忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

教育談義(yutakaの学級通信)

2010年03月21日 | 教育談義
第1話 
『良いクラスは作り出すもの』

新しい1年がいよいよスタートします。
初めてのクラスの始まりは、誰しも期待と不安が入り混じった気持ちになります。
「○○さんや○○君と一緒のクラスになりたい」
逆に「○○さんや○○君と一緒のクラスにはなりたくない」などという、様々な思いが頭をよぎるものです。
しかしただひとつ言えることは、「このクラスで良かった」という思いは「与えられるもの」ではなく、「作り出すもの」と言うことです。
私達はたくさんの人と出会い、そして別れていきます。
それらは決して、自分の思う通りにはなりません。
新しい人との出会いや別れも、必ず私達の意志の外にあるからです。
出会いを前向きに受け止め、このクラスの友達と一緒になれたことにいつか感謝できる私になりたいものです。
そのためには、「自分のことだけを大切にする」のではなく、「周りの人も大切にできる心」をもって生活できることが大切です。
人に意地悪をしたり、悪口を言ったりしていたのでは、本当の「仲間」にはなれないからです。
クラスの全員が助け合える「仲間」であり、
       競い合える「仲間」であり、
       高めあえる「仲間」である、
こうした「すばらしいクラス」は、全員で作りだすものなのです。


私の原体験 ⑥ (教員採用試験)

2010年03月21日 | Yutakaの原体験
教員採用試験の発表がありました。
私は運良く合格していました。
真っ先に私は、妻に報告しました。
妻は「おめでとう」と、とてもうれしそうでした。
 すぐに妻は、どこかに電話をかけていました。
誰に電話をかけていたのかは、妻の話す内容から、
すぐに私の母親であることが、わかりました。
 「お母さん、豊が教員採用試験に合格したよ。」
と言うなり、ただただ涙を
ポロポロと、こばしながら
黙って、泣いていました。
どうも、電話越しに、妻と私の母親は、
2人で、黙ってただ泣いていたようです。
 私の母親を、本当の母親以上に慕ってくれる妻の姿を、
大変愛おしく感じたことを、覚えています。
そして、こんなすばらしい女性と結婚できたことを、
何より幸せだと、つくづく思いました。
 これからは、妻のために、妻が喜ぶように私は生きる。
という思いを強く抱きました。
この体験をきっかけに、夫婦の体は別々ですが、
心はひとつの、本当の夫婦になれたように思います。
 私の心と、妻の心がひとつになったと感じた体験は、
妻の流した、この3回の涙なのです。
(つづく) by yutaka

研究会報告01 (3月20日)

2010年03月21日 | 研究会報告
このブログの管理者の三人、Kenji、Yutaka、Noboruは、不定期ですが、平均すると2ヶ月に一度くらい、集まって研究会を行なっています。前回は、2月10日(水)に新宿で会いました。今後、研究会の報告を毎回かんたんにアップしていく予定です。

◆今回は、昨日3月20日(土)午後3時半より、Kenji氏の短大の研究室にて行いました。

このブログは現在、Kenji、Yutakaのお二人を中心に連載が始まり、アクセス数も徐々にアップしています。一方、ブログのリンクコーナー(左のブックマーク欄)でも紹介している、この研究会のサイトの方は、まだ更新がほとんど進んでいませんでした。そこで、このサイトをどのように充実させるかを話し合うべく、今回は集まったわけです。

試みに、Kenji氏がこれまでの研究の一端を、サイトにアップしましたので、ご覧ください。→原体験の分類

サイトは、各ページが大まかに構造化されています。この構造を見ていただければ、私たちの研究会が行なってきたことや目指す方向の枠組みがおおよそつかめるかも知れません。今後、それぞれのページの内容を少しずつ充実させていければと思います。(by Noboru)

白龍の神

2010年03月19日 | 原体験をめぐって
思い出てくると
いくつかの神体験をしているようだ。

小さい頃わたしはいじめられっ子だった。
体が弱くめったに外に出て遊べなかった。
たまに出ると遊びの要領も悪く、
村のやんちゃ坊主どもの格好の餌食だったのである。

ある時、村の社に出かけた時のことである。
社は50段ほどの階段の上にあり、
椎や欅、杉の大木がい生い茂りうっそうと暗い。

上から何か騒がしい。
やんちゃ坊主どもが上にいて来るな来るなと言っているのです。
「怖いものがいる」そう言って来させないつもりです。
要するにいじめているのです。

しぶしぶ下に止まって上を見ていると、
拝殿横の高く露出した岩壁に何かが動いているのです。
そこには椎の巨木の大きな根が露出しているのですが、
同じような巨大なものがうごめいているのです。

目の錯覚かとよく目を凝らしてみると白い龍なのです。
50m位の距離で、輪郭がよくつかめないのですが
椎の巨木の陰へ身を運んで行くのです。
その迫力に圧倒されて私はどうしたか。
その後のことは思い出せません。

社は白山神社です。
白山姫の命を祀っています。
白山姫神は黒龍のお姿で顕現すると聞いています。
しかしその時は白いお姿でした。
他の神様かもしれません。

それからも、私はいつも社に行ったものです。

(KENJI)

雪の供物

2010年03月11日 | 原体験をめぐって
私の育った村には立派な神社がある。
子供たちの遊び場であった。
杜は椎や杉、欅の大木が生い茂り、真夏でもすずしい。

小中学生の夏休みは学校から、早朝はラジオ体操
朝食後は朝学習が課せられ、神社や境内がその会場にあてられていた。
午後は自由でも、何かと杜に集まって遊ぶことが多かった。
そうしていつしか杜は子供たちの拠り所になっていたのである。

大人になって郷里を出た者も帰省すると必ず杜に行くことが多い。
私もそういう青年の一人になっていた。
学生の頃、実家には姪っ子が生まれていた。
帰省するとどこにでもついて来て、一日中一緒にいる子だった。
ある春休みの帰省時、2才か3才の彼女を連れて杜に行った時のことである。
まだ雪が残って大きな塊で山になっていた。

「じゃ、お参りしようね。雪あげようか。」
と言いつつ、おにぎりにして姪に差し出した。
私も一つ作り、一緒に拝殿の階段上に捧げた。

「お参りするよ。手合わせて。」と、
姪っ子も手を合わせた時である。
一陣の風が吹いて、椎のこずえが音を立てるや、

「こわい、こわい・・・・・」と姪っ子は何かを感じているようだった。
「大丈夫、大丈夫・・神様、きたね・・」と言いつつ抱き上げると、
姪っ子はしがみついた。

その姪っ子は、今は2人の青年の母で、
旦那の経営会社のサポーターとして、忙しくしている。
しかしその時のことはよく覚えているそうである。

(KENJI)





私の原体験 ⑤

2010年03月07日 | Yutakaの原体験
 教員採用試験の発表の日まで、気持ちの晴れない日が続きました。
そのような、私の気持ちを察したのか、ある日の朝、妻が「このお金でパチンコ」でもしてきたら?」と、5千円を私に差し出してくれました。
「ありがとう」と、私はすぐに受け取ると、早速パチンコ屋に行きました。
1日パチンコをして、5千円すべてをすってしまい、夕方軽い気持ちで帰宅しました。
「お帰りなさい」、と明るい妻の言葉を聞き終わると、
私は「5千円全部すった」と答えました。
 その時、妻の顔を見ると、大きな目から涙がポロポロ溢れていました。
「どうしたの」と聞くと、5千円は今日の食費だったそうです。
その時は、なんでそんなお金を渡したんだ、渡した方が悪い、と感じたのですが、
後から、妻の心遣い、思いやってくれる心を思うと、
申し訳なさが、心に響きました。
(つづく) by yutaka

私の原体験 ④

2010年03月06日 | Yutakaの原体験
 職安の職員と言い争いになった理由は、
日能研の講師のバイトが仕事にあたるか、アルバイトにあたるか、でした。
仕事であれば、失業ではありませんので、失業保険の給付はありません。
 職員の人は、日能研の非常勤講師は仕事だといい、私はアルバイトだ、と主張した訳です。
 結局、双方とも譲らず物別れの形で帰宅すると、電話が職安からかかってきました。
 日能研の非常勤講師はアルバイトということが認められ、失業保険が支給されることになりました。
給付されるお金と、日能研の給料で生活はなんとかできました。
日能研の仕事は、夕方から夜にかけてですので、昼間はのんびりできます。
 教員採用試験の結果待ちの状態で、気持ちはすっきりとは、いきませんでした。
昼間、床屋さんへ行くと、「こんな時間に来られて、お客さんは何の仕事なんですか?」と聞かれ、口ごもったことを覚えています。
 アルバイト、とは言えませんでした。子どものことを考えると、採用試験に落ちたら、そのまま日能研の正社員になろうか、
という思いが頭をよぎりました。
(つづく) by yutaka

私の原体験 ③

2010年03月04日 | Yutakaの原体験
 鴨川中学校では、大学4年生に混じって、26歳の私が一緒に教育実習を行いました。
あっという間に、3週間の教育実習が終わり、子どもや妻の待つ横浜に、勇んで帰りました。
 それから何日か過ぎ、私の出身地である八王子市へ行く用事ができ、八王子の私の実家に妻と行きました。
私が用事を済ませ、その日の夕方実家に戻ると、薄暗い部屋の中で電気もつけずに、妻と私の母が泣いていました。
 私は何が起こったのかわからず、「どうしたの?」と尋ねると、私たち夫婦の仲人が昼過ぎに、お酒に酔った状態で実家に来たそうです。
仲人は、私が会社を辞めるようなバカな行動をとるのは、母親の育て方が悪いからだ、と母親を罵ったそうです。
また、旦那が会社を辞めることを許した妻も、バカだと責めたそうです。
妻も、私の母も仲人に言い返すことをせず、ただ聞いていたのですが、涙が溢れて止まらなかったそうです。
仲人が帰った後で、私が帰宅したわけです。
 その話を聞いた後で、私は妻や母親に何の言葉もかけられませんでした。
ただただ、申し訳ない気持ちと、教員になって見返してやろうと、思っていました。
 その日から、採用試験の日まで、必死に勉強したことを覚えています。
採用試験が終わり、後は結果待ちです。
次の問題は、お金、生活費を稼ぐことでした。
 引っ越しのバイトから、ネジ屋のバイト、義理の父が、次から次にバイトを見つけては、私の仕事を持って来ました。
 私は、日能研という塾で講師のバイトを始めました。
バイトをしながら職安に行き、失業保険の申請に行きました。
そこで、また職安の職員と言い争いになりました。
(つづく) by yutaka

私の原体験 ②

2010年03月04日 | Yutakaの原体験
 妻は、私の生きたいように生きることが一番良いと考えてくれていました。
教師になりたいということに、大賛成でした。
問題は、周りの人たちの説得でした。
妻の両親は、妻からの説得で、しぶしぶ承知してくれました。
私の両親は、私が拍子抜けするほど、すぐに賛成してくれました。
 その後、私たち夫婦の仲人をしてくれた親戚、その叔父夫婦は共に東京都で小学校の教員をしていました。
教育委員会にも親戚が勤めていました。
仲人に相談すると、「そんなバカなことはやめろ」「会社をそのまま続けろ」という返事でした。
私は、仲人夫婦が応援してくれると思い込んでいたので、大変動転しました。
 その後、私は仲人に連絡することなく、会社を6月一杯で円満退職しました。
会社の同僚や先輩、上司ともに応援してくれました。
上司の人は、子どもの家庭教師までやらせてくれました。
 そして私は、母校の大学へ聴講生という形で、教員免許状をとるために復学しました。
大学に戻ると、すぐに教育実習を担当している学生課の職員と、言い争いになりました。
その年の教育実習は実習校の手配がすべて終わっているので、実習は来年度になる、ということでした。
 来年度の実習では、教員採用試験をうけるのが、再来年になってしまいます。
子どもを抱え、1年間という時間を、どうしても無駄にしたくありませんでした。
今年、なんとか教育実習が受けられないか、その点での言い争いでした。
大学の学生課の職員は、実習校を自分で探すことができれば、認めると言う返事に変わりました。
妻も必死に、実習校探しに当たってくれましたが、本人ではないという理由ですべて断られました。
私は東京都の出身で、その当時横浜の住民でした。
東京都の教育委員会は、実習受け入れは東京都にある大学だけという決まりがありました。私の大学は神奈川県にあるため、私の出身校での教育実習は不可能でした。
そこで私は、父親を経由し、父の故郷で塾を経営している叔父の手配で、千葉県の鴨川中学校で実習を引き受けてくれることになりました。
 私は退職金40万円をもって、単身、鴨川へ行きました。
(つづく)by yutaka

二重の原体験

2010年03月01日 | 原体験をめぐって
これはある学生の原体験です。
ともあれその原体験を見ていただきましょう。
学生には公開を同意してもらっています。

*****************************************

 私には今年88歳になる祖母が居た。「居た」と言う表現をするのは、その祖母は今年の8月に他界したからなのだ。大正時代に生を受け、激動の昭和を生きてきた祖母は、まさに歴史の生き字引と言った貫禄で、若き日に慶応の看護学校に通っていた頃は首席卒業の金時計を頂いたと言う位の才気あふれる女性だった。
 その祖母が他界した際、棺に入れられた物は三途の川の渡し賃の六文銭と、ひどく汚れていてしわしわの子供服だった。私は以前その様な服をどこかで見た事が有ると思い、考えてみるとそれは以前長崎の原爆資料館で見た被災家族の遺品として残されていた子供服とそっくりだった。仔細をたずねてみると、その服は祖母が戦地となった満州を引揚げてくる際に私の母(当時は1歳ほどであろうが)に着させていた服であったと言うのだ。私の母はずいぶん前に他界したが、今生きていれば62歳と言う事になる。その子供服を祖母は62年間もひっそりとタンスの奥にしまい、大切にとっておいたのだ。
実際、私は祖母の口から満州の引揚げ時の苦労を一部ではあるがきいていた。だが、そ
れは私にとっては昔話の様にしかきこえず、まるで博物館のなかで展示物を見ているような実感を持ってでしか分からなかった。祖父はシベリアへ抑留され、祖母はソ連軍から追われる様に南へ逃れ、引揚げ船はあまりの人いきれと不潔さに閉口したと言う。そういう話は今思えば、ほんの一握りのエピソードでしかないのだけれど祖母にとっては語るに尽くせない事だったのだと思う。
 その苦難の染み付いた子供服を見た時、私は実感したのだった。私はこの人たちの苦しみと犠牲を耐えて、なお伝えようとした命を受け継いでいるのだと。
 生まれたばかりの子を背負い、たった一人で満州の荒れ野を、足を血まみれにして、顔を泥まみれにして、懸命に生き抜いた小柄な祖母の姿を思うと、どうしても私のこの命がつまらなく、ちっぽけなものとは思えないのである。
 全ての命の背景にはそのような物語がくっついているのだと思う。

*****************************************

この原体験は三重の縁を持っています。
1つは学生本人の原体験とその祖母の原体験とがだぶっていることです。
またこの祖母の原体験は私の原体験ともだぶっています。

実は同様なことが藤原貞さんの「流れる星は生きている」というドキュメンタリー本に、
満州を引き上げてきた貞さんの実話として描かれています。
この本を高校生の頃私は読んでいました。
そこで私も同じように体験者の話を聞いて感じ入ったのです。
そして学生とは体験の共有感を得たのです。

こうした共有感はありがたいことではないでしょうか。

(kenji)