玄文講

日記

本棚の中

2006-01-30 01:04:27 | 
本棚を見ればその人物がどういう人間か分かると言う。
そこで今目の前にある本棚に並べてある本について簡単に紹介してみようと思う。
それをもって皆さんには私がどういう人間かご自由に想像していただきたい。

@カオスレギオン 聖戦魔軍篇 ☆☆

「マルドゥック・スクランブル」の冲方 丁氏の書いたファンタジー小説。
元はゲームだったらしく、あまり面白くない。
ゲームのノベライズ化なら、こんなものかというかんじ。

@カオス レギオン0―招魔六陣篇 ☆☆

カオスレギオンの過去編。以降01~05は全て1作目につながる過去の話。
ファンタジー小説のお約束をなぞるように話は進む。

@カオス レギオン01―聖双去来篇 ☆☆☆☆

ゲームと無関係になるにつれ、登場人物も賑やかになり、前作より遥かに面白くなる。

@カオス レギオン02 魔天行進篇 ☆☆☆☆☆

2万人の難民を新天地まで送り届ける群像劇。
素晴らしい傑作。ファンタジー小説だと思い敬遠すると損をすること必至である。
この一巻だけでも読むべし。

@カオス レギオン03 夢幻彷徨篇 ☆☆☆
@カオス レギオン04 天路哀憧篇 ☆☆☆☆
@カオス レギオン05 聖魔飛翔篇 ☆☆☆

どれもこれもいい話である。
しかし最後の締めが一作目の、あの一番できの悪い話だと思うと少し物足りなく感じる。

@でろでろ6巻 ☆☆☆☆

妖怪と妖怪を普通に小突き回す不良少年・耳雄の話。
妖怪に怯える相原さんと妖怪を脅す耳雄の対比が愉快。

しかし作者の高校時代をつづった巻末マンガが一番面白かった。

@からくり民主主義 ☆☆☆☆

行って、見てきた、ホントの話。

著者はマスコミで騒がれた有名な事件の現場に行き、現地の人の話を聞き、マスコミで報道されている内容とはまるで異なる実態を明らかにしていく。

@ピョートル大帝とその時代 ☆☆☆☆

彼は大工仕事が大好きで、大酒飲みで、子供時代から死者も出る本格的な戦争ごっこに明け暮れて、身長2メートルを超す大男で、そして皇帝であった。

18世紀ロシアの近代化に努めた異色の皇帝の物語。

@ロシア史講和4巻 ☆☆☆

ピョートル大帝の時代についてのロシア史の本。
出てくる名前が多すぎて覚えられない。歴史の本は苦手である。

@視覚の冒険 ☆☆☆☆☆

錯視について体感させてくれる、自分の視覚をいじりたおすことのできる本。
ステレオグラムの偉大さが分かる。

@刑務所の中 ☆☆☆

研究室の中と大して変わらない生活ぶり。

@自虐の詩(下)☆☆☆

「人生には明らかに意味がある」

自虐の詩を読んだ人の中には、上のセリフを思い出しただけで泣き出す人もいるはず。

@わさび全4巻 ☆☆☆☆

一條裕子女史のマンガ。帯刀隆太郎の無駄に冗長で粋な考察の日々。

@アイソトープの安全取扱入門 ☆☆

放射能漏れ事故対策の本。ただで貰った。でも読んでいない。

@唐沢俊一「能天気教養図鑑」☆☆☆☆

古本屋と古本マニアのランキングが身につまされる。

@DVD 宇宙船レッド・ドワーフ号 ☆☆☆☆☆

本ではないけど並んでいる。
イギリスのSFコメディー。

@MTBメンテナンスBOOK ☆☆☆

本棚の中の唯一の実用書。
だが「アイソトープの安全取扱入門」も実用書に入れておくべきだろうか?

@世界デザイン史 ☆☆☆

印刷屋時代に使っていた参考文献。面白かったが、あまり仕事には使いはしなかった。

@その他物理の本、雑誌、論文

書くのが面倒なので省略。

(追記)
机の上にはノートパソコンと乱雑に広がったメモ用紙と書類と雑誌と論文。
その上に更に本が地層をなす。

@英和辞典

@ポール クルーグマン 「良い経済学 悪い経済学」

国際貿易は国際競争ではない、というのがメインテーマの本。

@関満博「ニッポン空洞化を超えて」

産業構造はアジアも巻き込んだグローバルなものになりつつある、という状況を解説した本。

@佐々木 倫子「動物のお医者さん」

息抜きに読んでいる。
北海道大学獣医学部の倍率をはねあげた90年代初頭のマンガ。
時代背景がバブル時代なのが懐かしい。

@論語(上)

毎日持ち歩いていたせいで、雨でふやけて、食べ物のシミで汚れて、背表紙のノリが弱くなっている。

@大きなダンボールの中になんか沢山

自分でも何が入っているのか、何を入れたのか分からない。
一番上に見えるのは「就職の手引き2005」。貰った覚えも買った覚えもないパンフレット。

多忙なときほど、どうでもいいことを考える

2006-01-27 20:42:44 | 個人的記録
私は博打に負けて約30万円を損した。残念ではあるが予定外の出来事ではない。

それで損失を取り戻すためバイトをすることになった。
しかし、バイトとは言っても祖父からの依頼を受けるだけである。
だが、祖父とは言っても私と血の繋がりはない。
そういうわけで今年、私は中華人民共和国へ行くことになった。中国語を覚えなくてはいけない。
ウォウシィリィベンレェン

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自動車学校を卒業した。
もちろんオートマ限定だ。それでも規定時間を10時間くらいはオーバーした。
私の運転技術はまだまだ未熟である。
だから私は今後も経験を積み状況判断能力を養い、油断せずに安全運転を心がけ、死亡事故に伴う責任と遺族の悲しみの重さを忘れずに、人を殺さないように気をつけなくてはいけない。

ところで話は変わるが、車は暗殺には最適の武器であると私は思う。
それは殺傷能力という意味においてだけではなく、不自然さがないという意味においても最適なのである。

つまりそれはこういうことだ。
まず暗殺者は依頼を受けて、対象をひき殺す。殺意を疑われないように、相手が死亡したのを確認してから救急車を呼んでもいい。
これは見かけ上は年間8000件ほど発生している普通の死亡事故である。
誰も「普通の事故」を暗殺だとは思いはしないであろう。

依頼人との接点を洗われない限り、この暗殺は「業務上過失致死」で終わる。
「業務上過失致死」の刑期は比較的短い。
酒酔いや無免許や2人以上の人を殺しでもしない限り、懲役5年くらいが相場であろう。
暗殺でつかまるリスクを考えれば、さっさと事故として捕まり短い刑期を過ごしたほうが得である。
警察は未解決の事件にはすさまじい執念を燃やすが、一度解決した事件にはとても無関心になる。
だから暗殺として捜査されるよりは、単なる事故としてさっさと解決してもらった方が安心だ。

遺族への保障はあらかじめ多めに保険に入っておいてまかなうことにする。足りなくても表向きの収入を納めればいい。
そして褒賞は裏で依頼人から貰うのである。もちろん懲役5年がチャラになるくらいの多額の褒賞を貰えるように依頼の段階で交渉しておかなくてはいけない。
あとは失踪して他人の戸籍を買って外国で暮らせばいい。
依頼主としても失踪してくれた方が安心であろう。

もっとも不自然さが出ないようにひき殺すには、それなりの運転技術が必要だろうから私にはできない話である。
私の運転技術はまだまだ未熟である。
だから私は今後も経験を積み状況判断能力を養い、油断せずに安全運転を心がけ、死亡事故に伴う責任と遺族の悲しみの重さを忘れずに、人を殺さないように気をつけなくてはいけない。

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しかし、よく考えると、どうしても上の暗殺は成功しがたいものであることに気がついた。

何故なら、そこには需要と供給の溝があるからだ。
まず依頼主と暗殺者を結びつけるには、どうしても多くの仲介を必要とする。
何故なら依頼主は誰が自分の依頼を受けてくれるか分からず、暗殺者は誰が誰を殺してほしいのか知らないからである。
この需要と供給の不均衡を解消するには、どうしても彼らを結びつける仲介役の人間が必要になる。
しかしそれは仲介者への謝礼というコストを増大させ、接点も大幅に増やしてしまう。つまりばれる可能性が大きくなる。
そもそも普通の人は仲介役を探すのだけで一苦労である。(もっとも普通の人は暗殺者を雇ったりはしないと思うが。)

だから、この暗殺が成功するためには次の条件を満たす必要がある。

「依頼主は暗殺者と面識はない。それ以前に依頼主は暗殺者に暗殺を依頼さえしていない。だからもちろん何の見返りも暗殺者は受け取ることができない」

つまりこれはボランティアとしての暗殺である。
しかし依頼なき依頼主などというものは、はたして存在しうるであろうか?
依頼もないのに、誰が誰を殺したいのか分かるものだろうか?

それが分かる場合があるのである。
それは犯罪被害者である。

たとえば強姦目的の18歳の青年に妻と赤ん坊を殺された男性がいる。
この青年は未成年であるがゆえに死刑をまぬがれた。
そして生き残った男性は、はっきりと「殺してやりたい」と明言していた。
愛する者を下らない欲望のために殺された男性としては、この青年の死を願うのは当然であろう。

これで依頼は成立である。

復讐とは死んだ者のためにするのではなく、生きている者の心を慰めるために行うのである。
しかし復讐は、実行者の精神も肉体も社会生活もボロボロにしてしまう。
だが復讐をしなくては心が安らぐことはないのである。特に残された家族のない人間にとっては復讐を忘れさせてくれるものはない。
復讐とは、するも地獄、しないも地獄なのである。

そこでボランティアの出番である。
復讐はなされる。しかし被害者の負担はない。
それが「依頼なき暗殺代行」である。
第三者が勝手に被害者の心情を汲み取り、勝手に事故に見せかけて殺すのである。
被害者は後日、加害者が単なる不幸な事故で死んだことを知るだけである。誰かが自分のために暗殺を代行したことを知ることは永遠にない。

だがボランティアとは常に相手の気持ちを考えて行うべきであり、独りよがりの自己満足な行為で終わってはいけない。
だから暗殺者は、まず本当に被害者が加害者の死を望んでいるか確認しないといけない。これは慎重に確かめるべき事柄である。
また被害者が、どのような復讐を望んでいるかも知らなくてはいけない。
たとえば被害者が加害者を生け捕りにして、あらゆる拷問を行い、じわじわなぶり殺すつもりならば、こちらが勝手に殺してしまうのは余計なお世話であろう。
暗殺は、被害者が単に「加害者が生きているのが我慢できない。なんでもいいから、とにかく死んでほしい」と思っている場合に行われるべきである。

もっとも私にはボランティア精神はないので、このような暗殺を実行することは絶対にないのである。

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現在の私は博士号を取るために公聴会の準備をしている。

だから、忙しい。

だけど忙しいときほど上記のような、どうでもいいことばかりを考えてしまうのである。

妄想「夜に自転車」

2006-01-26 16:36:03 | 怪しい話
私は自転車で、人気のない深夜の街中を走っていると、だんだんと寂しくなってきてしまうのである。

私は誰もいない夜の街に違和感を感じ、不安を覚えるのだ。

しかしである。人のまったくいない山道や郊外を走っているときには、私は決してこんな寂しさを感じたりはしない。

むしろ夜の静けさが心地良く、周囲に広がる闇の深さに解放感を覚えるだけだ。

それなのに夜の街はなんでこんなにも寂しいのだろうか。

幾つもの家の四角形の窓からは明かりがもれ、速度をあげた自動車が何台も勢いよく私の真横を通り過ぎていく。

街灯が規則的に並び、遠くでは信号が赤く点滅している。

そこかしこに確実に人がいて、街は普段通りに機能している。

だが走っている間、私はその中の誰一人の姿を見ることもない。

他の歩行者や自転車などともすれちがうことはなく、私はずっと人間の姿を確認できないでいるのだ。

人がいるのに、人の痕跡が見えない。それが私を不安にさせる。

実はここには自分以外は誰もいないのではないかという錯覚に陥るからだ。

あの家の中には本当に人が住んでいるのだろうか?

明かりがついたままの無人のダイニングの中で冷蔵庫が低音を鳴らしているだけなのではないのか。

あの車の中には実際に人が乗っているのか?

無人の車がプログラムされた通りに自動的に動いているだけなのではないのか。

この世界に人間なんてものは存在していなくて、ただ純粋に街の機能だけがつくろわれているのではないのか。

そんなことを思うのだ。バカげている。
それがありえないことだというのは分かっている。完全な妄想だ。

ここには大勢の他人がいる。無人などではない。たまたま私がその中の誰一人とも会わないでいるだけなのだ。

そして同時に、私がここにいても、ほとんどの人はそのことを気にもしていないというだけのことなのだ。

つまり、私がここにいる誰も彼もの存在に気がついていないように、誰も彼もが私を知らないでいる。

それならば、この世界に他人が存在しないと妄想するのではなく、この世界には自分が存在していないと妄想することもできる。

私はいないのだ。

私はいないから、いない者が、いる者たちと出会うことなんてありえるわけがないのだ。

だから私は誰とも会わないのだ。

それで私はいなくなってしまった自分を哀れんで寂しがっているのだ。

ここにいると私はどこかへいなくなってしまう。

私の時間だけが他の人々からずれて、私はこの街の中に取り残されてしまっているのだ。

いない。

いない。

私がいない。ここにいつまでもいると、私はいなくなってしまう。

だから私は自転車のスピードを上げて、夜の街を急いで通り過ぎるのである。

国際結婚に関する中途半端な考察

2006-01-15 18:37:55 | 人の話
私は国際結婚に偏見を持っている。
「国際結婚は金のある国が貧乏な国の女性を女衒(ぜげん)のように買い占める行為だ」というのがその偏見の中身である。

私がそういう偏見を持っているのに気がついたのは昨日のことだ。
私は先日、ある用事に使うためウクライナの歴史について簡単に調べていた。
そのとき私はウクライナ人女性との交際や結婚を推奨するサイトを見つけて、気が滅入ってしまったのである。

何故に私はそんな気分になったのだろうか。
おそらく私はそこに

さえない日本人男性がアジアや東欧の貧しい国の女性を経済力にものを言わせて囲う。

という構図を見てしまったからだろう。
ちなみに、この構図の上には「さえないアメリカ人男性でも日本の女性にはもてる」という図が入ることもある。

何故この構図が不愉快なものなのだろうか。
そこには、偶然に金持ちの国に生まれただけの人間が、偶然に貧乏な国に生まれてしまった人間を自由にしているような印象があるからだ。

他にも自分の実力以外のところで勝負しないと女性に相手にされない男性の悲しさとか、生活のために異国に嫁ぐ女性の運命とか、ステレオタイプのイメージが頭の中を横切ったこと。

好きになった女性がたまたま外国人だったというわけではなく、はじめから外国人を標的にして口説くのはフェアではない行為に見えたこと。

また下半身の欲望のためだけに他国に踏み込むのが、ひどく無礼なことのように思えたこと。

そういうことも、この不快感の一因であろう。


しかし私は次に、これはそんなに特殊なことなのだろうか?この不快感は錯覚に過ぎないのではないか?これはそんなに非難されるべきことなのだろうか?とも考えた。

そもそも財力のある人間が女性にもてるのは日本人同士でもよくあることである。
ただ外国人との結婚の場合は、異文化交流という別の問題もついてくるので目立つだけの話なのではなかろうか。
ならば国際結婚において非難されるべきことがあるのならば、それは相手(と相手の国の文化)を理解しないまま結婚したということであって、金持ちが貧乏人を口説いて結婚したことは別にどうでもいいことなのではなかろうか。

それに「金にものをいわせる」と言えば聞こえは悪いが、「生活力のある人間が好かれる」と言えば一般の女性の多くがそれを基準に結婚している。
だから「経済格差」を利用した求婚を不公平と言ってしまえば、世の結婚の多くが不公平になってしまう。

そして女性にとっては公平だろうが不公平だろうが、暖かい場所とうまい食事を与えてくれる男性がいいのであって、それを非難する善人どもなんて余計なお世話で、むしろ迷惑なだけではないのか。

と、まぁ、以上のようなことを私は考えたのである。

結局、偏見の中にも一部の真実があるのか、偏見は偏見に過ぎないのか、どちらが正しいのか私には分からない。
それ以前に、この問題は個々の場合によりけりで正しい考え方なんてないのだろう。
当事者でもない私がこれ以上いくら考えても仕方ないので、私はこの考察を放棄することにした。

(ちなみに、ここで考察している国際結婚とは、自由恋愛の結果がたまたま国際結婚になった場合ではなく、始めから特定の外国人を目的にした国際結婚のことである。)

大学に潜む者たち

2006-01-10 17:20:53 | 個人的記録
さて、最近の私は大学に住んでいる。

寝袋、毛布、サバイバルブラケット(携帯用毛布。銀色のシートみたいなもの)を長いすの上に敷いて毎晩寝ている。

洗面用具も持ち込み、大学でヒゲを剃ったり、髪を洗っている。
身体だけは洗えるほどの大きな場所がないので、濡れタオルでふいて済ましている。
研究室に女性が一人もいないからこそできる荒業だ。
あー、ほんとうに、研究室に女の人がいなくてヨカッタナー、チクショウ(泣)

またガスがひいてあるのでコンロやなべを持ちこみ自炊し、冷蔵庫に保存してある冷凍食品を電子レンジで温め、談話室のアメリカン・コーヒーを飲んでいる。

実に快適である。
自分の家よりはるかに暮らしやすい。凍死の心配がなく寝れるのが嬉しい。
山谷の狭いカプセルホテルで震えながら暮らしている知人に教えたら、とてもうらやましがっていた。
「研究生になれば月4万円で、この暮らしができる」と冗談で言ったところ、本気で考え始めてしまった。
来年以降、当研究室の人口がむさくるしい男どもであふれたら、それは私のせいである。

そんな快適な場所であるから、私以外にも大学に住んでいる人が何人かいる。
中には部屋に木材をはってフローリングを作り、玄関を設け、研究室を本当の部屋に改造してしまった教官もいる。
しかも彼は体育部のシャワー室を使う権利も持っているので、大学生活唯一の欠点「身体を洗う場所がない」もクリアーしている。
完璧だ。素晴らしい。