玄文講

日記

国際結婚に関する中途半端な考察

2006-01-15 18:37:55 | 人の話
私は国際結婚に偏見を持っている。
「国際結婚は金のある国が貧乏な国の女性を女衒(ぜげん)のように買い占める行為だ」というのがその偏見の中身である。

私がそういう偏見を持っているのに気がついたのは昨日のことだ。
私は先日、ある用事に使うためウクライナの歴史について簡単に調べていた。
そのとき私はウクライナ人女性との交際や結婚を推奨するサイトを見つけて、気が滅入ってしまったのである。

何故に私はそんな気分になったのだろうか。
おそらく私はそこに

さえない日本人男性がアジアや東欧の貧しい国の女性を経済力にものを言わせて囲う。

という構図を見てしまったからだろう。
ちなみに、この構図の上には「さえないアメリカ人男性でも日本の女性にはもてる」という図が入ることもある。

何故この構図が不愉快なものなのだろうか。
そこには、偶然に金持ちの国に生まれただけの人間が、偶然に貧乏な国に生まれてしまった人間を自由にしているような印象があるからだ。

他にも自分の実力以外のところで勝負しないと女性に相手にされない男性の悲しさとか、生活のために異国に嫁ぐ女性の運命とか、ステレオタイプのイメージが頭の中を横切ったこと。

好きになった女性がたまたま外国人だったというわけではなく、はじめから外国人を標的にして口説くのはフェアではない行為に見えたこと。

また下半身の欲望のためだけに他国に踏み込むのが、ひどく無礼なことのように思えたこと。

そういうことも、この不快感の一因であろう。


しかし私は次に、これはそんなに特殊なことなのだろうか?この不快感は錯覚に過ぎないのではないか?これはそんなに非難されるべきことなのだろうか?とも考えた。

そもそも財力のある人間が女性にもてるのは日本人同士でもよくあることである。
ただ外国人との結婚の場合は、異文化交流という別の問題もついてくるので目立つだけの話なのではなかろうか。
ならば国際結婚において非難されるべきことがあるのならば、それは相手(と相手の国の文化)を理解しないまま結婚したということであって、金持ちが貧乏人を口説いて結婚したことは別にどうでもいいことなのではなかろうか。

それに「金にものをいわせる」と言えば聞こえは悪いが、「生活力のある人間が好かれる」と言えば一般の女性の多くがそれを基準に結婚している。
だから「経済格差」を利用した求婚を不公平と言ってしまえば、世の結婚の多くが不公平になってしまう。

そして女性にとっては公平だろうが不公平だろうが、暖かい場所とうまい食事を与えてくれる男性がいいのであって、それを非難する善人どもなんて余計なお世話で、むしろ迷惑なだけではないのか。

と、まぁ、以上のようなことを私は考えたのである。

結局、偏見の中にも一部の真実があるのか、偏見は偏見に過ぎないのか、どちらが正しいのか私には分からない。
それ以前に、この問題は個々の場合によりけりで正しい考え方なんてないのだろう。
当事者でもない私がこれ以上いくら考えても仕方ないので、私はこの考察を放棄することにした。

(ちなみに、ここで考察している国際結婚とは、自由恋愛の結果がたまたま国際結婚になった場合ではなく、始めから特定の外国人を目的にした国際結婚のことである。)

神に祈れば手がふさがる

2005-09-18 18:53:49 | 人の話
息子が分裂病になった人の記録がネットにあった。

愛する者が発病したことに対する絶望と、回復の兆しに希望を持ち、悪化の兆しに不安を覚える気持ちの揺れ具合が痛ましくもあり、励ましたくもある。

また家族の発病は精神的な問題だけではすまないことになっている。
治療費にかかる費用は、保健が適用されるようになった今でも重いものだ。
介護には人の手、母親や兄弟の協力が必要だ。そして介護者はそのために自分の時間を失わないといけない。それがストレスになり、家族内に新しい争いが生まれる。
治療の便利のために父親は病院の近くへ引越し、仕事も変えないといけなかった。
家族一人の病気は家族全員の人生に影響を与える。

負担する側はいつまで、それに耐えられるだろうか?
負担をかけた側は、回復した後に、その事実に耐えられるのだろうか?

そんなことを考えながら、そのサイトの掲示板を見たとき、私は嫌悪感で胸が満たされるのを感じた。

根本的な問題解決のためには、創造主なる神であるイエス・キリストに「この問題を解決してください」と祈ることをお勧めします。イエス・キリストは、私たちの罪をすべて担い、私たちの身代わりとなって十字架上で血を流して死んでくださいました。しかし、イエス・キリストご自身は神の御子であり、まったく罪がなかったので、3日目に復活しました。イエス・キリストは、今も生きておられます。そして、「私を信じるものは永遠の命を持つ」という約束をたずさえて、あなたの心をノックしています。あなたも、神に愛されているのです。ぜひ、次のように祈ってみてください。そうすれば、イエス様は必ずあなたの祈りに答えてくださり、あなたの人生を変えてくださいます。「イエス様、今、私はあなたを救い主として私の心にお迎えします。私のすべての罪をゆるしてください。そして、私の心に入って、私の人生を導いてください。」お時間があれば、お近くの教会に足を運んで、いろいろと牧師に相談してみてください。創造者なる神は、あなたを心から愛しておられます。

こういうことを、するから!

こういうことを、する奴がいるから!

こういうことを!こういうことを!

神に祈り、人を貶める愚劣なる悪魔のような羊。

神のために人を傷つけて、それに痛みを覚えない鈍感なるしもべ。

地獄への道を善意で敷き詰める知性もなく、品性もない人間。

こんなことを、するから!

こんなことを、する奴がいるから!


日常生活を営んでいる人に対して信仰を勧めるのならばいい。
しかし、心の病を治す最良の手段として信仰を勧める人間はただの詐欺師である。
いや、「ただの」ではなく最低の詐欺師だ。

信仰は、漢方薬や健康食品と一緒だ。
健常者にそれを勧めるならば、それは最悪の場合でも風変わりな習慣で済む。

しかし癌患者などに対して「治療の最良の手段」として漢方薬や健康食品を薦めるのならば、それは最悪の結果を招く。

なぜなら彼らは医学をバカにしているため患者を正規の治療から遠ざけさせて、癌を手遅れなまでに進行させてしまうからだ。

これも同じことだ。
信仰は治療の最良の手段ではない。
もし信仰に逃げて、治療を怠ったのならば、全ては破滅へ向けて加速を始める。

人は誰しも狂いうる。多かれ少なかれ狂気は万人の中にある。
しかしほとんどの人は、狂気を抱えながら日常生活を営むことができる。
ここでも、私はそういうことについて言及している。)

だが中には社会生活ができない状態になってしまう人がいる。
その場合、一刻も早い治療が必要だ。
放置すれば確実に人格の後退と、退化した状態での固定化を招く。
軟禁し、薬を投与し、環境を変えないと、その人の社会人としての人生は終わる。

そんなときに信仰を強制するなんて。
しかも心身ともに疲れた人間の弱みに付け込んで、自分の信念を他人に押し付けようとするなんて。
もしこの父親が彼らの忠告に従い神に祈ったとき、その息子の心は死に向かって転がり出すのだ。
これを最悪と言わないのならば、何を最悪と言おうか。


*************

私は昔のことを思い出す。

私が通う学校はカソリック系の小学校だった。

私の通った幼稚園は仏教系だったのに、うちの親は何を考えていたのだろうか。
答えは簡単だ。何も考えていなかったのである。本人に確認済みである。
おかげで私の机の引き出しには、今でも数珠とロザリオが入っているわけである。

(話は変わるが、どうやら最近の一部の界隈では、神に祈りをささげるためのロザリオは義兄弟のちぎりを交わすための道具であり、迷える羊を見守るのは神やイエスではなく聖母マリアであるらしい。)


しかし私に限らず、そこに通う生徒やその親は必ずしも熱心な信者たちではなった。
中には不動明王のお守りを肌身離さず持っている生徒もいて、しかしシスターや教師はそれを叱りはしなかった。

神父様やシスターは私たちにこうおっしゃられた。

「キリスト者ではなくても、神を信じていなくても、その生活が私たちよりも真のキリスト者に近い者がいる。」と


彼らは自分たちのほうが日本の中では異端であることを知っていたのだ。
そんな中では他人への寛容を示すことが、自分たちも寛容な扱いを受けるために必要なことであった。

だから進化論も教わったし、感想文に堂々と初詣や祖父の兄の為に靖国神社へ参拝したことを書いたし、信仰を強要されることもなかった。

私は中世の不寛容の歴史を持つ宗教から寛容を教わり、俗世と宗教を共存させるバランス感覚を身につけた。
その私から見れば

根本的な問題解決のためには、創造主なる神であるイエス・キリストに「この問題を解決してください」と祈ることをお勧めします。

これは軽蔑と反感と嫌悪と呪詛を招くだけの放言である。

しかしいつの世にも、この放言を信じてしまう人が必ずいることを私は知っている。
そしてその当然の帰結として破滅した彼らを救ってくれる神がいないことも私は知っている。

******

天にまします、我らが神よ

願わくば御名の尊とまれんことを (ゆえに御名を貶めるこの輩に罰を!)

御国の来たらんことを (ゆえに御国を遠ざけるこの輩に罰を!)

御旨の天に行われる如く地にも行われんことを (ゆえに御旨にかなわぬこの輩に罰を!)

我らに日用の糧を与えたまえ (ゆえに我らから糧を奪うこの輩に罰を!)

我らを試みにひきたまわされ 我らを悪より救いたまえ (ゆえに我らをこの悪から救い給え!)

我らが人を許す如く 天も我らを許したまえ (許しますとも 彼らが罰を受けた後ならば!)

アメン

昨日の補足「パクリの巨匠」「文化と遺伝」など

2005-06-08 03:08:15 | 人の話
昨日は文化は伝播するものであり、模倣は必ずしも悪ではないことを主張した。
しかし言葉足らずと思われる点が幾つかあったので追加したい。

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コピーはオリジナルには勝てないと言われている。
しかし何かを参考にして後から作ったもののほうが面白くなることもある。
むしろ後続が先発より面白い例のほうが多い気さえする。
たとえば次の巨匠がそうだ。

パクって巨匠と呼ばれるようになった人

逆に昔の作品は今の作品より劣っているからダメだと言われたりもする。

ここ数年、手塚治氏の原作をもとにして多くのアニメやマンガが作られている。
映画ブラックジャックやPLUTOなどがそれなのだが、(私には)原作より面白くなっているように見える。
しかしそれをもって手塚氏がすごくないと言う人はいないであろう。

ライト兄弟の作った飛行機が59秒しか飛ばなかったからと言って彼らを否定することがないのと同じことだ。
最初に何かをやった個人は偉大なのである。

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私は人間の性質が全て後天的に環境からの影響を受けて形成される、とは考えない。

あらかじめ人間には生まれながらに組み込まれた性質がある。
それはより効率的に文化を模倣し、学ぶための仕組みである。

たとえば幼児は親が何を考えているかを予測しながらマネしており、自閉症児にはそれができないことが知られている。
先天的な遺伝子の仕組みが文化の伝播に影響を与えているのだ。

遺伝と環境は相互に依存を与えている。
環境の影響だけが強調される傾向があるが、カエルの子はカエルという言葉にも真実は含まれている。

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私はすべての文化が保存されるべきだとは考えていない。
文化の多様性という言葉はどこかインチキくさい。
より便利な文化が自然淘汰で生き残るということを極端に無視しているように見えるからだ。

原始的な文化しか持たない民族が便利さを求めて近代文明を輸入するのはよくあることだ。
伝統を守れと言っているのは外野だけで当事者たちは迷惑がっているということもある。

たとえば合掌造りの古い家屋をマンションや快適な家にしたいのに、国から文化財に指定されて困っているという話がある。

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民族性に言及するのと人種差別は紙一重だ。
私も民族性は全体的な傾向に過ぎないとみなし、過度の一般化をしないように注意しているつもりである。
また民族性は遺伝よりも環境の影響により獲得されるものであり、人種の性質ではない。

(追記)
民族性と偏見をどうやって区別するのか、と言われると返答に困る。

それは有名な日本研究書である「菊と刀」で分析された日本人像が当たっているようでもあり、偏見でもあるように感じるのと似ている。

また自分が見知っている外国人だけから、その国の全体像を想像するのも乱暴な考え方かもしれない。
個人の体験を安易に普遍化している。

しかし民族ごとに特性があるのも確かなことと思われる。
私見では韓国人の民族性は

「人情が厚い」「大雑把」「激情に走りやすい(怒りすぎて死ぬことができるほどだ)」「愛国心が強い(体重自慢はこの延長にある)」「差別に無頓着」「ケンチャナヨ(気にすんな)」

というのがある。やはり偏見だろうか。

文化の伝播と著作権

2005-06-06 18:45:40 | 人の話
私は個人と全体を同一視する考え方が嫌いである。
たとえば私が日本人というだけで先の戦争の責任を問われたり、相手が支那人というだけで彼の国の暴動の責任を問うのは筋違いというものだ。
個人の責任は個人の行為についてのみ生じるものであり、民族や国籍が罪になってはいけない。

しかし国ごとに民族性というものが存在することも確かなことである。歴史、風習、食生活、政治、経済といったものが人格に影響を与えることを否定する人はそう多くはないであろう。

根本敬氏の「ザ・ディープ・コリア」に書いてあったことなのだが、韓国、朝鮮人の民族性というか物の考え方の一つにとにかく何でもかんでも自慢して「民族の優越性」を誇りたがるというところがある。

氏はそれを「体重自慢」の比喩で表現している。

日本人が体重計に乗るとメーターは60キロと表示した。
すると側にいた韓国人がこう言った。
「ほぉ、日本の60キロはそんなものですか。韓国の60キロはもっと重いですぞ」

60キロは世界中のどこで測っても60キロだが、韓国人はその60キロもウリナラ(我が国)では「もっと重い」と主張するのだ。
もちろんこれはたとえ話であり、実際にそういうことがあったわけではない。
何でもかんでも誇りたがる性質を大げさに書いているだけである。
また根本氏は決してこれをもって韓国人をバカにしているわけではなく、むしろ好意的に見ている。

テレビのインタビューで韓国のあるアジマはこう発言した。
「日本文化は私たちの文化のまねだから価値がないのよ」

私はこの発言を全否定はしない。文化は独自の進化もとげるから全ての日本文化がマネから生まれたわけではない。しかし朝鮮から陶磁器などの技術を輸入したのは確かなことだ。
そしてその朝鮮文化は日本で模倣を繰り返し、やがて日本独自の文化になった。

だがそれをもってまねした方、伝播先の文化に価値がないだなんて言い掛かりである。それを言うならあなた方の文化だって支那の模倣であり、人類の文化は全てアフリカで生まれた最初の人類の模倣なのだからアフリカ文明以外は無価値ということになる。

これは体重自慢である。文化に優劣があるわけではない。
また独創性や個性という幻想を無制限に拡大していることが、こんな自明なことをも人に分からなくさせているのだ。
「模倣したものには価値がない。伝播したものは発祥地のそれより劣ったものでしかない。なぜならそれらは独創的ではないから」というわけだ。

韓国ではキムチの材料であるとうがらしが日本からもたらされたものであることを絶対に認めたがらない人がいる。
農作物が他国へ伝わり、それがその国の食文化の一部になるのは数千年前からあらゆる国で起きていることであり、それは誇ることでも卑下することでもない。
これも体重自慢の裏返しである。意味のないことを自慢するように、意味のないことを気にしているのだ。

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文化がどのように変化するかについては2つの考え方がある。

進化と伝播である。

どれだけ環境が違ってもしょせんは同じ生物種。すること、作る物は似たりよったりになる。
放っておいても人は同じような道具や文明を発明し、発展させる。つまり文化は各々が独自に同じような道筋をたどって進化していく。

一方で人間は交流をする生物である。自分の文化を相手に教え、相手からも何かを教わることは当然起こるべき事態である。
だから文化は独自の進化だけではなく、他からの伝播によっても変化する。

多くの文化は模倣から生まれる。
まねて、まねて、それでもまねしきれない部分が彼ら独自の文化となり、技術となる。
元の文化が優れているわけでもなければ、後から生まれた文化のほうがより良いものだということでもない。

たとえば支那と日本の伝説には内容が似ているものがある。幽霊が子供に与えるアメや食べ物を買いに来る話はどちらの国にも存在する。この民話はおそらく支那から日本に伝わり拡散したのであろう。

これをもって
日本の民話や伝説は支那のパクリだ。
人の国の話を盗んでおいて涼しい顔をしているなんて日本人は卑怯な奴らだ。
これは支那が日本より優れている証拠だ。
などと言う人はいないであろう。いたとしてもバカにされるだけだ。

しかし似たような議論をしている人をたまに見かける。
日本のマンガやアニメはアジア地方で人気があるらしい。それで韓国で日本のアニメに似た作品が存在したりするそうだ。確かに似ていると思うものを私も数点見ている。

しかしそれをもって韓国は日本文化をぱくっている、卑怯だ、民度が低い、ウリナラマンセー野郎などと批難するのは誤りである。
模倣は大いにけっこうなことであり、推奨されるべき行為である。それらの模倣を繰り返すことでやがて韓国には独自のマンガ、アニメが生まれるであろう。いや、既に生まれているのだ。
まねをしているからそれに価値がないと言うのでは韓国人の体重自慢を笑えまい。あえて彼らが一番不愉快になる言い方をすれば「日本人のくせに思考回路が朝鮮人と同じだ」と言えよう。


一方で韓国では日本文化を悪と退廃と愚劣の象徴のようにとらえ、自国の文化がそれに犯されていると思い込んでいる哀れな人もいる。
これも文化は伝播するものであることを理解できない人の典型であろう。
戦前の日本が徹底的に朝鮮文化を見下し、否定したのと同じことをしている。
彼らが一番不愉快になる言い方をすれば「韓国人のくせに思考回路が日本帝国軍と同じだ」と言えよう。

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さて、今まではわざと大事な話をしなかった。
今と昔では文化の伝播において決定的に違う点がある。それは著作権の存在である。
大昔に支那から稲作文化が伝わってきた時、その農耕技術や稲の権利を主張する人はいなかった。
しかし今では技術にも農作物の遺伝子にも権利が存在し、その使用には金銭を払わなくてはいけない。

この問題を議論する時には「模倣は悪か」という問題と「著作権はどうする」という問題を明確に分けないと混乱を招く。
前者が悪いことではないというのが私の主張だが、後者については難しいところだ。
私も著作権問題について韓国を批難する人をバカにしたりはしない。
文化の優劣という視点から韓国の模倣をバカにするべきではないが、商取引きにおける不公正として韓国の模倣を批難することには正当性がある。

著作権。これが存在しなくてはマンガも映画も音楽も小説もアニメも産業として成立しなくなり、生産数が激減することだろう。
一方で著作権は文化の伝播をさまたげるものでもある。過激な表現をすれば「著作権が文化を殺す」こともある。

支那は著作権の意識が薄く、私の師が支那の大学に行った際、現地の研究室には山のように学術書の海賊版が積まれていたそうだ。国の研究機関が堂々と著作権を無視しているのである。
中には自分の書いた本の海賊版もあって、私の師は

「なかなかしっかりした装丁で、持ち運びに便利になっていて海賊版とは思えなかったよ。実は気に入ったから一冊もらってきたんだ」

と言ってそれに気分を害するどころか喜んでさえいた。

考えてみれば一冊1万円もする学術書を支那人の給料で買えるわけがない。
もし正規の値段で本を買うことを強制すれば、学問をする上で大きな障害となってしまう。そうなれば彼の国の文化は閉鎖的になり、遅れていくことだろう。
理系の学者には本や論文でお金を儲ける気なんてない人が多く、国籍に関係なく議論できる相手が増えることの方が嬉しいのである。
支那に市場を持たない出版社としても、彼らの行為は大きな損失をもたらさない。むしろそれは将来の進出に備え今の内に市場を開拓していることになる。いずれ著作権が厳しくなり、支那人は彼らから本を買うようになることだろう。
これが著作権を無視することで文化の伝播がスムーズにいき発展していく一例である。

しかし映画などはそうはいかない。それで儲けなくてはいけないのだから、海賊行為は大問題である。しかも海賊商品が海外に出回り全ての市場を荒らすことも多い。

日本ではウイニーだとかJASRAC、マンガ喫茶で「文化か著作権か」という問題が議論されている。
この問題について私は上記した以上の考察を持たない。どちらか一方に偏るのをさけるべきだとしか言いようがない。

昨日の続き

2005-04-17 00:29:04 | 人の話
この世に女性という生き物は存在していない。

私は長いことそういう世界で生きてきた。
小学校はクリスチャン系の学校で、男子クラスと女子クラスに分かれていた。
女の子となんか話をする奴はオカマ野郎とののしられていた。

中学、高校は男子校。ああ、無情。

大学は理系で女子含有率1%。私は4年間に4度しか遭遇していない。
女学生はレッドデータブック・アニマルだった。

会社。一番若い女性社員は40代女性だった。

院。女子含有率0%。南無参、、、

精神や人格の形成期に女性と一切関わることなく生きてきた私にとって、女性というものは理解する以前の存在である。
彼女たちは私にとって男性の亜種である。私の知る人間は男性ばかりで、
数少ない例外が

教師もしていた小学校のシスター

スチュワーデスをしていて遊び人だった姉さん

駄菓子屋のおばあさん

だけである。同年代の女性と会話した記憶はない。

私は男女差別をしない人間だと評されたことがあるが、それもそのはずで相手は男性の亜種なのだから扱いも男性と同じになる。
ある意味、これほど女性をバカにした話はないとも思うのだが、それ以外にやり方を知らないのだから仕方がない。

しかし、いくら私でも女性を観察しているうちに、この生き物たちは男性とは根本的に違うことに気がつく。

男性と女性は異なる生き物である。当然の話だ。



しかし一部のフェミニストの間には

男性や女性という概念は、社会的、文化的、政治的、経済的な理由で人工的に作られたフィクションに過ぎない。

人は後天的に男社会や女社会に組み込まれることで、男になり女になるのだ。

という主張がある。

そんなわけがない。妄想、ごまかし、ほらの類である。
しかも、この偏執的な思想に基づいた保健教育が行われている小学校があるという。

進化論と創造論を並行して教えたり、小学生にいきなり論理学を学ばせたのが、後に教育制度の失敗として反省されたように、この保健教育もいずれ反省対象となることだろう。

勿論、言うまでもないことだが女性の権利が守られる社会を私たちは目指すべきであり、
そのためにフェミニズムという学問は必要である。

しかし正しい対策は正しい原因を知るところから始まるのである。
自然がどのように男性と女性を区別しているか知ることなく、男女の権利の平等を目指すなんて地図を持たずに海に出るようなものだ。
失敗するに決まっている。

一部のフェミニストが生物学的な男女平等に固執するのは、自然は道徳であると勘違いしているからであろう。

自然が男性と女性を区別しているなら、社会における男女の不平等も正当化される

と恐れているのだ。
しかし自然は道徳ではないのである。私たちの理性は自然に逆らう力がある。

何よりも私が最近知った彼女たちは男性の亜種とはまるで違う女性たちであった。
あれが生物学的に男性と同じなら私は同性愛者ということになる。まぁ、それでもいいのですけど。