玄文講

日記

その問題を私はいかにして解いたかについて

2005-04-23 14:46:58 | メモ
問題

次を満たす最小の数字を求めよ。

3で割ると2余る

5で割ると4余る

7で割ると6余る

9で割ると8余る

11で割ると余りは出ない

*****************

解答はコメント欄に。


しかし、こんな問題を解くのに一時間もかけてしまった。

はじめは物理の問題を解く時の癖で、5つの方程式から5つの未知数を解こうとした。
しかし方程式を単純に作ると5つの方程式に対して6つの未知数が出てきてしまった。これではイケナイ。

5つの式が倍数を通じて相互に関係していることは分かっているので、もう一つ拘束条件の式を追加しようと考えたが、物理と違い何が何に対して制限を加えているのか直感的に分かりづらい。

しばらく考えた後、数論の専門科は、やたら素数だの公倍数だのを使いたがることを思い出した。
それで、その方法でやってみることにした。

すると初めの4つの条件は+1で全てきれいな倍数になり、これらの式は更に公倍数でまとめあげられることに気がついた。
あとは11の倍数であるという条件を満たすような数を考えていけばよいだけである。

しかしこの問題は小学生が解く問題だと聞いた。そんなものに1時間もかけてしまうとは、自己嫌悪である。

イザヤ・ベンダサン(山本七平)「日本人とユダヤ人」

2005-04-21 14:06:50 | 
この本を嫌う人は多い。
その理由は著者が保守系の論客であるというイデオロギー的なものだけではない。

この本は日本人である著者がベンダサンというユダヤ人を名乗って、ユダヤ人の視点から日本民族の性質を論じているからである。
つまりは偽書なのである。
「いざ、やぁ、便 出さん」というふざけた名前を名乗っているのだから、愉快である。

これを卑怯と見るか冗談と見るかは人により意見が分かれる。

冗談に分類されるべき面白く愉快な偽書はいくらでもある。
アイアンマウンテン報告、タイトルは失念したが日本人が韓国人の名前で書いた文化論(追記:TK生「韓国からの手紙」。当時の韓国の軍政を批判している。あんまり面白くない)、竹内文書(日本の超古代文明の歴史を書いた右翼風味なオカルト文献。)。鼻行類についての研究書。いろいろとある。
偽名や詐称は悪いことだから、その本は悪書だと断罪するならば単細胞のそしりをまぬがれない。

もちろんこの本を嫌う人の多くは、そんな単細胞な人ではない。彼らは

著者がユダヤ人を名乗ったのは、説得力のない本に「外国人の日本分析」という偽物の権威を与えたかったからだ。山本は卑怯な男だ。
嘘で塗り固めた本で日本の反動化・軍国主義化を助長した罪は重い。

と批判するのである。

さてこの本が出版されてから10年以上が経過して、その著者が山本七平氏であることは広く知れ渡っている。
もはや批判者の言うところの「こけおどしの権威」が通用しなくなった視点でこの本を読んでみよう。

まずこの本はおもしろく、一気に通読してしまった。娯楽としては大合格である。
しかし面白いことと、それが正しいことは別問題だ。

どれだけ興味深い話でも事実や実験で検証されなくては、ただの仮説、ほらでしかない。

一般的に、世に氾濫する人生論や文化論、○○論には、どうしてもうさんくささが伴う。
それは彼らの主張する論は仮説に過ぎず、それらが検証されることはマレで、どうしても思いつきの範囲を超えられないからである。
そして結果的に十人十色の人生論、文化論ができあがるわけだ。

余談だが、最近の進化心理学では人間の性質には文化によらない生得的なものがあることが示されており、それが歴史や環境によって作られたものなのか、生得的なものかを区別され始めている。

つまり、これは実験により検証が可能な人生論や文化論が可能であるということだ。
人生論や文化論は最近になって新しい視点から再検証され始めているのである。

閑話休題。

さて、この本には、それらの思いつきを検証すべき幾つもの例証が挙げられている。
駐日イスラエル大使館の「日本人は安全と水はタダだと思っている」という発言、日本の城下町とローマの城塞都市を比較した話など、とにかく博覧強記の論説が続く。
そして、その多くの例によりこの本は「なるほど」と思わされる説得力を持たされている。

この本が批判される最大の理由も、

「ユダヤ人を詐称したこれらの検証は無効だ。その“実験結果”は捏造である」

という検証の正当性にある。

私なりの結論を述べさせてもらうと、山本氏の挙げた例証の多くは「彼がユダヤ人ではなく日本人である」という理由によって否定できるものではない。
山本氏がユダヤ人を詐称することによって宣伝効果が倍増し、読者層が本来のそれより拡大したことは確かである。
しかしそれは良く言えば販売戦略であり、悪く言えば騙された方がその程度の鑑識眼しか持たなかったということである。
私はそれを以って山本氏を批判することはできない。


(以下未完)

では私はこの本を賛美だけするかといえば、そうではない。
まず何よりも私はこの本を面白いとは思っても、信用することはできないでいる。

心酔できない本。

それが私のこの本への印象である。おもしろく、かつ心酔できた作家はたくさんいる。
おもしろさでは山本氏の著作も彼らにひけをとらないが、私は氏の本にはどうしても心酔できないのである。


それはイデオロギーが異なるという理由ではないと思う。
私はどちらかと言えばサヨクの側の人間だが、日本の軍国化も北朝鮮への強硬路線も支持している。
(神聖不可侵なる人権思想を信じず、資本主義とマクロ経済学を信頼し、差別のある社会を望み、軍隊を持たない国は哀れだと思うサヨクというものが認められるのならば、私はサヨクである)


(このあと心酔できない理由について書く予定だったが、思ったより長くなり、まとめきれないでいる。

やはり氏の検証は不十分であり、結局はや文化論の持つもうさんくささが解消されていない。
偽のユダヤ人であるからという理由ではなく、ただその検証が適切ではないという理由で信用できない。

と主張したいのだが、その具体例を私自身検証できないでいる。
つまり私の主張は今のところ山本氏への不当な誹謗中傷であり、言いがかりでしかない。めんどうなので続きを書く予定もない)

世はおしなべてこともなく

2005-04-20 23:48:39 | 個人的記録
兄さんに子供ができた。
めでたいことである。

人間の場合、兄弟は遺伝子を50%共有し、甥や姪とは25%共有する。
自分ではないが、完全な他人でもないわけである。

私が子を残さなくても、彼らが繁殖すれば私の遺伝子の一部は次に残る。
それでもう十分である。

私自身は結婚も子供を作ることも考えられない。
自分がそんなことをするとは、とても思えない。

私はこのままでいい。
経済的にもそのほうが楽だ。
それに私は他人があまり好きではないので、他人と家族になるだなんてとても無理だと思われる。
知人になるのが限度である。

ただし講の仲間たちだけは例外である。
(君たちは特別に大嫌いだ。願わくば君らとは死ぬまで、いがみあい、ののしりあい、殴りあい、ケンカしていきたいものだ。)

そして私は何も残さず、誰にも記憶されず、自分の生きた痕跡をそっと消し去って、静かに消えていきたい。

ブログの仁義

2005-04-19 22:37:47 | バカな話
世間様から隔離され、喧騒の届かぬ隠遁生活。
気がつけば世にはブログなるものがありて、それに参加したのが昨年の10月。

ブログのマナーなるものが少しだけ分かってきたので、今日はそれをまとめてみたいと思う。

1)コメント、トラックバックの削除をしてはいけない

耳の痛いことは聞きたくないものであり、不愉快な相手は視界から削除したいものだ。
世界が自分の都合のいいことだけでできていれば、幸せである。

しかしブログにおいて、それはわがままな行為として忌み嫌われる。

自分に不利な発言をもみ消した卑怯者。
見たい現実しか見ない視野狭窄者。
自分と異なる意見を許さない偏執狂。

そういうレッテルを貼られる。

このように書くと「自分は悪質な荒らしを削除しただけだ」と主張する方もいることだろう。
しかし確かネットの世界には、「荒らしは放置する」という原則があるはずだ。
下手にいじることは荒らしの拡大をもたらす。荒らしを放置できない人間は、度量の狭い者とさげすまれ、荒らしと同類とみなされる。

それに「荒らし」と「自分に不利な意見」は必ずしも明確に分けられるものではない。
ネット世界には礼儀を知らず、随分と乱暴な口をきく者や、隠語を多用して電波のような文章を書く者が多い。
初対面の相手にいきなりタメ口を叩かれるのもネットの世界ならではの楽しみである。
しかし彼らの言っている内容自体は意外と普通であったりする。
彼らをどちらに分類するかは人により基準が異なり、その敷居が限りなく高い人もいれば、やたらに低い人もいる。

だから自分は荒らしを削除したつもりでも、外から見れば「他人の意見をもみ潰した」ようにしか見えないことが多々ある。
私は管理人が次々とコメントを削除して、卑怯者呼ばわりされ、閉鎖にいたったブログを何件か知っている。


もし時間を取られたり、不愉快な思いをしたくなければ、初めからコメントを受け付けないか、無視すればいいのである。
それならば誰も責めはしない。

ただし管理人以外の人間への誹謗中傷は削除してもかまわない。
管理人は記事を書いたからには批判される義務も生じるが、第三者にはその責任はないからである。

犯罪にふれる発言、管理人に物理的損害をもたらすコメントも削除対象である。


2)記事を無断で変更してはいけない

昔に書いた記事をこっそりと大幅に変えることは公正さに欠ける行為とみなされる。

誰でも間違いや見当違いの意見を書いてしまうことはある。
後でそれに気がついた場合、それを修正したくなるのは当然のことであり、修正すればいい。

ただし修正は元の記事を残したまま追記という形で行われるべきである。
もし誰にも気づかれないようにこっそり変えたのならば、議論を混乱させてしまうからだ。

たとえば私がAについて賛成した記事を批判されてから、その内容を正反対のものに変えたとする。
すると後からその記事と批判文を見た人は、批判者がAについて反対した記事を批判しているように感じることだろう。

コミュニケーションがお互いの意見を理解しあうことにあるとすれば、記事の無断変更はその正反対の結果をもたらす。
それはブログを単なる自己欺瞞と誤解がぶつかりあうだけの場と変えてしまうことだろう。

ただし中には誤字脱字、慣用句の使い間違いも直すべきではないという人もいるが、私はそこまで原理主義的にはなれない。


3)知り合いに見られて困ることは書かない

誰からも見られるのがネットである。知り合いが見る可能性もあれば、警察関係者の方が見ていることもある。
勤めている会社に不利なことを平気で書く人もいれば、知人への一方的な誹謗中傷を書き連ねたり、法に触れる行為を書いて平然としている人もいる。

私もN氏への悪口や会社の経営難のことを書いてはいるが、あれは誰に見られてもかまわないと思って書いている。
(不都合がないように事実を一部改ざんしてはいるが)

ブログは実に現実感のない表現媒体だが、まったく現実から独立しているわけでもないのである。


4)いまだに分からないこと「トラックバックに何の意味があるのか?」

トラックバックをもらうたびに、いつも私は困惑してしまう。
これは一体何なのだろうか?

「自サイトの宣伝目的」という説もあるが、それは閲覧者の多い有名ブログに限られた話であろう。
私が今まで送ったトラックバックもその目的であった。
相手の記事の内容と無関係なトラックバックは嫌われるが、もちろんそんなことはしていない。

しかし日に10人も来ないような当ブログにトラックバックをしても宣伝効果などはない。
彼らは純粋にトラックバックしたいと思ったから、トラックバックして下さったのだ。

それで、トラックバックとは一体何なのか?

他のブログを見ると、トラックバックされた側はした側に対して「トラックバックありがとうございます」と書き込んでいる。
どうやらそれはお礼を言うべきことであるらしい。

はて?一体、私は何に対してお礼を言えばいいのだろうか?
感謝の意を表すということは、なんらかの形でトラックバックされた側に利益が生じたに違いない。
しかし私はトラックバックされて何かの利益を得た記憶がない。

トラックバックしてくれたということは、私の記事に共感し、私にも自分の記事を見せることで啓蒙させてあげようという意志の表れなのかもしれない。
つまり共感し、賛同し、更には相手にも教えを授けてやるわけだ。

それならば賛同を喜び、啓蒙されたことについて感謝しなくてはいけない。
なるほど、それならお礼を言うべきだ。

しかしどうもトラックバックして下さった方の文章からは、そんな気概は特に感じられない。

どう見てもそこにあるのは、トラックバックしたいと思ったからトラックバックしたという純粋な「トラックバック欲」なるものが存在しているだけなのである。
そしてその行為に対する感謝がブログ界には溢れて、満ち満ちているのである。

私には理解できない世界がそこにはある。
世間様から隔離され、喧騒の届かぬ隠遁生活に慣れすぎた私は、まだまだ世間様にはついていけないようである。

(05/04/26追記)
ブログの意義は紹介したり、されたりすることで交流が広がることにある、と指摘された。

しかし紹介するだけならリンクをはればよい。
どこで紹介されているかしりたければアクセス解析を行えばよい。それを無料でやってくれるところはいくらでもある。

トラックバックはそれを行う手間を簡略化したという見方もできるが、そもそもリンクをはるのもアクセス解析をするのもそんなに面倒なことではない。

逆に言えばそこまで簡単にしなければやろうと思わなかった人たちは、もとから大して交流に興味のない人たちなのではなかろうか。
需要のないところに無理やり供給を与えていることになる。
いや、それなら携帯電話も始めは必要のないところ、需要のないところに供給を与えて、やがてそれが必需品になった製品だ。
そういうものなのだろうか。

わからん。

(補足)
私は今まで当ブログにトラックバックを下さった方に文句を言っているわけではありません。
それを迷惑に思ったこともありませんし、そこに何らかの好意に似たようなものを感じ、なんとなく有難く思っています。

ただ「好意」や「有難さ」の中身がよくわからないので、こうして色々と考えているしだいであります。

ネットをぶらぶら

2005-04-18 23:40:42 | メモ
私は一日0.5~1.5時間ネットを利用している。
その時間はメールのやり取り、ここの記事の作成、論文の検索、ネットをブラブラするのに用いている。

私が毎日見ているサイトは以下のようなところだ。

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意外と多いものである。