忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

覚醒・至高体験をめぐって15: (3)至高体験とB認識③

2012年06月28日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《八木誠一》
八木誠一(やぎせいいち、一九三二~)は神学関係の学者であるが、久松真一、秋月龍らの禅学者・禅僧とも積極的に議論をかさね、伝統的な神学の枠に縛られずに「覚」の宗教者として活躍する。彼が語る体験を見よう。

八木誠一の事例

この体験中の「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだろう」、あるいは「あくまで私は私、ひとはひと、樹は樹でありながら、もはや単にそうではなかったのだ」という表現に注目してほしい。

ふつうの人々の日常的な認識の大部分は、具体的というよりむしろ抽象的という傾向をもっている。ごく普通の日常的な認識は多くの場合、自分の都合に合わせて分類し、ラベルを貼り、抽象化して見ているのだ。雑草を「雑草」と概念化し、ラベル貼りして、そうとしか見ないのは、それ以上の必要がないからである。園芸家は必要に応じて雑草の個々の種類まで分類するであろう。しかしそれも自分の必要からする概念化であり、ラベル貼りにすぎない。 いずれにせよ、われわれは日常、自分の必要のレベルに合わせて概念化され、整理された世界を見ている。そして、そのラベルによる抽象、整理された世界を現実と取り違えている。ラベルを貼られてきれいに並んだ整理箱が現実だと勘違いしているのだ。  

抽象化(概念化、ラベル貼り)とは要するに、対象の一面を選択すること、われわれに必要な側面を言葉(概念、ラベル)によって際立たせることである。問題はそれによって現実を固定化し、定式化して見ることにて慣れてしまい、生きた現実、なまの豊かな世界が見えなくなることだろう。

至高体験においては、「具体性を失わないで抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的である能力」とが同時に見出されるという。B認識とは、ラベルの向こうに生き生きとした現実が同時に透けて見えることだとも言えるだろう。八木誠一が、「あくまで私は私、ひとはひと、樹は樹でありながら、もはや単にそうではなかったのだ」と感じたのは、いままで「樹」という概念のフィルターで見られていた樹が、それと同時に、概念による整理(抽象)以前の、なまの実在として現われたということではないか。「具体性を失わないで 抽象する能力と、抽象性を失わないで具体的に見る能力」とは、おそらくこういう意味であろう。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって14: (3)至高体験とB認識②

2012年06月21日 | 覚醒・至高体験をめぐって
これに対してD認識では、「自己」のその時々の都合と必要に合わせて言葉というラベルが貼られ、そのラベルを通してしか見られない。われわれはおそらく、この世のすべてに自分の整理の都合に合わせて言葉というラベルを貼りつづけているのだ。ラベルを貼ることで、全体(ワンネス)を分割し、分類してしまい、分割・分類することでそれを把握できたと勘違いしているであろう。  

しかし実は、ラベルの貼られた整理箱の中味については何も見ていないことが多いのだ。対象はそのまま見られるというよりも、むしろ「類の一員として、大きな範疇の一例として」整理箱に入れられただけなのである。  

たとえば普通われわれは、道ばたの雑草に「雑草」というラベルを貼り付けてしまえばそれで終わりでそれ以上に対象認識は進まない。このようなラベル貼りによる認知をマスロー は「概括」と呼んだ。もしかしたら桜を美しいと感じるのも、「桜は美しいもの」 という「概括」的な認知のレベルを超えていないのかも知れない。私たちのなかに染み付いた固定化された美意識は、「美しい桜」というラベルを貼ることで、世間一般と美意識を共有し、安心するための道具にすぎないともいえよう。  

しかし、雑草が咲かせた一輪の花に生命の神秘、宇宙の神秘を感じ取る人もいるのだ。自己実現した人々は、ほとんどの人々が現実界と混同している言語化された概念、抽象、期待、信条、固定観念の世界(ラベルで整理された世界)よりも、はるかに自然な生々とした世界のうちに生きる。いま・ここで出逢うひとつひとつの対象が、そのつど宇宙のすべてであり、宇宙のいのちの一体のものとして感じられるのがB認識なのだろう。

5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的であるという特徴がある。これについては、これまでに取り上げた事例からだけでは、その意味するところが分かりにくいかもしれない。そこで、さらにいくつかの事例を見ながら検討していきたい。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって13: (3)至高体験とB認識①

2012年06月20日 | 覚醒・至高体験をめぐって
3 至高体験とB認識

さて、いくつかの事例によって、至高体験およびそのB認識のあり方を確認してきた。つぎは、至高体験におけるB認識の特徴に焦点をあてつつ、さらに詳細な検討をしていきたい。すべて至高体験の特徴の中で列挙したものだが、ここでB認識の特徴を抜き出して確認しておこう。

1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められず、「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる。
2)B認識は無我の認識である。
3)B認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつ。
4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。
5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的である。

以上のうち、1)から4)は、これまでの事例によってもある程度イメージがつかめたかと思うが、ここで再度確認していこう。

まず1)ついて。われわれの日常生活で見られるようなD認識の経験では、対象を利害の立場から見るために、自己の目的達成の手段という視点から対象を一面的にとらえてしまう。ところがB認識では、すべての対象は、あらゆる利害を離れてそれ自体が、全体的なものとしてとらえられる。

2)同様に、B認識は無我の認識であるともいえる。自己実現した人間の正常な知覚や、ふつうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自己忘却的で、無我」という傾向をおびるという。それは「不動、非人格的、無欲、 無私」とも言いかえられよう。自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方に向かう。1)で見たような特徴を別の観点から表現したのだともいえるだろう。

江戸時代の禅者、至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というのは、まさにB認識の核心をすばり表現しているだろうし、逆に同じ至道無難の「我ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を表現している。

3)またB認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつようだ。ふつうの認識(D認識)は、非常に能動的なプロセスである。それは観察者がおこなう一種の構成と選択によって成り立っている。観察者が、見ようとするものと見たくないものを選ぶのである。また、自分が見ようとするものを、自己の欲求や恐れや利害関心と結びつけて歪めて見る。日常わたしたちは、つねに対象に働きかけ、それを組みたて、再配列して作り上げた認識をしているのだ。

それに対してB認識は、はるかに「受動的、受容的」な傾向をもつ。それは経験を前にして「謙虚で、無干渉的」であり、認識の対象を「その本然の姿にとどまらせること」である。そうした特徴をクリシュナムルティは、「無選択意識」と呼び、マスローは「無欲意識」と名づけた。  

4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。覚醒者や至高体験時の認識では、一つの全体として、完全な一体(ワンネス)として見られる傾向があるのだ。この世のすべては、「自己」の都合や目的や手段から独立した一体なのである。そこの街角にたたずむ人が、あるいは道ばたの花が、そのつど宇宙のすべてであるかのように見られるのだ。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって12: (2)至高体験の特徴⑦

2012年06月12日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《N・K氏》

つぎに挙げるのは、ある女性がTグループに参加した時の体験を綴ったものである。Tグループとは、アメリカ開発された人間関係訓練のためのグループ技法のひとつである。こうした特殊な訓練の場面では、グループの中で自己を開示するに伴って至高体験が得られやすいという。Tグループは、山などの自然の中で合宿形式で行われることが多く、感受性が高まった目にとりわけ自然の美が心に迫り、そこに人生の本質とでもいえるような何ものかが感じとられる場合が見られる。日常の自己執着や目先の目的に縛られた心を解放し(D認識からの解放)、まったく新鮮な眼で自然と世界を感じ取る体験をするのだろう(B認識)。

この女性は、合宿Tグループの合間に、ある山頂で自然の中に融合した体験と、その結果として訪れた「爽やかな生の味覚」、「胸の奥で疼いた生命感」を次のように表現する。

N・K氏の事例

これもまた、至高体験の一種と言えるだろう。日常的自我の枠から解放され、自己の内外に開かれた経験だといえる。彼女は、腹の底を突き上げてくるものに、手放しで、ただ、まかせていた。その結果、一瞬ごとに自分を取り囲むすべてのものが飛びこんできたのであろう。ここでは、至高体験における認識の受動性という性格(7)が確認される。そんな状況の中で、本人はいつの間にか自然の中に深く沈潜し、さらに深く、すべてのものに結びついていった。そして人間の本当の姿、といいたくなるような「たったひとり」を経験したのではないかと思われる。

【注】Tグループについては、上のリンク先の注を参照されたい。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって11: (2)至高体験の特徴⑥

2012年06月06日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《タゴール》

次に取り上げるのは、インドの詩人であり、宗教哲学者でもあったタゴール(Rabi_ndrana_th Tagore 、1861~1941)である。彼は21歳のときに、以下に紹介するような神秘体験をしている。その体験によって彼の詩の作風は大きく変わり、現実の混沌の背後にある神の創造の美と歓喜の世界を描く大詩人への成長していく。辻邦生が、若き日の至高体験を、その後の作品に色濃く反映させているのに似ていなくもない。(以下、タゴールの体験前後の記述は、森本達雄『ガンディーとタゴール (レグルス文庫)』第三文明社、一九九五年、から要約した。)

少年のころ、生来の自然児だったタゴールは、イギリス式の厳格な詰め込み教育に耐えられず、いわゆる「おちこぼれ」で、三度も学校を変えた。にもかかわらず、生涯一枚も学校の卒業証書を授与されなかったという。そんなタゴールを心配した父は、17歳になった彼をイギリスに留学させた。

一年半のイギリスでの生活は、その後の詩人の成長にとって無益ではなかった。彼はロンドン滞在中、西洋の古典文学やイギリス浪漫派の詩人たちの作品に親しみ、同時に西洋音楽の精神に参入した。

懐かしい故国に帰ったタゴールの創作意欲はますます旺盛で、内心の孤独や失意を、形式や韻律の伝統にとらわれることなく、自由にうたうことで、新しい自己表現の方法を見出した。こうして書かれた一連の作品は、一八八二年に『夕べの歌』と題する一冊の詩集として出版された。これらの作品によって彼は、「ベンガルのシェリー」として、一躍文壇にその名を知られるようになった。

しかし、これらの作品はおおむね、「主観的な幻想と自己陶酔のなかで孤独を嘆き、人生を悲しむといった青年期特有の憂欝や不安」を表現していた。後年タゴールは、この時代の作品を「心の荒野」としてまとめている。タゴールがそうした病的な感傷世界の殻を破って、「遍照する朝の光へ、生命の歓喜の世界へと躍り出た」のは、それからまもない21歳の初秋のことである。

ある朝タゴールは、カルカッタのヴィクトリア博物館に近いある街の、兄の家のヴェランダに立って、外を眺めていた。東の方向にある学園の校庭の樹々の向こうに、ちょうど朝日が昇りはじめた。陽はみるみる樹をつたって昇り、茂った葉のあいだから金色の光が射し、葉の一枚一枚が光を浴びて踊っていた。タゴールは、そのときの不思議な感動を次のように回想する。

「ある朝、わたしはたまたまヴェランダに立って、その方角を見ていた。太陽がちょうどそれらの樹々の葉の茂った梢をぬけて昇ってゆくところだった。わたしが見つづけていたとき、突然にわたしの眼から覆いが落ちたらしく、わたしは世界がある不思議な光輝に浴し、同時に美と歓喜の波が四方に高まってゆくのを見た。この光輝は一瞬にして、わたしの心に鬱積していた悲哀と意気消沈の壁をつき破り、心を普遍的な光で満たしたのだった。」

「私がバルコニーに立っていると、通行人のそれぞれの歩きぶりや姿や顔つきが、それが誰であろうと、すべて異常なまでにすばらしく見えた――宇宙の海の波の上をみんなが流れて過ぎてゆくように、子供の時から私はただ自分の眼だけで見ていたのに、今や私は自分の意識全体で見はじめたのだ。

私は一方が相手の肩に腕をかけて無頓着に道を歩いてゆく二人の笑っている若者の姿を、些細の出来事と見なすことはできなかった――それを通して私は、そこから無数の笑いの飛沫が世界中に踊り出る、永遠の喜びをたたえた泉の底知れぬ深みを見ることができたのだから」(タゴール『わが回想』、『自伝・回想・旅行記 (タゴール著作集)』第三文明社、一九八七年所収)

この体験もまた、マスローのいう至高体験の特徴をよく表している。眼から覆いが除かれ、全意識をもって世界を見はじめたタゴールにとって、この世のどんな人も事物も、無意味でつまらないものはなく、存在するすべてを通して永遠の生命と歓びがかがやいて見えたであろう。この体験もまた、マスローのいうD認識からB認識への変化を如実に物語っている。また、至高体験の特徴でいえば、それは「11 愛し、赦し、受け入れ、賛美し、理解し、ある意味で神のような心情をもつ」にも対応し、さらに「12 純然たる精神の高揚、満足、法悦」も、はっきりと読み取れる。

こうして丸四日間、「自己忘却の至福の状態」にあった後、タゴールはふたたび日常の時間のなかへもどっていったという。しかし、ひとたび実在のかがやきを体験し、真の自我を見たという歓びは、その後、詩人の心から離れなかった。むしろ、そのときの直観を深め、詩という芸術へと結晶化することが、タゴールの生涯の課題となった。

興味深いことにタゴールは、それからまもなく体験の再現を期待して、ヒマラヤ山系の風光明媚なタージリンヘ旅した。しかし、「山に登ってあたりを見まわしたとき、わたしはすぐにわたしの新しい視力を呼び戻すことができないことに気づいた。‥‥‥山々の王がどんなに空に聳え立っていようとも、彼はわたしへの贈り物に、なにも持ち合わせていないこと」を知ったのだという。そして詩人は、神秘体験はけっして環境の美や、整備された宗教的状況のなかで来るものではないことを悟ったのだという。

(Noboru)

覚醒・至高体験をめぐって10:(2)至高体験の特徴⑤

2012年06月05日 | 覚醒・至高体験をめぐって
作家・辻邦夫の若き日の体験は、その後の彼の作品にも色濃く反映されている。以下に挙げるのは、作品の中の明らかに彼自身の体験に根ざして書かれた思とわれる文章である。

「…そんな人間にも、いつか死が訪れてくる。死は自分を消滅させる。 どんなにじたばたしたって最後には自分を放棄するほかない。人間はそのときになって初めて、自分中心の気持ちから解放されるんだよ。もう諦めて、自分に執着することをやめて、ただ黙ってこの世を見るんだ。そうすると雲も風も花も光も今まで見たこともなかった美しいものに見えてくる。玻璃のような世界がそこに姿を現しているのに気がつくんだ。だから人間にとって死とは、この世が何であったかを知る最後の、最高の機会になるんだね。その意味でも、死は、人間にとって、やはり素晴らしい贈物であると思わなければならないんだよ。」 (辻邦生『樹の声 海の声 ) (朝日文庫)』朝日新聞社、一九八五年)

「‥‥あなたも何が正しいかで苦しんでおられる。しかしそんなものは初めからないのです。いや、そんなものは棄ててしまったほうがいいのです。そう思い覚ってこの世を見てごらんなさい。花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる。それをまずお棄てなさい。」(辻邦生『西行花伝 (新潮文庫)』新潮社、一九九九年)

最初の例で、「人間はそのときになって初めて、自分中心の気持ちから解放されるんだよ。もう諦めて、自分に執着することをやめて、ただ黙ってこの世を見るんだ。」と語られるのは、「1 対象をあるがままの形で全体的に把握」、「3 人間の目的とは無関係な独立した存在として対象をとらえる」、「4 認知が自己没却的で無我の境地に立つことができる」などの至高体験の特徴に対応する。二番目の例で、正邪の判断を棄ててこの世を見ると言われるのは、「7 至高体験は能動的な認識ではなく、受動的である」という特徴に関係するとも言える。正邪の判断は能動的な認識活動につながっているからである。

さて、辻邦生の体験は、もうひとつ別の観点から見ておく必要がある。それは、彼がこの体験に至ったきっかけ、すなわち死への直面という観点である。死への直面が、至高体験や覚醒の契機となったという事例は他にもかなり多く集められている。いずれわれわれは、何が契機となって至高体験に至ったかという観点から事例を検討する機会があるだろう。その中で死への直面がきっかけとなった事例もいくつか取り上げる予定だが、その時、辻邦生の事例をもう一度思い起こすことになるだろう。

(Noboru)

研究会報告02 (2012年6月2日)

2012年06月05日 | 研究会報告
研究会は、不定期だが2カ月に一度くらいの回数で継続されている。ただ、このブログでの報告は行っていなかった。最近では、

2月18日(土)
4月14日(土)
6月 2日(土)

にそれぞれ行なった。会場は、Kenji氏の短大の研究室である。

2月18日には、旧来の友人であるTakao氏に参加していただき、氏の原体験の一つといってもよい闘病の貴重な体験を語っていただいた。それ以来、Takao氏もメンバーの一人として会に参加していただいている。

6月4日付の「前向きの心には病を癒す力がある」という記事は、この闘病体験を語ったものである。ぜひお読みいただきたい。

同じ6月4日付の「児童生徒に寄り添う教師の道」という記事は、6月2日の研究会でTakao氏が発表した内容のレジュメである。

会では、この発表をめぐり、中学の道徳教育の在り方や道徳教育学会の問題、道徳教育と宗教の関係をどうとらえるかなど、さまざまな問題が活発に話し合われた。

(Noboru)

前向きの心には病を癒す力がある

2012年06月04日 | 原体験をめぐって
 心(想念)がストレートに影響を及ぼすものとしては、一番身近な自分の身体を挙げることができます。そのことでは、まず私自身が死の病状から回復した体験をお話しすることにします。それは今から1年8ヶ月ほど前(2010.9)に体験したことです。

 発病後の経過
 2010年4月頃より持病が今までになく悪化し、9月はじめ頃にはさらに速いスピードで進行し、いよいよ死ぬのだなと思わざるをえない状況になりました。よもや病がこの時期にこれほど急変して悪化するとは思っておらず、また、それがすぐ死に直結するようになるとは思わぬことでした。
病名は、口内の舌を中心に広がる「扁平苔鮮」というもので、私の場合40代初めに発症し、それから二十七、八年になります。はじめは舌の右脇中央部あたりがヒリヒリし、ときにうっすらと血がにじむというところから始まりました。最初は患部にステロイド剤を含む軟膏を塗るなどすると、二週間ほどでほぼもとに回復しました。しかし半年後には再発し、今度は舌の左側も、そして歯茎全体も赤く充血し、食べ物や飲み物が滲みるようになったのです。でもすっきりとは治らないものの、二週間ほどの手当で、食べるに支障は感じなくなりました。医師からは、この病気は自己免疫性疾患から来る難病で完治することはないが、比較的良好な状態と悪くなる状態とが繰り返されていくだろう。しかし癌になるケースはまれなので、まずその点は心配いらないと言われたときには、ホッとしたものでした。
 そうした具合の悪さは、最初の六ヶ月間隔から年月を経るにつれ次第に短縮され、四ヶ月、三ヶ月と短くなっていき、定年(還暦)を迎える頃には二ヶ月周期になっていました。その頃の口内はもはや普通の状態でも、正常からほど遠いものになっていました。普通の辛さのカレーライスでさえ痛くて汗がしたたり落ちるのでした。でも、もう二十年近くも病んできているのですから、そうなるのはむしろ当然と思っていました。何とか食事ができればよしとしなければならない、そんな想いで過ごしていたのです。だから悪いときの違和感は相当なもので、食べ物がまともな味がしないくらいでした。そんな状態でも半月ほど我慢していると、何とか症状が和らぐのでした。
 しかし、2010年の初め頃には、その周期は一ヶ月と短くなり、その年の4月には、それまでに見られない変化が訪れたのです。いつものように口内の違和感が強くなったのですが、それまでと違うのは、それが半月を過ぎても一向に回復に向かわないことでした。回復どころかさらに異常さがつのり、ついに食べ物を噛むのも困難になり、話すことも難しくなったのです。とくに舌の一部に今までにない鋭い痛みを感じ、何とか痛みをこらえて飲み込むようにして食事を終えても、その痛みが治まらないのです。こんなことは今までになかったことでした。口内を鏡に映してみると、舌の周辺がびらんと潰瘍で埋め尽くされ、舌の表面がまるでとろけているようでした。舌自体の機能が喪失し始めているに違いない、そう思ったとき、はじめて生命の危機を感じたのです。とうとう来るときが来たか、そう思うと同時に、こんなにいきなり生命の危機が来るとは、と暗澹たる気分になりました。
 というのも、還暦過ぎたあたりでは、持病のようすから長生きは無理であろうと思っていたものの、その後の8年ほどは予想したほどには悪くならず、何とか無難に過ごせたので、まだ当分は大丈夫であろうと高をくくっていたからです。ところが今述べたように、そうは問屋が卸さなかったのです。

 すべての気力を奪うような猛烈な嫌悪感が突き上げて
 私はあわて、必死になりました。インターネットで少しでも扁平苔鮮の治療効果を上げた医師を見つけると、すぐ予約を取って出かけました。病院をかけずり回ったのです。しかしどの病院の医師も、過去に治療効果のあったという塗り薬やうがい薬を処方してくれるものの、きまって難病だから確かな治療法は見あたらない、というばかりでした。それならば、と病院巡りをやめ、いよいよ悪くなった場合に備え、近くの大学病院にかかっておくのがよかろうと判断、それからはその大学病院のみを頼りにするようにしました。
 その後の病状は、舌全体がびらんした状態が続き、舌の表面にも裏側にも点々と潰瘍ができて、それが舌を動かすたびに歯に当たり、顔がゆがむほどの痛みが走るようになったのです。また、舌の付け根や舌全体からグワ~ッと嫌~な気分が、もう、すべての気力を失わせるような、あるいは身体にある力を根こそぎ奪い去るような嫌悪感が身体の内部から突き上げてくるのでした。それでも食事時は、痛みをこらえつつそろりそろりと噛んで飲み込みました。
 すでに数ヶ月前から流動食にしており、栄養だけはなんとしても摂取するよう努めていました。それは栄養の偏よりにより他の病気(ガン)を併発させてはならないとの想いからでした。食べ物を味わう楽しみや、美味しいと感じる食事はとっくに失われ、その点ではすでに絶望的な気分に陥っていたのです。
 九月に入ると病状は一段と悪化しました。舌から血が流れ、食べるときや話すときの痛みは耐えられないものになり、話は筆談でするようになっていました。以前からお味噌汁やお茶を飲むときも痛みましたが、ついに水を含むだけでも、そして何も口に入れていないときも痛みが走るまでになったのです。この時点で、舌としての全機能が喪失するのだと思い、もはやこれまでかと暗黒の冷たい世界に投げ出されるような感じでした。
 しかしそれでも、どこかにまだ打つ手はあるかもしれないとパソコンにしがみつき、ネット上で自分と同じケースがないかと捜したのです。すると、ある重い病気を長く患っている人が口内炎を併発し、それが重症化してしまった事例が出てきました。その方の場合は壊疽性口内炎といって、歯ぐき、唇、ほおなどの口腔の組織が腐っていくとありました。口内の組織が腐る!? 壊死か! 自分のこの舌に生じている事態は。私は死が逃れられないものとして間近に迫っていることを知り、あらためて愕然としたのでした。
 このとき私の心を占領したのは、次の二つの想いでした。一つは、舌のこの激痛が増す中で悶えつつ死ななければならないのかという不安。いま一つは、自分のライフワークにもう少し核心に迫る表現を与えておけばよかった、それが出来ずに終ることの無念さでした。

 前向きの姿勢、ポジティブ思考の威力
 以上のように不安と無念さの中で、私はいよいよ人生の店じまいをしなければならないなと観念したのです。ところがそこで思わぬことが起きたのです。運命の転換を思わせるような、本当に驚くべき経験をしたのでした。その日の昼食時、食卓に着くと、流動食を無理矢理飲み込んでテーブルを離れる際に、その辺にあった紙切れに、「舌が壊死しはじめた。もうダメだ。」と書いておいたのです。そして自分の部屋に籠もり、身辺整理をと、本の整理をし始めたのです。ところが、その後の妻の態度に自分の気持ちは一変することになりました。夕食時が来て食卓につくと、例のメモ用紙はなく、そして妻がいきなり叫ぶように次のように言ったのです。

 「あなた何言っているのよ! 壊死するとか、もうダメだとか、そんなこと二度と言わないで! これまで肝が潰れるような、心臓が止まるような思いを押し殺してあなたを支えてきたのは何のためよ! 治さなければならない、必ず治ると信じているからよ。痛かろうが辛かろうがしっかり食べて、必要な栄養を摂るのよ。あとは舌をよく動かし、血の巡りをよくすることよ。そうすれば舌に栄養が行き届いて細胞は再生するのだから。」

 とても深刻な事態に立ち至っていると伝えているのに、そして、もはや万策尽きたと告げているのに、妻は実状を無視し、とんでもない無理を言っている。そう思う一方で、こんな凡庸な夫を、妻は以前から肝を潰すほどに心配し、しかもそれを顔には出さず、毎食自分のとは別の、栄養に気配った流動食をつくり続け、また友達から治療に関わる情報をかき集め、サブリメントの数々を取り寄せ呑ませてくれていたことなど、実に真剣で神経をすり減らすものであったことを思うと、本当に済まなく申し訳ないと思ったのでした。
 もう、彼女にこれ以上の心配をかけてはならない。私は決心しました。〈よし、実際倒れる寸前まではどんなに痛く辛かろうが、妻の前ではそれを表情に出してはならない。必ずよくなると信じ、明るい表情に心がけ、食物を力強く噛んで飲み込むようにしよう〉と。それでもう、がむしゃらに噛み続け飲み込んだのでした。すると、なぜだか不思議にも、痛みが若干弱まったように感じられたのです。おそらく一時の気のせいであろうと思いました。食後舌の患部に直接ちょっと指で触れてみると、これまでと同様にビリビリッと強烈な痛みが走りました。ああ、舌の状態は同じなんだな、と思いました。しかし食べているときの痛みは我慢できる程度で、その状態が不思議にも続いたのです。それでその三日後には、〈これはもしかして、奇跡が起きつつあるのではないか〉とポジティブに受け止め、思い切って流動食をやめて妻と一緒のものを食べることにしたのです。すると、あれだけ傷んている舌には過酷なはずなのに、痛みもそれほど強烈には感じず、それまであった食後の舌からの出血も少なくなっているように思えたのです。
 引き続き部屋で本の整理を続けていると、二十年近く前に読んだ西野皓三氏や籐平光一氏の気功の本が目に飛び込んできました。懐かしく読み返してみると、当時は半信半疑だった「気の力」が、今の自分の体験と重なって本当のことと思えてきたのです。というのも、口内の病状が急に好転し始めたのは、妻にはもうこれ以上の心配はかけられないと決意し、とにかくよくなると信じ、がむしゃらに病に立ち向かったその前向きの思い(気の力)によるに違いない、そう合点できたからです。そして幸いにも、死の差し迫ったあの時から1年5ヶ月ほど経過した今日まで、ぶり返すことはなかったのです。

 心が身体に与える劇的な影響
 死に至ると思えた病状からいきなり回復に向かわせたものは何か? それは先にも述べたように、明らかに妻にこれ以上の心配と苦労をかけてはならないという強い思いと、病に向かう自分の態度を、必死で前向きに一変させたことにあるだろうと思いました。
 そこで私は考えました。私たちは心の持ち方、思い方によって、身体に与える影響は想像以上に強いものがあるのではないかと。少なくとも病気の場合には、病状を治癒不可能と悲観的に受け止めるのか、それとも、何としてもよき方向に変化させるのだという前向きの意志を発動させるのかによって、事態はがらりと変わりうるというのが私の体験だったからです。そうすると、思い方次第で病状が劇的に変わるのですから、心には常識を越えた大いなる未知の力がひそんでいるということになります。そうであれば他にもそのような事例があるはずと考えたとき、思い浮かんだのが、かつて読んだバーニー・シーゲル著『奇蹟的治療とはなにか』(日本教文社)でした。この書には生物学や医学分野では無視されているものの、心が身体を支配するという事例が多く挙げられていたからです。
医師である著者は、心が身体に与える影響がいかに劇的なものであるかを多くの気丈な患者、すなわち必ず治ると信じる強気の患者たちから学んだと述べています。また著者の毎日の病床体験からも、心の変化が中枢神経、内分泌系、免疫系を通じて身体的変化をもたらすことは明らかであるとして、次のように断言しています。「われわれはすべての人間が持っている内なる(心の)力を使うことで奇跡が起きる」と。(takao)

児童生徒に寄り添う教師の道(2012年6月2日研究会発表)

2012年06月04日 | 研究会報告

1 子どもを信頼する根拠が明確になっているか(ブァルドルフ教育論)
・性善説に立つ子ども観
 ・子どもは限りなく成長する存在と見、心から尊い存在と受け止めることができるか。
 ・彫塑家的教師でなく園芸家的教師として子どもに接することができるか。

2 子どのもつ「権威感情」に応える教師であること(中学一年頃まで)。
(自分を投げ出してついていくことのできる権威者がほしい、その権威者のもとですべて学びたい、という感情)
 ・そのような権威はどこから生じるか

3 子どもの、真摯に前向きに生きている生の教師とふれ合いたいという欲求に応える。
(中学二年以降)
 ・先生は何に悩み、傷つき、苦悩し、喜び、感動しているかを知りたいと思っている。
 ・先生は何を信頼して生きているか(信頼するにたるものはあるのか? あるいは、この世生きるに値するものであるか?)
 愛とは(優しさや思いやりとは) 教師の原体験を生かす道徳教育でもある 友情とは
   学ぶ意味
   働く意味
   不幸と思える境遇をどう乗り越えていけばよいか
   ・容姿の差
   ・貧富の差
   ・能力(知能の偏差値や体力)の差
    (学習成績に左右されない人生の存在意義とは・・・、努力する意味にもふれる)
・授業のブレークタイムや短学活で話す

4 普段に子どもの心(感情や訴え)を受容する
・カウンセリングの技法を活かして

5 子どもの成長の姿をとらえて評価する。頑張る姿を学級で認め合う機会をつくる。
 ・日頃の観察が大事(日直当番や班活動、係活動や清掃活動など学級活動、行事での姿)
・学級通信で長所や成長の姿を紹介

6 学級、学年、学校の諸行事を人間的成長の機会ととらえ、意欲的に取り組むよう導く。
 お互いの理解が促進される
力を合わせ、協力し合う体験の機会となる
   個々人の頑張りを通して個性や能力の発見につながる
   達成感を共有できる
(よい学級集団が形成され、その中で個人の成長がいっそう促される)

7 子どもの悩みを理解する努力
 ・まず、いじめなどの悩みをできるだけ出さない学級経営を! 
 健康な雰囲気のやる気に満ちた学級集団づくりが大切(大阪隆夫著『学級経営の勘どころ』参照)
・解決に向け、親とも緊密に連携
 ・個人面談の実施
・いつでも相談に乗る、と言っておくことの意義
 (takao)

覚醒・至高体験をめぐって09:(2)至高体験の特徴④

2012年06月03日 | 覚醒・至高体験をめぐって
《辻邦生》

次に取り上げるのは、『安土往還記 (新潮文庫)』、『背教者ユリアヌス (中公文庫)』などの作品で知られる作家・辻邦生(つじくにお、一九二六~一九九九)の場合である。

辻は、旧制高校の頃、青年期特有のロマン的気分に惹かれ、詩人プラーテンの 「美しきもの見し人は/すでに死のとらわれ人」という詩に憧れ、自殺願望を抱いたことさえあったという。日常生活がひどく下賤なものに思え、昼夜ドストエフスキーやバルザックに読みふけっていた。平穏無事な家庭生活など文学には無縁だと思い、太宰治の「家庭の幸福は諸悪のもと」を本気で信じて、デカダンスにあこがれていた。

『そんな現世否定的な考えが、決定的に変化して、なみの人間よりも、さらに激しい現世肯定派になったのは、さまざまな読書体験にもよるが、決定的なのは、やはり病気であやうく死にかけたためだった。

大学を卒業した年の春、突然高熱が出た。急性肝炎だった。もう駄目だというところまでいって、奇蹟的に熱が下がり、一ヵ月ほどして退院した。

その当時、東大前に住んでいたので、退院の日、病院から大学構内を歩いて家に帰った。その途中、ちょうど五月の晴れた日で、図書館前樟(くす)の大木の新緑がきらきら輝いていた。私は思わず息を呑んだ。これほど美しいもの を見たことがないと思った。それは、プラーテンの詩にあるような、死と一つになった陰気な美ではなく、逆に、生命が溢れ、心を歓喜へと高めてゆく美だった。

地上の生の素晴しさを、それまでまったく知らなかったわけではない。死に憧れた信州でも、朝日に染まるアルプスや、高原の風にそよぐ白樺や、霧のなかに聞えるカッコウの声など、好きでたまらないものがいくらでもあった。しかしそれは一瞬心のなかを過ぎてゆく映像で、次の瞬間にはもう不安や焦燥や不満が入れ替って心を満たしていた。いつも晴れやかというわけにはゆかなかった。

しかし死をくぐりぬけ、恢復の喜びを噛みしめていたその瞬間に見た樟の若葉は、そういったものとは違っていた。それは、この世の風景のもっと奥にある、すべての生命の原風景といったものに見えたのだった。 (中略)

ちょうど樟の新緑は、心のなかの太陽のように、その後、生命感の源泉となった。物悲しい雨の日も、暗澹としたパリの午後も、目をつぶると、太陽に輝くきらきらした新緑が見えた。その途端、この地上とは、惰性で無感動に生きている場ではない、という思いに貫かれた。死という暗い虚無のなかに、〈地上の生〉は、明るい舞台のように、ぽっかり浮んでいる。青空も、風も、花も、町も、人々も、ただ一回きりのものとして、死という虚無にとり囲まれている。この一回きりの生を、両腕にひしと抱き、熱烈に、本気で 生きなければもうそれは二度と味わうことができないのだ――私は痛切にそう思った。』(辻邦生『生きて愛するために (中公文庫)』中公文庫、)

こうして辻邦生は「地上に生きているということが、ただそのことだけで、ほかに較べもののないほど素晴しいことだ」と思うようになったのである。おそらく辻は、死を覚悟したぎりぎりのところから恢復したとき、目的―手段の連鎖の中で見る日常的なD認識のレベルとはまったく別の視点で見ていたのである。自然は、「生命が溢れ、心を歓喜へと高めてゆく美」であり、「この世の風景のもっと奥にある、すべての生命の原風景」として認識される。これは、マスローがB認識といった視点と同じであろう。

(Noboru)