玄文講

日記

2005/05/31

2005-05-31 13:14:40 | 個人的記録
通夜に参列するためにこれから東京へ行く。
子供はまだ大学生と高校生だ。
雨が降らないでくれるといい、と空を見ながら思う。

アクセス数について

2005-05-30 06:15:25 | メモ
ものを書いて、それを公開しているからには多くの人に見られるのにこしたことはない。
アクセス数が増えると嬉しいと思う。思う?本当に?

正直に言うと分からない。私はアクセス数が増えても見られているという実感はまるでない。
私とは比較にならないが、日に数万のアクセスを数えるサイトの管理人が観客を実感できないと嘆いていたことを思い出す。

それに多くの人に見られても面倒なだけだという思いもある。
私にとって大事なのは、偶然ここを訪れ、昔の記事を知らないし読みもしないであろう一見のお客さんでも読んで楽しめる記事を書くということである。

誰にも見られないのは嫌でも何ともない。
しかし見られた後に「あーあ、つまらなかった」と言われるのは悔しいのだ。

アクセス解析を数日に一度見てみる。
昨日は18人だけだが、楽しんでいただけただろうか。昨日はつまらないものを書いたつもりはない。
しかし気合いを入れて書いたものが不人気になることも多い。

一昨日は44人。閲覧回数は84。単なる事務連絡でつまらなかったろうに多くの人が来ている。つまらなかっただろうに、申し訳ないことをした。

2日前は30人くらいのお客さんに対し、閲覧数が300もあった。
1人の方が何十回も見ておられるのだ。
面白いと思ったから沢山読んでくれたと解釈すべきだろうか。それとも気に入らないから批判するためにじっくり読むということもある。
いずれにせよ楽しんでもらえたことを祈っている。

しかし結局、顔を想像し、実感できる観客は顔見知りの仲間たちがほとんどである。
(もっとも私の仲間は私が思っているほどここを見ていない。ネットにつなげない人もいる。)
あとはコメントを寄せてくれた人が何となく想像できる。
しかしネットの情報だけから人物像を描いても頼りないイメージしかできあがらない。
ネットにおいて大多数の人は沈黙の観客となる。
「批判、訂正大歓迎」と書いても文句をつけてくる人はほとんどいない。そんな無駄な労力をわざわざ払ってくださる奇特な方はそう多くはおられない。

それに労力を多く割けられないのは私も同じである。仕事に論文とたてこんでいる時にコメントをいちいち考えている余裕はない。
コメントの返事には記事を書くより多くの時間を使っている。気楽に書き捨てることができるのは仲間からのコメントだけである。
見えない相手に返事をするのは想像力を使わないといけない。しかし自分の勝手なイメージを相手に押し付けているだけのような気もする。どうしたらいいか分からないところがある。

トラックバックは更に疲れる。
コメントがないトラックバックにはまず返信するべきかどうか迷う。
単なる同意表明なのか、批判や疑問提起なのか、交流を希望しているのか、こちらで判断しないといけない。
コメントをつけると決めたら次は何を書くか決めないといけない。
相手からのコメントがあればそれに返事をするだけでいい。相手の記事で取り上げられていれば、それに対して返事をすればいい。
しかしそれらがないのならば、それも自分で決めないといけない。とりあえず相手のブログの記事を読めるだけ読んでみる。
それにコメントがあっても返事をする前に相手の記事はかなり読む。そうしないと何を書いたらいいか分からないからだ。

これは別にこれは怒ったり、不快感を表明しているわけではないし、自分の苦労話を自慢したいわけでもない。
ただ私は今後、トラックバックの受け付け拒否をしようかとも考えており、それをするための理由を前もってグダグダと書いているのである。

ネットの文章なんて便所の落書きだ。気楽に書かれて、気楽に書き捨てればいい。
そういうアドバイスをされたこともある。
しかし文章に貴賎はないというのが私の考えだ。(ちなみに需要と供給のバランスという意味で職業に貴賎はあると思っている。)
クソつまらない文章ならば沢山あるが、卑しい文章なんて一つもない。
便所の落書きだからという理由だけで軽んじることはできない。

つまり面倒をさけるには初めから受け付けないのが一番である。
トラックバックがあと10回来たら「トラックバックの受けつけ拒否」を設定しようと予定している。

山谷に在り

2005-05-29 18:43:37 | メモ
私が五歳のときに通っていた仏教系の幼稚園には「遊女の子孫」がいた。
正確に言えば、「遊女の子孫だと噂されていた親子」がいた。

その幼稚園のある場所は昔に大色町「吉原」があった場所であり、幕末の大火災で多くの遊女とともに炭と化して消え去ったのである。
その地に遊女の子孫がいるのは不思議なことではないと思われた。もちろん根拠のない噂話に過ぎない可能性も高かった。

ただ、その母親は美しかった。五歳児でも「遊女」が何をするのかくらいは知っていた。裸を見せてくれたり、キスをしてくれる人たちだ。あの母親の先祖がもし本当に遊女だったのならば、さぞ人気があったことだろう。

そして、その息子は美しかった。紅顔の美少年という言葉があるが、それが実によくあてはまった。そして子供とは思えないほど大人びていた。

しかし、その娘は畏怖された。彼女は知恵遅れだった。その容姿はその病気特有の外見を彼女にもたらした。
彼女は母親にも息子にも似ていなかった。
常に横に大きく開いた口は言葉を発することがなく、彼女はいつもふらふらとさまよい歩いていた。目には色や輝きがなく、まるで円盤を2つはりつけたような立体感のない瞳をしていた。その目で見られても、見られているという気がまるでしなかった。

誰も彼女の相手をすることはなかった。しかし彼女に悪さをする者もいなかった。
園児たちはただその存在を畏怖したのである。幼い子供にでも日常の理(ことわり)を受け付けない何かを恐れる気持ちはあるのだ。

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私の生まれ育った地元は浅草と上野の中間にある。
近所には日本有数の貧民街であるドヤ「山谷」がある。

江戸時代において娼婦、芸能人、少数民族は卑しい人々であり、彼らは幕府により江戸から離れた僻地に追い立てられた。
その土地が今の浅草である。
しかし彼らは色と娯楽をつかさどる者たちであり、人々は彼らの元へ足しげく通った。
そうして交通の便が発達し、物売りが増え、色街「新吉原」が生まれ、講壇や芝居が盛んになり浅草は娯楽地として繁栄した。
賎民と娯楽の地としての浅草である。その伝統は現在まで引き継がれており、ロック座などの風俗店や寄席、場外馬券場とその近くでヤクザがしきる違法賭博を今でも浅草の地で見ることができる。

同時に浅草は風水で重要な役割を果たしている。北東には巨大な怨念である平将門がいる。その呪いから江戸を守るために幕府は北東の地である浅草に多くの寺や神社を建立した。
怨念からの防波堤としての浅草である。その伝統は現在まで引き継がれており、浅草寺は観光名所として名高い存在だ。

このような土地に集まるのが、何らかの形で社会から疎外された人々ばかりになるのは必然である。
季節労働者、エタ、日韓併合の後は朝鮮人などが多くやって来て浅草の目と鼻の先である山谷に住むようになった。

そして戦後、高度経済成長の時代の中で上野駅が完成し、この地は多くの東北地方からの出稼ぎ労働者が流れ込む場所となった。
彼らは金もなく浮浪者のようで、政府は彼らを山谷へと強制的に追い立てた。
こうして日雇い労働者とドヤ(安いが粗末な宿の俗称。簡易宿泊所とも言う)の街としての「山谷」ができあがったのである。

つまりこの街には「必要だけど身近には置いておきたくないもの」が集められてきた。
統治の一部でありながら、行政からは遠い場所。それはある意味では自由な地であるが、生きるのに辛い地でもある。ここの住民の平均寿命は現在でも50代後半までと言われている。

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外の住人に彼らを恐れる人は多い。
私は昔、祖父の所有するマンションへ入居希望者を案内したことがある。
そして私はいつものくせで近道を通ってしまった。それは山谷を横切る道であった。

彼らはその街を怖れた。汚い身なりでうろつく酔っぱらい。昼間から道に寝転ぶ男たち。静かだが活気のない風景。
私にはそれらはいつものことで、恐いとか嫌だという感想が存在することさえ忘れていた。彼らはスラム街の近くには住めないと思ったのだろう。彼らは丁寧に入居を辞退した。

私も山谷が安全な街だとは言わない。ケンカやゆすりくらいはよくあることだ。
しかし準備や用心を怠れば危険であることは、どの街でも同じだ。
少なくとも私は山谷で危険な目にあったことはなく、しかし用心を怠ったこともない。

山谷の住人は干渉されるのを嫌う。彼らの多くは何らかの理由で世間を捨て、社会から捨てられた人たちである。
しかし同時に彼らは話好きでもある。山谷を散歩していて声をかけられて、1時間ばかり東北地方での労働の苦労話を聞かされたりしたこともある。
彼らの話を聞けば、彼らが他の社会人と比べてバカなわけではないことが分かる。ただ生きるのが極めて下手クソなだけである。

現在の山谷の失業率はとても高い。そして住人は高齢化している。
不況の波をまっ先にかぶったのは彼らであり、仕事がなければ昼間から街をさまよい、飲んで寝るしかない。
私が見る機会の多いのも山谷のそういう風景である。

しかし山谷にはそれ以外の顔もある。私はそれを見たことがないが、たとえば根本敬氏のマンガやレポートを読めば、あそこで生きる「イイ顔」のオヤジたちの姿を知ることができる。

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私の好きな学問は金にならないことが多い。
しかし山谷は物価が安く、その日暮らしをするだけならば十分な場所である。
私は家族を持つ予定はない。印刷屋の仕事は暇で給料も安い。私は父母の面倒を見た後は山谷で暮らそうと考えている。
あの場所なら少ない給料でも生きていけるし、好きな学問も続けられる。

山谷では何かを犠牲にすれば自由を得ることができる。
それが賎と楽と聖が混じりあうこの地の魅力である。

連絡事項

2005-05-28 16:25:58 | 会の案内や連絡
昨日のコメントにも書きましたが、目の前の家が燃えていて、なんかビニールを燃やしたような匂いがします。
私はイラスト作成の仕事を終わらせないといけないので火事のことは忘れることにして、パソコンの前にずっといました。
たまにパソコンの画面に燃えている家が映りますが、無視です。手伝えることもありませんし。

それはともかくとして、業務連絡です。
最近は会員が全国各地に滞在するようになり、昔と違って直接会ったり、電話で連絡を取るのが面倒になってきています。
以前から依頼されていた会の連絡用のサイトを簡単に作っておきました。
玄文講からリンクでいけるようにしておきましたので、適当に使って下さい。

でもこういう連絡用の掲示板やサイトってすぐにすたれるんですよね。
仕事やイベントがあるときは直接に会えますし、プライバシーに関わるやり取りはメールでしますし、全員への連絡事項はメーリングリストを使えばいいわけですから。

ですから連絡用以外の用途も持たせる予定です。
会の主旨とか、会則とか。会の利用方法とか今まで口頭だけで伝えてきたことを文書化しておこうと思います。仕事の依頼とか手続きもサイトを通して行えるように上に打診しています。

活動内容の報告ものせようと思いますが、顔や名前が外に出るのが嫌な人も多いと思いますのでそのところは配慮いたします。ですから、ご安心下さい。

2005-05-27 15:23:37 | メモ
ここに置いてあった「失業」の話は校正のため一時削除しました。

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昔に浅草寺でひいたみくじが凶だった。
この寺は凶がかなり高い確率で出る。

しかしその文句が素敵だったのでスキャンで取り込んで加工した。
上のイラストがそれだ。今でもカラープリンタで印刷して壁に飾ってある。

詠みは

火発しまさに天に連なる

新愁きゅうせんを惹く

千里の外(ほか)に求めんと欲っせども

渡りに要る船 更に無し


他には吉田戦車氏の「吉田自転車」にのっていた

「知人に頼まれて小学生に送った『覇道』という文字入りのカワウソ色紙」

もスキャンで取り込んで色をつけて飾ってある。