言いたいことは2つある。
我らが敬愛すべき天皇陛下の後継者問題についての議論が盛んに行われている。
女系天皇に好意的な人々が制度の改正を声高に唱えれば、
神社関係者や皇族関係者が伝統の為に反対する。
この状況を私は遺憾に思い、1つの不満と1つの事実について述べることにした。
まず私は敢えて言おう。
「この不敬者どもめ」、と。
これは賛成論者、反対論者の両方に対しての発言である。
彼らは共に不敬である。
そして、もう一つ忘れてはいけないが、思い出してもいけないことがある。
それは「天皇陛下が尊いお方であるというのは、実はウソである」ということだ。
私たちは天皇陛下を日本国家の象徴としていただいている。
だがそもそも人間が抽象的なシンボルなどという存在になれるわけはないし、この不平等と不自然を正当化する根拠などありえない。
そこにあるのは一から十までウソだけなのである。
ウソの伝統やウソの正当性を議論してどうするというのだろうか。
ウソに伝統はない。何故なら高貴な血などいうものは存在しないからだ。
人間は生命体としては皆、平等である。
偽善的な言葉が嫌いならば、人間なんてどいつもこいつも似たような出来損ないばかりだ、と言ってもよい。
よって皇室の歴史と私たちの一人一人の歴史は等価である。
ウソに真実はない。何故ならそれがウソの定義だからだ。
だからこのウソがいかに正しいのかなんて議論は「ウソがウソでないこと」を証明しようとするものである。
不毛である。
このウソは私たちが「真実である」と思い込むことでのみ成立する。
私たちが悩んでいいのは、「一介の人間である現天皇陛下を尊きお方として認めるか否か」の一点のみである。
そして私は、この愉快なウソを認めた。
このウソを認めたのならば、すべきことは決まっている。
信じるべし、敬うべし、崇め奉るべし。頭を深くたれて付き従うべし。
唯一拝聴すべきは陛下の御言葉のみである。
唯一守るべきは陛下の御意志だけである。
偉大なる陛下はまさに神のごとしである。
私たち下賤の民が神の存在理由や次の神を誰にすべきか議論するなど、まさに神をも恐れぬ不敬の極みである。
議論なんてしてはいけないし、私たちの判断なんて不必要である。
陛下の御意志だけが絶対である。
もちろん皇族関係者などという亜神の言うことも、神社の神官の言うことも聞く必要はない。
神聖不可侵なるお方は我らが陛下御一人のみである。
陛下の玉音なる御言葉にくらべれば亜神や下賤の言葉など雑音でしかない。
陛下が恐れ多くも「次の後継者は犬の糞にします」とご発言なされたのならば、私たちは黙って犬の糞に頭を下げるべきであり、全ての正当性は陛下御一人の存在に帰着する。
次の神を決めていいのは今の神だけである。私たちが神を選んではいけない。
それが人を神に仕立て上げた者の礼儀である。
(2/16追記)
以上は「狂信者」の立場になっての個人的な考えである。
現実的には法による規制が必要であることや、権威を保つためには正統性を重んじないといけないことも理解できる。
また陛下がこの件に関して積極的なご発言をなさることはないであろうから、陛下の御意思を尊重することもかなわないであろう。
しかし「間違いがないようにするためには議論が必要だ」という意見には賛成できない。
何故なら、この問題は不合理な問題だからである。
正しいも間違いもありはしない。
必要なのは「誰を天皇陛下にするのが正しいのか」という議論ではなく「支持する誰かを天皇陛下として崇めさせる」ための扇動であると思われる。
我らが敬愛すべき天皇陛下の後継者問題についての議論が盛んに行われている。
女系天皇に好意的な人々が制度の改正を声高に唱えれば、
神社関係者や皇族関係者が伝統の為に反対する。
この状況を私は遺憾に思い、1つの不満と1つの事実について述べることにした。
まず私は敢えて言おう。
「この不敬者どもめ」、と。
これは賛成論者、反対論者の両方に対しての発言である。
彼らは共に不敬である。
そして、もう一つ忘れてはいけないが、思い出してもいけないことがある。
それは「天皇陛下が尊いお方であるというのは、実はウソである」ということだ。
私たちは天皇陛下を日本国家の象徴としていただいている。
だがそもそも人間が抽象的なシンボルなどという存在になれるわけはないし、この不平等と不自然を正当化する根拠などありえない。
そこにあるのは一から十までウソだけなのである。
ウソの伝統やウソの正当性を議論してどうするというのだろうか。
ウソに伝統はない。何故なら高貴な血などいうものは存在しないからだ。
人間は生命体としては皆、平等である。
偽善的な言葉が嫌いならば、人間なんてどいつもこいつも似たような出来損ないばかりだ、と言ってもよい。
よって皇室の歴史と私たちの一人一人の歴史は等価である。
ウソに真実はない。何故ならそれがウソの定義だからだ。
だからこのウソがいかに正しいのかなんて議論は「ウソがウソでないこと」を証明しようとするものである。
不毛である。
このウソは私たちが「真実である」と思い込むことでのみ成立する。
私たちが悩んでいいのは、「一介の人間である現天皇陛下を尊きお方として認めるか否か」の一点のみである。
そして私は、この愉快なウソを認めた。
このウソを認めたのならば、すべきことは決まっている。
信じるべし、敬うべし、崇め奉るべし。頭を深くたれて付き従うべし。
唯一拝聴すべきは陛下の御言葉のみである。
唯一守るべきは陛下の御意志だけである。
偉大なる陛下はまさに神のごとしである。
私たち下賤の民が神の存在理由や次の神を誰にすべきか議論するなど、まさに神をも恐れぬ不敬の極みである。
議論なんてしてはいけないし、私たちの判断なんて不必要である。
陛下の御意志だけが絶対である。
もちろん皇族関係者などという亜神の言うことも、神社の神官の言うことも聞く必要はない。
神聖不可侵なるお方は我らが陛下御一人のみである。
陛下の玉音なる御言葉にくらべれば亜神や下賤の言葉など雑音でしかない。
陛下が恐れ多くも「次の後継者は犬の糞にします」とご発言なされたのならば、私たちは黙って犬の糞に頭を下げるべきであり、全ての正当性は陛下御一人の存在に帰着する。
次の神を決めていいのは今の神だけである。私たちが神を選んではいけない。
それが人を神に仕立て上げた者の礼儀である。
(2/16追記)
以上は「狂信者」の立場になっての個人的な考えである。
現実的には法による規制が必要であることや、権威を保つためには正統性を重んじないといけないことも理解できる。
また陛下がこの件に関して積極的なご発言をなさることはないであろうから、陛下の御意思を尊重することもかなわないであろう。
しかし「間違いがないようにするためには議論が必要だ」という意見には賛成できない。
何故なら、この問題は不合理な問題だからである。
正しいも間違いもありはしない。
必要なのは「誰を天皇陛下にするのが正しいのか」という議論ではなく「支持する誰かを天皇陛下として崇めさせる」ための扇動であると思われる。