玄文講

日記

飲み会

2005-02-27 23:27:39 | 個人的記録
頭のいい人の話を、酒を飲みながら聞くことほど楽しいことはない。

今日は未来の検事と会い、検事という職業がいかに日々、心理戦を繰り広げているのかを聞くことができた。
それは記憶は嘘をつくということを理解しつつ、いかに正確な情報を当事者から聞き出すかという問題であった。


同じ分野の人間の成功は嬉しいと同時に、ねたましいものである。
しかし異なる分野の人の成功は純粋に喜ぶことができる。
むしろそういう人と知り合えたという幸運に感謝したい気持ちになる。
今日は実りの多い良き日であった。

ところで自分の豪華な交友関係を自慢する人間は、彼らを知っている自分に権威があると勘違いしてしまう場合がある。
もちろん知り合いがいくら優秀でも、本人の駄目さが改善されるわけではない。
そのことは勘違いしたりしないように強く自分を戒めなくてはならない。

だが楽しいことが何よりも好きな私としては、もっと多くの優秀な人の話を聞きたいものである。

うっかり26歳

2005-02-25 00:46:05 | 個人的記録
昨日、私はつい、うっかり26歳になってしまった。

いや、本当にうっかりしていた。来年からは気をつけよう。何を?さぁ?

誕生日にろくなことがないというのは私の定説だが、今年はカゼをひいた。
感染源は甥っ子たちでスイス直輸入のウィルスだ。

このカゼは咳がひどく、声が出なくなってしまった。
電話がかかってきても会話にならない。

「もしもし」

「あ"ー、あ"ーあ"ー(はい、もしもし)」

「、、、カゼですか?Oさんからも連絡があったと思いますけど、先生が論文のレフリーからのコメントが来たかどうか教えて欲しいそうです」

「あ"あ"ーあ"あ"、、、あ"ーあ"あ"あ"ーあ"あ"ー?(まだです、、、私の言ってること分かります?)」

「もしもし?聞こえません」

「あ"あ"ーあ"あ"(まだです)」

「わかりません。メールで返事して下さい(ガシャッ)」

この様である。今週末には講の集会があるというのに挨拶もできやしない。どうしましょう。
ゴンタ君みたいに空からナレーションでも入れてもらおうか。しかも女性のソプラノボイスで。

それにしても、そろそろ就職活動を始めないといけない。
先輩は半導体関係の研究室や企業に行ったが、そろそろ政府の予算が切れるころなので私には難しいだろう。
工学関係、特に生体工学の肉体と親和性の高い素材研究に関係する企業に行きたいが、私の経歴では雇ってくれるかどうか不明である。
方法としては工学系の院に行き、修士号を取ってから就職活動をするという手段がある。
借金が300万円ほど増え、年齢も29歳になってしまうが、ギリギリ乗り切れる借金と年齢である。

まぁ、仕事は何でも始めてしまえば楽しくなるに決まっているので、最終的には何でもいいとも思っている。
それより今はソプラノボイスの女性を探す方が優先だ。

貨幣(3)「その制御」

2005-02-24 01:09:15 | 経済
(「その役割」、「その種類」の続き)

昨日も書いたように貨幣のコントロールとは、その流通量「マネーサプライ」を増減させることである。

ここでは「誰が(Who)」「どのようにして(How)」それを行うかを考えてみたい。

まずWhoであるが日本を含む多くの国では、これは政府からある程度独立した機関「中央銀行」が行う。
日本の場合、中央銀行は「日本銀行」である。アメリカなら「連邦準備」だ。
ちなみに日本の紙幣は彼らが作っているので日本銀行券という名前がついているのである。

ところで、もちろん政府も貨幣を発行する権利は持っている。100円や500円といったコインは政府の発行する政府貨幣であり、これらの発行量は年3,000億円しかなく、日本銀行券の量よりはるかに少ない。

過去には政府が高額貨幣を発行した例もある。
たとえば1986年の榊原英資 氏の立案による「天皇在位60周年記念10万円金貨」は有名な政府通貨である。
この通貨は当時のバブル景気の中、大人気で売れに売れた。
これは4万円分の金で作られており、その6割の粗利は国家に多額の収益をもたらした。
もっともその人気と収益性のために10万枚(100億円)もの大量の偽通貨が出回る事態にもなった。

(参考)日本のコインブームコインの散歩道

日本銀行券に価値があるのは人々が日本銀行を信用しているからであり、政府貨幣に価値があるのは人々が政府を信用しているからである。
もっとも日本銀行の信用度は、その背後にいる政府の信用度と等価なのでこの2つを区別する必要はほとんどないのかもしれない。

*********************

次はHowについて考える。
マネーサプライは「国債」の売買により調整される。これを公開市場操作と呼ぶ。
ちなみに国債を発行しているのは政府である。

流通量を増やしたい場合は、中央銀行が政府や人々の持つ国債を買いあげ、日本銀行券(現金)で支払う。
そうすれば人々の持つ日本銀行券の量が増えるわけである。

数が多いものは価値がない。この国債の買い上げは数を増やし、紙幣の価値を下げてインフレをもたらすので、デフレ調整に用いられる。

逆に流通量を減らしたい場合は、中央銀行が持つ国債を人々に売り払う。そうすることで中央銀行は人々から現金を回収し、その流通量を減らすわけである。

これは紙幣の数を減らし、紙幣の価値を上げてデフレをもたらすので、インフレ調整に用いられる。

*********************

ところで政府はどのようにして収入を得ているのだろうか?

1つは税金を国民から徴集することである。
1つは国債を売り、国民から借金をすることである。
ここまではサービスを売って収入を得たり、お金を借りたりと民間と似たような方法で金儲けをしている。

しかし政府には1つの裏技、紙幣を自分で印刷することで手持ちの資金を増やすというまねができる。
お金がなければ自分で作ってしまおうというわけである。これを「貨幣発行収入」という。

さきほど述べた10万円金貨もその一例と言えよう。
これぞまさに現代の錬金術。それなのになぜ政府は無限にお金を刷って、無限にお金持ちにならないのだろうか?

答えは簡単で、数が増えれば価値が減るからである。
もしそんなことをすれば貨幣の価値が暴落し、ハイパーインフレーションが起きてしまうのである。

第一次大戦後のドイツは莫大な賠償金の支払いを「貨幣発行収入」に頼り、独立戦争時のアメリカは戦費の調達を「貨幣発行収入」に頼ったせいで、大規模なインフレを経験し経済に混乱を招いた。

現在のアメリカは「貨幣発行収入」を総収入のわずか3%程度にとどめている。

ただし10万円金貨は記念通貨ゆえに人々はそれを保有し、貨幣の流通量を増やさずに済み、実質的には国債を売ったのと同じ効果をもたらしインフレを起こさないようになっていたのである。
しかもこの国債は利子を払う必要がなく、しかも6割の粗利があったのである。いやはや、スゴイものである。

もっとも今ではこの10万円金貨のやり方は成功しないだろう。このご時世、誰が10万円を出して4万円を買うものか、である。

「天皇在位60年」記念10万円金貨は、額面よりも、金地金が大幅に少ないために、財産としての人気がなく、また、偽造10万円金貨事件など影響で、手放す人が増え、日銀への還流が続いている。

その金貨の還流を防ぐために、1997年の「長野五輪」1万円金貨からは、額面以上の金地金を用いた金貨を製造し、その販売は抽選で限定することとなった。

日本の貨幣

*********************

面白いことに広い意味では、この「貨幣発行収入」はインフレを起こすことで「課税」と同じ行為を意味している。
それは「貨幣を保管していること」に対する課税とも言える。

簡単な例で考えよう。
この世には一人の役人と一人の金持ちしかいないとしよう。
この金持ちは金庫の中にそれは大事に一億円をしまっている。そしてこの一億円だけがこの世界に存在する富の全てであるとする。

ここで役人が自分でお金を一億円刷ったとしよう。生産量、つまり経済の中身が変わっていないのに貨幣の量が2倍になれば、単純に貨幣の価値は半分になる。インフレが起こるのである。

当然、金庫の中身の一億円の価値も半減する。
つまり役人は無から世界の富の半分を生み出し、金持ちは一円も失わずに世界の富の半分をなくしたのである。

こうしてお金を刷ることで貨幣の価値が下がり、役人は指一本さえも金庫のお金に触れることもなく、お金持ちの財産を半分没収することができるのである。
これが「貨幣の保管に対する課税」の意味である。

こう書くと、まるで役人が泥棒まがいのことをしているような印象を持つ人がいるかもしれない。
しかし、それは誤解である。

もう一つ例を考えてみよう。
今度はこの世には一人の役人と一人の金持ちの他に一人の貧乏人もいるとしよう。
貧乏人は一円の貯金も持っていない。

役人は国を維持するために税金を集めないといけない。
もし世界の富の半分(5千万円)が必要ならば、金持ちと貧乏人から2,500万円ずつ徴収することになる。
しかし金持ちはそれが払えても、貧乏人には払う金がない。

そこで役人が自分で1億円をすれば、政府は世界の富の半分を金持ちだけから徴収することができるようになる。
つまり貨幣の増刷、およびインフレは金持ちと貧乏人の不公平を解消する「富の再分配」の効果を持っているのである。
(もちろん激しいインフレは貨幣の信頼を貶めるので経済にとって危険なものでもある。
そして現在のデフレ不況の解消のためには政府がもっと政府通貨を発行すべきだという説もある。)

さて明日はこのインフレやデフレがどのようにして起こるかを、もう少し具体的に調べてみたいと思う。

(参考文献「マンキュー マクロ経済学」)

*********************

おまけ
(興味がない人はここは読まなくて大丈夫です)

ここでマネーサプライの中身について考えてみよう。
今までの議論では「マネーサプライ」=「現金(日本銀行券)」としてきた。
しかしマネーサプライにはC、M1、M2、M3、Lという階層的な定義がある。その内容は以下の通りである。

C  = 現金

M1 = 現金 + 銀行預金

M2 = 現金 + 銀行預金 + 準通貨(定期預金)

銀行預金は紙幣ではないが、紙幣と同じくらい簡単に利用できるものである。マネーサプライが経済に与える影響について考える場合、このM1、M2の定義を用いることが多い。
C:M1:M2の比は1:4:11くらいあるので、どれを用いるかで分析内容は変化する。

詳細は説明しないが、「日本銀行」を見ればその内容が詳しく紹介されている。

貨幣(2)「その種類」

2005-02-23 01:57:10 | 経済
昨日の続き)

貨幣の種類は2つある。
「不換紙幣」と「商品貨幣」である。

「不換紙幣」とは私たちが今日使っている一万円札や千円札のことであり、実質的な価値のない紙切れのことである。
マンガ「北斗の拳」の冒頭で社会制度の崩壊した世界の中でモヒカンの野盗が「金なんて今じゃ、けつを拭く紙にしかなんねぇぜー」と言っていたが、この紙幣は私たちが価値があると思い込まなくては価値を持ちえないのである。

「商品貨幣」とは実質的な価値がある物のことである。
金は代表的な商品貨幣であり、社会制度が崩壊しても貴重さを保ち価値を失わない。近代までは金が貨幣として流通していた。
他にも古代では貝殻、タバコの葉、石の輪が貨幣として用いられていた。

近代でもナチスの捕虜収容所において捕虜たちの間でタバコが貨幣として扱われていたことが報告されている。
そこではシャツ1枚がタバコ80本と交換され(交換手段)、タバコを吸わない者もタバコを貯え(保管手段)、タバコ2本でシャツを洗濯をする捕虜もいたという(価値の尺度)。

*********************

それでは何故私たちは現代において「商品貨幣」を捨て、「不換紙幣」を用いているのだろうか?
それは「商品貨幣」はコントロールできないという大きな欠点を持つからである。
優れた道具というのは持ち主に制御できるものでないといけない。

たとえば名刀とは切れろと念じれば切れ、切れるなと思えば切らないものだと言われている。
つまり切れ味が持ち主の意思でコントロールできるわけである。
原発が危険視されるのは人による制御がまだ完璧ではなく、たまに事故を起こすからである。

貨幣のコントロールとは主に流通量の増減の自由を意味する。
そして商品貨幣は勝手に増やしたり、減らしたりすることができない。この世に錬金術は存在しないのである。
これはつまり金融政策が自由にできないということでもある。
金脈が見つかれば貨幣の流通量が自動的に増えて、勝手にインフレが始まってしまう。
デフレを抑えるために貨幣の流通量を増やしたくとも、金脈が見つからなければ何もできない。

貨幣の額面(名目)価値と素材価値が一致しなくなるという問題もある。
たとえば幕末の日本では大量の金が海外へ流出した。
その理由は欧米の「1ドル銀貨」と日本の「一分銀」「一両」の額面価値と素材価値の不均衡のせいであった。

次の式を見ていただきたい。それは欧米のドルと日本の銀貨と小判の額面価値と素材価値を比べたものである。

額面価値 1ドル=3分銀=3/4両

素材価値 1ドル(銀24グラム)=3分銀(銀26グラム)=3/4両(金3.4グラム)
     金3.4グラム=銀72グラム=3ドル

つまり1ドルが日本で両替えをするだけで3ドルに化けるのである。欧米人はこれを利用してボロ儲けしたのである。
この不均衡の解消のため幕府は「1両=4分銀」を「1両=13.5分銀」としたが、これにより貨幣の価値が下がり、つまりインフレが起き日本経済は大混乱を起こしたのである。

(参考)幕末の小判流出コインの散歩道

これに比べて不換紙幣を使えば、貨幣の流通は公正な価値を維持したままコントロールできるようになるのである。

もし上の話で紙幣を用いれば、1ドル紙幣は何回両替えしても一分紙幣3枚、一両紙幣3/4枚以上の価値にはならないのだ。

*********************

しかし「商品貨幣」から「不換紙幣」への移行は一朝一夕で起きたわけではない。

まず商品貨幣、金などは品質がまばらで、重く持ち運びに不便であった。
そのため政府は金証書なる金と交換できる紙切れを発行した。これなら持ち運びに便利である。この証書は人々が政府を信用する限り、本物の金と同じものとして扱われる。

やがて金証書が日常的に流通するようになれば、いちいち金と交換するという手間をかけることなく、金証書だけを用いて日々の取引を行うようになる。
そして証書は金と交換できなくとも、それ自体が価値あるものになる。紙幣の誕生である。

つまり紙幣は人々が政府を信用し、互いにそれに価値があると認めあうことで成立するようになったのである。

「不換紙幣」が流通しているということは、社会が機能していることの証、人が社会を信頼していることの証、人が人を信用していることの証なのである。
紙切れを価値あるものに昇華させているのは、人間の理性、他人を信じる心、健全な社会なのである。

つまり紙幣の流通とは人間讃歌なのである。それは人間の理性の勝利を高らかに歌い上げているのだ。

「本当に価値あるものはお金ではなく精神の清らかさである」だって?
そのお金こそが精神の清らかさが生み出したものなのである。

お金のために破滅する人がいるだって?
それは「地獄への道は善意で敷き詰められている」ということなのではないですかね。
アハハのハー


それでは次はその肝心の貨幣のコントロールの方法について考えてみたい。

(参考文献「マンキュー マクロ経済学」)

貨幣(1)「その役割」

2005-02-22 23:41:08 | 経済
お金というものは不思議である。
あの精巧な印刷がされている紙切れにすぎない物が、実質的な価値を遥かに上回るものとして扱われているのである。
だって千円の原価は14円20銭、5千円の原価は20円20銭、1万円の原価は21円70銭でしかないのである。(ところで1円玉の製造コストは2円もする。)

それが世間に出回ると500倍弱の価値にはねあがり、私たちはそれを疑うこともなく使っている。不思議である。

これを不思議に思った経験のある人は多いであろう。
たとえば歌手の未映子さんも不思議がっている

小賢しい人は「あんな紙切れに振り回されるのは卑しい人間だ。本当に価値あるものはお金ではなく精神の清らかさである」と言ったりする。
しかし私はこの手の発言には異義を唱える。その理由は後に記す。

まず考えるべきことは「お金、つまり貨幣とは何だろうか?」である。

貨幣の役割は3つある。

交換手段

古代において取引は物々交換が主流であった。しかしそれでは相手の欲しい物と自分の欲しい物が一致していなくては契約が成立しない。

それに比べて貨幣を用いると、自分さえ欲しいと思えば契約は成立する。
(もちろんお金が足りない、相手がいくら積まれても売りたくないという場合はある。しかし取引成立の可能性は物々交換より遥かに高くなる。)

物の価値を計る尺度


この世に溢れる物体には価格がつけられている。
たとえば私たちは「このパソコンの価格いくらですか」という問いかけに対しては「20万円です」とは答えても、「CD100枚分です」とは言わない。
つまりそれは単位である。
重さの単位はkg、長さの単位はm、そして「財の価値」の単位が「円」や「ドル」などの貨幣なのである。

そして貨幣は「洗濯をする」「食事を作る」といった物以外の形のないサービスにも価値をつけられるのである。

価値を保管する手段


簡単に言えば貯金である。米や野菜では腐ってしまい保存できない。物は年月がたてば中古品として価値が急落する。
それに比べて貨幣は持っていても価値が激しく下がったりはしない。
逆に言えば価値が暴落しさえしなければ物も「価値の保管手段」になりうる。名画、貴金属、高級玩具などがそうである。
そして貨幣も激しいインフレで価値が暴落すれば「価値の保管手段」にはならず、人々はこぞって貨幣を手放すようになるのである。

(続く)