玄文講

日記

昨日の続き

2005-04-17 00:29:04 | 人の話
この世に女性という生き物は存在していない。

私は長いことそういう世界で生きてきた。
小学校はクリスチャン系の学校で、男子クラスと女子クラスに分かれていた。
女の子となんか話をする奴はオカマ野郎とののしられていた。

中学、高校は男子校。ああ、無情。

大学は理系で女子含有率1%。私は4年間に4度しか遭遇していない。
女学生はレッドデータブック・アニマルだった。

会社。一番若い女性社員は40代女性だった。

院。女子含有率0%。南無参、、、

精神や人格の形成期に女性と一切関わることなく生きてきた私にとって、女性というものは理解する以前の存在である。
彼女たちは私にとって男性の亜種である。私の知る人間は男性ばかりで、
数少ない例外が

教師もしていた小学校のシスター

スチュワーデスをしていて遊び人だった姉さん

駄菓子屋のおばあさん

だけである。同年代の女性と会話した記憶はない。

私は男女差別をしない人間だと評されたことがあるが、それもそのはずで相手は男性の亜種なのだから扱いも男性と同じになる。
ある意味、これほど女性をバカにした話はないとも思うのだが、それ以外にやり方を知らないのだから仕方がない。

しかし、いくら私でも女性を観察しているうちに、この生き物たちは男性とは根本的に違うことに気がつく。

男性と女性は異なる生き物である。当然の話だ。



しかし一部のフェミニストの間には

男性や女性という概念は、社会的、文化的、政治的、経済的な理由で人工的に作られたフィクションに過ぎない。

人は後天的に男社会や女社会に組み込まれることで、男になり女になるのだ。

という主張がある。

そんなわけがない。妄想、ごまかし、ほらの類である。
しかも、この偏執的な思想に基づいた保健教育が行われている小学校があるという。

進化論と創造論を並行して教えたり、小学生にいきなり論理学を学ばせたのが、後に教育制度の失敗として反省されたように、この保健教育もいずれ反省対象となることだろう。

勿論、言うまでもないことだが女性の権利が守られる社会を私たちは目指すべきであり、
そのためにフェミニズムという学問は必要である。

しかし正しい対策は正しい原因を知るところから始まるのである。
自然がどのように男性と女性を区別しているか知ることなく、男女の権利の平等を目指すなんて地図を持たずに海に出るようなものだ。
失敗するに決まっている。

一部のフェミニストが生物学的な男女平等に固執するのは、自然は道徳であると勘違いしているからであろう。

自然が男性と女性を区別しているなら、社会における男女の不平等も正当化される

と恐れているのだ。
しかし自然は道徳ではないのである。私たちの理性は自然に逆らう力がある。

何よりも私が最近知った彼女たちは男性の亜種とはまるで違う女性たちであった。
あれが生物学的に男性と同じなら私は同性愛者ということになる。まぁ、それでもいいのですけど。

自然は不道徳であり、道徳は不自然であることについて

2005-04-15 18:43:15 | 人の話
昨日私は「両性具有者は繁殖に不利だから自然淘汰される」と書いた。
こう書くと少なくない数の人が、

それは優生学思想なのではないか?

と思うことだろう。
「両性具有が自然淘汰されるという考え方は、肉体的ハンディを持つ人や異なる人種を劣等種として排除する行為を望んでいる。もしくは正当化させてしまう」、という反論が予想される。

今日はそんな当然のように予想される反論について答えたいと思う。

まず昨日の「人類が両性具有にならない理由」の部分だけは私の愚考に過ぎず、他の説と異なり検証にさらされたものではないこと、つまり仮説、ヨタ話に過ぎないことをはっきりと申し上げておきたい。
しかし自然が「両性具有の人類」を選択しなかったことだけは明白な事実である。人類は両性具有者には進化しなかったのである。


ここで、まず進化と進歩は違うことを強調しなくてはいけない。
より劣った存在がより優れた存在へと変わるのが「進歩」
環境に適応して自らの存在を作り替えるのが「進化」である。
例えば、砂漠に適応して「進化」したサボテンは別に他の植物より「進歩」した優秀な存在というわけではない。水の無い地域に適応したか、水のある地域に適応したかという差があるだけである。

進化とはしょせん今の環境に適応したというだけのことである。
それは進歩ではないし、特に優れているとか劣っているかを考えたりはしない。

人類が両性具有ではないのは、単に現在の環境が「男女が別れている」方が繁殖に都合がいいというだけの話だ。

そうなったのは優秀な者が生き残るという必然ではなく、環境がたまたま彼らにとって都合がよかったという偶然である。

もし環境が変化すれば、両性具有の方が繁殖に都合がよくなり、人類はそのように進化するかもしれない。

そして私は「男女が別れている人類」と「両性具有の人類」のどちらに対しても特に思い入れはなく、また嫌悪感もない。


また自然淘汰を決めるのは「優秀か劣等か」ではなく「繁殖に有利か否か」であり、
人間の持つ優劣の価値観とは(繁殖に不利にならない限り)関係がない。

たとえば人間は個体としての能力の追求をやめて、社会性を獲得したからこそ ここまで繁殖したのだという考え方もある。

自然淘汰されるというのはたかがその程度の意味しか持たず、その言葉の中身を勝手に拡大解釈して一喜一憂するのは誤解でしかない。

優生学はその仮説を検証させることなく発展し、その後の検証に耐えることもできなかった間違った仮説でしかない。
そしてひどく政治的で、暴力的であった。
自然のきまぐれの産物である進化を進歩と勘違いしたマヌケであり、自分をエリートだと思い込んでいたバカである。私の主張はそんなものとはまるで違うのである。



肉体的ハンディを持つ人や異なる人種を劣等種として排除する行為を正当化させてしまう、という反論についてはどうだろうか。

確かにそういうことはありえるし、過去にも進化学はそういう目的のために悪用されたことがある。

しかしそれは単に科学の成果を誤解し、曲解して自分の政治的目的に利用しているだけであり、事実に罪はない。

もし、

「悪用される恐れがあるから真実を隠せ」

「その真実は不愉快だから、見たくないし、他人にも見せないようにしよう」

と言うのであれば、それこそナチス的な考え方である。
事実が感情や特定の目的のために抹殺される社会を許すべきではない。
正しい対策は、正しい原因を知ってこそ、立てることができるのだ。
私たちはナチス、旧日本帝国、そしてソビエト連邦の失敗からその教訓を学んだはずである。


事実は語る。
自然は両性具有者を自然淘汰する、と。
この事実を認めたら、私たちは彼らを排除しなくてはいけないのだろうか?
自然の法則が道徳的な思考と一致していない場合、私たちは自然を採用し、道徳を捨てるべきなのだろうか?

答えは否だ。そんなわけはない。
昨日も言ったように自然は道徳ではなく、道徳は自然ではないのだ。
自然淘汰は人間を無視して行われるプロセスなのだから、「人間のために作られた道徳」に反する結果などいくらでも作ることができる。

自然は障害者を抹殺し、強姦で繁殖し、暴力で他者を排除することを私たちに推奨する。
しかし自然がそうできているからといって、私たちの道徳がそれに従う必要はない。

私たちには母なる自然を裏切る理性がある。
それさえも自然から与えらたものだが、子が親に反抗するのはよくあることだ。


まず生物学的、遺伝的な運命は絶対ではない。
人間は自力で環境を変化させることができる。

たとえばフェニルケトン尿症を起こす先天的な遺伝子異常を持つ人は、脳細胞の発達が正常に行われず知能障害を起こす。
しかし新生児のうちにこれを発見し、食事療法を行うのならば、脳細胞は正常に発達して知能も正常になる。
原因を正しく知ることで運命への対策はいくらでも立てられるのだ。



そして医学的にだけではなく、社会的に環境を改善することも可能だ。
私たちはそのために人権という虚構を作り出し、法によってそれを定義したのである。

(ここでの虚構は、生物に生来備わっていないもの。定義があいまいでいかようにも拡大解釈されるものという意味である。「全ての人間は生まれながらに人としての権利を持つ」なんてことは、人が、そして人の道徳が作り出したフィクション以外のなにものでもない。)

弱者を滅ぼし、女を犯し、邪魔者を皆殺しにするのならば、道徳を捨て、人権を捨て、社会からはぐれ自然のままに生きる獣になるしかない。

しかし民主主義国家において、私たちに人権を捨てる権利は認められていないし、少なくとも私はそれを捨てるつもりもない。
私たちがいくら犯して、殺そうが、私たちは人間として裁かれ、処罰され、更生を強いられる。
自然がどうなっているのかとは関係なく、私たちは道徳的な社会で生きているのだ。
そういう社会を、法による秩序のある世界を人間は苦労して作り上げ、自然を克服しているのである。

そんな現代において、今更「自然の法則が道徳的な思考と一致しなくては、私たちの世界は秩序を失う」なんて考えるのはバカバカしい。

自然の法則が道徳的な思考と一致していないからこそ、私たちはわざわざ法を作って秩序を確保しているのだから。
人と人が慈しみあい、相互に助け合う世界は不自然である。そして私はそんな世界の方を好ましく思う。

(参考文献)
社会生物学の勝利
ジョン・オルコック

人が「両性具有(アンドロジニー)」にならない理由

2005-04-14 23:03:31 | 人の話
人間には性別が二種類ある。

男性と女性だ。

ホルモンバランスの問題で女性のような男性や、精神と肉体の性別が一致していない例はあるが、
人間は男性が女性に変化したり、この二つ以外の第三の性が存在したりすることはない。

だがこの制限は自然界においては絶対的なものではない。ある種の微生物は無数の性別を持つことが知られているし、雌雄両性体や雌雄が変化する生物も沢山いる。

カタツムリは雌雄両性体で、交尾してお互いの卵子にお互いの精子を送り込む。



また雌雄変化にはオスからメスになる場合とメスからオスになる場合がある。

基本はそれぞれの個体が繁殖に最も有利になるような変化を選択しているということだ。

これを適応度を高める行為と呼ぶ。適応とは、より多く繁殖することを意味する。
そしてこの適応度を研究する学問のことを「社会生物学」と呼ぶ。
その学問はこの現象を次のように説明する。

まず生殖細胞には二つのサイズがある。

小さな精子と大きな卵子である。

精子は少ない資源で大量に生産でき、出せば終わりである。
一方、卵子は精子よりはるかに大きくて一定量しか作れず、受精した後も胎内で長期的に育てて生まなくてはいけない。より多くの資源と時間を要するわけである。

よって体の小さい間は少ない資源で精子を生産できるオスでいて、体が大きくなった時に多くの資源を必要とするメスになった方がコストパフォーマンスが良いことになる。

それがオスからメスになる変化を選択した種だ。

魚にこういう選択をした種が多い。

広い海では異性に出会うチャンスが少なく、少ない機会を最大限に活用する必要があるからだ。

せっかく魅力的な異性がいるのに僕は子どもですから他を探して下さい、なんて言っていたら子孫は残せないわけである。
だから彼らは一刻も早く体の小さいうちから性的に成熟してしまいたい。
そうなれば初めは少ない資源(小さな体)で精子を生産できるオスになって、体に余裕ができたらメスになるのが一番である。


それではメスからオスになる生物はどういう理由で存在しているのだろうか。

それを選択した種は一匹のオスが複数のメスを独占するハーレム型の種に多い。

つまり体の小さいうちはメスになってオスの子どもを産み、体が大きくなって戦闘力がついたらオスになってライバルを負かし沢山のメスを妊娠させるわけだ。

これなら少なくとも一体には自分の遺伝子を残せるし、上手くいけば沢山のメスに自分の遺伝子を持つ子どもを産ませることができる。

しかし大型の哺乳類で雌雄の変化をする種はほとんどいない。

それは魚類と違って哺乳類の生殖器官は大きくて複雑な構造をしているからだ。

魚なら直径一ミリ以下の卵巣を少し変化させて精子を作り、同じ管を使って排出すればいい。
しかし哺乳類が同じことをするには陰のうを子宮に変えて、排出の為にペニスを膣に改造しなくてはいけない。

それがどれだけ大変かは歌舞伎町の人に聞けばよく分かるはずである。

男性から女性、女性から男性になれない理由は分かった。
では両性を同時に持つことは不可能なのだろうか。つまりあらかじめ両性を持って生まれてくる可能性である。
つまり単一性、もしくはカタツムリのように両性具有が「適応」に有利ならば人はそれを選択していたはずであるから、そうならなかったのには理由があるはずである。

まず、性は何故分化しなくてはいけなかったかのだろうか。
それは遺伝子のエラーを修正するために性は別れる必要があったからである。
単一性ならば遺伝子にエラーが生じれば、それはそのまま子孫に受け継がれ続け、破滅をもたらしてしまう。
しかし2つ以上の性別の遺伝子があれば、お互いに遺伝子を比較しあってエラーを修正することが可能となる。

これが単一性にならない理由である。


では両性具有にならない理由は?
それはおそらく不合理だからであろう。
オスであり、同時にメスであるにはコストが高くつく。
しかしオスである利点や、メスである利点はあっても、両性具有である利点はあまりない。

コストが高くつき、見返りも少ない。
それならば誰も両性具有などは選択しないであろう。

「個体は自分の適応度を高めるための選択しかしない」という社会生物学の公理に反する行為である。



ここで私は夢想する。
もし環境に合わせて自分の体を縦横無尽に変形させることができる生物。

筋肉を増やし、骨格を変形させ、臓器の構造を変化させ、自分自身にとって最も有利と思われる身体能力をあっという間に手に入れてしまう生物がいたとしたらどうなるだろうか。

彼らににとってオスになる方が有利ならば、彼らは女の性なんてものはとっとと捨ててオスになってしまうことだろう。


ありえないことを考えるのは面白いものである。

(参考文献)
生物はなぜ進化するのか サイエンス・マスターズ
ジョージ・C. ウィリアムズ (著), 長谷川 真理子(訳)

(追記、同日)
ここでの私の主張は「全人類が両性具有にならない理由」であり、少数者としての両性具有ならば存在している。

両性具有 - 半陰陽、あるいは第三の性

半陰陽『ウィキペディア(Wikipedia)』

半陰陽

「半陰陽者」ハッシーさんインタビュー

インターセックス・半陰陽者連絡会

井野博美 短編小説集

生物学的に「両性具有の人間が淘汰される」ことと、「人間社会において生きる彼らの権利を守る」ことは別問題である。

よって前者の立場から後者を見下したり、後者の権利のために前者の説を否定することは避けるべきである。
自然は道徳ではなく、道徳は自然ではないのである。

差別と権利のまとめ

2005-04-13 21:46:17 | まとめ
差別問題や政治思想なんかには興味がないはずなのに、気がつくといろいろ書いていたのでまとめてみました。

移民拒否の功罪

私は移民受け入れ賛成派である。
しかし移民受け入れが善で、それを拒む者は後進的で邪悪で差別的思想の持ち主だという考え方はしない。

移民を受け入れないという政策にもそれなりの理由と長所があり、理解できない考え方ではない。
日本というマクロレベルでは外国人との共生は難しいとも考えている。

しかし私たちのレベル、つまり「講」でならば共生は容易に可能であり、既に共生している。
役に立つ者ならば悪魔でも勧誘し、来る者ならば人間でなくとも受け入れるのが私たちの方針である。
ましてや同じ生物種である人間を受け入れるのに何の不都合があるだろうか。


在日朝鮮人が受け取るべきサービスについての考察

人権擁護法についての考察

法による差別規制の限界についての考察

私は差別主義者である。
私は差別もある明るい社会を望んでいる。

しかし人々に機会が均等に与えられ、義務を果たす人にはそれに見合うだけの権利が与えられ、弱い立場の人間が保護され、働きたい人が働き、学べる人間が学べる公正な社会も同時に願っている。

上の記事ではそういうことをダラダラとしゃべっている。


罪について

在日公務員問題、および北方領土、靖国神社参拝についての考察

反日記者会見についての考察

陰謀論花盛り

要点は4つ。
1.国家の経済、外交問題と人間同士の感情的なやり取りを同列で論じるべきではない。
2.自分は正義だと思っていても、他人から見ればワガママにしかみえないことがある。
  正義の人になるよりは不愉快感を与えない人間になるようにした方がいい。
3.他人の精神に口を出すな。
4.石原慎太郎都知事は、智恵と決断力はあるが知識と教養はない人物だ。
  そしていくら砂糖が入っていても塩を混ぜたケーキは食べれたものではない。


進歩と進化

統治と人権についての考察

歴史において絶対的に正しい思想はない。
だから政治思想に正義を求めることは、存在しない黄金卿を目指して野たれ死ぬようなもので、破綻が約束されている。

経済は流儀ならば多種多様だが、絶対的に正しい目的ならば存在している。
それは生産性の向上である。
だから経済に正義を求めないことは、目の前の食事に手を出さないで飢え死にするようなもので、破綻が約束されている。

酒見賢一 「後宮小説」

2005-04-12 00:25:20 | 
「後宮小説」は作者の入念な取材と多くの文献調査が生んだ、歴史に名高いあの乾朝の太祖神武帝の母親「銀正妃」の物語である。

奔放快活な少女「銀河」は軽い気持ちで後宮(ハーレム)の宮女になる。
そこで彼女は様々な人物と出会い、物怖じしない態度で彼らと接する。

宮女でもないのに後宮に出入りする正体不明の人物で、異質な美しさを持ったコリューン。
そして同室の宮女である面々。銀河とはケンカばかりしている気位の高い貴族の娘セシャーミン。無口だが頼りになる僻地出身の江葉。コリューンの姉であり、かなり高貴な家柄の人物と思われるタミューン。
房中術を性の哲学として講義する温厚で思慮深い、銀河と仲良くなる角先生。
彼女らとの奇妙で楽しい半年間を過ごした後、銀河はある理由から正室である正妃に選ばれる。

一方、野では「幻影達(イリューダ)」を名乗る博徒達が「暇つぶし」のために反乱を起こしていた。
あらゆる局面に対して博打を楽しむかのごとく臨む、常識を持たない自由気ままな男「渾沌」。
全ては彼の酔狂さが生んだ行動であった。
その無謀な反乱は、宮廷の権力争いの内紛に利用されるという幸運により、利用しようとした人間さえも破滅させる大反乱へと変貌していく。

やがて正規軍が無力化し、イリューダが後宮にせまり来る中、銀河は宮女を集めて軍隊を作る。隊長は江葉、武器は大砲だ。
そして物語は胸のすくような結末へと向かい始める。


おかしいのに物悲しい。重いのに軽い。この物語には歴史的、喜劇的、悲劇的という言葉がしっくりと来る。
たとえその歴史がこの世には存在しないとしても。

この「後宮小説」の第一文は

腹上死であった、と記載されている

である。この小説を語る人の多くがこの台詞について言及する。
この分かってとぼけているようなニクイ台詞が「後宮小説」なる歴史絵巻の性質を象徴しているからだ。

大ほらをつき、人を西へ東へと連れまわし、こちらをハラハラさせた挙句、
だまされたことに気がついて怒鳴り込むと、ひょうひょうとした態度で「でも、いい暇つぶしになったでしょ?」と涼しい顔で返す。

この小説はそんな人を食った小説である。
だまされるのが楽しいとはこのことである。