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「ロボットの王国」
第2回においてコミュニケーションロボット研究者の石黒教授はこう主張している。
「知能は個体に宿るというより、個体間や個体と環境との相互作用として発現するものと考えられている」、と。
そもそも最近の知能や意識の研究においては、「身体感覚なくして、主観や知能は存在し得ない」という考え方がある。
たとえば、恐怖。
激しくなる心臓の鼓動、乾く唇、額から流れる汗、震える手足という感覚なくして、私たちは果たして恐怖を感じることができるだろうか?
たとえば、思考。
頭の中で声を出し、文字や図形をイメージすることなしに人はものを思索することが可能だろうか?
つまり、人の意識や知能は肉体から独立した存在ではありえないというわけである。
この話は、たとえばアントニオ・R. ダマシオの「生存する脳」で詳しく実例を挙げて解説されている。
最初に紹介した石黒教授の発言も、外部の環境をいかに知覚するかという身体感覚なくして知能は存在し得ないというダマジオ路線の考え方と見ることができる。
しかしここで氏は更に知能の源泉を積極的に他人とのコミュニケーション、環境との相互作用という個体の外に求めているのだ。
単純に考えれば、外部との相互作用は個体の身体能力や感覚に依存するので、飽くまでも個人の知能の正体は個人の内部に存在することになる。
それならば「人工知能」なるものは、この内部のシステムを完全に再現したときに始めて実現可能となる。
だがここで「知能」を「人間と同じ仕組みを持ったもの」ではなく「人間と区別ができにくいもの」、つまり社会に普通に溶け込むことできるコミュニケーション能力だと定義すれば話はまるで違ってくる。
氏は展示物を案内するロボットを引き合いに出して、こう言うのである。
「このロボットは、どの展示物をどれくらいの時間見たという情報を受け取り、その情報で嗜好を調べて、平均を判断しながら次の展示物へと子どもたちを完全自動で誘導しています。このように情報をきちんと集めることができて、それをもとに行動することができれば、充分人間の思考と同様に“考えている”ように見える。逆にいうと人間は、それ以上のことをやっているのでしょうか」(石黒教授)
私たちの意識や個性の正体なんてものは、実は刺激に対する単純な反応の積み重ねに過ぎないのではないか?
なんと刺激的な問いかけであろうか。
ここで私は反射的に「人工無能」の話を思い出した。
「人工無能」とは発言の中のキーワードに反応して適当な対応を返すプログラムのことである。
しかし奇抜な会話を試みようとしない限り、かなり普通の会話を行うことが可能である。
「こんにちは」
と入力すれば、人工無能も
「こんにちは」
と返してくる。その後も「そちらのお天気はどうですか?」「晴れです」「男性ですか?女性ですか?」「ノーコメントでお願いします」「秘密ですか?」「秘密です」、、、というように会話を続けることができる。
実際、外国の実験では、多くの人がこの人工無能を本物の人間だと勘違いしたという報告を何かの本で読んだ記憶がある。
知能の正体を内部に求めれば「人工無能」は知能ではなく、外部に求めればソレは知能に一歩近づいたとみなせる。
単純であっても世界と自律的にコミュニケーションできる機械ができるのだ。あとはそのコミュニケーションの密度をどんどん上げていけば、いずれは知能と呼べる存在に到達するだろう。
この方針に従えば、氏の人工知能の研究も力点の置き所が他の研究とは違ってくる。
それはデザインの重視である。
何故なら他者とのコミュニケーションとは、まず外見から入るものだからである。
内部を重視すれば、デザインなんてものは専門外のデザイナーに任せておけばよかった。
そうすれば丸っぽい流線型の、清潔感に満ちた、カワイイのやスマートなのを造ってくれるだろう。
そこではデザインは芸術であり、技術ではない。
それに対して氏は、研究者はデザインにもっと真面目に取り組むべきだと主張するのだ。
デザインに関して、従来の研究では全部デザイナーに任せてきました。それだとロボットのインターフェイスのデザインをデザイナーの直感に依存することになって、工学として技術を蓄積することができないんですよ。
子供のときに見た相澤次郎博士のデザイン(先行者みたいな外見)が忘れられない私は、最近の丸っこいロボットが嫌いなので、是非とも工学者のデザインには期待したいところである。
さて、以上の要約は個人的な曲解も混じっており、記事の意図を正確に反映したものではないので興味を持たれた方は是非とも本文の方を読んでいただきたい。