玄文講

日記

なにもなし

2004-11-30 22:49:57 | 個人的記録
9時半だというのに薄暗くてさわやかには程遠い朝に、寒さをまぎらわすため煎茶を飲んで暖をとっていたところ、6杯目を飲んだあたりで気持ち悪くなり何度も吐いた。
1回目の嘔吐の時は、茶で薄まって酸がほとんどない胃液を吐き、7回目の嘔吐の時には既に胃液は出尽くしていて何も出なかった。
こうして私の一日が始まった。

気分は重くて、ゆううつであった。
研究会の原稿はまとまらず、プログラムからエラーは消えず、論文の計算は止まり、分からないことが山ほど出てきて、金はなく、セキは止まらず、鼻水も出始め、靴には穴が開いていて、パンフレット用のイラストを明後日までに作らないといけない。

今日は嫌な日である。
それなのに私の目に映る世界は美しい。

1点の曇りもなく鮮やかな真紅に染まる小さな紅葉の群れ。
鉛色の雲の隙間から差し込む太陽の光。
自転車置き場に散乱したモミジ。
黄色からオレンジ色にグラディエーションしていく背の低い植え込みの列。
そして枝分かれを繰り返し空に網の目状に広がった枯れ木からは大学の校舎が覗いている。
どれもこれもが美しい。

こんなヘドが出るほど最低な日だというのに、それでも世界は相も変わらず美しく存在している。
こんな日くらいは私に遠慮して醜くなってくれてもいいようなものなのに、あてつけるように世界は素晴らしい。

思い出不要

2004-11-29 23:28:33 | 人の話
人間は過去を思い出すとき、脳内で過去の録画映像を見ているわけではない。
脳内で過去を再現している、つまり過去という名の現在を見ているのである。

たとえば何らかの事故で色を認識できなくなった人がいるとする。
彼には世界の全てが白黒に見える。しかしその事故が起きる前の記憶は色があるはずである。だが実際には彼は過去の記憶も色がないものとしてしか思い出せないのだ。

つまり彼は脳内で再構築した「過去とよく似た現在」を見ているのであり、現在を見ている以上はその世界に色が無いのも道理にかなったことなのである。

私たちが思い出と呼んでいるものは思い出すたびに新しく作られている。
その過程で記憶がゆがむのはよくある話である。特に思い出にすがるような人はいくらでも自分に都合のいい記憶を再現させることができる。

つまり思い出を振り返ってもいいことなんかないということである。

ただし私は死んだ人間を思い出すことだけは例外にしている。
彼らは思い出の中にしか存在しない生き物なのだから、無造作に忘却することはしたくないのである。
もちろんこれは優しさからくる行為ではなく、執着からの行為である。

安藤 慈朗 「しおんの王」

2004-11-28 21:02:21 | 
今日、「しおんの王」というマンガを読んだ。
電車の清掃のバイトをしている研究室の同僚が落ちていたそれを拾ってきてくれたのである。

その内容は両親を惨殺されたショックで失語症になってしまった少女が将棋の世界で活躍するというものであった。

だが私は1つのことが気になって、まったく話にのめり込めなかった。
主人公は口がきけないので筆談で会話をするのだが、これがひどく不自然なのである。

筆談の流れが早すぎるのだ。

たとえば誰かが主人公に話しかけたとする。
すると次のコマ、ひどいときは同じコマ内で既に主人公はノートにその返事を書いているのである。

もし実際に筆談で会話をすれば、相手の質問のあとに文字を書く時間だけ間があくはずである。
たとえば唐沢なをき氏の「カスミ伝」というギャグマンガに、雪山で大きな音を出すとなだれが起きてしまうので全ての会話を筆談でするというものがある。
そこでは本来スピード感あふれるべき敵忍者との戦いの間も、いちいち戦いを中断して筆談で会話をするのである。
そういう会話の不自然さがギャグになっていたのだが、このマンガではそんな「会話の不自然さ」がないという不自然が生じていた。

相手の質問に対して、いちいち紙に文字を書いて答えることで、不自然な間があき会話の流れが中断する。
正常な会話が成り立たない。
人間社会の交流において大きなハンディを背負っている。
そういった悲劇性を描写して、はじめて主人公が失語症になってしまった悲しさもいじらしさも表現できるはすである。

失語症になったのに会話が普通に流れる。
これでは何となくトラウマっぽい設定をつけてみただけでしかなく、同情をひく便利な道具として障害を利用しているだけである。
つまり悲劇の安売りである。

こんなのはささいな欠点なのかもしれないが、マンガでも映画でも一度小さな矛盾が気になるとそのせいでストーリーを楽しめなくなるというのはよくあることである。

小塩隆士 「教育を経済学で考える」

2004-11-27 21:34:24 | 
「教育を経済学で考える」と言うと、大学を出た方が給料が良くなるという「投資」としての側面ばかり論じられがちである。

しかし例えば私たち院生は1000万円近くの借金をして、しかも世間的には役立たずとして敬遠され薄給にしかありつけない「理論物理学の博士」になろうとしている。
「投資」としては私たちは完全に大失敗である。

だがそこでこの本の著者は言うのである。
教育には「消費」という一面がある。将来の損得を抜きにして楽しみのために学ぶ人もいるはずだ。「手段」としての教育ではなく、「目的」としての教育もあるはずだと主張するのだ。
それこそまさに救いがたき大馬鹿者である私たちのことではないか!

この本は多彩な例を挙げて、経済学がいかに現実に生きている人間の行動を説明できるかということを教えてくれる良書であった。
つまらないイデオロギー論争ばかりしている凡百の教育書の無力さと比べて、この本の明快さは痛快であった。

特に「生きる力」を与えるという教育目標の無内容さを批判した言葉、

真っ向から批判できないもの(たとえば「平和」とか「民主主義」)ほどイデオロギーの手垢にまみれたり、立場によってコロコロ内容が変わったりすることを私たちはよく知っている。

には拍手を送りたい気持ちである。

それにしても、この本は誤解されやすい本である。
教育の神聖さも能力重視のエリート主義も批判するこの本には読む前から様々な偏見が与えられるからである。
たとえば典型的な批判としてamazonの書評から2つばかりを拾ってみたいと思う。

(批判1)
「経済学は金銭的な損得を問うだけの学問なのだろうか?」

なんですと?この人は本当にこの本を読んだのであろうか?経済学は金銭的な損得を問うだけの学問ではないことをこの本の著者は最初に主張していたではないか。

経済学はお金儲けを考える学問ではない。
一定の制約の下で自分の効用(満足度)を最大にするという、人々の多様な行動を幅広く分析するというのが経済学の基本的な発想だからである。

(P6より引用、、、って この人はこんな冒頭部分さえ読んでいないのだろうか?)

(批判2)
「教育は不公平と格差を生むとして批判的に展開している点は、平等主義的思い入れが強すぎて論理が甘い気がする。 」

著者は別に平等主義的思い入れが強い人間ではない。むしろ結果の平等を目指すことを批判している。
少なくとも私は

教育内容を切り下げて、能力格差を目立たせないようにすることは、はたして望ましい解決策といえるのだろうか。
筆者は、基本的には能力別クラス編成に賛成する。


と言える人間を「平等主義的思い入れが強い人間」とみなすことはできない。

著者の指摘する問題はエリートの育成ばかりを大事にする現在の教育制度であり、秀才とバカの格差が物凄い勢いで(しかも半ば教育制度の欠陥のせいで)ひらいていることである。
もちろんエリートを育て、彼らに凡人とは別格の待遇を与えることは大事である。日本のエリートは冷遇されすぎている。しかしエリートを育て尊重することは教育の目的ではない。
教育の目的とは平凡への強制である。
詳しくはここで紹介した「吉外につける薬」の引用を見ていただきたい。

つまり凡人を社会で生きていける人間にすることが教育の目的であり、エリートの育成は別の専門機関でも設ければいい。

秀才の子供は秀才になり、バカの子供はバカになるという、現在確かに存在しているこの悪循環を断ち切るためには、できるだけ教育の機会を平等にするように努力しないといけないのである。

それではエリートは生まれないという人もいるかもしれないが、エリートほど秀才の親や豊かな資産を使って既存の教育機関に頼らずとも自力で伸びていけることを忘れてはいけない。
公共施設が自助能力のない人のために存在するように、教育機関も自分で勉強できず、親からの教育も期待できない凡人たちを主眼に置くべきである。
つまりそれは平等で公平な教育、勉強嫌いな子供達を縛り付けて強制的に学習させるシステムなのである。

(その他の書評)
http://www8.plala.or.jp/tadasis/page087.html

http://cruel.org/asahireview/asahireviews05.html#eduecon

石丸次郎「北のサラム」

2004-11-26 21:17:47 | 
この本の著者である石丸氏はあの瀋陽亡命を手引きしたこともある報道屋である。
そんな石丸氏が北朝鮮の難民への取材を通して、彼の国の内状を調査したものをまとめたのがこの本である。

まず私はこの本を読んで、北朝鮮のあまりの統治能力のなさに驚いた。
私はニュースも新聞も見ないので世間で取り上げられている北朝鮮の話をほとんど知らない。
拉致家族が日本に来ていることを最近まで知らなかったくらいだ。だからこの本ではじめて彼の国の惨状を私は知ることができた。

まず何よりもかの国の飢餓状態に驚かされた。
近年、世界の飢餓状態は確実に改善されている。
緑の革命などによる品種改良により、より過酷な環境でも生育し、より多くの収穫を得られる作物が存在するからだ。
昔は地理的要因で飢餓になる国が多かった。
たとえば中世ヨーロッパで飢えが多かったのは、アジアで生産できる米と比べて小麦の収穫量がはるかに低かったからである。

しかし現代では地理要因が原因で食糧危機になる可能性は確実に減っている。
現在の飢えの原因は政治が不安定なために、近代的な農業技術が導入できないために起こることが多い。
北朝鮮がまさにそれである。

公式には存在しないはずの孤児が闇市にあふれ、彼らは道ばたに落ちたゴミを食べ、毎日何人もの子供が餓死や凍死している。

女たちはパン一つの為に春を売り、花嫁や売春婦として中国の農村に送るべく女衒(ぜげん)に買われていく。

日本で朝鮮人として差別され、60年代に楽園を期待して北朝鮮に戻った人々は、今度は日本帰りとして差別されて孤立し、その孤立した中で更に2つに分裂して争いあう。

食べ物を求めて家を出た男たちは二度と戻らず、政府への不満を漏らした者はある日突然に家族ごと消えてなくなる。

中国に逃れても男たちは難民狩りに怯えて家から一歩も出れない日々が続き、女たちは強姦されても誰にも訴えられないような立場に置かれる。

そんな中でも政府の人間だけは豊かになっていく。
まるで中世暗黒時代の再来である。

しかも北朝鮮での生活は互いが互いを監視しあい、密告しあう生活で、家族や恋人にさえ本音を話すことができない。そのため人々の間に連帯感は生まれず、反政府運動がまったくできない。それどころか少しでも上役に自分の印象を良くしようと、隣人たちについてあることないことを密告しあうありさま。

「弱い者は自分より更に弱い者を探して噛みつく」を地で行くていたらくである。

そんな環境で育った彼らに社会性はほとんどなく、亡命に成功しても定着支援金で美容整形をしたり、生活に不要な高級品を買い漁り、詐欺に簡単にひっかかり、亡命を手伝ってくれたNGOを逆恨みして悪口を言いふらす。

難民支援団体からも彼らの性質として

必要のない嘘をつき、他人の悪口を言い、せっかちで、視野狭窄、媚びへつらい、その場しのぎ、他人を信じず、自己中心的で、被害者意識過剰で、口が軽く、おまけに男はたいがい怠け者

と言われる始末である。
一切の自由を許さない全体主義と密告を奨励する恐怖政治が人間の人格を破壊しているのだ。
これでは政権が崩壊し、南北が統一しても大量の生活能力のない難民が溢れるだけであろう。
隣国の夜明けの遠さにめまいを覚える。

彼らの不幸について私には何の責任もないし、一番悪いのは統治能力のない北朝鮮政府であるのだが、今日の惨事の遠因は日本の過去の失策にあることも明確な事実である。

だからどうしろと言うつもりはないし、マキアヴェリも「恩を売ったから過去の怨念が消えると思うな」と言っているし、公的には賠償を済ませているし、実用的な軍事力もない日本に北朝鮮をどうにかできるとは思わないし、日本に大量の難民を受け入れる余裕もないだろう。
ただ私は自分の見たい現実だけを見るつもりはなく、その事実を無視できるほど鈍感になれそうにはない。

この本を読みながら、私はそんな誇大妄想的な暗いことばかりを考えていた。
一国の命運を思案するなんて私は一体何様のつもりだろうか?