界は「あたかも幻のごとく、あたかも夢のごとく、あたかも蜃気楼のようなものである」(『中論』)と。ナーガールジュナは、言語を通してなされるわれわれの日常的な認識のありかたは倒錯であり、夢幻であると主張しているのだ。