玄文講

日記

在日朝鮮人が受け取るべきサービスについての考察

2005-03-22 22:46:19 | メモ
在日朝鮮人は、彼らの果たしている義務に対して十分な権利が与えられていないとされている。
彼らの要求する権利の中身としては、社会保障、一般教育、公務員採用、職業機会均等、日本地方参政権、日本国政参政権、登録証不携帯、登録証廃止、帰化簡易化がある。

まず私は彼らが公正に扱われることを望む。
それは彼らが善か悪かだとか、好きだとか嫌いだとか国籍の有無とは関係のない話である。
日本政府が彼らに一定の義務を課しているからには、それに見合う権利を与えるべきである。

それが公正というものである。しかし私は必ずしも平等を望んでいるわけではない。

もし彼らを差別をするなら明確に彼らの権利を制限し、差別すればいいのである。
その代わり免税など彼らの義務の方も軽減すればいい。もし彼らが優遇されるのが我慢できなというケチなことを言いたいのならば「外人税」でも導入すればいい。
今のように同じ名目で金を払わせておきながら、同じ商品を渡さないのは問題だ。と、私は思っている。

「同じ商品」の中身についてだが社会保障、教育、中間管理職クラスの公務員への採用は与えるべきだと思っている。少なくとも国益には反しないサービスである。
ちなみに、ここで言う国益とは治安の維持、生産性の向上、行政機能の維持のことである。旗とか歌のことではない。

登録証などについてはどうでもいい。それは彼らにとって少し不便なだけである。私は実害のない差別は容認し、無視する主義である。


参政権については民主主義とは何かという思想の問題になるのでめんどうだ。私のように選挙制度を過大評価していない人間は選挙権を金(納税)で買うことに反対はない。

税は公共サービスに対して支払われる代価であり、参政権は「国民の義務」に対して与えられるものだと言う人もいる。もっともな話である。

しかし日本にも「徴兵制」のような分かりやすい基準があればいいのだが、軍隊を持たない国では「国民の義務」は「納税」とほぼ同意義語である。一過性の不法滞在者や外国人労働者や旅行者ならともかく、長期滞在している彼らは「納税」についてならば私たち同様の義務を果たしている。
さて、どうします?

だが、やはり参政権や国籍なんて何の意味もない話である。彼らの生活環境の改善にも国益にも何の影響もない(と私は考えている)。あんなのは、愛国者と朝鮮人のたんなる意地のはりあいでしかない。つまらないケンカだ。
やはり問題にすべきは彼らの生活に直接影響を与え、社会不安の原因になりかねない社会保障、教育や職業機会の不平等の改善であろう。

(3/23追記)

塩野七生さんの「ローマ人の物語;危機と克服」には次のような一節がある。

社会の構成員ならば全員平等、とするとかえって、外部の人々を疎外するようになるのである。

新たに入ってきた人に対し、すぐにも既存の人同様の権利を認めるわけにはいかないからである。
認めようものなら、既存の人々からの反発が起こる。

古代のローマのように、社会の階級別を認め、ただし階級間の流動性を認めるならば、外部の人々の流入を拒絶する理由はなくなる。
実力を示せない人にはまず、下層に入ってもらい、その後の上昇はその人しだい、というわけだ。
一方、実力を示せる人に対しては、その実力にふさわしい階級への参入をただちに認める。

民主政を守るために全員平等を貫くしかなかったギリシアの都市国家アテネが、意外にも、他のポリス出身者や奴隷に対して閉鎖的だったという史実。

そして寡頭政、君主政のローマのほうが、格段に開放社会であったという史実は、現代でもなお一考に値すると確信する。

古代のローマは、あの時代の限界が許す限りという条件つきにしろ、機会均等を実現した社会なのであった。


現在の人権運動家や民主主義者の運動が理解を得られず、人々に受け入れられないのも、その「平等」への執着にあると思える。

そして国が在日外国人に差別的待遇をせざるをえないのも「平等」にこだわるせいに思える。
表向きは平等な人間同士だから、外人という理由で権利を制限したり、特殊な税を課すわけにはいかない。
しかし実質的には待遇に差が存在する。
こうして建て前と実質にかい離が生じ、在日外国人に不公平感だけを与え、「公正な税制」という国家運営における重要事がないがしろにされているのである。

「不明確な差別」は「明確な差別」より害が大きい。
しかし日本における差別追放運動は、「明確な差別」を「不明確な差別」に変えているだけにしか思えないのである。
私が好んで差別用語とされる、支那、三国人、チョン、かたわ、キチガイ、めくらという言葉を使うのも、そういう風潮に対する抗議の一環である。

片目を隻眼と言い換え、つんぼを耳の聞こえない人とまわりくどい言い方をして、びっこを片方の足が長いだけの人とみなし、分裂は失礼だからという理由で失調(調子を失う)という別の失礼な言葉を使い、3本指の絵を5本指に書き直させて、それで彼らの何が改善されると言うのだろうか?

それで得られるのは「自分は差別をしない善良で高潔な人間である」という自己満足だけである。
目の前で苦しむ人間を無視し、自分の正義を世に示すだけの行為にいったい何の意味があるというのだろうか。

それならば私は悪人でかまわない。私は下劣なる差別主義者を自称したい。

私は「差別ある明るい社会(by呉智英)」を望む。
私たちはあらゆる「差別」をなくすことが本当に人々の幸せに役立つのかを考えなくてはいけない。

最新の画像もっと見る