玄文講

日記

経済学は科学であることについて

2005-04-29 15:29:38 | 経済
昨日、5月1日に行われる国家公務員1種を受ける同僚たちと試験勉強の話をした。

試験には経済政策も出るらしいので、苺えびすや日銀の金融政策についていくつかの資料を提供した。
彼らは試験勉強をほとんどしていないのにも関わらず、毎年一人くらいは最終面接まで行ってしまうのだから嫌になる。
去年の合格者なんて試験対策に「みんなの公民」なんて本だけしか読まず、しかも試験前日に私たちと麻雀大会をしていた。

閑話休題

それで経済政策について話しているうちに、彼らは

「経済学なんてつまらないよね」

「ノーベル経済学賞なんて要らないものだ」

なんて言い出した。
そして挙げ句には

「世界で一番、純利益を多く出した経営者にノーベル経済学賞を与えればいいではないか」

などと言い出す始末だ。
こういうことを言う人は多い。
「経済学者は経済を学んでいるくせに商売ができない」
「経済学者の言う通りにして金持ちになった奴なんていない」
「そんなに言うなら自分で金をかせいでみたらどうなんだ」
経済学者はなにかと批難されることが多い。

なぜ経済学だけがこんな言い掛かりを受けなくてはいけないのだろうか。

車のエンジニアに向かって「そんなに車が好きならF1で優勝してみろ」と言う人はいないであろう。
医者に向かって「そんなに身体に詳しいなら病気になるな」と言う人はいないであろう。

市場や貨幣の仕組みについて分析するのと、市場で有利な立場になり金をかせぐのとでは必要とされる能力はまるで違う。
物理学者が物理的に強いわけではないのと同じように、経済学者が経済に強いわけではないのである。

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理系の人間には経済学を学問として認めようとしない人もいる。

「経済学は実験で検証できないのだから、科学ではありえない」

と言うわけだ。

科学とは実験で検証できるものでないといけない。それは事実だ。
あらゆる仮説は検証されない限り、ただの大嘘でしかありえない。

しかし現実の経済活動はなかなか実験をさせてくれない。仮に経済学者が
「インフレが失業率に与える影響を知りたいので、大規模なインフレを起こして下さい」
なんて言っても「うん」と言ってくれる政府などありえない。

そして批判者は言うのである。
「経済現象は実験で再現し、検証することができない。よって経済学は学問ではない」

この発言には大きな誤解がある。
検証できなくては科学ではない。それは正しい。
しかし「再現できなければ、検証できない」というのは嘘である。

ここで進化学を考えてみよう。
進化学を科学ではないと言う人は、一部の偏執的な宗教家でもない限り、いないであろう。

しかし進化は実験で再現することはできない。
「教授、先日牧場で飼っていた恐竜がとうとう始祖鳥に進化しました」
なんてことはありえないのである。
(最近は分子生物学を利用することで実験も可能になっているが、やはり不可能なことはあまりにも多い)

では何故に進化学は再現できないのにも関わらず、検証を可能とし、科学となりえているのか。
それは、生物には「歴史」があるからである。
世界中の地層の中には、生物の進化の歴史の痕跡を示す「化石」が眠っている。

生物が化石になるには多くの幸運が必要である。生物を分解してしまう微生物が入り込めない場所で、適切な圧力や乾燥を受けなくてはいけないからだ。
特に軟体動物が化石化するのは奇跡的な偶然を要し、初期の時代の生物の化石はほとんど見つかってはいない。

それでも生物学者たちはその幸運を掘り起こし、過去の歴史を検証することで、「進化」という仮説を検証し、それが正しいことを示しているのである。

経済学も同様だ。
確かに経済活動は実験室では再現できない。
しかし、人間には「歴史」がある。
戦争、恐慌、貿易、経営。人間の活動の中には経済活動の痕跡が無数に眠っている。

ケインズとチャーチルの論争、第一次大戦後の世界不況は、金本位制の欠点と金融政策の必要性を立証した。
アメリカでは「失業率が下がり過ぎるとインフレ率が上昇して不況を招く」という経済学の仮説通りのことが起き、それは立証された。

「例外のない規則はない」という言葉通り、予想外の出来事がいくつも起き、そのたびに反経済学の一派は喜んで経済学を否定して、あんな連中よりも俺を信用しろと人々に訴えた。
だが経済学者はそのつど新しい仮説を作り上げて、それを歴史に検証させてきた。
最後に敗北するのはいつも反経済学の一派だ。

学問の流儀は多種多様であり、自分の知っているやり方だけが唯一の方法だと思ってはいけないのである。

匂い

2005-04-27 00:00:23 | 個人的記録
気温が上がり、湿度が高くなると物はその匂いを一段と強く発するようになる。
特に雨の日の前後はそれが濃くなる。

往来の花からは蜜の匂いがする。
人とすれ違うたびに、着物の匂いがする。女性は少し化粧の匂いが混じっている。

畑のそばからは朽ちた土の匂いがする。こやしの臭気も混じっている。
工事現場の近くからは乾いた鼻につく砂利の匂いがする。

廊下は木の匂いを充満させ、
非常階段では錆びた鉄から血のような匂いがする。
棟によっては薬品の匂いや、動物の匂いがする場所もある。

急須は茶渋が染み付いていて、そこから甘い匂いがする。

朝と昼と夜では匂いが違う。
気のせいかもしれないが、月があるのとないのとでも匂いが違うように感じる。
月の匂いは少しベンゼンに似ている。

デュルケム「自殺論」他3点

2005-04-26 20:13:25 | 
昨日、私は自殺志願者もどきについて触れたが、自殺についての本といえば幾つかが思い出される。

デュルケム「自殺論」

これは有名な社会学者の代表作である。

私たちは普通、自殺の原因といえば個人の内面の葛藤であると考える。
それは必然ではなく、不幸な偶然の寄せ集めがもたらした悲劇である。

しかし、デュルケムは自殺の原因を個人を超えたマクロな視点から研究した。
つまり自殺は社会の性質の一部であり、必然的に起こる一つの社会現象に過ぎないと考えたのだ。

彼は言う。

個人の身体的、心理的素質によっても物理的な環境要因によっても説明することのできない特有の自殺傾向が、それぞれの社会集団に存在することが明らかにされた。

その結果、自殺傾向が必然的に社会的原因に根ざすものでなければならず、それ自体が一つの社会的現象を形作るものでなければならない。


自殺は、宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は、家族社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は、政治社会の統合の強さに反比例して増減する。


つまり集団の力が上昇すると個人的な自殺は減少する。
彼は1848年の二月革命や1866年の普墺戦争などのような民衆の高揚を伴う闘争がある年に自殺率が減っていることを示している。
宗教の教義だとか信仰の強さだとか、家族の絆とか、公共への奉仕だとか国への忠義というのは、自殺を抑止する本当の原因ではない。
自殺率はただ「集団の統合の強さ」に依存するだけである、というわけだ。

それはあたかも落下の法則において、落下速度が重要と思われていた重さには依存せず、実は重力加速度のみに依存していたことに似ている。

他にも、統合が過剰になると逆に自殺率が上昇し、また多くの欲求が急に満たされなくなった社会においても自殺が増えると論じている。

この自殺論に対する批判として、自殺の原因として精神病や貧困を軽んじ過ぎていると言われており、後の研究者がいろいろと修正を施しているらしい。
(私はそこまで追いかける気力はない。この自殺論でさえ私の手にはあまり、第二遍の一章から五章までしか読んでいない。残りの部分は軽く流し読みしただけである。)

だが110年前に出版された本がいまだに価値を失わず、本書が「自殺」をテーマにした考察の第一位の存在であり続けているというのは驚くべきことである。
社会学はジンメルとデュルケムとウェーバーでほぼ完成されたと言われるゆえんであろう。

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なだいなだ「心の底をのぞいたら 」

新聞やマスコミはいつも「自殺が増えている」と声高に唱えている。
しかし自殺オタク、自殺マニアにとって「自殺が増えている」なんて憤飯ものの主張である。
自殺は減っている。特にいじめ自殺なんて激減だ。

そんな嘘を徹底的にデータを持ち出して否定し、批判したのが精神科医のないだいなだ氏である。

最近では、彼らは「少年犯罪が増えている」と声高に唱えている。
それを教育制度の欠陥のせいにして、自分の思想を子どもに吹き込もうとしている人もいる。

しかし犯罪オタク、犯罪マニアにとって「少年犯罪が増えている」なんて憤飯ものの主張である。
少年犯罪なんてここ50年のトレンドでみたら大激減だ。
数年の誤差のような変化だけで「危機の時代」と騒ぐのではまるでエセ環境運動家のようだ。

少年犯罪については「少年犯罪データベース」が詳しい。

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鶴見済「完全自殺マニュアル」

懇切丁寧に自殺のやり方について教えてくれるのがこの本であり、かなり売れた。
ちなみに私は「死んだり、死なせられたりする人間」には興味はあるが、「死ぬこと」には興味がないので、この本をきちんと読んではいない。

世を嘆いてみせるのが趣味の人にとって、この本が爆発的に売れたことほど嘆き甲斐のあることはなかったであろう。

こんな本を出して自殺する人間だ出たらどうするつもりだという、当然の批判も出た。
しかしそれは杞憂である。

個人レベルで見れば、自殺する人間はどのみち自殺する。やり方を教えれば自殺するという考え方はなしである。
良識派の方々には、私たちがマニュアルがないと何もできない人間ばかりだと思わないでいただきたいものである。

そして社会に与える影響という視点からもこの本は「社会の統合の強さ」とは無関係なので、自殺率の増加にはつながらないであろうし、実際つながらなかった。

この本はただ楽しいだけの本である。
首吊り自殺の記述に嘘があるなど、自殺オタク、自殺マニアの間では「より正しい自殺方法」について議論が交わされ、
新聞の投書欄には「息子が「完全自殺マニュアル」を持っていたが大丈夫でしょうか」なんてマヌケな相談が送られ、
当の著者もこの本への社会の反響や賛同、罵倒、落書きを含むアンケートハガキを収録した「ボクたちの完全自殺マニュアル」を発行している。

ちなみに氏は作家の椎名誠氏が中学生連続自殺事件をうけて書いた文章、タイトル「死ぬな!」についてこう皮肉を言っている。

「死ぬな!」だってさ。
無理だよ、みんな死ぬんだから。
あんたのほうが先に死ぬって。
次は末期癌の患者のホスピスに行って「死ぬな!」って言ったらいいんじゃないか?
面白くて。


(「檻のなかのダンス」より引用)

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古谷実「僕といっしょ」劇中の1エピソード

14歳の文無し家出少年二人は自殺しようとしていたOLに、「死ぬなら必要ないだろうから、お金をくれ」とお願いする。
それで怒ったOLと近所のファミレスで飯を食いながら大ゲンカして、最後に二万円をもらって別れる。

与那原恵「自殺志願者という物語」

2005-04-25 11:07:25 | 
1998年のことである。ドクターキリコ事件というものがあった。

ネットにおいて自殺志願者が交流する掲示板の常連男性、ハンドルネーム「ドクターキリコ」が七名に青酸カリを販売。
そのうちの一名の女性が実際にその青酸カリを用いて自殺した。その後、それを知ったドクターキリコなる人物も自殺する。
耳目をひく事件であり、当時は大いに騒がれた。

やがてドクターキリコの知人であり、掲示板の管理人でもあったハンドルネーム「美智子」なる新しい人物がメディアに登場し、ドクターキリコを擁護した。
彼女によると青酸カリはお守りであり、彼は自殺志願者の悩みに真摯に応える誠実な人物であったそうだ。

与那原恵さんの「もろびとこぞりて」内には、その青酸カプセルを購入した人物3名にインタビューした記事がのっている。
そのうちの一人である「女性A」への与那さんの視点はかなり批判的で意地悪で楽しいものだ。

簡単に言えばAはよくいるタイプの自分大好き人間、個性原理主義者なのである。

与那さんの彼女への評価は

Aが気にしているのは自分だけだ。
この社会の中で確かな手応えを見出せない自分を気にしているのだ。
そして彼女は、自分という個性を「自殺志願者」のネットのなかで見い出したのだ。
他人に興味を持つような人物ではない。


というものである。
そもそも自分に個性を求めたがる人間にろくな者はいない。より嫌味に言えば、個性を求める人間に個性的な者はまずいない。
いるのは個性的になろうとして失敗した、不思議ちゃんやただのうるさくてウザイ奴ばかりである。

インタビューの場においてAは饒舌に自分について語る。
暴力的な父親と無抵抗な母親という「平凡」な家庭環境について。
進学をめぐるいざこざ。
覚醒剤遍歴。恋人との別れ。うつになったこと。例のサイトを知ったこと。

彼女にとって重要なのは自殺することではなく、「自殺したいという「あたし」を語ること」である。
Aにとって「自殺志願者」はようやく手に入れた個性的な自分の肩書きである。
そして個性的な自分を他人に知らしめるのは心底楽しいのだ。念願かなって幸せなのである。

自殺した例の女性に対しての哀れみは一切なく「彼女のせいであたしたちの共同体が壊れてしまった。迷惑だ」と怒る始末である。

そんなAに他人への想像力はまったくない。Aは「他人があたしをどう見ているのか、すごく気になっている」と言っているにも関わらず、実際には他人の目を気にしない恥知らずなのである。
なぜなら他人の目は他人に関心をもつことで初めて理解できるものだからだ。自分にしか興味がないAにできる芸当ではない。
他人の目ばかり気にして臆病になるのも問題だが、ようは程度問題である。度を超した自己中心的な態度はこちらをウンザリさせる。

恋人と別れるとき「(ドラッグにはまる)お前を変えられなかった」と言われて、Aは彼のことを「ありのままの自分」を愛さないエゴイストだと怒る。
与那さんは
「ありのままの自分」幻想は「自分はなにも悪くない」というつぶやきに正当性を持たせているだけだ
、とにべもない。

マスコミは何も分かっていないと怒り、命が大事だという世間の価値観を「バカみたい」「マインドコントロールされている」と言って徹底的に軽蔑する。
自分が何を信じるかは彼女の勝手だが、他人の常識も尊重するのが思いやりというものである。
ましてや自分と異なる価値観をバカにすることで、自分が他人より優位な存在になったと錯覚するのは論外である。

オウム真理教については「ハマれるものがあってうらやましい」と言い、
「生きているなんて自然現象だ。生んで欲しいなんて頼んだわけじゃないから死ぬくらい自由にさせろ」と言う。
死ぬのは勝手だし、青臭いセリフも微笑ましいが、ファッションとして「自殺志願者」を楽しんでいる人間が「自由に死なせろ」とは笑止である。

与那さんは、よりによって、そこに名著「利己的な遺伝子」の影響を感じている。私も同感だ。
しかし、たしかに生物の目的は自己の遺伝子をより多く残す自己中心的なものである。しかしそれは単なる「自然」に過ぎない。
Aはよくある「自然」と「道徳」の混同という誤りを犯しているに過ぎない。自然法則から道徳規則を導き出すのが完全な誤解なのである。

さらに「あたし、精神科で調べてもらったらIQがすごく高いんです。自殺志願者って頭がよすぎるのかもしれない」

というセリフにいたってはバカの烙印を押される資格十分である。
ちなみに彼女は、おなじみの「自称・アダルトチルドレン」である。
「自殺志願者」も「アダルトチルドレン」も手っ取り早く個性的な人間になるためには便利な言葉である。

そして何よりもこれだけ個性的を目指しているにも関わらず、Aは単なる「美智子」の姿を映す鏡に過ぎない。
Aの言葉、思想は全て「美智子」のコピーである。

だが「美智子」はAとは違い簡単に馬脚を表わしたりはしない。
彼女は自分に有利な場所でしか自分を語らないからだ。そこが場所さえ与えられれば、どこででも、誰にでも、嬉々として自分語りを始めるAとは格の違うところだ。

しかし「美智子」のサイトにあるアンケートの自殺したい場所の選択項目に「インド、雪山、樹海」があったり、「世間の人が意味がある、素晴らしいと考えている事象にまったく意味を感じることができません」と嘆いて、よくある何でもないことをやたら深刻ぶってみせるなど、少しはボロを出している。

また彼女の監修した本における、彼女が自殺しようと向かった富士の樹海でさまよいながら、高野悦子の詩を口ずさむくだりは自己陶酔が過剰である。

与那さんは最後に「美智子」の言う「お守りとしての青酸カリ」を次のように解釈している。


「死なないためのお守り」とは、他人に対して優位に立てれば生きていられるという傲慢さを担保するためのアイテム以外のなにものでもない


(補足)

私は以前にも「自然」と「道徳」を混同する誤りについて指摘した。
この手の誤りには両極端な2つのパターンがある。

1つは「ある行為Aは自然現象である。だからあらゆるAは正当化される」という、それは自然現象だから道徳的に正しいものだと結論付ける論理である。

そしてもう1つは「ある行為Aは自然現象に過ぎない。だからあらゆるAは尊重する必要はない」という上と正反対の主張だ。
それは自然現象だから私たちの意志とは無関係であるという論理だ。

いずれも自然を基準にして道徳を考えている点で間違っている。
それが自然であることは、それが社会的に正しいか悪いかの判断材料には一切ならない。

生きているのは自然現象だ。その通りである。
しかしその事実からいかなる社会規範「生きているのは素晴らしい」も「死ぬのは自由だ」も導くことはできない。
道徳は人間同士の約束事である。その是非を決めるのも人間であって、自然ではない。

確かに自然法則は私たちの社会行動に強い影響を与えており、私たちの道徳は自然の影響を受けている。
人間性を無視した規律が破綻するしかない以上は、私たちの道徳が自然とは完全に独立していると考えるのは無理がある。

しかし「影響を受けていること」と「その是非を決める」ことは別である。

自然は自分の子どもを可愛がるように私たちを動かす。そして人間の道徳はそれを「是」と決めている。

自然は他人を殺して自分の生存圏を広げるように私たちを動かす。しかし人間の道徳はそれを「否」と決めている。
(そして虐殺を求める人間性を無視せず、同時に虐殺をしないという道徳を満たすためには、そもそもの虐殺の動機を知ればよい。それは生存圏の確保だ。つまり人間が経済や科学技術を発展させ、生存圏を奪わずとも確保できる状態を維持すれば虐殺は起こらなくなる)

自然が人間を無視して法則を決めているように、私たちは影響を受けていようが何だろうが自然を無視して道徳を決めることができる。
むしろ道徳を守るために自然からの影響をコントロールすることさえできる。

自然うんぬんを持ち出して、あるべき道徳を語り、自分の人生観を正当化するのはごまかしでしかないのである。

(雑感)

先日知人から「ネットにおいて、長い文章はまともに読まれない」と指摘された。
そればらば私の文章はまだ十分に短いので大丈夫であろう。