玄文講

日記

陛下を敬う。崇め奉る。

2006-02-09 11:53:28 | 怪しい話
言いたいことは2つある。

我らが敬愛すべき天皇陛下の後継者問題についての議論が盛んに行われている。

女系天皇に好意的な人々が制度の改正を声高に唱えれば、
神社関係者や皇族関係者が伝統の為に反対する。

この状況を私は遺憾に思い、1つの不満と1つの事実について述べることにした。

まず私は敢えて言おう。

「この不敬者どもめ」、と。

これは賛成論者、反対論者の両方に対しての発言である。
彼らは共に不敬である。

そして、もう一つ忘れてはいけないが、思い出してもいけないことがある。
それは「天皇陛下が尊いお方であるというのは、実はウソである」ということだ。

私たちは天皇陛下を日本国家の象徴としていただいている。
だがそもそも人間が抽象的なシンボルなどという存在になれるわけはないし、この不平等と不自然を正当化する根拠などありえない。
そこにあるのは一から十までウソだけなのである。

ウソの伝統やウソの正当性を議論してどうするというのだろうか。

ウソに伝統はない。何故なら高貴な血などいうものは存在しないからだ。
人間は生命体としては皆、平等である。
偽善的な言葉が嫌いならば、人間なんてどいつもこいつも似たような出来損ないばかりだ、と言ってもよい。
よって皇室の歴史と私たちの一人一人の歴史は等価である。

ウソに真実はない。何故ならそれがウソの定義だからだ。
だからこのウソがいかに正しいのかなんて議論は「ウソがウソでないこと」を証明しようとするものである。
不毛である。

このウソは私たちが「真実である」と思い込むことでのみ成立する。
私たちが悩んでいいのは、「一介の人間である現天皇陛下を尊きお方として認めるか否か」の一点のみである。

そして私は、この愉快なウソを認めた。
このウソを認めたのならば、すべきことは決まっている。

信じるべし、敬うべし、崇め奉るべし。頭を深くたれて付き従うべし。

唯一拝聴すべきは陛下の御言葉のみである。
唯一守るべきは陛下の御意志だけである。
偉大なる陛下はまさに神のごとしである。

私たち下賤の民が神の存在理由や次の神を誰にすべきか議論するなど、まさに神をも恐れぬ不敬の極みである。

議論なんてしてはいけないし、私たちの判断なんて不必要である。
陛下の御意志だけが絶対である。

もちろん皇族関係者などという亜神の言うことも、神社の神官の言うことも聞く必要はない。
神聖不可侵なるお方は我らが陛下御一人のみである。
陛下の玉音なる御言葉にくらべれば亜神や下賤の言葉など雑音でしかない。

陛下が恐れ多くも「次の後継者は犬の糞にします」とご発言なされたのならば、私たちは黙って犬の糞に頭を下げるべきであり、全ての正当性は陛下御一人の存在に帰着する。

次の神を決めていいのは今の神だけである。私たちが神を選んではいけない。
それが人を神に仕立て上げた者の礼儀である。

(2/16追記)

以上は「狂信者」の立場になっての個人的な考えである。
現実的には法による規制が必要であることや、権威を保つためには正統性を重んじないといけないことも理解できる。
また陛下がこの件に関して積極的なご発言をなさることはないであろうから、陛下の御意思を尊重することもかなわないであろう。

しかし「間違いがないようにするためには議論が必要だ」という意見には賛成できない。
何故なら、この問題は不合理な問題だからである。
正しいも間違いもありはしない。
必要なのは「誰を天皇陛下にするのが正しいのか」という議論ではなく「支持する誰かを天皇陛下として崇めさせる」ための扇動であると思われる。

妄想「夜に自転車」

2006-01-26 16:36:03 | 怪しい話
私は自転車で、人気のない深夜の街中を走っていると、だんだんと寂しくなってきてしまうのである。

私は誰もいない夜の街に違和感を感じ、不安を覚えるのだ。

しかしである。人のまったくいない山道や郊外を走っているときには、私は決してこんな寂しさを感じたりはしない。

むしろ夜の静けさが心地良く、周囲に広がる闇の深さに解放感を覚えるだけだ。

それなのに夜の街はなんでこんなにも寂しいのだろうか。

幾つもの家の四角形の窓からは明かりがもれ、速度をあげた自動車が何台も勢いよく私の真横を通り過ぎていく。

街灯が規則的に並び、遠くでは信号が赤く点滅している。

そこかしこに確実に人がいて、街は普段通りに機能している。

だが走っている間、私はその中の誰一人の姿を見ることもない。

他の歩行者や自転車などともすれちがうことはなく、私はずっと人間の姿を確認できないでいるのだ。

人がいるのに、人の痕跡が見えない。それが私を不安にさせる。

実はここには自分以外は誰もいないのではないかという錯覚に陥るからだ。

あの家の中には本当に人が住んでいるのだろうか?

明かりがついたままの無人のダイニングの中で冷蔵庫が低音を鳴らしているだけなのではないのか。

あの車の中には実際に人が乗っているのか?

無人の車がプログラムされた通りに自動的に動いているだけなのではないのか。

この世界に人間なんてものは存在していなくて、ただ純粋に街の機能だけがつくろわれているのではないのか。

そんなことを思うのだ。バカげている。
それがありえないことだというのは分かっている。完全な妄想だ。

ここには大勢の他人がいる。無人などではない。たまたま私がその中の誰一人とも会わないでいるだけなのだ。

そして同時に、私がここにいても、ほとんどの人はそのことを気にもしていないというだけのことなのだ。

つまり、私がここにいる誰も彼もの存在に気がついていないように、誰も彼もが私を知らないでいる。

それならば、この世界に他人が存在しないと妄想するのではなく、この世界には自分が存在していないと妄想することもできる。

私はいないのだ。

私はいないから、いない者が、いる者たちと出会うことなんてありえるわけがないのだ。

だから私は誰とも会わないのだ。

それで私はいなくなってしまった自分を哀れんで寂しがっているのだ。

ここにいると私はどこかへいなくなってしまう。

私の時間だけが他の人々からずれて、私はこの街の中に取り残されてしまっているのだ。

いない。

いない。

私がいない。ここにいつまでもいると、私はいなくなってしまう。

だから私は自転車のスピードを上げて、夜の街を急いで通り過ぎるのである。

だまされる私たち

2005-09-13 23:25:04 | 怪しい話
アメリカの国立公園、イエローストーンの名所の一つに見事な間欠泉がある。
そこでは2時間に一度の周期で30メートル以上まで空高く熱湯が噴き出すのだ。

http://blog.so-net.ne.jp/TAKA/2005-08-10-1
http://www.nps.gov/yell/pphtml/subnaturalfeatures23.html
http://okamot.com/mt/archives/000965.html

しかし、この見事な自然現象を一部の観光客は決して信じようとしない。
そして彼らは

「あれはね、職員がボタンを押すと空気圧で水が噴き出す仕組みになっているんだよ。

あんな子供だましにひっかかるなんて、君たちは単純だね」

などと言って、だまされやすい観光客を笑うのである。

このデマの始まりは、学生たちのイタズラという説がある。

公園のガイドが間欠泉の素晴らしさを力説する後ろで、彼らは観光客にだけ見える位置に立ち、熱湯が吹き出る直前に地面に置いたハンドルを回してみせたのである。

観光客には、その学生がハンドルを回したから水が噴き出たように見えた。


*************

さて、たとえば貴方は今から詐欺師を始めたいと思っていたとしよう。

まず貴方は「儲けるためなら悪賢くないといけない」と考えているようなカモを探し出す。
通販でイカサマグッズを買っていたり、酒場でつまらない八百長を自慢しているような奴がターゲットだ。

そしてそのカモの目の前で、本物のお札を「精巧な偽札」と言って羽振りよく使ってみせるのだ。
銀行で偽札を両替してみせて、その精巧さを自慢してもいいだろう。なにせ本当は本物のお札なのだから、必ず両替してくれる。

やがてカモが偽札のできばえに感心し、興味を示したら、次の段階に進む。
カモに次のような商談を持ちかけるのだ。

「この偽札を大量に購入する予定だが、お前も参加しないか?偽札100万円につき1万円で、5億円分の偽札をお前にゆずろう。
今見たとおり超精巧な偽札だ。絶対にばれない」

あとはカモが持ってきたお金を預かり、「交換してくる」と言ったまま逃げればいい。

この詐欺は被害者にも後ろめたいことがあるので表面化しづらく、表ざたになるのは1%から10%程度だという。

計画の大筋は以上の通りだ。あとは通販を利用したり、段階を増やしたりと、細かい所を工夫すればいいだけだ。





ここで紹介した超有名な古典的詐欺は、相手の倫理観の欠如やエゴを利用した詐欺で、ペテン師たちは「俺たちの被害者は悪人だけだ」と嘘吹くのである。

もちろん善人だってペテン師の被害者になる。
しかし正直者よりも小賢しい人間の方がだましやすいのも確かなことである。


*************

私は「詐欺とペテンの大百科」という本でこれらの話を知ったのだが、この本には上のような話が大量にのっている。

この本を読んで実感することは「大衆のほとんどは危険を危険として理解できない」ということである。


1875年、新聞編集長のパウェルは、詐欺広告の氾濫を不快に思い、それらの広告を皮肉る意図で自分の新聞に次のような投資者募集の広告を出した。

金持ちになる素晴らしいチャンスです。
レイコンにネコ10万匹の牧場を開設します。1日に5000匹のネコの皮がとれ、10万ドルをかせげます。

ネコの餌は何でしょうか?
隣にネズミ100万匹の牧場も開設します。1日にネコ1匹につきネズミ4匹を与えられます。

ネズミの餌は何でしょうか?
ネズミには皮をはがれたネコの死体を与えます。

分かりますよね!
ネコにはネズミ、ネズミにはネコを食べさせれば、ただで皮が手に入るのです。



準備、維持、需要、バカバカしさ考えれば、明白に実現不可能な投資計画である。
パウェルは人々がこの皮肉を読んで冷静になってくれることを望んだが、翌日にやって来たのは熱狂的な投資志願者たちの群れであった。


*************

今やすっかり有名になったオレオレ詐欺だが、この詐欺は昔からあったものである。

約10年前に私は、上岡龍太郎氏が司会を務める過去の事件の再現番組で、この電話応答の盲点をついた「オレオレ詐欺」を面白おかしく紹介しているのを見たことがある。

現代のオレオレ詐欺師たちは過去の事件を参考にして始めたと予想される。

詐欺の手口を紹介すれば、人々は警戒してだまされなくなる。
詐欺の被害を紹介する番組は、そういう啓蒙効果を狙っていたのだろう。

確かにそれで啓蒙されてだまされなくなる人はいる。
しかし一方で、だまされる人は、どうしてもだまされてしまうものであり、結局この啓蒙活動は犯罪者予備軍に詐欺のやり方を指導したという面もある。

オレオレ詐欺が激増したのも、報道を見てマネをする犯罪者が続出したせいであるのは確実だ。
啓蒙のむなしさを実感してしまう。


*************

しかし、これを書いている私だって、だまされやすい人間の一人である。
過去にだまされた件をあげればきりがない。
縁日の屋台のたわいもないペテンから、生命財産の危機まで、実に多くだまされている。

人間はだまされるようにできている生き物である。例外はない。
大衆ではない個人などいないのである。
そして、だまされるとは、他人を無条件に信用した結果に起きることである。

しかし社会の多くのシステムは、相手を無条件に信用することで成立している場合がある。
貨幣の真贋、相手の発言の裏、口約束の確実性、商取引の過程、書類の真偽。
これらの全てに慎重な考察と検証が必要な社会は、その効率性を著しく落とし、停滞することであろう。

相手を信用することで社会は成立する。
「だまされること」と「人間の英知」は表裏一体の関係にある。

度を越して怪しい話にだまされないように気をつける必要性はあるが、「だまされる」=「愚かさ」だと思い、自分は愚かさとは無縁だと考えているのならば、思わぬところで足をすくわれることになるであろう。

Σ

2005-08-10 01:01:56 | 怪しい話
素粒子は次の2つに分類できる。
Bose(ボーズ)粒子とFermi(フェルミ)粒子である。
Bose粒子は場をなし、Fermi粒子は物質をなすことはαにおいて説明した。

今回は私たちの仲間である「5番目」様の質問に答えるという形で、この2つの粒子について説明したいと思う。
とても簡単な話なので気楽に聞いていただきたい。(もし簡単でないとしたら、悪いのは私の説明である。)

まずは分類のための基本原理から述べてしまおう。

それは、量子の世界において粒子に同一性(アイデンティティー)は必要ないということである。
たとえばここに粒子1と粒子2が存在していたとしよう。
古典力学では、この2つは異なる存在である。
しかし量子力学では、この2つは同じものであるとして区別しないのである。

我は汝にして、汝は我である。

ここで粒子1と粒子2が状態Aもしくは状態Bになれるとしよう
まずはこの2つを古典力学の約束に従い、区別して扱うとどうなるだろうか?
するとこの場合、次の4つの可能性が考えられる。


|   |   |   |     
|1と2|   |   |
|___|   |___|     
  A       B     

|   |   |   |     
|   |   |1と2|
|___|   |___|     
  A       B     


|   |   |   | 
| 1 |   | 2 |     
|___|   |___|     
  A       B 
        

|   |   |   | 
| 2 |   | 1 |   
|___|   |___|     
  A       B         
 

これを数式で表現すると

F(A;1)F(A;2)
F(B;1)F(B;2)
F(A;1)F(B;2)
F(B;1)F(A;2)

となる。F(A;1)はAの状態に粒子1が存在することを意味している。


しかし量子の世界では事情が異なる。
先ほど述べたように粒子1と粒子2は区別されないのだ。
上の図の下2つは、同じものとして等号で結ばれる。


|   |   |   |     |   |   |   |
| 1 |   | 2 |  =  | 2 |   | 1 |
|___|   |___|     |___|   |___|
  A       B         A       B


古典世界では状態Aにある粒子1と状態Aにある粒子2は異なる存在だが、「粒子1」=「粒子2」ならばこの2つは同じことになる。

これを数式で表現すると

F(A;1)F(B;2) = F(B;1)F(A;2)
もしくは F(A;1)F(B;2) = F(A;2)F(B;1)

となる。粒子の状態を表わす関数Fが、上のような「交換関係」を満たすとき、それをBose粒子と呼ぶ。
この式が粒子の交換に対して符号を変えないことから「関数は対称性を持つ」「パリティ偶数である」と言われる。

そしてこの場合は、考えうる可能性は「1」=「2」=「●」として、次の3つに減る。


|   |   |   |     
|● ●|   |   |     
|___|   |___|     
  A       B        

|   |   |   |     
|   |   |● ●|     
|___|   |___|     
  A       B  


|   |   |   |  
| ● |   | ● |  
|___|   |____|  
  A       B  




さてBose粒子の関数は対称性を持っていたが、Fermi粒子はどうであろうか?
こいつは反対称性を持つ。
つまり、こうだ

F(A;1)F(B;2) = -F(B;1)F(A;2)

上の式と比べて、粒子の交換に対してマイナス符号がついていることに注目していただきたい。
このような「反交換関係」を満たす粒子をFermi粒子と呼び、「関数は反対称性を持つ」「パリティ奇数である」と言う。

この場合、考えられる可能性は次の1つだけである。(今回も「1」=「2」=「●」とする)


|   |   |   |  
| ● |   | ● |  
|___|   |___|  
  A       B  


何故これだけなのか?Bose粒子における上2つは、どうして消えたのか?
その答えは、「反交換関係」に注目すると分かる。2つの●がAもしくはBの状態にだけなったとしよう。これを式で書くと

F(A;●)F(A;●) = -F(A;●)F(A;●)  もしくは
F(B;●)F(B;●) = -F(B;●)F(B;●)

である。これを書き換えると

2F(A;●)F(A;●) = 2F(B;●)F(B;●) = 0

つまりこの場合、関数Fは必ず0となって消滅してしまうのだ。つまり、2つ以上の粒子が同一の状態は占めることはありえない、不可能なのである。
だから許されるのは、1つの状態に1つの粒子だけが対応する上の図だけなのである。

これは「同一の状態(量子数)に2つ以上のFermi粒子が存在できない」というパウリの排他律と呼ばれる法則である。
物質である「原子の周期表」もこの法則から説明することができる。
(クーロンポテンシャルのもとで波動方程式を解いて、求まった量子数の一つ一つに順番に電子を配置していくと周期表が完成する。
そこでは一つの量子数に2つ以上の電子を配置することは許されない。)

ちなみにBose粒子は同一の状態に無限に重複して存在することができる。

分類の原理はこれだけである。
以下は余談である。



*******************************

ところで粒子の同一性をつきつめると、どのような考えにいたるのであろうか?

それは全ての電子は同一である、という考え方だ。
先ほどの同一性は単に区別ができないということに過ぎなかった。

しかしこれは、この世に電子はたった1個しか存在しないという考え方である。

全ては我なり、なのだ。

意味が分かるであろうか?つまり私の体を構成する数千兆、数千京の電子は全て1個の電子だと言うのだ。
そして私とあなたは同じ一つの電子からできているのだ。
それだけではない。森も海も、空も太陽も星も銀河も宇宙も、そこに存在する無限の電子は実は一つの電子だということだ。

これはファインマン氏の師匠であったホイーラー教授の考えたことだ。
「物理法則はいかにして発見されたか」から引用しよう。

「ファインマン君、なぜ電子がみんな同じ電荷、同じ質量を持っているのか、わかったよ。それはね、みんな一つの電子だから!」


「時空における世界線というやつだがね。電子が時間軸で上向きに行くだけでなく、上下に進んで、こんがらがった組み紐のようになっているとしよう。そいつをある時刻一定の面で切ったら、たくさんの電子があるように見える。

ただ未来の方から戻ってくるときは固有時、4元速度の符号が変わってしまう。これは電荷の符号を変えることと同等だよ。逆戻りの世界線は陽電子のように振る舞うことになるのだ」


これは一つの電子が未来へ行ったり、過去に戻ったりしているということだ。

一つの電子が未来へ行き、過去へ戻って来て、また未来へ行くと、私の目には電子が2つあるように見える。
その電子が再び、過去に戻ってから未来へ行くと、更にもう一つ電子が増えたように錯覚する。
これを無限回繰り返せば、全宇宙に存在する電子の出来上がりだ。

ファインマン氏は、この検証不可能なアイデアそのものは信じなかったが、「未来から過去へ行く電子は陽電子のように見える」というアイデアだけを採用して、あのファインマン図を作ったのである。


*******************************

Bose粒子はいくつ集まってもBose粒子である。

しかしFermi粒子は偶数個集まるとBose粒子のように振舞う。

たとえば物質である「陽子」や「中性子」はFermi粒子であるクォーク3つからなるので、Fermi粒子だが、
核力(場)の原因である「中間子」はFermi粒子であるクォーク2つからなるので、Bose粒子となる。

これは式で書くと分かりやすい。「中間子」を2つの反対称関数の積

F×G

と書いてみる。この「F×G」は個々の関数は反交換関係にあるために

F(A)×G(A)×F(B)×G(B)  = (-1)の4乗 × F(B)×G(B)×F(A)×G(A)

となり、全体的には交換関係を満たす。よってボソンとなるのである。




*******************************

古典力学は扱う粒子の数が3つ以上になるだけで、計算が複雑になる。
ましてや気体などの分子や原子が無数に集まった集団の性質を知るためには、古典力学を使うことはできず、統計的性質に頼るしかない。

その統計力学においては、それぞれの粒子の配置について、いくつの可能性があるかは大事な要素である。

さきに挙げた3つの図では、古典、ボソン、フェルミオンかによって、その可能性の数が4つ、3つ、1つとまるで違ってしまう。

事実、この3つのそれぞれを使って統計力学の計算をすると、異なる結果が出る。

たとえば古典を用いて求めたウィーンの公式は近似的にしか正しくないが、Bosonを用いると正しいプランクの公式になることが知られている。

また光子気体はボソンの統計に従い、電子気体はフェルミオン統計に従うことが実験で確かめられている。



*******************************

最初にプランクの公式を導いたのがインド人のBose氏である。氏はうっかり確率の計算を間違えて、4つの可能性を3つの可能性で計算してしまった。
しかし、そうすると実験と一致する正しい答えが得られたのである。

それに注目したアインシュタインが、これを理論化した。
これがBose-Einstein統計と呼ばれるゆえんである。

*******************************

最後に、細かい話ではあるが、粒子の交換に対して対称なものと反対称なもののいずれかが生じる原因を説明しておく。
量子力学において粒子を表わす波動関数は次の性質を持つ。

それは波動関数は定数倍しても同じ状態を表わすということだ。

F(A;1)F(B;2) = Constant × F(A;1)F(B;2)

そして粒子1と2の交換に対して状態が変わらないということは

F(A;2)F(B;1) = F(A;1)F(B;2) = C × F(A;1)F(B;2)

ということになる。そこで、もう一度、粒子1と2を交換してやると

F(A;1)F(B;2) = C × C × F(A;1)F(B;2)

となる。

C × C = 1

なのでConstantは+1か-1となる。前者が対称関数であるBose粒子、後者が反対称関数であるFermi粒子となる。

ω

2005-08-07 01:21:14 | 怪しい話
自然界に今なんてものはない。

現在。

そんな概念は物理学には存在しないし、この世でそれが観測されたこともない。
「現在」とは心理学や大脳生理学の問題であり、物理学の問題ではないのである。

時間は連続的に流れている。

私たちは、そう感じている。
古今東西、たいていの人類は時間をそうゆうようなものだとみなしているようだ。
だから私たちは自然界の「時間」も連続的だと思いがちだ。

だが実際に流れているのは時間ではない。
流れているのは現在であり、意識である。それを私たちは時間だと思い込んでいる。
時間は、たぶん、流れていない。

また現在を観測しようとする行為は全て徒労に終わる。
たとえば、ある特定の時刻を指定しても、「今、この時」を確認したとしても、自然界においてそれは現在ではない。
それは過去か未来かのいずれかであり、時間の対称性を思えばその両方でもある。

そして現在が心理学的なものであることを思い出せば、現在が流れるということは、自我や意識を持つということでもある。
人は今という中に自分を投影して自我を獲得する。
そして人は幅を持った現在の拡張という形でしか「未来」を感じられない。

なぜそんなことが分かるかと言えば、そういう観測例があるからである。
離人症という精神病がある。
それは自己の同一性が感じられなくなる症状である。自分を自分とみなせず、世界の存在に違和感を感じるようになる。そして注目すべきは彼らは「時間が流れる」ということが分からなくなるということである。
その場、その場での現状は認識できるが、それらの一つ一つがつながっているということが理解できなくなるのである。
つまり現在は動くのをやめ、つながりをなくし、ただのバラバラな事象の群れに成り下がる。

流れる時間を感じられなくなった人は、自分もなくす。
連続的な時間というのは、ひどく人間的な思い込みなのである。

私たちの作った物理学も、ある意味では「連続的に流れる時間」という思い込みの上に作られている。

ただし誤解されるといけないので書いておくと、私は相対主義者でも、ポストモダニストでもなければ、人間原理の信奉者でもない。
人間の認識能力によって自然法則が変わるだとか、ある科学法則は時代や文化を反映した多様な価値観の一つに過ぎないという主張には賛成できない。
自然は絶対にして、人間の認識能力ごときで世界は変わらない。

もっとも認識能力の限界によって、法則の表現や直感的な理解の仕方が変わるのは確かなことだ。

たとえば私たちが盲(めくら)だったとしよう。
目で見て何かを観測することができないし、色も知らない。
色を知らなければ炎色反応は観測できないし、植物がなぜ緑色なのかという疑問を抱くこともない。クォークを直感的に理解しやすくするために、色の名前をつけて分類することもない。
そもそも見えないのだから、実験はすべて手探りか道具を使って数値を測るしかない。
全人類が盲(めくら)だったら物理学の歴史は今とは大きく異なっていたことであろう。
盲(めくら)には盲の物理学がある。

しかし、それで何か真実が変わるわけではない。

目が見えなくても、私たちは手探りで作用・反作用の法則を知り、特定の物質がある波長の電磁波を放射・吸収していることをつきとめたことだろう。
私たちの真実は盲にとっても真実である。
人間の側が真実に影響を与えることはない。

ただ人間の認識能力が真実を知る上で不利になったり、有利になったりすることはある。
たとえば私たちは電磁波のごく一部の領域を可視光線として認識できるだけである。
その意味では私たちは盲とその能力において大差はない。それでも私たちは素では認識できないものを観測できている。
道具を使うことで認識能力を拡張することが可能だからだ。
時間についても同様のことを無意識のうちに行っているのが、先にあげたような精神病の人々である。

たとえば癲癇(てんかん)患者はその発作時に時間感覚を失う。癲癇(てんかん)患者でもあったドストエフスキーは自分の体験を通して、「カラマーゾフの兄弟」における登場人物にこう言わせている。

ある数秒間があるのだ、それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、その時忽然として、完全に獲得された永久調和の存在を直感するのだ。

これはもはや地上のものではない。といって、何も天上のものだと言うわけじゃない。つまり、現在のままの人間には、とうてい持ちきれないという意味なんだ。どうしても生理的に変化するか、それとも死んでしまうか、二つに一つだ。まるでとつぜん全宇宙を直感して、しかりそれは正し、といったような心持ちなんだ。

……何よりも恐ろしいのは、それが素敵にハッキリしていて、なんとも言えない喜びが溢れていることなんだ。もし十秒以上続いたら、魂はもう持ちきれなくなって消滅してしまわなければならない


これを木村敏氏という精神医学者は

「永遠が日常性と重なって意識されるとき、それは必ず、永遠の瞬間、永遠の現在という姿を取る」

と解説している。

またアフリカの原住民は強い「現在」性の支配下にあるという。
つまり彼らの現在の幅は極端に短く、そのため未来という概念が弱い。
彼らは現在を表わす「ササ」とあらゆるものを含む過去としての「ザマニ」ばかりを使用する。
そして彼らが近代になって未来を理解するようになったのは、外の世界との交流から自我というものを認識し始めたからである。

時間感覚が人間の自意識において果たしている役割は、今後の脳研究により明らかになっていくことであろう。
進化生物学の大家、ジョージ・ウィリアムズは「生物はなぜ進化するのか」において、人が直感的に時間の経過を感じとれる理由を「遺伝子的成功に役立ったからだ」と言っている。
そして人間の時間の概念を説明できるのは、物理的な時間の概念と自然選択の生物学的原理の両方を理解し、それを一つにまとめることができる若くて優秀な生物学者であるにちがいない、と断言する。

私は優秀でもなく、生物学者でもないが、その成果を追いかけるくらいのことはしたいものである。
(続く)