玄文講

日記

貿易その1「国際競争力の幻想」

2006-11-10 00:00:13 | 経済
経済政策において、貿易は実は最重要問題ではない。


もちろん貿易は重要ではあるが、どこかのエコノミストように
「日本人は創意工夫して、国際競争力に打ち勝っていかなければならない」
と拳を振り上げるような大げさな問題ではない。


アメリカや日本などにおいて、輸入や輸出はGDPのせいぜい10%前後を占めているに過ぎない。
輸出入が熱心な経済政策で5%や10%変化しても、GDPにはほんの0.5%や1.0%程度の影響しか与えない。
そんなものは焼け石に水であり、金融政策で国内のインフレやデフレを調整した方がよっぽど効率よくGDPを上昇させることができる。


だから貿易を盛り上げれば景気がよくなるという議論は大げさなものでしかない。
輸出入に大きく依存する企業にとって貿易政策は死活問題かもしれないが、私たちにとって大事なのは国内の経済政策なのだ。


(例)2005年の日本の場合
名目GDP  502.9兆円
輸出額 65兆6,565億円(対GDP比約13%)
輸入額 56兆9,494億円(対GDP比約11%)


しかし、だからといって、私は「貿易なんかしても国の繁栄とは関係ない」なんて言っているわけではない。
貿易の存在そのものは国の繁栄には必要不可欠である。

私が否定するのは、貿易黒字で不況を抜け出そうとして、金融政策をないがしろにする態度である。


そして更にはその背後にある


貿易黒字は善で、貿易赤字は悪


という思想を否定しているのである。


* ******************


比較優位


そもそも貿易とは相互に利益を与える共存共栄行為であり、勝者と敗者の分かれるゼロサム・ゲームではないのだ。


比較優位により、貿易をする国は全て確実に生産効率を上昇させ、GDPを向上させることができる。


比較優位とは何だろうか。
それは他国に比べて効率よく生産できる産業に労力を使い、自国より効率よく生産されているものは他国に任せてしまおうということである。


時おり、比較優位を「優れたハイテク技術と生産性」を持つ国が発展途上国の労働力を酷使することだと思い込んでいる人がいる。
比較優位を優劣関係のことだと勘違いしているのだ。


ノコギリを使うのは上手いけど釘を打つのが下手な人と
ノコギリを使うのは下手だけど釘を打つのが上手な人がいたとする。
彼らが木材から椅子を作ろうとすれば、前者が木を切るのを担当し、後者が組み立てを担当するのが一番効率がいい。
比較優位とはただそれだけのことである。絶対的な優劣を判断する言葉ではないのだ。


以下の文献
クルーグマン「良い経済学 悪い経済学」第6章
竹森俊平「世界経済の謎」第1章
などが上手に比較優位を説明してくれている。


ネットでは
[http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/50273567.html:title]

[http://www.ne.jp/asahi/british/pub/econ/comparative.html:title]

[http://ja.wikipedia.org/wiki/比較優位]

[http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/tohya/model/ricardo.htm:title]

[http://bewaad.com/20050803.html:title]

などが参考になる。


つまり貿易はそれをする双方の国民の所得を上げ、医療や教育を受けることが可能になり、娯楽を楽しむ余裕も生まれるのだ。
そこには勝者も敗者もない。


警戒すべきは、グローバル経済を先進諸国が発展途上国を搾取する手段と思い込んで憎悪することなのである。
彼らが活躍することで不幸になるのは、発展途上国の貧しい人々なのであるから。


そして、もう一つ警戒すべきは先ほども述べた「貿易黒字は善で、貿易赤字は悪」という考えである。


* ******************


開放経済モデル


貿易をしない場合を考えた閉鎖経済モデルでは、国内総生産と総支出が等しくなる。
このモデルでは貯蓄と投資のバランスだけで利子率が決まるので、因果関係が分かりやすい。


最初に述べたように、GDPに占める貿易の割合は大きくはないので、現実の経済での因果関係を理解するには閉鎖経済モデルを学ぶだけでもある程度は大丈夫だったりする。


それでも貿易は大事なので、それも考えたいところだ。
そこで次に単純なモデルとして開放経済モデルを導入する。


このモデルが閉鎖モデルと違う点は、外国が自国の生産物を買い(輸出)、自国が他国の生産物を買うということだ(輸入)。
式で書けば以下のようになる。


Y = C_d + I_d + G_d + EX
= C + I + G ― (C_f + I_f + G_f) + EX


(国内での消費)C_d = (消費)C ― (外国での消費)C_f
(国内への投資)I_d = (投資)I ― (外国への投資)I_f
(国内の生産物に対する政府購入)G_d = (政府購入)G ― (外国の生産物に対する政府購入)G_f
(添字のdはDomestic、fはForeignを表す)

(国内総生産)Yは (消費)C + (貯蓄)S + (税収)T である。
自国の総支出は (消費)C + (投資)I + (政府購入)G である。
閉鎖経済では欲しい物は全て国内で生産された物を買うしかないので、総支出が国内総生産と等しくなる。
しかし開放経済では輸入による支出は自国の生産物に対してのものではないので、国内総生産には含まない。
だから総支出と国内総生産は等しくはならないのだ。


つまり以下の2つが新しく導入されているのである。
(輸出)EX:外国が自国の生産物に支払った財
(輸入)IM = C_f + I_f + G_f:自国が外国の生産物に支払った財


上の式を輸入と輸出の差に注目して、変形してみよう。


NX = EX ― IM
  = 国内総生産Y ― 自国の総支出(C+I+G)
  = 国民貯蓄(Y―C―G)- 投資I


この式のにおいて、原因に相当する外生変数は貯蓄と投資であり、結果に相当する内生変数がNXである。
これより次の極めて重要かつ明白な因果関係が明らかになる。


因果関係(最重要)
貯蓄が投資を上回ると貿易黒字になり、貯蓄が投資を下回ると貿易赤字になる。
つまりNXが正ならば自国は貿易黒字になり、負ならば貿易赤字になる。
何故そうなるのか以下で説明してみよう。


このNXは対外純投資と呼ばれ、国家間の資本の貸し借りを表わす。
NXが負であるとは、自国が資本不足に陥り海外から資金を借りている状態を表している。
そして借りたお金で物を買うので貿易赤字になる。
物を買う必要がなければ、そもそも資本不足にならないし、他国から資本も借りないし、だから貿易赤字にもならない。
因果関係でいうと、貸し借りが先にあり、その結果貿易赤字が生じたのだ。


逆に正であるとは、自国が余剰資金を資本不足の国に貸し付けている状態を表す。
他国は貸し付けられた資本で物を買うので貿易黒字になる。
今回も他国が物を買いたいと思ったから私たちから資本を借りて、その結果彼らが物を買い、こちらの貿易黒字が生じたのである。
貿易黒字があったから他国に金を貸したわけではない。金を貸したから貿易黒字ができたのだ。


間違えてはいけないのは貿易黒字になったから、所得が増えて貯蓄率が上がるわけではないということだ。


このように因果関係を逆に捉えている人は多い。経済学を知らない人が最も勘違いしやすい部分である。
この点を勘違いしていると、貿易黒字は所得の増加につながるから「日本は国際競争力をつけないといけない」と言う羽目になる。


しかし上の因果関係をふまえれば、不況で消費が停滞して、貯蓄が増えたり投資が減ると貿易黒字になったりすることが分かる。


不思議なことは何もないのだが、因果関係を理解していない人は「貿易黒字なのに不況なのは何故だ?」などという疑問に捕われてしまうのである。


貿易黒字とは良いことや悪いことの結果として与えられるものでしかなく、決して貿易黒字が原因で何か良いことが起きるわけではないのである。


そういえば、いつか日銀総裁の福井氏が日経新聞で「日本は国際競争力をつけないといけない」という主旨の発言をしていたことがある。
国際競争力とは定義が不明だが、とりあえず(日本を貿易黒字にすること)と解釈しておこう。


なるほど。だから福井総裁はゼロ金利を解除して、日本を不況にさせて貿易黒字に持っていき、国際競争に勝とうとしているのですね。
さすが福井総裁。有言実行の人。真の日本男児です。
「欲しがりません。勝つまでは」
「試合に勝って、勝負に負ける」
「一億国民総玉砕。神風アタックで国際競争大勝利」
そんな標語が頭の中を横切ります。


国際競争力とは目指すものではない。
目指すべきは経済成長であり、貿易黒字とかはその結果でしかない。
場合によっては経済成長したことで貿易赤字になることもある。
経済が発展して、消費が盛んになり、海外からの投資を多く必要とすれば貿易赤字になるのだから。


だから「国家の持つ国際競争力の重要性」などと口走る人間を見たら、その人はまずマクロ経済学の初歩さえも理解していないと思ってさしつかえない。


* ******************


ちなみに私は以上で単純化したモデルを考えている。


経済学を批判する人には、そういったモデルを使うことに腹を立てる人が多い。
「複雑な経済現象をこんな簡単なモデルで説明できるわけがない」
「こんな簡単な足し算と引き算だけで物事を説明しようとするから、今までの経済学はダメなんだ」
なんて言うのである。


しかし熱力学の基本法則だって単純な足し算でできている。
だが、おおまかな因果関係の説明にはそれで十分なのだ。
物質は熱すれば膨張し、エネルギーが低いところから高いところへ流れることはない。


より詳細な解析をしようとすれば、計算は量も手段も複雑になる。それこそ非線形やカオスのオンパレードだ。
しかし、それを理由に熱力学とそれが導く因果関係を否定する人はいないだろう。


つまり彼らはエネルギー保存則のごとき経済学の基本的な因果関係を知りもせずに、経済学者を頭の固い新しい発想を受け入れられないバカと見下して批判しているのだ。
そして妄想が誇大化すると、自分には経済学を変革する大発見ができると信じ込んでしまうのである。


「スカラー量を超えたベクトルを使った経済学を私は発明した。どうだスゴいだろう。頭の固い経済学者どもにはマネできまい」


「線形を凌駕する非線形を使った経済学を私は発明した。どうだスゴいだろう。頭の固い経済学者どもにはマネできまい」


「実数を超越した複素数を使った経済学を私は発明した。どうだスゴいだろう。頭の固い経済学者どもにはマネできまい」


批判者の数だけ「革新的な経済学」が存在するありさまである。
彼らは相対論を否定するトンデモさんと同じことをしている。

最新の画像もっと見る