忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

レボンは見当たらない

2018年10月29日 | 居場所

彼はそれまでもいつも、づーっと寝てることが多くなっていた。

16歳3か月になっていた。

それでも私が帰るとわんわん鳴いて迎えた。

食べなくなり、ついに3日も食べない時が来てしまった。

呼吸だけの様態になり、やがて息は止まってしまった。

妻もえんえんと泣きながら、

何もしないで歩いているだけなのに涙が流れる。

なんだ体の奥がつらくて、これはやばいな、おかしいな・・・!

通勤電車の中

携帯の待ち受けに彼がいる。

レオン・・・レオン・・・レオン・・・レオン・・・

夕凪のようなささやきが出ていく

いけないものを見たように前の娘が顔を伏せる

もう3週間過ぎた。

早い目覚め、彼はいないが

愛しさは生のまま、

行き場がないまま、涙が流れる。

鬱の中の愛しさが、幸せを私に返している。

逆に私を失えばレオンが哀れだったろう。

まだまだレオンと一緒に・・・・・・。

 

 

 

 

 

 


日本的倫理性 4 第2章 ロックのタブラ・ラサ 

2018年10月29日 | 日本の原体験

2章 ロックのタブラ・ラサ

 

第1節 タブラ・ラサのマジカル性

現代人間観の出所は欧米的近代的人間主義にある。この人間観が思想家や哲学者にとってだけではなく、一般人にとっても重要であるということは見逃されやすい。私達現代人が常識的に抱いている考え方はこの哲学的な根拠にもとづいているものである。常識はいつからか私たちに備わっていて、その出所を特定することはなかなか困難であるだけでなく、特定されたとしても現実感が伴わないものである。それで自分の常識は生まれながらにして自分に備わっている考え方や思考であって、いうなれば自分の固有の考え方であると思い込んでいるのである。その考え方がいつの間にか自分に移植され、自分の中で寄生している考え方や感情であるということだとは思いも及ばないのである。ロックの白紙説もそうした影響力を持っている1つの説である。

 ジョン・ロック(1632-1704)は英国の哲学者で、経験論の父と言われている。ロックもやはり近代的ヒューマニズムの開拓者であった。その示しているところは現代の生き方の基本となっており、私達はその範囲内で自己を理解し、形成しようとしてきているのである。特にその人間観の中心はタブラ・ラサに象徴される。

「人間は初め白紙(タブラ・ラサ)である」というロックの主張はデカルトのコギトのように大変インスピレーションに富む命題である。近世以降この命題は呪術的とでも言える力を発揮していると思える。「人間がその初めは白紙である」という命題は、誰もが大きく頷いて迎える信憑性を持っている。人間の一面の真理を指摘するのに成功しているのである。ロックの主張が厳密にはどんなものであるかということはこの章の課題であるが、私達がこの命題から勝手に受けとっているインスピレーションは、多分人間の在り方に関する、ある重要で本質的なものだろうと思う。また逆に、ロックの主張がどんなものであるかということを理解している場合でも、その言葉の呪術的とでも言える力によって、私達は自分達が勝手に抱く白紙観を重ね、この命題を賛美しているのである。そうしたマジカルな言語表現的な力があるように思われる。本章の目的はこの幻惑を指摘し、それによって近代が私達に実際に示しているのは一面的な生き方であり、そのために他の面が隠蔽されてしまい、現代の混乱をもたらしているということを指摘するところにある。先ずロックのタブラ・ラサ説を理解し、次に私達がそのロック説に重ねてしまう深層的というか本質的な人間観からくるタブラ・ラサ観を見、現代が近代によって覆い隠されてしまっている重要な人間観を取り戻す一助としよう。

 

第2節 ロックのタブラ・ラサ説とは何か

1)私達は何時からタブラ・ラサなのか

先ずロックの白紙説で抱かれる疑問は次のような物である。①私達が白紙であるのは初めだけなのか、それとも②その度ごとに白紙であるのかということである。

①    の初めだけ白紙であるという時、

ⅰ一体何時がその初めの時点なのかということ

が問われる。私たちは母体にいるときから感覚している。であるから産まれた当初から私たちには感覚が備わっている。胎教では音楽を聞かせたりして情操教育を実施するそうであるが、生まれたときには既に私たちにはいろんな人的な影響を蒙っているというのが今日の考え方である。そこで、いったい何時私たちは白紙状況であると言えるのであろうかという疑問が抱かれるのである。

ⅱそこでロックのタブラ・ラサは「産まれながらに」という点に修正が加えられることになる。何時の時点を産まれながらに白紙であるとするかということが問題になる。まだ認識的器官が成長していないときを白紙だとするわけにはいかないから、私たちの認識器官は何時白紙状況として完成するかということである。

ⅲしかしまたここでの認識とは細胞が栄養分を摂取するレベルでの活動も認識現象とされるかどうかということが考えられる。

どういうことかというと、この細胞活動レベルでは例えば水分不足のとき細胞は循環する血液から水分を補充するが、それは単に浸透圧の差からおこる現象であるとも言えるが、私たちにはのどが渇いたという生理的認識が発生するのである。この認識は物理的あるいは化学的浸透圧現象が意識化するということを示している。ということは私たちが子宮の中で卵細胞として発生した時点で認識が発生しているとも考えることも出来るのである。所謂受精の瞬間からである。

ⅳしかし逆説を採ると、認識が発生してもまだ白紙であるという説も言えるかもしれない。というのは今述べたような、細胞レベルな現象的意識が発生してもそれは記憶として残らないかもしれない。一過性の現象で時間的に次の現象に影響を与えない場合がそうである。そうした場合には白紙現象が継続していることになる。この場合意識は胎児として宿った時から細胞レベル的に発生しても、記憶として継続しないで、心や自我という現象にならないので、まだ白紙という状況にもなっていないと考えられる。この見方は②の私達の精神はその度毎に白紙ではないかという説に関わる。

②の私達の精神はたとえ、成長した人間でも何時も白紙に返り、何時も始まりにいるという観点は、私達に記憶という現象があるということで否定されるかもしれない。

ⅰ記憶のメカニズムについては、神経のニューロン回路が形成されるという生理学的説明があるが、このニューロン回路は使われなくなるとやがて消えてしまうといわれる。身体の反応は遅いだけで、使われなくなる前に再度同じ感覚知覚が発生すれば記憶として継続しているが、基本的には白紙に戻るというのが私達の精神の方向性ではないかと考えられるので、この場合の言い分はあるのである。

ⅱこの立場は自己形成に関するまったく違う観点を示すものである。というのは①の観点では外界の知覚を多く集めてそこからよりよいものを育成し蓄積していくという生き方であるが、それに対し、何時も精神(記憶)を空にし、新しい自己を生み出していくことになり、全く違う生き方を形成することになると思われるからである。私達は暗黙のうちに①を採用し、②についてはむしろ不可解に思うのではないだろうか。というのは記憶に頼って多くの情報をタブラ・ラサな精神に蓄積し、いろんな知恵や技術や法則を巡らすことが近代の示した生き方で、その方法を私達は踏まえているからである。

ⅲしかしライプニッツのモナド論はこの②とは関連しそうだし、我々日本的倫理性の特色の一つである、常に無の中から生まれ無の中に変える日常の生活態度は正しくこの②「私達はその度ごとに白紙である。」に同じになるのである。これはタブラ・ラサの意図の外のことであるが、そこで我々はタブラ・ラサに日本的倫理性に親しい連想をしてしまい、インスピレーションを受けるのである。

以上の問題のほかに指摘される重要な問題がある。それは上記の問題とクロスするものであり、問題を複雑にするものであるが避けては通れない。次にその問題を検討し、その後2つの問題を収束して論じよう。その次の問題とは、ロックの白紙の精神を満たすものは何であるかということである

2)白紙の精神は感覚と理性によって埋められる

ロックのこの白紙説は「精神は感覚の働きによって印象をうけ入れられる前は白紙(tabula rasa)である」というものである。この白紙説を、ロックは人間行為の原理である自然法を人間がいかに知るかと言うことを説明するために主張している(「人間知性論」ジョン・ロック 大槻晴彦訳 岩波文庫)。ロックにおいては、自然法は生得的なものではない(「ジョン・ロックの生得論に関して」奥田寿珠子 学習院大学哲学会哲学会誌第25号)。ロックの自然法は神によって与えられている道徳法則であり、ホッブスの生存闘争の自己中心的なものと真反対である。この自然法は、ア・プリオリに存在し、人間は理性によって認識できる対象であるが、理性は生得ではないので、自然法も生得ではないのである。それは理性と感覚的知識の合作物であり、それ以外の要素はない。理性と感覚のみが、知られず暗闇に置かれていたものを精神に提示するのである。理性と感覚とは相互補助的関係にあり、理性がなくて感覚だけであれば人は動物にも劣るし、感覚がなく理性だけであれば人は暗室にいると同然で何も見えない、というものである。感覚は理性に個々の知覚の観念を与え、理性は感覚を指示し、感覚から引き出された影像を理性内部で整理し、新しい影像を作る。人間の観念はこの過程から発生し、精神や自我認識はここに起因する、と考えられている。

3)認識器官と認識内容

ロックは生得的観念を認めないけれども、この理性や感覚という認識能力は白紙状態にある精神に先立つものでなければならないとする。この二つの関係はどんなものであろうか。2つとは認識能力とその形成した精神、すなわち認識内容との関係についての問題である。精神が白紙であるということは認識内容の問題であり、認識能力としての感覚や理性の問題ではない。従って感覚や理性という認識能力は感覚や理性によって得られた認識内容とは独立に我々に備わっているということが前提にされている。そこで2つの問題が出てくる。先ず

ⅰこの認識能力は一体どのように発生してくるのであるか(認識能力の発生の問題)。

観念は認識能力によってもたらされるとすれば、その意味で生得的ではないとしても、それをもたらす認識能力の方はどうなのであろうか。何がもたらすものであろうか。少なくともその身体の持ち主がもたらしたのではないと思われる。また

ⅱ認識器官の外の対象がどのようにして知覚や観念という認識内容になるのであろうか(知覚や観念の発生の問題)。

4)認識能力の発生

先ずⅰ認識能力の発生の問題についてⅱの知覚や観念の発生と照合しながら見ていこう。その能力は感覚と理性の二つであるが、そこには大きな機能的相違がある。①まず感覚は所謂身体による知覚であり、身体上の意識現象である。②もう一つの理性は論理的には感覚とは別なものであるが、感覚知覚をアレンジして観念を生成するものである。

従ってこの観念にはドイツ観念論的なア・プリオリな形式があるわけではない。では理性が感覚からもたらされる知覚を材料として感覚とは別な意識を生産するのなら、そうした理性の機能はどこから来るのであろうか。考えられることは、1つは大陸合理論的な先験的といわれる観念論的な分野に属するかということになるが、それはロックや英国経験論においては認められ得ない。強いて言えば白紙状況の精神に知覚が積み重なっていく過程で出現してくる形式があるというものであろう。身体上の現象であるのかそうでないのかは分かりづらいところであるが、身体的現象としてそうした観念が発生しているというのが基本的な英国経験論の考え方であろう。そこでロックにおいては、認識能力は身体現象であることになる。

但し、この理性の所在位置が不明な点がロック経験論の課題である。ここでの理性は神の法によって導かれる精神の推理能力である。デカルト的な近代的自我の中核的な理性ではなく、感覚から供与されるものがなければ何もできない機能的能力と考えられる。つまり理性的能力と言える。従って理性には感覚に相当するような器官は見当たらないし、人間の内部で働くが、具体的な位置のない曖昧なものである。(「自然法論」ジョン・ロック 「世界思想全集」河出書房新社、「ジョン・ロックにおける世論の位置:ロックに内在する「輿論」と「世論」谷藤悦史)

つまり理性に関しては行き詰まりがあるということであり、ここには日本的倫理性においての取り組みが興味深いと考えている。デカルトにおける(我?)に関係するところである。

5)感覚器官と理性能力のア・プリオリ性

この時、疑問に思えることは、この感覚器官や理性能力は精神を形成する知覚や観念にとっては先に立つものではないか、ということである。この問題は、人の根拠というか存在性ということの問題に関わる。①人が存在するのは身体を持ったときであり、その身体が自分によってではなく存在せしめられたものであれば、その意味で身体はその人に先立つものである。この場合のア・プリオリの意味は大陸合理論的なものではない。文字どおり先立つという意味である。そこでその身体が形成したものもア・プリオリな領域内のものではないかと思われる。②一方ロックにおいては私達が自我というときは精神に知覚や観念が発生した時と言えるであろう。人が一つの固体として人間であり始めるのは胎児のときからか、出産後か、自我の自覚を持った時からか、ということについては重要な実践的議論が必要だが、ここでは感覚器官や理性の作動が何時から始まり何時から精神が形成されているかということはさておき(というのは胎児のときにもそのような様子が伺われるし受胎何ヶ月ごろからそうなのかという調査に入らなければならない問題になるからである)、作動と同時に精神が形成されるのであるから、自我の発生は認識器官が出来たときをもって言えるということであろう。そしてその認識器官の基である身体は決して知覚や観念に先行されるものではないのだから、その意味では我々の知覚や観念はア・プリオリなものの延長線上にあるのである。しかしそのア・プリオリ性は物質的な世界のものであり観念論的なものではないということである。そこで帰結することは知覚や観念は物質的で、人間精神や自我にとってはア・プリオリなものであると言うことが出来る。

6)タブラ・ラサ説の示すところ

 以上のロックの認識のメカニズムから出てくることは、人間の精神は感覚知覚とそれらから自然的に合成された観念によって出来るということである。このことは私達の精神が私達の感覚の外部にある感覚対象という情報源から成り立っているということ示している。それら外部から収集された情報が整理されて観念となり、それが自我を形成しているというものである。このタブラ・ラサ説の示す方向は、一つは①その知識主義でありもう一つは②その環境主義である。知識主義とは私達の精神は感覚知覚によらなければ空虚であり、その意味では私達には自我と言えるような主体的地位が見えていないということである。何故ならその知識の源泉は私たち自身によることは全くなく、私達の外部から感覚というパイプを通してやってきたものである。その意味で私達は私達以外のものによって構成された観念の寄せ集めであり、自我というものは外部からやってきた感覚知覚のかけらのモザイク的な彫像のようなものだと考えられるのである。すなわち②の環境主義がここにはある。ここに英国経験論全体を貫く知識主義の限界があるのではないかと私は考える。しかし私は、ロックが批判した、理性が経験によらず生得的であるというデカルト的な合理論を採用するわけではない(「人間知性論」ジョン・ロック 岩波文庫)。

こうした白紙的人間観の生き方から見えることは、私達には主体的位置がなく、自我を支えて生きるためには、あらゆる情報を自分以外のところから収集しなければならないという像が出現するのである。こうした生き方の発展的方向を見ると、現代人の行き方にその典型を見る思いがして驚くところがある。私達の生き方は外界から収集し、外界に依存する傾向が強いし、道徳的には他人依存症候群が強く、国家や社会、学校や会社、地域や家族、友人などのせいにしてしまうのもそういったことから来ると思われないであろうか。

それからもう一点タブラ・ラサの示すところは初めに 1)で提起した点である。すなわち①このタブラ・ラサが何時から始まるのか、②それともいつも白紙状態に戻るのかという視点である。それと絡めて問題を整理してみると次のような表になる。この表中のBのコーナーはまだ見ていないが、ここで論じたように外部からだけのものではないという論点を無視しないことから設けられている。それは次節のテーマとなっている。それはロックの認識論の検証ということになる。それによってロックのタブラ・ラサから現れた英国経験論的近代的人間観の問題を考察してみたい。 

      内容の出所

時期

A  知覚は外部にのみ根拠を置く

B 外部とは限らず異質な世界からも関わる

①始まりがある

①―A

①―B

②何時も白紙の精神に帰る

②    ―A

③    ―B

この時外部とは一体何であって、外部に対するものは内部なのかという疑問が残る。ここでは外部とは身体的五感感覚器官の外部という意味である。Bの異質なということで示そうとしているのは次節で論じられる。紛らわしいのは外部という意味が白紙の精神の外部という意味と考えられる場合、観念的実在についても当てはまるからである。しかし一応ここでは観念的世界については除いておく。それについても取り上げなければならない重要な問題ではあるが、それは第3節で取り上げる。

 

第3節 ロックの認識論の問題点

1)感覚能力について

まず「第2節の 4)の①」の感覚能力について見て見よう。感覚と知覚との関係で考えられることは、ロックにおける素朴実在論の考えかたでは、感覚器官の外部の現象が感覚器官にそのまま反映して知覚が発生するというもので、感覚器官の外部のものと知覚とは同じものであることに疑いが抱かれていないのである。例えばここに黄色の花があるとする。私達が黄色という知覚を持つのは、黄色の花が持っている性質黄色が私達の視覚感覚に入るからである。

しかしその後に、英国経験論者たちは問題がそんなに単純ではないということから、感覚の外部のものと知覚とは同じものであるのかどうかとか、感覚器官はどうして知覚を生み出すのかとか、知覚が生み出されたのは感覚器官によってのみだろうかとか、いろんな問題を取り上げたのである。

その場合でも経験論者達の基本的姿勢は、知覚内容は感覚器官の外部に実在するものの性質であるということには変わりない。その意味では私達の側に所属しているものではないということは先に見た通りである。この時、私達の側というのは、「感覚機能や理性機能を持っている側」ということである。感覚は外界の性質からの導管であり、知覚の経路である。理性はこれらの知覚に特別な何かを加えたり、独自の決まりなどで編集したりするわけではないのである。

しかしここにはどうしても何か無理なところがあるように思われる。というのは感覚の外の物体の性質黄色と感覚から得られた知覚としての黄色の性質とがまったく同質のものというのは検証が難しいのである。何故なら一方は実在世界のものであり、他方は認識世界のものであるという意味で同質のものと見なすことには無理が感じられるのである。実在物と認識物とが対応しているということは容易に受け入れられるが、それらは異質なものではないかと考えられるからである。①この「対応と異質性」ということがこの問題をややこしくしているところである。なぜなら、認識の出所が実在世界からだという裏づけをしているのは対応しているということだけで、だからここでは異質であるということを問題としてはいないのである。②そこで異質に注目してみると、異質化するということはそこに何らかの影響が加わっているものと考えられるので、対応しているからといって認識物が全面的に実在から出所しているということを保証するとは言えないと考えられるのである。③その影響はなんであるか。a感覚からなのか、b他の何かであるのか、ということも気になるが、②の問題を見ることで判明してくると考えるのでここではその問題には入らない。異質であるということが当面の課題であるからである。④他にこうした主張のベースになっている実在世界の実在性は本当に確かなものであろうかという問題がある。何故なら実在を実在とするのは認識によっているのであり、認識の領域の問題だと考えられるからである。感覚の外の実在世界を常識と考えるこの経験論の前提を覆す問題はバークレイによって展開された世界である。この主観的観念論の立場は自分の認識のみは確実であるという楽観論的なものであり、デカルト的な批判の前では半減するものである。しかしロック的な実在と認識との単純な構造について別の光を差し込んだという功績は大きい。

私はこの問題について②の異質性に注目する考え方を検討してみる必要があると考えている。私の考えるところは実在と認識とはそれぞれ世界を独立にしているというものである。ロックのように実在世界が優位であるとかバークレイのように主観が優位であるという立場をとらない。そこで実在と認識との関係がどんなものであるのかということが検討課題になるのである。

2)感覚能力と感覚内容(知覚)における素朴実在論の問題点

上記の実在と認識の関係問題を見るのに以下の例を検討してみよう。針で腕の皮膚を刺したとしよう。当然、痛みの知覚が私達に起こる、この針刺し事件と痛みの発生は、花の黄色を知覚するのとは少し違う。その流れを対比してみると次のようになる。

感覚器官の外部の花(性質黄色)→感覚器官の目(視覚感覚)→認識領域の黄色(知覚)  感覚器官の外部の針(性質痛み)→感覚器官の皮膚(痛覚)     →認識領域の痛み(知覚)

黄色と痛みの違いは、黄色の方は感覚器官の外部の花の性質であるが、痛みはそうではなく、針の性質とは言い難いということである。ここに疑問が発生することは、痛みに限って感覚外部の性質ではないのかということである。この疑問に対して選択肢が3つある。

①    上記のように花には黄色の性質があるが針には痛みの性質は属していない

②    花と同様針にも痛みの性質が属している 

③    花にも針にも痛みの性質は所属していない

である。

①    の場合は一貫性を欠き感覚論の基礎を弱いものにすると思われる。②の場合は、針

に痛みの性質が所属しているというのは何かアニミズム的で経験論らしくない。しかしよく刺さることが針の優れた徳性であるということを思い出すと、痛みもその派生的な性質といえるかもしれない。しかしこの説には無理があるように思える。③の説を検討してみよう。この説は素朴実在論の立場を否定して、黄色が花に属した性質ではないということを主張することになる。こうした一貫性をもって検討されるのがここに取り上げている実在と認識の問題である。

痛みの知覚というものは皮膚感覚においておこるものである。その刺激は針が皮膚に刺さるということによる。針には痛みの性質は所属していないが、痛みをもたらす性質は所属している。先ほどの流れを再編成すると 針(痛みを生む性質)→皮膚に刺さるという事象 → 痛みの知覚 となる。ここでは痛みを生む性質と痛みの知覚とは明らかに違うものである。これから黄色の知覚についても見てみよう。黄色は視覚によるものであるという点を考慮に入れると、花(黄色を生む性質)→反射光線が目に入るという事象→黄色の知覚 と考えられる。以上から痛みや黄色という知覚はそれを生む感覚器官外部の物の性質とは異なっているということが出来る。

 さらにこの分別は五感感覚器官の事象とそこに得られた知覚の間にも下される。それは針が皮膚に刺さったり、黄色の光線が視覚を刺激したりしてもそれ自体はそうした事象であり、痛いという知覚や黄色という知覚とは別なものであるということである。前者は身体事象であり後者は知覚という認識内容である。そこで実在や事象と認識を峻別できるのである。

そして実在や身体の事象と認識との間には対応関係にはあっても、異質的であり、その間にはブラックなクレパスがあるようでパラレルな世界だと思われるのである。我々現代はこのブラックなクレパスを現象の対応関係を見ることだけで納得できないのである。たとえ外部的刺激とその知覚とが同一線上にある、同一のメカニズムのものであったとしても、少なくとも論理的にはその針刺しという事象と痛みの知覚という現象はパラレルであり、別物であるという主張が可能なのである。我々はこの断絶にまだ橋を渡せていないのである。

そこで先ほどの表は次のように修正される。

感覚器官の外部の花→感覚器官の目(視覚感覚):(現象黄色)→認識領域の黄色(知覚)  感覚器官の外部の針→感覚器官の皮膚(痛覚) :(現象痛み)   →認識領域の痛み(知覚)

つまり感覚は感覚器官の外にではなく感覚器官の側にあるということである。

しかしここで私たちは奇妙な事態に遭遇しなければならない。牛の目だけを取り出して像を作るという実験がある。またカエルの足に電気刺激を与えると反応が起こるという実験もある。従って感覚は目や皮膚にあるのかということになる。これに対して取り出した目や足に加えた刺激と反応は感覚性質を根拠づけるものではないという受け止めかたがある。実験台にあるカエルの足は通電で動くがそこには痛み感覚はないのである。従って身体に想定されている感覚現象は感覚性質とは言えないものである。ここに出現した問題は、身体の感覚現象は黄色や痛みの感覚知覚とは別物だという指摘である。ここからまた感覚知覚と感覚性質の概念にも左右の意見が出て、込み入ってくる。

身体における感覚現象や感覚知覚の問題はさらに議論が展開すると我々の脳の内部に感覚性質が存在する、起こっているという議論に発展する。脳にはそれぞれの感覚を担当する分野があり、ご感覚に対応した分野があると考えられている。しかし脳のMRIをとってもそうした感覚性質はどこにも見受けられない。人工頭脳の研究が進む現代では感覚野や言語野の複雑な連動によって言語観念が誕生すると考えられても不思議はない。しかしそれでも脳に起こる現象は身体的現象であって感覚性質とは言えないということに変わりはない。それではこの感覚性質はいったいどうやって我々に興ってくるのであろうか。これが、白紙状態がどうやって諸々の感覚や観念によって埋め立てられるのかという問題なのである。

3)感覚性質はどこから白紙の下へ

しかしそんな細かい議論をしてどんな意味があるのだろうか思われるかもしれない。ただ細かい分析の迷路に誘い込むだけで生産性がないのではないかと叱責されそうな気もする。こういう非難や疑念には確かな理由があるかもしれない。というのはこの分析の作業はたまねぎの皮を剥いていくようなところがあるからで、どこまで行っても決着がつかないようなところがあるからである。それでも基本的には、素朴実在論に加えられた批判のように、感覚器官と知覚とはパラレルであるから、そこに何らかの融和的な境界を置いて終着を見なければならない問題なのである。問題はどこでその融和に納得できるかということでしかない。実は素朴実在論に浴びせられた批判は局面が後退しただけで真実在論でも同じ問題が出ており、無限後退的にこのクレパスは横たわっているのである。これは英国経験論を生みの親とする科学のおかれている宿命的課題でもある。さらに複雑化した英国経験論の議論はヒュームにより大陸合理論のカントに影響を与えて、哲学の大きな問題として継続しているのである。

4)感覚(感覚現象)と知覚(感覚性質)の橋渡しをするもの

私はこの断絶を埋めるのにワープ現象という解釈をしている。世界はワープに溢れている。人の生から死はワープであり、めまぐるしい細胞生成や化学反応もワープである。あまりにありふれているこの現象はその神秘性を感じられないでいる。その意味では世界は神秘に溢れている。これを因果論によって説明されているが、因果論こそそのワープ現象の領野にはいるものである。ただ因果論は原因A⇒結果αであることを100%確立を疑わない。ワープの場合は、それは判断保留である。因果論にも言えることであるが、結果αがあって、これを目的とすれば結果は未来にあることになるが、過去データから原因Aを割り出すわけである。そして原因Aから結果αの過程には無数のワープが展開している。因果論はこの過程は1過程ないしは数過程と見るであろうが、ワープでは無数であるとみなす。つまり原因と結果の間には暗いクレパスがあるのである。一晩寝て起きたらサンタクロースが枕元にプレゼントを置いてくれているように、原因と結果の間にはサンタクロースの存在を信じて疑わない純真な子供の心に満たされた無邪気な夜の眠りが必要なのである。

5)知覚と言語の境界

針刺しと痛み知覚とのパラレル性についての考察は言語を媒介して考えられることが多い。私達が針刺し現象で痛みを知覚するのは「痛い」という言語によるというものである。言語は直接的な身体現象ではない。身体現象から離れているものである。直接的な身体現象としての針刺しとその知覚は身体以外の世界である言語の世界に移行するのである。この時身体現象としての痛みの知覚が言語化するという言い回しは紛らわしい。身体現象が痛いという言語を産み出したとは断定できないからである。またそうした言い回しは観念論者の反論を招くのである。私達が針刺しという身体現象で痛みを知覚するのはそういう観念を先験的に備えているからだという主張である。観念論のそうした主張は信念以外に根拠を持ち合わせていない。一方身体現象が痛みという言語を生み出すという主張も観念論における信念と同様に、同類の推理を根拠としており決定的根拠を示し得ていないのである。この痛いという言語は身体現象を指示しているが、身体現象以外の位置にあり、身体にはないものである。いわば言語世界に位置しているものである。この言語の示しているものが観念であるとか、その観念が実在しているとかという議論に魅了されるかもしれないが、それは飛躍しすぎであると思う。私は身体には身体の複雑な世界があり、同様に言語には言語の体系世界があると思う。これらの世界はそれぞれ独立した体系世界でありながら関連しあっていると考えられる。但しこの関連がどんなものであるかはまた大きな問題を孕んでいる。取り敢えずパラレルな関連である。このパラレル性に見るように針刺しという身体事象と痛みという知覚のパラレル性が指摘されるのである。何故なら痛みという知覚は言語化されることによって言語的に顕在化されているものであり、身体的に現象していることとは区別されるからである。そしてパラレルを超えて両世界を橋渡しするのがワープ現象である。

6)認識の場

わたしにはこうした言語的顕在化は一つの認識的な場としての役割を果たしているようなものであるように思われる。言語は身体現象として起こった知覚ではなく、それとは異質なものである。身体現象は言語化することによって言語世界の体系に存在を主張し位置を獲得する。言語化する以前の身体現象としての知覚は感覚器官において発生する一時的なものである。感覚器官はそうした現象を起こすところなのである。この現象に知覚として特定するのが言語である。認識というものが一つの機能や行動的なものであればそうしたプロセスの過程にあるのが感覚である。それを認識が発生する一つの場として捉えることも出来る。場というものは知覚自体ではない。知覚が現象化するところに刹那的に発生する。しかし感覚器官にひとつの現象が起こったとしても言語に掬い取られることがなければ単なる刺激反応の領域に止まったままでしかない。その現象に言語のたも網が入った瞬間、知覚化するのである。そして言語世界はこの掬い取られた知覚が言語的に存在するところだと思われる。

7)理性における同様な問題

こうした一つの説明できない現象が感覚器官と知覚の間にはあるのである。同様なことが理性と知覚の間にも言える。理性が感覚領域に発生した知覚を合成して新しい影像を作成するということには五感感覚器官という身体上の現象が知覚という認識物に生成されるということと同様なワープ現象が起こっていると考えられる。理性はここではドイツ観念論的理性とは考えられていない。一方、感覚に見るような身体上にある五感感覚器官のようなものとも指摘されていない。「理性は感覚知覚がなければ暗闇にいる人のようなものである。理性だけでは何も為しえない。理性がその役割を果たすには感覚からの知覚が欠かせないのである(「人間知性論」 J.ロック 大槻晴彦訳 岩波文庫)。」こうした表現から考えると、ロックにおいては、理性の中には生得的に獲得されている何物もない。人は精神を生成する理性という機械のようなものである。しかしその素材である感覚知覚がなければどんな精神も形成できないのである。材料の込められないミキサーのようにむなしく回転しているだけである。そしてその状況をタブラ・ラサと言うのである。しかし通常感覚知覚のない状況は有り得ないし、いつからそれが始まっているのかということは不明のままである。従ってタブラ・ラサというのは論理的な意味での設定で、現実人間状況に充当するものではない。ここにタブラ・ラサによる人間観への幻惑があるのであり、第4節で検討する。

8)理性の所在

①理性や観念の所在:理性が感覚から発生した知覚をどのように観念化するのかという問題は、理性が、感覚が明確に身体的に対応する器官を持っているようには、器官を持っていないようなのであるから、曖昧なものになっている。第2節の 4)の②で提示されている問題である。理性が観念を生成する素になっている感覚から生成された知覚は、この時一体どこに乗っかっているのかという問題が浮上する。我々には感覚が身体的なものであるという前提がある。従ってその生成した知覚も身体的であり、それを理性が扱うのであれば理性も身体的であるという単純な一貫性に従わなければならないのかもしれない。あるいは理性も身体的能力であるならば、脳にあるともいえるかも知れないし、痛みの感覚器官である手の上にあるといえるかもしれない。しかし知覚は感覚器官から生まれたとはいえ、感覚器官内に止まっているものではないということは、感覚器官と知覚の間にはブラックなクレパスがあるというワープ現象の主張で見たように、身体ともドイツ的観念論のいう観念ともいえないような新領域が考えられねばならないだろう。その世界はワープ内の世界でブラックなところかもしれない。しかしそれはデカルト的二元論を意味するものではない。仮にそうであったとしても完全な二元論ではない。むしろライプニッツ的な多元論であるかもしれない。

繰り返しになるが、つまり、理性に関しては行き詰まりがあるということであり、ここには日本的倫理性においての取り組みが興味深いと考えている。デカルトにおける(我?)に関係するところである。

②認識と存在:ここには長い論争の歴史に見られるように認識と実在の問題がある。カントがその問題を物自体の認識ということで最もよく、極限的に表現している。私は物自体の認識は可能かという問いは紛らわしい問いであると思う。物自体Aがあるとしよう。それの認識Aがあるとしよう。カントの問はこの二つが同じかどうかということをテーマとしているのである。物自体Aと認識Aの関係について、カントの探求が与えるインスピレーション、物自体A=認識Aであるかということがあるが、認識は認識であって物自体であることは出来ない。その認識Aが物自体Aについてのものであるということは可能かもしれない。しかし認識が物自体にはなり得ない。認識は物自体には届かないものである。哲学や学問は認識を過信しているのかもしれない。認識の出来ることは認識する限界内であって物自体に届くことはできない。実存哲学の目的が物自体に届くことであるなら認識の地上から飛び上がらなければならないのである。パスカルは、人は考える葦であるといったが、認識の両足を大地に踏みしめているのが哲学の道である。認識に対してその能力以上のことを課してはならない。その目的や希望が地上から物自体の世界に飛翔することであるなら別の方法を得なければならないのではないだろう。認識は万能ではない。カントの物自体はそれだけのことを言っているのである。

そこで理性の所在問題は、感覚が身体的な認識器官でなく認識の場のようなものであるとすれば、理性にも同じような位置づけが可能なのである。

②    認識は我々のものであるか:物自体が認識に所属しないものであるなら、同様な発想から考えると、認識は我々に所属するものであろうか。我々はそれが我々の言語や我々の行動に結果して起こっているので我々に所属するものと受け止めているが、そのことがこれを保証することであろうか。ここでデカルトの我の問題が浮上する。ここで前提としている、認識が所属しているという我がデカルト的な我から(我?)へと移るなら我に所属しているという認識は何に所属していることになるのだろうか。(我?)に所属しているということはどういうことであろうか。ここで日本的倫理性においてはどうなるのかという次の展開に入ることになるのである。

 

第4節 新タブラ・ラサの主張

1)ロックのタブラ・ラサを批判する

以上のように、ロックのタブラ・ラサ説にはまだ不十分な面があった。ロックの認識論への疑問点を整理すると次のようなことがあげられる。

  1. 感覚器官の外部の世界
  2. 感覚器官の世界
  3. 感覚器官に知覚が発生する現象
  4. それにその知覚が言語化した世界。

以上、少なくとも4つの世界が、対応はしているが、質的に異質な世界であるという構造から、認識内容が我々の感覚器官の外部からのみやってくるものとは言い切れない、ということが言えるのである。私達の精神が、外の物的環境世界からの知覚によって形成されるというロックの主張に従うと、人間の全ての精神性は身体の感覚や物質的世界に拘束されるということになってしまうし、その問題点は私達の精神から物的な知識以外の知識を排除してしまうということである。必然的に私達の価値観や生き方は物文化的になり、外的世界依存型になる。科学はそうした生き方を展開したものであり、産業革命によって大成したものである。今日、科学や物中心の行き方が疑問視されるのは、人間はもの的な一面だけではなく幾つもの異質な世界を内在しているので、物という一面的な世界だけでは満足できないということからであろう。

 こうした問題点への見直しは、タブラ・ラサな私達の精神を満たすものが決して単純に物的だとか、外部的だとか言えない、その独自な世界からのものであるということである。それらの世界は独自性があり、互いに異質であるというところに、私達の精神性も単に物や外部の世界の限界内に押し込まれているのではなく、独自の世界を形成しているということが出来るのである。これに対してロックの「反省」に期待がかけられるかもしれないが、反省は外部の感覚を内的に処理するという意味で外部存在に依存したものであるからここでの議論に加えていない。

2)観念的なものという外部的なもの

私たちの精神の独自性は決して物や外部世界に拘束されない開放性や自由性を示しているものだと思う。ここではロックの認識論を検証した結果、その経験論的な、物から知覚という過程を取り上げたので、それ以外の過程について取り上げていないが、私達のタブラ・ラサを満たすものは他にもあるかもしれない。それを特に観念的なものとは言わないが、むしろ観念的とされているものにも検証の手を加え、観念的という意味で、第2節  6)の表中Bから除外している、外部的なものの手がかりを得ることが出来るように思われる。

私達がここで観念的ということで示しているのは、長い間プラトンのイデア的実在説で示されているようなもののことである。私はそのイデアが実在しているかどうかは知らない。普遍論争以来出口のない迷路に人類を落とし込んでいるこの問題はそれに答えようとするときからその術中にはまってしまうのである。何故それに答えなければいけないのだろうか。何故実在することが大切なのだろうか。実在ということで私達が希望しているものはなんだろうか。その問題は次のような別の検討の道に入ることによってその迷路から逃れることが望ましい。

私は観念ということで、身体的な認識現象と対応して発生する知覚とは区別されるようなものを考える。観念をもたらす構造については、知覚をもたらす構造と同様に、

  1. 観念をもたらす観念の外部世界と、
  2. その認識の場と
  3. それを掬い取る言語的世界と
  4. その観念

という4つのものは、やはりそれぞれ異質な世界、パラレルなのであろうと考える。    

この観念の外部世界について明らかにしなければなんとなく落ち着かないかもしれないが、同様なことは知覚をもたらす感覚現象の外部世界についても言えるのである。両方の物自体とそれを知ることとは異質な世界にある、パラレルということは第3節の 8)の②で述べた様である。

従って、花やりんご等の物世界は明らかに存在しているということも、観念をもたらす観念の外部世界が存在しているということも同等に不確かであるし、また確かであるともいえるのである。

3)ロック的タブラ・ラサの呪縛

私達にとっては、そうした物自体の存在性の証拠集めよりもっと重要なのは、そんな世界からやってくるだろうと仮想されるような、知覚や観念というものが私達のタブラ・ラサを満たしているという日常が重要なのである。ロックにおけるタブラ・ラサの欠陥は、それを満たすものを、物にのみ注目したところにある。それは一種の呪縛的力をさえ持って、精神の本来の、物との異質性をさえ排除し、精神の物化をさえ引き起こしていると言える。たとえそうした観念世界というものがないとしても、ロックのように物世界に呪縛されている必要はない。知覚や言語の世界は決して物世界に拘束され、物世界から自由になれないという世界ではない。というのは、知覚でさえもはや物とは異質なのだから、我々はもはやロック的タブラ・ラサの呪縛を解いて、自由であっても良いのではないかと思う。

こうした呪縛力がロックのタブラ・ラサにあるのは、次のような2つの理由からだと思われる。①人間が物への執着を完全に捨て切れない、ということと②タブラ・ラサの命題が人間の本質を言い当てているということである。デカルト的幻惑でも言えた事であるが、ここには私達が幻惑される好条件が整っているのである。①によって物とは異質であるにもかかわらず、物への執着心が物へと惹きつけられ、知覚を物と同一視してしまう幻惑現象が起こるのである。そこでその物化した知覚がタブラ・ラサを満たすというように屈折してしまうのである。②によって人間の本質面に従っているということで真理的満足に侵されているのである。①で物化への方向を肯定した結果、人はパンによって生きるというささやきに従い、やがてパンだけによって生きるという生き方に身を売ることになっているのである。人はパンのみにて生きるにあらずという中庸の道は、人が幾つもの異質な世界をそれぞれに受容できるという視点に立つということであろうか。さらに②において起こっている幻惑は、精神がタブラ・ラサであるということの強いインスピレーションと、①によって、物によってのみ生きるという不公正さが、そのタブラ・ラサを物的知覚認識によって充足しようという、光が重力に惹かれて曲がるように、曲がってしまっているのである。しかし第3節 7)で見たようにそうした空虚なタブラ・ラサは存在しない。

4)物化の呪縛の結末

物世界に呪縛されているということは、私達の精神が物的知識や物依存傾向になってしまうということに止まらない。私達の関わる幾つかの異質な世界をも物化するベクトルになると思われる。その結果幾つかの質的に違う世界は物的に改質されて理解され、物に統一して表現されるようになるだろうと思われる。例えば金や権力やという表現手段を絶対視するという傾向である。そして物以外には理解しにくくなり、物的にしか自己表現や自己実現を果たせない状況が進行していくのである。

5)新タブラ・ラサ

しかし、私達がタブラ・ラサから強烈なインスピレーションや魅力を感じるのは、「第4節の 3)の②」で指摘しているように、タブラ・ラサがとても重要な人間本質を示しているからだと思う。しかしロックの言う意味での意味ではない。私はまだこの章では自我について特定していないが、自我とはロックが言うようにタブラ・ラサであると思う。自我は一つの空であり無の状況である。その次にその空を満たす有機的知識でもある。しかしこれは2次的なもので、自我は第1次的には無である。その無はどこにあるのかとか、どんなものであるのかとかいう問は問の領分を超えているものである。というのは「私は無である」といっておきながら、無である私が問いを発することは不可能であるからである。問が問うことが出来るのは私が無であることを止めるところからである。問の領域というものは無である私以上のことについては問えないものであろう。第2次的な自我はこうした無の自我に幾つかの異質な世界から入って来た知識からなっている私である。自我はそうした幾つもの異質性からなる多層の構成になっているのであろう。これを物とか観念とか、あるいは他の何かに一元化して捕らえようというのが長い哲学の道であった。しかしそれは第2の自我であって、にもかかわらずその第2の自我の主張が第1の自我を覆い隠してしまったのである。そしてロックにおけるタブラ・ラサの主張は物によって覆い隠すという結果に終わっているのであるが、第2の自我の支配を退け、何時も第1の自我に帰るということが新タブラ・ラサの提唱である。

こうした第1の自我は真我とでもいえようか。私達はそうした自我を日本の伝統的な自我観に見ることが出来る。それがロックのタブラ・ラサの幻惑から自由になる道である。

6)悟りと自我

以上の意味で、真自我というものは空虚であるかもしれない。神道的な自我観にこの空虚な自我観を見ることが出来る。本居宣長によると、明き心と言うことがそれを示しているのであろうか。仏教的な無我観にもそれが伺える。人が無我の境地に入るとどうなるかと言うことがこの世界の興味深いところである。仏陀は自分の悟った世界は誰にも分かってもらえないだろうから誰にも伝えないで行こうと思ったそうである。それを天下の諸神々が請って仏法を説いてもらったそうである。それは非常に微妙で分かることが至難ということである。聖書には油を塗られたものという自我観がある。私はこれらの教示していることはみな同じことであると考えている。

こうした観点から、日本においてはそうした真我をテーマとした方法が歴史的に維持されていると主張される。