玄文講

日記

ブログの仁義

2005-04-19 22:37:47 | バカな話
世間様から隔離され、喧騒の届かぬ隠遁生活。
気がつけば世にはブログなるものがありて、それに参加したのが昨年の10月。

ブログのマナーなるものが少しだけ分かってきたので、今日はそれをまとめてみたいと思う。

1)コメント、トラックバックの削除をしてはいけない

耳の痛いことは聞きたくないものであり、不愉快な相手は視界から削除したいものだ。
世界が自分の都合のいいことだけでできていれば、幸せである。

しかしブログにおいて、それはわがままな行為として忌み嫌われる。

自分に不利な発言をもみ消した卑怯者。
見たい現実しか見ない視野狭窄者。
自分と異なる意見を許さない偏執狂。

そういうレッテルを貼られる。

このように書くと「自分は悪質な荒らしを削除しただけだ」と主張する方もいることだろう。
しかし確かネットの世界には、「荒らしは放置する」という原則があるはずだ。
下手にいじることは荒らしの拡大をもたらす。荒らしを放置できない人間は、度量の狭い者とさげすまれ、荒らしと同類とみなされる。

それに「荒らし」と「自分に不利な意見」は必ずしも明確に分けられるものではない。
ネット世界には礼儀を知らず、随分と乱暴な口をきく者や、隠語を多用して電波のような文章を書く者が多い。
初対面の相手にいきなりタメ口を叩かれるのもネットの世界ならではの楽しみである。
しかし彼らの言っている内容自体は意外と普通であったりする。
彼らをどちらに分類するかは人により基準が異なり、その敷居が限りなく高い人もいれば、やたらに低い人もいる。

だから自分は荒らしを削除したつもりでも、外から見れば「他人の意見をもみ潰した」ようにしか見えないことが多々ある。
私は管理人が次々とコメントを削除して、卑怯者呼ばわりされ、閉鎖にいたったブログを何件か知っている。


もし時間を取られたり、不愉快な思いをしたくなければ、初めからコメントを受け付けないか、無視すればいいのである。
それならば誰も責めはしない。

ただし管理人以外の人間への誹謗中傷は削除してもかまわない。
管理人は記事を書いたからには批判される義務も生じるが、第三者にはその責任はないからである。

犯罪にふれる発言、管理人に物理的損害をもたらすコメントも削除対象である。


2)記事を無断で変更してはいけない

昔に書いた記事をこっそりと大幅に変えることは公正さに欠ける行為とみなされる。

誰でも間違いや見当違いの意見を書いてしまうことはある。
後でそれに気がついた場合、それを修正したくなるのは当然のことであり、修正すればいい。

ただし修正は元の記事を残したまま追記という形で行われるべきである。
もし誰にも気づかれないようにこっそり変えたのならば、議論を混乱させてしまうからだ。

たとえば私がAについて賛成した記事を批判されてから、その内容を正反対のものに変えたとする。
すると後からその記事と批判文を見た人は、批判者がAについて反対した記事を批判しているように感じることだろう。

コミュニケーションがお互いの意見を理解しあうことにあるとすれば、記事の無断変更はその正反対の結果をもたらす。
それはブログを単なる自己欺瞞と誤解がぶつかりあうだけの場と変えてしまうことだろう。

ただし中には誤字脱字、慣用句の使い間違いも直すべきではないという人もいるが、私はそこまで原理主義的にはなれない。


3)知り合いに見られて困ることは書かない

誰からも見られるのがネットである。知り合いが見る可能性もあれば、警察関係者の方が見ていることもある。
勤めている会社に不利なことを平気で書く人もいれば、知人への一方的な誹謗中傷を書き連ねたり、法に触れる行為を書いて平然としている人もいる。

私もN氏への悪口や会社の経営難のことを書いてはいるが、あれは誰に見られてもかまわないと思って書いている。
(不都合がないように事実を一部改ざんしてはいるが)

ブログは実に現実感のない表現媒体だが、まったく現実から独立しているわけでもないのである。


4)いまだに分からないこと「トラックバックに何の意味があるのか?」

トラックバックをもらうたびに、いつも私は困惑してしまう。
これは一体何なのだろうか?

「自サイトの宣伝目的」という説もあるが、それは閲覧者の多い有名ブログに限られた話であろう。
私が今まで送ったトラックバックもその目的であった。
相手の記事の内容と無関係なトラックバックは嫌われるが、もちろんそんなことはしていない。

しかし日に10人も来ないような当ブログにトラックバックをしても宣伝効果などはない。
彼らは純粋にトラックバックしたいと思ったから、トラックバックして下さったのだ。

それで、トラックバックとは一体何なのか?

他のブログを見ると、トラックバックされた側はした側に対して「トラックバックありがとうございます」と書き込んでいる。
どうやらそれはお礼を言うべきことであるらしい。

はて?一体、私は何に対してお礼を言えばいいのだろうか?
感謝の意を表すということは、なんらかの形でトラックバックされた側に利益が生じたに違いない。
しかし私はトラックバックされて何かの利益を得た記憶がない。

トラックバックしてくれたということは、私の記事に共感し、私にも自分の記事を見せることで啓蒙させてあげようという意志の表れなのかもしれない。
つまり共感し、賛同し、更には相手にも教えを授けてやるわけだ。

それならば賛同を喜び、啓蒙されたことについて感謝しなくてはいけない。
なるほど、それならお礼を言うべきだ。

しかしどうもトラックバックして下さった方の文章からは、そんな気概は特に感じられない。

どう見てもそこにあるのは、トラックバックしたいと思ったからトラックバックしたという純粋な「トラックバック欲」なるものが存在しているだけなのである。
そしてその行為に対する感謝がブログ界には溢れて、満ち満ちているのである。

私には理解できない世界がそこにはある。
世間様から隔離され、喧騒の届かぬ隠遁生活に慣れすぎた私は、まだまだ世間様にはついていけないようである。

(05/04/26追記)
ブログの意義は紹介したり、されたりすることで交流が広がることにある、と指摘された。

しかし紹介するだけならリンクをはればよい。
どこで紹介されているかしりたければアクセス解析を行えばよい。それを無料でやってくれるところはいくらでもある。

トラックバックはそれを行う手間を簡略化したという見方もできるが、そもそもリンクをはるのもアクセス解析をするのもそんなに面倒なことではない。

逆に言えばそこまで簡単にしなければやろうと思わなかった人たちは、もとから大して交流に興味のない人たちなのではなかろうか。
需要のないところに無理やり供給を与えていることになる。
いや、それなら携帯電話も始めは必要のないところ、需要のないところに供給を与えて、やがてそれが必需品になった製品だ。
そういうものなのだろうか。

わからん。

(補足)
私は今まで当ブログにトラックバックを下さった方に文句を言っているわけではありません。
それを迷惑に思ったこともありませんし、そこに何らかの好意に似たようなものを感じ、なんとなく有難く思っています。

ただ「好意」や「有難さ」の中身がよくわからないので、こうして色々と考えているしだいであります。