玄文講

日記

反日記者会見についての考察

2005-01-30 09:37:34 | メモ
昨日、私は国籍を理由に外国人を公務員からしめだす必要はないと書きました。
役所でも、警察でも、病院でも、裁判所でも使えばいいのです。

今日の話は、それとはまた別の話であります。

外国籍の人間は公務員試験を受ける資格がない、という判決を受けたあとの記者会見をラジオで聞きました。

まぁ、何と言いますか、「被害者」や「正義」の側に立った人間は自分がまわりからどう見られるか客観的に判断できなくなる、ということの見本のようでした。

「私を受け入れない無知蒙昧なる日本民族には天罰が下ろうぞ!今に見ておれ!ざまぁみろ!」

と言っているに等しい会見でした。
あんなことを言われれば誰だって怒ります。
前に引用した福田恒存 氏の言葉にあるように「怒号にも礼儀あり」ということを忘れるのはよくありません。

「今回は残念な結果になりましたが、これを機会に在日問題が大勢の人たちの間で議論されたことだけは結果的によかったと思います。
明日からは一公務員として都民の皆様や支援して下さった方たちの為に懸命に勤めさせていただきたいと思います」

くらいのことを言えば同情され、共感を得て味方も増えたでしょうに。
少なくとも感情的になりやすい人々を敵にまわすことはなかったはずです。

先ほども言いましたが、こう薬とヘリクツはどこにでもつくのです。
在日公務員問題はどちら側の発言にも大義名分があります。
ならば味方を多く獲得できるのは「論理」の正しさではなく、より多くの「共感」を得ることができた方です。

自分は正しいのだから、自分の発言は正しく、だからそれを批判する人間は正しくないのだ。
善良な方の発言にはこの種の傲慢さがつきまとい、それがかえって反発を招くことが多々あります。

自分の幼稚さをさらけだすことで、論敵側の幼稚な人間にまで攻撃を許す事態になったのは戦略的には大失態であります。

在日公務員問題、および北方領土、靖国神社参拝についての考察

2005-01-29 11:30:38 | メモ
国というのは何だろうか。
教科書的な定義を用いれば、領土を持ち、法を持ち、民を持つということになる。

ならば国益というのは、領土を維持し、法を機能させ、民を守り栄えさせることを言うのだろう。

だから北方領土問題に熱心になる人の気持ちは分からなくもない。

ただ余計なことを言わせてもらえば、領土問題で「正義は我にあり」という態度には少しうんざりさせられる。
こう薬とヘリクツはどこにでもつく。
日露に限らず世界中の領土紛争には、どちらにも大義名分があり、特にどちらが正しいとも思えないことが多い。

そして領土の所有権を決める要因は「過去の因縁(いんねん)」よりも「現在の情勢」に重きが置かれる。
大義名分として「過去の因縁」を使うのはよく分かるし、当然の事だ。
単に「よこせ」と言えば侵略者扱いを受けてしまう。
だから交渉としては「過去の因縁」を掲げつつ、「現在の情勢」を日本に領土を返す方が経済的や軍事的に日露双方の利益になるように持っていくしかないだろう。

しかし「過去の因縁」を絶対的正義とし、それだけで所有権が返ってきて当然だと信じ、いつまでも領土を返さないロシアを悪としてののしる人にはついていけないものがある。

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法を持つ国として、内政干渉ははねつけないといけない。
だから靖国神社参拝に対する支那政府の干渉に怒る人の気持ちはよく分かる。

個人的には靖国神社は歴史の浅い単なる一神社に過ぎず、アメリカ兵に頭を打ち抜かれて死んだ私の祖父の兄が眠る場所でしかない。
私は年に一度の墓参りをするつもりで、そこに通っている。

だから私はそこに過剰な思い入れを持つ「支那政府」や「愛国者」たちをこっけいに思う。
しかしそれは他人の精神の問題であり、他人が何を考え、何を信じるのも自由である。
少なくとも日本では、その自由が保証されている。

この問題ではしたり顔でこんなことを言う人がいる。
「支那の人の気持ちを考えて、参拝すべきではない」と。これを言った人は「日本の人の気持ち」は考えていないのである。
この問題に限らず「嫌がる人、傷つく人がいるから何々をすべきではない」と言い出す人は多い。
差別語の追放や悪書追放でよく使われる論理だ。

しかしその論理は実は「自分の好きな考え方」だけを守り、自分と違う考え方を許さないという態度でしかない。
他人の精神に干渉し、自分の思い通りにしたいというわがままな行為である。

支那に限らず、共産主義国は「他人の精神のこと」にまで干渉したがる傾向がある。
自国内の神社を参拝するかどうかは「内政」の問題である。
日本兵を功労者と見るか犯罪者として見るかは「個人の精神」の問題である。一国の首相といえども例外はない。

だから私はかつて「戦死した私の夫はクリスチャンでしたから、どうか靖国神社の神様にはしないで下さい」と訴えた婦人を、非国民としてののしった人たちに対して抱いたのと同じ嫌悪感を支那政府に対しても感じている。
他人の精神を自分の思い通りにしようという態度ほど不愉快なものはない。

ただし支那政府への怒りを、いつの間にか支那人に対する怒りにすり替えている人には違和感を覚える。

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国の要素の1つが国民ならば、国益とは国民の利益でもある。
そして秩序と尊厳ある国なくしては安定した私たちの生活もない。
外国と交渉し、領土を防衛し、金融政策を行い、公共の福祉を維持する。国家という組織がなくてはできないことばかりである。

だから近年の三国人による犯罪は目に余るものがあり、あれらの犯罪者に対して怒る人の気持ちはよく分かる。
私の同僚も2人窃盗の被害にあっている。
国としては国民の福祉を重視し、それらの犯罪に対して断固とした処置をとるべきである。

しかしその国民の定義を日本国籍を持つ者に限るという考え方には賛成できない。
ましてや犯罪者と生まれた国が同じというだけで彼の三国人の人々全てを恨むというのは逆恨みでしかない。
私は「その国の領土」の上で生き、「その国の法」を守る人間が「その国の民」だとみなしてよいと考えている。
国籍なんてどうでもいいことだ。

もちろん国籍を持つ人間は、いつでもどこでもその国の人間だ。
たとえば私の姉はスイスで生活し、スイスの法を守って生活しているが、日本国籍を持つ日本人だ。
私は姉を「一時的にスイス人になった日本人」だと思っている。もっとも、その「一時的」は死ぬまで続くかもしれない。
同様に私は「一時的に日本人になった韓国人」や「一時的に日本人になった支那人」を認めてもいいと思っている。
少なくとも人間にとっては「自分を受け入れてくれた場所」が「自分の守るべき場所」になるのである。

たかが国籍、たかが日本民族の血縁である。
日本人に生まれたというだけで神に選ばれたつもりにはなれない。日本に生まれ、日本国籍を持つようになったのは単なる偶然である。

私が愛国心を発揮する理由は、自分と自分の仲間の安全な生活のためであり、たまたま持っていたに過ぎない日本国籍のためではない。
そして私の場合その仲間の中には、韓国人も支那人もアメリカ人もインド人もスイス人もいるのである。
彼らはこの国で生き、この国の法を守る国民である。

彼らにとってもそれは同じことだ。自分と自分の仲間のために彼らは生きるのである。
在日公務員。
素晴らしいではないか。
わざわざ日本のために働いてくれると言っているのだ。
彼らにとって守るべき仲間は私たちだと言ってくれているのだ。
それを拒否する理由が私には理解できない。

国籍ごときにしがみつき、まるでそれが自分が選民である証のごとくすがり、万事の判断基準をそれだけに求める人間を私は心底嘲笑うものである。

(追記)
外国籍の人間は公務員試験を受ける資格がない、という判決を受けたあとの記者会見をラジオで聞きました。

まぁ、何と言いますか、「被害者」や「正義」の側に立った人間は自分がまわりからどう見られるか客観的に判断できなくなる、ということの見本のようでした。

「私を受け入れない無知蒙昧なる日本民族には天罰が下ろうぞ!今に見ておれ!ざまぁみろ!」

と言っているに等しい会見でした。
あんなことを言われれば誰だって怒ります。
昨日に引用した福田恒存 氏の言葉にあるように「怒号にも礼儀あり」ということを忘れるのはよくありません。

「今回は残念な結果になりましたが、これを機会に在日問題が大勢の人たちの間で議論されたことだけは結果的によかったと思います。
明日からは一公務員として都民の皆様や支援して下さった方たちの為に懸命に勤めさせていただきたいと思います」

くらいのことを言えば同情され、共感を得て味方も増えたでしょうに。
少なくとも感情的になりやすい人々を敵にまわすことはなかったはずです。

先ほども言いましたが、こう薬とヘリクツはどこにでもつくのです。
在日公務員問題はどちら側の発言にも大義名分があります。
ならば味方を多く獲得できるのは「論理」の正しさではなく、より多くの「共感」を得ることができた方です。

自分は正しいのだから、自分の発言は正しく、だからそれを批判する人間は正しくないのだ。
善良な方の発言にはこの種の傲慢さがつきまとい、それがかえって反発を招くことが多々あります。

自分の幼稚さをさらけだすことで、論敵側の幼稚な人間にまで攻撃を許す事態になったのは戦略的には大失態であります。

(3/23追記)

上の議論では「在日外国人は日本国籍を持つべきか」「彼らを地方公務員に採用すべきか」「彼らを行政の管理職に採用すべきか」の3点を明確に区別せずに論じているため、混乱を生じさせているのに気がついた。

1つめについては、どうでもいい。彼らが何人でいたいかは彼らの精神の問題であり、誰も損も得もしない。

2つめについては彼らの果たしている義務に対して、それは認められるべき権利に含まれると思われる。
少なくとも認めることで益はあっても害はない。
もし認めないのならば、明確に彼らを差別することを表明し、代わりに彼らの義務を軽減すべきである。

3つめについては職種によって判断すべきと考えている。
軍隊の幹部、外交員などには不向きだが、内政については、その局の管理職数名の推薦を要するという条件付きで認めるなど、現場の判断に任せればいいと考えている。

虚礼礼讃

2005-01-27 22:06:18 | バカな話
時おり真に近しい人間関係を築くためには虚礼を廃すべきだと主張する人がいるが、人と人が本音で語り合うには虚礼を守るのが便利である。
なぜなら虚礼さえ守っていれば、他は何をするのも自由になるからである。

福田恒存という有名な右翼の人がいるのだが、彼はこんなことを言っている。

「怒るにせよ、叱るにせよ、たとえば敬語のような一定のスタイルに即せば、かなり強いことが言える。が、それがないと、たんなる怒号に終わります。」
(「私の幸福論」より引用)

どんな暴言や失言も丁寧に言えば意外と受け入れられるものである。いくつか例をあげてみよう。

「ふざけんな!こんな仕事やってられるか」 → 「いい加減になさって下さい。このような無計画なことをされては困ります」

「死ね!バカ」 → 「少々頭が混乱なさっていませんか?お休みになられてはいかがですか」

「目をえぐってケツに突っ込むぞ!このボケ」 → 「あなた様の目を抜き出しましてから御尻の穴に挿入致したく思いますが、いかがでしょうか?」

このように過激な発言も実に温びんに相手に伝えることができる。これも虚礼を守ることで許される自由の一つである。

ところで虚礼と同じくらい嫌われている言葉に「型にはまる」というものがある。それは独創性の死を意味するらしい。しかし型を守ることは大事である。「創造は束縛から生まれる」という言葉もある。
そういえば狂言で有名な野村萬斎 氏はテレビのインタビューで

「型にはまり、型を守ることで、自由な表現ができる」

という意味のことを言っていたことがある。インタビュアーの女性がよく理解できないという顔をしていたのが印象的であった。
ここでも似たようなことを言っている。)


これも虚礼と同じく必要最低限のスタイルを守れば、あとはどんな表現も自由にできる。むしろそういった型にはまることが、自由な表現には必要不可欠であるという主張であろう。

物理だって数学や法則という堅苦しい虚礼や型を守ってこそ、はじめて自然を表現できるのである。
だから私はいつも、自分は「型にはまった、常識にとらわれる、虚礼を重んずる人間」でありたいと思っている。

中毒

2005-01-25 10:14:47 | 個人的記録
午前中はいつも清々しい。
気力、集中力ともに満ち満ちており、全ての困難は挑むべき面白い好敵手だ。
生きることは素晴らしく、世界は美しい。

午後は絶望の世界だ。
惰性だけで生き、全ては散漫としている。何もできない。私にできることは何もない。そんな気分になって、蛍光灯に群がる羽虫を潰しながら時間をもてあます。
何もかもが面倒になる。生きていることの何と無駄なことか。呼吸するだけ酸素の無駄使いだ。

このように私の気分の波は躁(そう)からウツを繰り返すのが日常となっている。
こうなる原因は単なる疲労のせいだと今までは考えていた。

しかし、昨日ふと気がついた。
私は毎朝、濃い目の煎茶を3杯ばかり飲んでいる。
ひょっとして、夜に集中力が切れるのはカフェインが切れたせいなのではないだろうか。
そこで試しに昨晩、煎茶を飲んでみた。
すると夜になっても意気軒昂、世界はいつまでも素晴らしいままでいてくれる。

つまり私は単なる中毒者だったのである。
ああ、なんたるちあ。


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「青い山脈」という古い小説を読んだ。
この本は私の母がまだ若かった頃に映画化もされており

♪あーおい さんみゃくー ゆきわりざーくーらー

の歌は有名である。しかしこの歌を頭の中で歌おうとすると、どうしても

♪あーおい さんみゃくー に くちびーる よーせてー

になってしまう。
まぁ、こんなことはどうでもいい話である。

ストーリーは男勝りの女学生が男の子と少し仲良くしただけで「不道徳」呼ばわりされ嫌がらせを受け、それを諭した女性教師が逆に吊るし上げられてしまい、その窮地を同僚の気さくな医師や女学生の友人たちが助けるというもの。

売春でさえよくある話になった今では、知り合いの青年と遊んだだけで転校騒ぎの不祥事になるという設定には信じがたいものがある。隔世の感である。

小説中にスタイルや教養がついていかない頭だけの思想理解を批判した箇所があり、とても共感した。
それと健全な男女交際をすれば、エネルギーをもてあまして下らないケンカや浮ついた政治運動なんてしなくなるというセリフには笑ってしまった。
これは「もてない男は目をかんで死ね」ということですな。

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実家で見たニュースでNHKの番組政治圧力問題の記者会見を見た。

この問題の真偽は分からないし、どうでもいいので特に言うことはなく、この問題と従軍慰安婦問題は別の問題であるので混同すべきではないと思っている。

ちなみに私は基本的には慰安婦には同情する。
「レイプ オブ 南京」という告発本が嘘の多い、進歩的な文明人様が劣等人種を説教するだけの本だということは知っているし、彼女達が売笑婦になった原因は当時の日本政府だけのせいではないことも知っている。
(誤解がないように付け加えておきますと、当時の日本兵が多くの民間人を殺傷したのは事実だと私は知っています。そしてあの戦争で民間人を殺さなかった国など存在しないということも。)
また私は売春婦は不幸なだけの被害者ではなく、あれはあれで一つの職業だとも思っている。
しかし そういうことを差し引いて考えても、彼女たちの「職場」の環境は健全とは言えず、そんな場所で身体を売らないといけなかったことは悲劇である。
これも、どうでもいい話ではある。

私が気になったのは、そこで元NHKの局員が泣いていたことである。
私は他人の前で泣いてみせる男性は信用しないことにしている。

もちろん、こんなのは「名前が気に入らない」と同じ言いがかりに等しい偏見ではある。
しかし他人の前で泣けるという精神構造は不愉快であり、その態度からは「甘え」「媚び」「被害者意識過剰」「同情をひきたいという浅ましさ」「自分劇場」「陶酔と恍惚」「卑怯」といったものしか読み取れないのである。

ところで女性はもともとよく泣くので、泣いているのを見ても不信に思ったりはしないのだが、これは女性差別になるのだろうか。