玄文講

日記

「自然権」批判

2005-06-30 22:36:06 | メモ
私は「自然権」というものが信用できない。

自然権とは、人間が生まれながらに持つ権利であり、人間の本性と切り離せない普遍的な価値のことである。
人権を自然権だとみなす考え方もその一例だ。たとえば

人権は人間が生まれながらにもつ普遍的な権利であるから、政治や国家はこれを守るべく存在しないといけない。

と言われたりする。

これは人間の自然状態と法を同一視する考え方である。この二つが同じものならば、人間の本性は善良でなくてはいけなくなる。

つまり「自然は道徳である」という考え方に通じるものがある。
だから、ウィルソンやピンカーの社会生物学が「殺戮や強姦は人間の自然な指向である」と言う時に激しい反発を招くのも、自然と法を区別しない自然権の考え方にその原因があるように思える。

このような、人間の本性は理性的かつ道徳的であり、政治や法はそんな人間の自然な傾向を守るものである、という考え方が「近代立憲主義」と呼ばれるものであるらしい。

一方で「現代立憲主義」と呼ばれるものが、上に反発する形で生まれた。
それは人間の道徳能力は個人的なものであり、本質的でもなければ、普遍的な価値でもないという考え方である。

人間が生まれながらに持っている自然とは道徳のことではなく、情動や共感能力のことでしかない。
そして道徳や権利、価値とは人間が他人と社会生活を営む上で作り上げた約束事である。

「人権はフィクションである」と言っている呉智英氏もこの立場だとみなすことができるであろう。
「自由と平等は両立しないのではないか」という考えもこちらの立場だと思う。
ちなみに蛇足ながら私もこちらの立場である。

社会生物学も、こちらの立場と親和性が高そうだ。

前者の立場と後者の立場では政治への取り組み方もまるで異なってくるであろう。
乱暴に断言してしまうと、前者は人権を最優先し、後者は統治と経済を優先する。

アメリカはどちらの立場だろうか。
「世界は民主主義国家になるべきだ。今度の戦争もそのためにやるんだ」なんて発言を見ると、人権を普遍的価値とみなす前者に思える。
日本はどちらだろうか。自民党などの選挙演説を聞いていると前者のような気がする。

しかし実際にはアメリカも日本もきちんと統治や経済を優先しているようにも見える。
ああ、でも、ブッシュ大統領は明らかに前者だ。人権イケイケ、戦争ドンドン、経済バラバラ。

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近代立憲主義はJ・ロックやJ・ルソーのホッブスへの批判から始まったようだ。
ロックは敬虔(けいけん)なキリスト教徒であり、神が人間に与えた聖霊の働き、良心を信じていた。

そして現代立憲主義者にはD・ヒューム、アダム・スミス、G・ヘーゲルなどがいる。
彼らの思想は市場の概念とも関係しており、彼らの思想を追うには経済学も追わなくてはいけないようだ。

そして近代にはケインズ、ハイエクなども出てくるわけである。

今のところ、私は彼らの思想をほとんど理解していない。
だからそれを知りたいと思っている。今後、暇を見つけては彼らの思想について簡単に調べる予定である。

まず次回はリベラリズムの出発点となったホッブスについて調べてみたい。

いきなりホッブスの話を始めても誰も興味を持ってくれないかもしれないと考えたので、今回はとりあえず私の「問題意識」だけを紹介しておいた次第なのである。

企業負担の幻想

2005-06-29 21:03:19 | 経済
「企業」対「個人」とか「国」対「個人」という図式が頭の中にこびりついている人の発言は時おり私をうんざりさせる。

なぜなら彼らにとって企業や国は常に私利私欲のために自分達を犠牲にしようとするものでしかなく、企業の思い通りに行動する者をバカにし、国益のために働く人を犬とののしるからだ。
そして個人の尊厳は企業や国に逆らうことによって得られると考え、企業を糾弾し、反体制こそが良識だと思い込んでいる。

彼らは多くの人は企業に勤める個人でもあることを忘れているのだろうか?
企業が得をするということは、その企業に勤めている多くの個人も得をするのである。

また国を構成する要素は国民である。
国益とは最大多数の個人の利益であり、底辺に暮らす個人たちの利益でもある。

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岩田規久男氏の「間違いだらけの経済常識」という本には以下のような話が紹介されている。

ある環境保護運動家は言う。

「環境を守るために環境税を導入すべきだ」

それは良い方法である。昔も排気ガス規制により、自動車会社は競って新しい規制をクリアしようと励んだ。おかげで車はガスを抑え、更には燃費も改善した。

彼は続けて言う。
「企業は環境税を製品の価格に上乗せするので、消費者が負担することになる。消費者に責任を転換するのはよくないことだ」

実際にこういう事を言う人はたくさんいる。
たとえばサイゾーで山形氏が紹介していた記事において、神保氏は

「重い炭素税だの排出権取引だのと多大な負担を求められた企業が、政府に泣きつき、その結果として国民の血税が温暖化対策のために投入されるなんてことにならないように、今からしっかりと企業を監視しておくことにしましょう」

と言っている。
「負担は全部企業が負え。国民はかすり傷一つ負うべきではない」という考え方だ。
しかしその考えは間違いである。理由は2つある。

まず一つは、人は自分の損にならない限り行動を改めたりはしないということだ。
例えば排出権取引による損失全てを企業が負担したとしよう。価格はそのままだ。そうしたら国民は今まで通りに車を使い続けることだろう。
そうしたら排気ガスは結局いつまでたっても減りはしない。

企業が増税による損失分を自動車やガソリンの価格に上乗せする。そうして初めて、国民は損を避けるために自動車の使用を控え、環境も改善されるようになることだろう。
それだと負担は国民だけが負うことになり不公平だろうか?そんなことはない。
企業は、国民が自動車の使用を控えることで売り上げが落ち込み、きちんと損をする。
だからこそ企業も燃費のいい車や無公害車を開発して売り上げを回復させようと努力し、それが更に環境改善につながるのである。


もう一つの大きな理由は、この世に企業という独立した生物がいるのではないということだ。
企業を構成する要素はなんだろうか。
企業には経営者の他にも、株主や従業員も含まれている。


企業が負担をしょいこめば、その損失は株主の配当や従業員の給料に反映されて減少する。
つまりその企業に勤める私たちや私たちの家族の収入の減少につながるのだ。
給料が減れば消費が落ち込み、それは連鎖的に全ての人々に負担をまわすことにもなる。
企業に全部を押し付けても、結局は私たちの損になるのである。

多くの国民は企業に勤める個人でもあるのだ。
だから企業の損は国民の損でもあり、この2つを明確に分けることはできない。
だから「公害問題の責任は企業が負担すべきだ」なんて何の意味もない要求なのである。公害問題にしろ、なんにせよ、負担は全ての個人が負わなくてはいけない。
それが企業からの恩恵を受けている私たちの責任でもある。

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労働運動は大事である。
労働組合は存在しないといけない組織だ。

しかし彼らもまた「企業が負担」幻想を持っていることがある。
たとえば岩田氏の本では「三・七闘争」などの社会保険料は企業が負担すべきかどうかという問題を無意味な問題だとしている。

もし社会保険料を全額従業員の負担にしたとしても、企業は単にその分を彼らの給料に上乗せするだけである。
逆に企業の社会保険料の負担金が増えれば、その分従業員の給料が減るだけである。

100円を取り上げて100円を渡すか、100円を渡して100円を取り上げるかの違いしかない。
だからそんなことは、どうでもいい問題なのだ。

反論があるかもしれない。
企業は社会保険料を従業員の負担にしておきながら、彼らの給料を増やさないに違いない、と。
しかしよほど経営者側が強くない限り、それは無理である。そのために労働組合が存在し、毎年給料の上下を巡り論争しているのだから。

環境運動にせよ、労働運動にせよ、何かをする人はお金がどこをどのように巡るかを考えてから行動すべきである。
そうでないと無意味な要求にエネルギーを使い果たしてしまい、異常気象や所得の再分配などの本当に大事な問題の解決が遅くなってしまうからだ。

奥崎謙三氏の訃報

2005-06-28 20:26:56 | バカな話
「ゆきゆきて神軍」で有名な奥崎謙三氏がお亡くなりになったそうだ。

奥崎先生はパラノイアである。
しかも偉大なるパラノイアである。

天皇が世界の諸悪の根源と信じ、昭和天皇をパチンコで狙撃し、「天皇ポルノビラ」をまいたり、不動産屋を殺したり、拳銃を発砲したり、キリストを名乗ったりと大活躍した。

こう書くと、ただのキチガイの犯罪者じゃないか、とほとんどの人は思われることだろう。
あるサイトでも毎日新聞が氏の訃報で「奥崎さん」と書いてあるのを見て、「こんな人間をさん付けする新聞ってどういう精神してるんだ。これは単なる気違いだろうが。」なんて怒っていた。(しかし、よくも、まぁ、こんな些細な理由で怒れるものだ。訃報が載ったのは単に有名人だから。イデオロギー的な理由ではない。「さん」づけしているのは訃報だから。好き嫌いで訃報に「さん」をつけたり、つけなかったりする方が変である。怒るべきことは何もない)

しかし、違うのである。
氏はただのキチガイではない。
尋常ならざるキチガイなのである。
観察し、畏怖し、あざ笑い、敬愛するに値する偉大なるキチガイなのである。

誤解がないように言っておけば、私は天皇陛下に対する敬意を失ったことはない。
そんなこととは別にして、この常軌を逸したパラノイアの存在そのものが素晴らしいのである。

天災や災厄は、時として多くのことを私たちに教えてくれる。
大地震から地質学が進歩し、大不況や戦争は経済学に多くのことを教えてくれた。
同じようにこの大パラノイアは、貴重で有意義な存在であった。
先生には随分と楽しまさせてもらった。

この場を借りて奥崎謙三先生のご冥福を祈りたい。

(追記)
奥崎氏の著書の一つ「ヤマザキ天皇を撃て」は氏が天皇陛下を狙撃したときに叫んだ言葉をタイトルにしたものである。
何故ヤマザキ?問うことに意味のない問題もある。


(追記)
当然のことだが、根本敬氏のサイトに奥崎謙三先生へのコメントがのった。

「神様の傀儡」であり「神様の法律」に従い、そして人類史上最も「神様の愛い奴」として生き、そして逝った奥崎さんに冥福を祈るなぞという言葉は無礼この上ない。となればやはりこの言葉しかないだろう。
「奥崎大先生を永遠に尊敬しております!!」


どうやら私は無礼であるらしい。
それも、またよし。

映画とか

2005-06-27 00:00:29 | メモ
私は本やマンガばかりを読んでいる。
ただし読むのが遅いので、たいした数を読んでいるわけではない。
ただ暇さえあれば活字を追いかけ、絵を眺め、計算をして、駄文を書いている。

だから外に出かけることも少ない。買い物に行くのは本屋くらいである。
携帯電話は持っていないし、自宅の電話も月に3回くらいしか使わない。友達もいないので電話をする必要もない。

そんなわけで映画も滅多に見ず、テレビも見ないので、もう5年くらいドラマもアニメも見ていない。
今日は書くことがないので、そんな数少ない「映画・ドラマ・アニメ」の引き出しの中身を公開しようと思う。
「お前の好きな映画なんぞ知りたくもない」という方はページを閉じていただければ幸いである。


好きな映画のシ-ン

「漂流街」、広大なアメリカの荒野を背景に浮かび上がるテロップ「埼玉県」。

「直撃!地獄拳」、しなびた日本の田舎を背景に浮かび上がるテロップ「ニューヨーク」。


好きな映画タイトル

「死体と遊ぶな子どもたち」。
ただし本編は未見。タイトルだけしか知らない。タイトルだけで十分。


好きな俳優

「くノ一忍法帖 柳生外伝」(原作:「柳生忍法帳」山田風太郎)で敵の会津七本槍の一人、隻腕の剣士・漆戸虹七郎の役をしていた田口トモロヲ。

白髪で、肩や首をボキボキ鳴らしながら、目線だけはこちらから外さない不気味な男で、血の匂いを嫌い、人を切るとき香りのいい花を懐に入れる狂剣士。
そのかっこよさに惚れて、一時この役のマネをしていた。もちろん真剣は使えないので木刀で。
でも弱くなるからすぐにやめた。


好きな映画

「ゾンビ」

チャッ チャチャチャ チャッ チャチャチャ チャカタカ タンタンタン


好きなアニメ

「ペリーヌ物語」

サバイバル少女の立身出世物語。


好きなキャラクター

「ジャイアントロボ」敵の十傑集の一人、素晴らしきヒィッツカラルド。指パッチンで人を切り裂く素敵な変態。


好きな映画の歌

「殺しの烙印」の劇中歌

男前の殺し屋は 香水の匂いがした

「でっかい指輪をはめてるな」

「安かねぇんだ」

「安心しろ。そいつには当てねぇよ」

(SE:ピストルの発射音)

曲がったネクタイを 気にして死んだ


寝ぼけ顔の殺し屋は 寒そうに震えてた

「女を抱いてきたのか」

「あたりきよ」

「湯たんぽを抱きな」

(SE:ピストルの発射音)

熱い鉛を 抱いて死んだ

内田春菊「犬の方が嫉妬深い」

2005-06-25 18:47:01 | 
内田春菊さんの「犬の方が嫉妬深い」は実体験を元にして、というか実体験そのままを偽名にして公表した本である。
某漫画家の子供を身ごもり、その人ではない別人である前夫と結婚。その後、その前夫のではない、また別の男性の子供を出産。さらに現夫の子供を身ごもり、家出、そして離婚、再婚。
彼女はその実体験を文章やマンガにしている。
生き方そのものが商売道具というか、見せ物になっている人である。

「犬の方が嫉妬深い」は前夫に愛想をつかして、現夫の子供を妊娠して離婚するまでの過程を書いたものである。
西原理恵子さんは「鳥頭紀行くりくり編」でホモの人からの「友達が失恋して悩んでいます。どうすればいいでしょうか?」という相談に対して

前のと同じ型でちょっと上物をあてがう。

そうするとアラ不思議。
簡単に心を開いてすぐやっちゃうし
前の奴のこと急に何てゆうか知ってる?

石よ、石。石呼ばわり。
せめて生命体で呼んであげるもんじゃない。

これが女心とホモ心の不思議。


と言っていたが、この本がまさにそれ。前夫を石扱いである。

無能、対人恐怖症で役立たず、寝てばかりでぶくぶく太っていく、自分の稼ぎを際限なく浪費していく寄生虫、どれだけ体調が悪くても無理矢理働かせる冷血漢、子供の扱いが雑、相談しても反応しない薄情者、性的不能で不潔。

ここまで一方的に書かれているのを見ると、前夫には「お気の毒様」としか言い様がない。
しかし第三者としては無責任に楽しめる。ただ、この本に不快感を感じる人も多いであろう。
そのあまりの悲惨さに読んでいて気分が悪くなる人、一方的な悪口に被害妄想やヒステリックなものを感じてうんざりする人、その下品さや乱暴さに呆れる人、愚痴ばかりでユーモアがないと思う人、自分が前夫の立場だったらと恐怖する人。まぁ、批判される要素の多い本ではある。

田山花袋氏や佐藤春夫氏のように昔からスキャンダルな実生活を娯楽として世間に提供する人は多かったが、最近では女性もそういうことをするようになったわけである。
私はモラリストでもフェミニストでもないので、そのことについては何の感慨もない。ただ与えられたものを無節操に楽しむだけである。

特に「私たちは繁殖している」などに描かれた「ほのぼの家族」ぶりと比べながら読むと面白さが倍増する。
この幸せそうな夫婦が実は、、、というわけだ。「私たちは繁殖している」最新刊では現夫との「ほのぼの家族」ぶりが描かれているが、彼もただの「石ころ」にならないことを願っている。
これは皮肉ではなく、本心でそう思っている。

そういうえば唐沢俊一氏の「壁際の名言」に春菊さんと現夫の結婚式のときの現夫のお父さんの挨拶が紹介されている。

両家を代表いたしまして、、、両家といってもうちだけでございますが。

いいお父さんである。
そして唐沢氏がこのお父さんに対して「最初の子供の父親の友人でございまして」と挨拶したら、大笑いされたそうである。唐沢氏は

この先何があってもこのお父さんがいれば、この家庭は大丈夫なのではないかと、そんな気がした。

と書いている。離婚するかしないか、夫婦生活がうまくいくかどうかは、本人たちだけはなく、その家族との関係によるところも大きい。
そして確かにこのお父さんならば、その点は問題がないと思われる。