忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

日本的倫理性 6 第4章 カントの物自体論

2019年07月16日 | 日本の原体験

 

第4章 カントの物自体論

 私はすでに第3章第4節第2項でカントの『物自体』についてかなり入り込んで述べたが、この章では改めて手続きを踏みながら述べていきたい。

 

第1節 物自体と認識

1)物自体と超越論的自己意識

カント(1724-1804)はドイツの哲学者で批判哲学により近代欧米自我主義を確立した。デカルトのカント的展開は2つの大きな方向への発展であった。1つは認識論における超越論的自己意識であり、もう一つはその認識が及ばない認識の外にある「物自体」存在である。超越論的自己意識はア・プリオリで、一切の懐疑が及びえないものである。これについてはデカルトのコギトがその幻惑によっているという指摘によってそうした自我の根拠の薄さを見たものである。物自体存在とは、たとえば超越論的自我そのものは認識することはできないように、認識できない存在のことである。

本章でのテーマは一方の「物自体」についての考察である。末木文美士氏は、カントは「それを物自体と名づけた。それは認識されないけれども、何かありそうな、どうにも落ち着きの悪いおかしなものである。ウィトゲンシュタインの「語りえず、示されるもの」は、それをさらに徹底している。それをどう扱ったらいいのであろうか。」(「哲学の現場 日本で考えるということ」末木文美士 トランスビュー P.64)と指摘している。この物自体は超越論的自己意識が及ばない、その外の世界にあるが故に認識できないものである(「自我の哲学史」酒井潔 講談社現代新書 P.54)。こうしてデカルト的近代自我は一層ラディカルに限定され、物自体を除いたすべてが超越論的自己意識の範疇に収められたもの以外のものではなくなる。カントの認識の形式に当て込めて世界は形成され、自我はその形式の絶対基準と化したのである。そしてこの物自体の復権はそのまま放置されたままである。ここに近代的自我意識や理性認識の行き詰まりが始まっていると考える。

2)物自体と他者、それと認識

カント哲学では純粋理性という人間の認識の及ぶ領域を世界とし、それ以外のものは物自体としその領域に含まれない結果になっている。ここには4つの物自体が想定されている。ⅰ自然は意識の外にある物自体であり、ⅱ意識主体である自分自身も物自体であり、さらにⅲ神も物自体から除外されない。神についてはその存在証明も不可能とされる。

末木文美士氏は同前掲著でカントのこの「物自体」を、それを「他者」に置き換えて検討している。それに習って他者存在やその認識について検討してみる。従って第4番目の物自体が想定される。ⅳ他者としての物自体である。この4つの物自体は第2節 2)で検討される。ここではひとまず他者について考察する。

この問題は

①    他者が存在するかどうか、

ということと

②    その他者を認識できるか否か

という2点を考えさせる。ここには存在と認識の関係が横たわっている。

カントは、物自体は存在しないとは言っていない。認識できないといっているのである。しかし、一般的には認識されないものはその存在も証明できないとされる。存在は認識の限界に限定される。従って①の「他者が存在するかどうか」は認識にイニシアティブを握られている。ここで②の「その他者を認識できるか否か」には2つの点から検討しなければならない。1つは②a「私は私を認識している私を認識できるか?」という場合、そうした私があることを推理し、そうした私の存在を察することができるので、そうした私は存在すると言える。これはカントの立場と矛盾することはない。他者が存在しないでは理解できない現象が日常的に我々を取り巻いている。親を認識できるかどうかはさておき自分が存在するということが親の存在を示しているのである。従って①の「他者が存在するかどうか」は物自体存在を保証する。①の「他者が存在するかどうか」についての保証を、居心地の悪い状況でありながらも、与えている。もう1つは、②b「認識は認識であって、それは存在とは別のものであると区別される」。つまり存在については、認識は侵入してはならないということである。そこで他者存在については沈黙するしかないというものである。これはウィトゲンシュタイン的な観点である。

従って私たちはその物自体存在は本当に事実であるかどうかを十分には確信できない。それは単に居心地が悪いだけではなく、例えば自我存在や他者存在や神仏存在にまで我々の曖昧な、不安定な気持ちを解決してくれず、我々の生きることでの不安を解決してくれないのである。

3)物自体の内容の認識

ここで帰結することは②「その他者を認識できるか否か」から出てくる次のような2面性である。

③    存在は認識によって決定される

④    存在は認識とは別物であり認識は存在問題に侵犯してはならない

という2点である。

この③の「存在は認識によって決定される」は上記②aのように間接的に立証できるのであるから解消されたかのようである。しかし③「存在は認識によって決定される」は存在の内容についての問題ででもある。つまり③「存在は認識によって決定される」は認識が存在の内容を決定できるという面を検討することになるのである。これについてはカントが示したように我々は存在を認識することができないとされている。ここに解決したい課題がうかがえる。物自体を、その内容を認識できないということはどういうことなのだろうか?

これに対して④「存在は認識とは別物であり認識は存在問題に侵犯してはならない」は、認識は存在を捉えられないということであり、認識が存在を捉えた瞬間にそれはもはや存在ではない、ということである。ここで前提されていることは、我々の認識形式に存在を落とし込んで、存在を言語などに置き換えてしまうということである。それは存在そのものではなく、加工されたものである。さてこの認識は、カント的には超越論的自己意識によるものであり、当然に感覚や悟性や理性などの認識に分けることができる。これらの認識というものは認識というものの本質として客観的に捉えるという特性によって説明できる。しかしこの認識観は正当であろうか。我々はそうした存在を存在として認められないように哲学的に変化して来たのである。この認識の原理は現代では黄金律化している。

何故我々がそうした変化に至ったのかは大変有意味な問題だと思う。我々はそうした加工したものが真理ではないということを知るようになったのである。我々は加工された後のものではない生の直接的な存在を手に入れたいのである。つまり、③「存在は認識によって決定される」における、物自体の内容の問題に関わることである。物自体の存在が推理されるだけでは十分ではないのである。これは④とは逆で相矛盾する。この④と③の2つは認識と存在にジレンマを持ち込んでいる。

即ち、これは物自体の存在に関わる。先に第3章第4節2)で譲られている問題である。③の命題からは物自体は「②認識対象ではない」から、存在しないことになる。しかし④「存在は認識とは別物であり認識は存在問題に侵犯してはならない」の命題からすれば存在は認識の如何にかかわらず存在することになる。今後これに関わっていく。

先取りして述べると、このジレンマの議論のベースは、存在が固形的で、解剖学的サンプルのように位置づけられているということ、認識がいまだに素朴実在論的状況にあり、固形化した存在を認識対象とする認識とされている状況にあるということである。この観点を踏まえてこのジレンマに取り組むことが今後の課題である。

4)直観認知

そこで

⑤    認識は客観的に捉えるのが特性である。

⑥    認識には客観的に捉える以外の特性がある。

という区分を実験的にしてみたい。

知るということは非常に自己矛盾したもので、知るということによって我々は他者を知る一方、知るということによって他者の本質を失うのである。そこでできるだけ加工しないように他者を直接に知るという直感認知に期待する。ここに⑥「認識には客観的に捉える以外の特性がある。」ということを見ることができる。しかし直感認知は個人に留まるもので共有化できない。共有化=客観化したときには他者の本質は失われる運命にあるのである。直感認知されたものをできるだけ濁さないようにソーッと表現しようとし、さらに学にしようとするのが現象学的試みである。

しかし

⑦    直感を表現することそのことが自己矛盾するものである。

その上

⑧    直感そのことがすでに他者そのものとは言えないものである。

この⑦「直感を表現することそのことが自己矛盾するものである。」とは、直感は他者の直接知であるが、表現は直接知を言葉などに置き換えるという作業であり、その時点で直感内容から引き剥がされることである。直接知を伝えることに高い成功をすることは芸術的、文学的、哲学的な天才に見ることができる。それでも直接知を表現したり伝えたりすることは困難である。(これについては日本的倫理性の立場から言上げせずという日本の伝統的やり方がある。あるいはメタファー的なやり方がある。具体的には善の考案がその典型であるが、善以外にも和歌や俳句、庭園・お茶・お茶・お花・武芸などあらゆる日本文化の奥義にそれが窺がえる。これについては改めて述べる。)

一方、「⑧直感そのことがすでに他者そのものとは言えないものである。」は④「存在は認識とは別物であり認識は存在問題に侵犯してはならない」を言い換えたものである。④は存在と意識との論理的なパラレルを指摘しているものであるが、ここではそれを含めながら主観と他者との垣根を指摘している。この2つは親戚のように絡まっている。ただ「④存在は認識とは別物であり認識は存在問題に侵犯してはならない」では認識には直感という存在に近接した状況を明示していない。しかし直感知であっても存在とは区別される領域であるので「⑧直感そのことがすでに他者そのものとは言えないものである。」と同じことを示しているのである。

 「⑧直感そのことがすでに他者そのものとは言えないものである。」は、苦労して天才的な仕事によって直接知の高い表現や伝達を成し遂げても、それは他者そのものとは言えない。それは直感者の内的な直感知に過ぎないものである。その直感が他者の実態と一致しているものといえるものだろうか。これは単にそうだと力任せに断言することでクリアできることではない。直観に責任がなければならない。

しかし直感がたとえ直感者の内的な直感知であってもそれは単に個人的なものであろうか。それ以上のものを考えられないのであろうか。我々は、直感は個人的なものであることを疑わない。直感とは確かに個人の心理的現象あるいは個人の神経的反応あるいは脳内現象などとみなすことができる。すなわち意識現象は個人的現象であるということが鵜呑みにされているのである。これに疑いはないのだろうか。

5)直観に残された可能性

⑨    直感は個人的のものであるか否か。

 この問題はきわめて重要な問題である。我々は意識や認識は個人的なものであると信じ込んでいる。意識は誰のものであろうか。意識の形成過程では仮想的身体運動によって我々の意識は形成される。メラー・クラインに寄れば母親との育児過程の中で自我と共に発達する。つまりこどもの意識はその自我と共に母親などの環境社会において形成されるものである。意識はその形成場所は個人に所属するが、形成内容は社会的なものであることになる。したがって他者を直感することは、場所は個人に属するが、内容は社会的なものということになる。これは英国常識主義にみるべきものがある主張である。

こうして我々は他者を知る可能性を見ることができるのである。しかしこの場合の知るということは欧米人が期待するような客観的で、誰にでも何時でも何処ででも取り出し示せるものではない。我々は欧米的科学的な知識のみを知識とすることを肯定しない。

 英国において倫理学説は直感主義と功利主義とがある。この2つの立場は長い間反目を続けている。これについては第6章で述べる。直感主義は理想主義と結びつき、例えばG.E.ムーアは倫理学の基本観念である「善」は直感に寄らねば知ることができないと主張した。この直感はおよそ科学的な知識ではない。科学的な知識が優位を占めるのはそれによって物質的な発展が実現されるからである。それに比して直感知は客観的で、誰にでも何時でも何処ででも取り出し示せるものではなく、科学的発展には直接的に寄与するものとは考えられていない。

 一方、私たちは科学の発展だけに満足しているものであろうか。少なくとも日本的倫理性をテーマとする私たちにとっては、私たち日本人の生き方を見直す課題がある。

 

第2節 カントの物自体は存在するか

1)カントの想定するような物自体は存在するか

我々が他者を知ろうとするということは社会的に生きていく生き方を問題とするからである。この他者を、知ることができないものであるとすることは我々の希望や目論見が叶わないということである。ここで前提されていることは他者について知ることができれば我々の目論見が叶うということであるが、その目論見は他者を知るということより、他者とともに社会で生きるということにある。我々は他者を科学的に捕らえるということより他者を直感的に知るということで他者と社会的によく生きることが可能なのである。この直感的な知は科学的な知によって長く阻害されてきているものである。物自体の知はこの直感知によって取得できるものである。それは自分も他者も含めて形成されて、共有されている知において直感される他者である。そこにおいては物自体というものは存在していない。他者は私や諸々の存在を含めた世界の中で生まれて存続する便宜的で可変的な現象である。物自体という発想もまたそうした便宜的で可変的な現象である。つまり我々の認識や存在を超越して永続的に存在するという発想のことである。その発想が1つの現象であればその内容はもちろん同様に現象になる。

 欧米科学は客観的、感覚的、永続的、再生可能的といった対象存在を確固としたものとし、そうして世界を形成しているがそれもまたそういった発想の現象化である。科学の確信しているようなものが普遍的であるわけではない。そうした科学の発想は物以外の世界を希薄化する発想を現象化している。

 そこでカントの想定している物自体のように可変的でない、彫像的な、ミイラ化した、無機的な存在はどこにも存在していない。存在しないものを知ることはもちろんできないということになる。

2)物自体の2面性

「第1節 2)物自体と他者、それと認識」で提示された4つの物自体は認識できないものの幾つかの例として取り上げられている。それらはみな次の⑩に属するものである。

⑩    科学的に認識できないが、認識の根拠として認識の向こう側に形而上学的に、超越的

に存在しているものだという扱いを受けている物自体。

 これまでそのうちの④の他者について見てきたが、他者としてカントが想定しているような超越的存在は存在しないかもしれないと考えられた。すなわち、

⑪    ここでは他者存在の認知としてそこに共有されている現象を想定している。他者とは

この共有現象の中に存在するものであり、それ以外に他者はいない、ということによっている。

カントの物自体観によれば、統覚による認識の範疇にある認識は認識している主観者に属するが、たとえば他者の意識にあることは主観者のものではないし、主観者には認識されないので物自体と定義的に変わることがない、となる。しかし⑪で主張されていることは、意識は個人的なものではなく他者を含めて発生するものであるということである。そしてこの意識はお互いの意識を取り込みながら、混合し、融合しながらとどまることなく変化していく。ここではカントが想定するような他者の固定した意識というものは存在しない。つまりこの意味での物自体は存在しないのである。

ここではカントの想定した物自体とは別な物自体について検討しているが、とはいうものの、では自然的な意味での物自体についてならばカントの物自体は想定されるのではないかという見解がある。しかしそれについても私は確信できない。というのは他者を意識面からではなくその身体面から検討してみると、物理的身体においても私たちはお互いを取り込みながら変化していると言えるのである。意識のような即効的速さはないが、早回しビデオのように観察すれば私たちは急激に変化し、その変化には食物や調理や家族や友人などが多面的に関わっている。それが当然身体的変化に関わり、他者と関わらずにできている全く孤立した身体など存在しないのである。こうして私たちは他者の身体についても他者と共に変化していくものであり、他者の身体についての認識も意識と同様に知りえないということはないのである。

言うなれば現象の中に他者認識が発生するのであり、他者があって現象が発生するのではない。従って他者についての認識は当然、認識が現象の一面であるので認識されるのである。この現象は他者の身体認識で見たように、意識現象だけの現象ではなく、カントが言う自然的世界、物的世界、物自体の世界においても適用できる説明である。西田が言う場の説明に近いが、強いて言えばこの共有現象を場所という。しかし場所という時間空間が超越的にあってそこに現象が起こるのではない。それはそういった素朴実在論的な外的世界を想定することを常識としようという思考の枠づけに起因しているに過ぎない。この点についての考察は第5章第3節 5)で展開する。

第3章第4節2)ではカントの言う認識対象ではないような物自体は存在しないが認識対象となる物自体はこうして現象化することによって物自体の認識となる。

3)物自体は認識の外にあるか?

この唯識論的な発想は一方ではあまりに説得力がないかもしれない。飛行機は操縦を誤れば何百人も死に、私がもしハンドル操作を誤れば事故につながり死傷者が出る。しかしこれもまた世界の現象である。それゆえに高度な操縦技術をマスターし飛行機をオペレーションするし、私は注意深くドライブをする。飛行機も操縦も空気力学も皆世界の現象であり物自体としてどこかに独立して存在するわけではない。それは認識が対象を要するものとする思い込みあるいは前提、そういう発想の枠に縛られているからである。認識には対象のない認識があるという想定にどんな問題があるだろうか。

 感覚も言語も要しない直接に知ることは決して否定されるものではない。対象があってそれを知るのではなく、直接知が起こって、あって対象(内容)が出現するのである。の対象はどこかに永続的に存在するとは限らない。科学が想定しているような対象ではない。

認識は必ず対象を必要とするかという逆転の発想を問いかけている。認識は認識対象しか認識しないが、認識対象が無いとき認識は成立しないのか。すると認識の中に対象化したものが認識対象であるということになる。これは時間的には同時現象としても論理的には認識が先んじているのである。これが逆転すると物自体が存在することになるのである。認識対象は認識なしには現象化できないのである。認識の前に認識対象があることは論理的に成立しない。もし認識の前に認識対象があるならばそれはゾンビである。それこそ認識されない認識対象、否、対象⇒物自体である。

そこで思うに他者を認識できることが問題なのではなく、他者との関係が良好に行くことが大切なのである。

 我々の認識や生き方に転換が起こる。素朴実在論が想定するように対象があるからその対象によって認識が起こるのではなく認識が起こって対象が現象するのである。すると物自体というものも、起こっている認識の中での認識対象でしかないということになる。物自体が認識の外のものだということは論理的に成り立たないのである。カントの問題は物自体を想定したというところにある。それはデカルト的自我に基づきながら、主観だけで世界を構成しようとしたところある。その結果世界は検体を解剖したようなところになり、自我そのものさえ物自体として阻害されることになったのである。

 物自体の認識について例えると、「もし私がニュートリノであるならば、つくば市の高エネルギー加速器研究機構(KEK)から岐阜県神岡のスーパーカミオカンデに向かって走り、カミオカンデによってのみ感知されるだろう。もしカミオカンデがなければ私は認識されないであろう。私はこの宇宙には存在しているのではあるが、その形跡が分かり質量が分かる。そしてニュートリ自体は暗示されるだけである。ニュートリノは存在するのではない。刹那の出現であるのかもしれない。それは量子力学の世界の現象であって実在的ではないのかもしれない。」 

4)世界の外と認識の外

世界の外の主体と物自体とは違うものと思われる。認識の領域外ということでは同じものと受け止められるが、真反対のものである。認識は二重の認識できない主体と客体を持つことになる。認識は認識できないものの間に挟まれた何ものかである。

世界の外の主体とは①デカルト的自我のさらに背景にあるもの(我3)や、②私がそこでメタファーしている(我?)である。また③ウィトゲンシュタインの形而上学的自我である。さらに④「第1章第4節 3)」の「I」ともいえる。しかしこれら4者はみな異なった自我である。共通点は認識するものであっても認識対象にはならないものである。その意味で「世界の外」にいるものである。

「認識の外」とは世界の中に入るが認識対象とはならないものである。カントの物自体は認識客体の背後に想定されているものであり、世界の中にいるものである。しかしそれは想定内の話で実際は存在しないので認識の外である。この物自体にはいろいろなものが放り込まれており、カントの超越論的統覚のようなものもそれとされているが、これは世界の外に位置するであろう。また神もそうである。

この2つが真反対とは世界の中と外に分けられることによる。その意味は宇宙の内的無限性と外的無限性に関係している。そして認識はこの2つの無限に挟まれて現象する場と言える。

認識はパン焼き機が小麦粉でパンを焼くように、焼かれたパンであるが、パン焼き機や小麦粉ではないということである。とすれば認識は世界の全てではないわけである。

この認識の構造は西欧的主体や客体を想定したことによって成り立つものである。しかしこの構造は認識よりも不確実とされる主体や客体の方を確実視する矛盾を前提とする。所謂、主・客体があるが故の認識ではなく、認識がある故の主・客体であるはずである。

例えば物自体存在の想定は間違いであり、そうした存在は人間、or近代人の見当違いな実体化作用かもしれない、だとしたらなかなかそれを受容することは難しいかもしれない。物自体存在もカントがその概念を提唱した時は理解が難しかったかもしれない。

飛行機に乗る事が苦手な人がいうには、「あの鉄の塊が浮かぶことがどうにも信じられなくて、」ということだが、大地がないことを理解することがなかなか難しいのである。物自体についても我々の認識が外部にその根拠がないと落ち着かないという傾向があり、これを払拭することは難しい。

  自我主義は外在化作用を内在している。つまり自我を発動し、自我を明証しょうとすると自我であらざるものを、それと対比するために発祥するのである。

カントが超越論的自己意識を想定するとき、それ自体が無条件に疑念のない存在であり、それこそ物自体に他ならない。これは統覚が確実な、デカルトのいう「我」という永遠な実体であるから、生まれた物自体も同じものでなければならないのである。

カントの統覚にはデカルトの「我」と同様な過ちがあり、コギトの幻惑に分類される。そして物自体にもまた同様にコギトに付随する幻惑がると言える。これは付随の幻惑といえる。

  仮定的に、統覚が確定された実体でなく、たんに現象にとどまり、しかもそれが意識の閃きのように過る反射のようであるなら、そのように自覚し、認めるなら、物自体もまたその様に点いたり消えたりの点滅する現象であり、実体ではない。

5)コギトから物自体への裏切り

物自体としてカントが想定しているものに神認識を当てはめることができる。カントにとって神は物自体として世界外の存在であり、認識はおろかその存在の証明もできない対象である。この結論付けは人間の孤独をひどく鮮明にする。また認識できる世界だけしかなく、我々はその世界に幽閉されているかのごときである。カントをこのように理解したとき世界は非常に狭く、硬く、つまらないものに思えたことがある。こうした自我は偏屈な自閉的な気がする。欧米の近代的自我はこのように、認識できるもの以外をみな拒否して自我ワールドの中に逼塞しているようなところがある。そこでは神に祈る理由も分からない。神の存在意義も分からない。また自然界という物自体についても同様にその意義や心を通わす理由もない。自分以外の人にも同様なわけだが、ついには自分自身をも物自体化し、自分自身さえもその意味を失う。いったい自分とはどこにいるのだろうか。もっとも自分を確実に存在せしめて出発したコギトの結果は自分をも失う逆の結論に陥ってしまったのである。これはコギトから物自体への裏切り行為である。

カントの物自体は素朴実在論の残影と言うべきであろう。認識の原理で進めながら不徹底であったと言える。さらにそれは西欧的思考の限界とも言える。主語論理は外を置かざるを得ない。主語は他者がなければ成立しない。これが西洋的自我の本性である。カントが物自体を想定したのはカント哲学が自我を確定しようとする哲学であることの証である。


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