玄文講

日記

人権擁護法についての考察

2005-04-01 07:08:59 | メモ
最近よく「人権擁護法」に対する反対運動を見かける。
それについては興味もなく、どうでもいいことだと思っていた。
その法案の中身についても、まったく知らないので特筆すべきことも何もなかった。
ただ差別の定義を明確に法で定め、規制するのは悪くないことだと思った。

しかし先日、「差別もある明るい社会」を望む、と書いたところ「人権擁護法のような差別語狩りと戦いましょう」といった応援メール(?)が来てしまい、私は困惑させられた。
私は差別を規制する法案には賛成なのだから。

差別のある明るい社会を願い、差別語狩りを嫌う私であるが、この問題が陰湿化している理由は自主規制が横行しているせいだと考えている。

現在の規制は理性や言語や論理が通用しない世界である。

片目はダメ。隻眼ならよし。
子供はダメ。子どもならよし。
びっこはダメ。レームダック(びっこのあひる)ならよし。
芸人はダメ。芸能人ならよし。
土建屋はダメ。土木建築業者ならよし。

ひどい例では「味噌煮込み」は精神障害者である私を侮蔑する言葉だから使用するな、と文句をつけていた人がいた。(味噌煮込みコアラ事件)
さすがにこの主張は説得力がなく、猛反発をくらっていた。

これらの言葉がなぜダメなのかは誰も説明できない。せいぜい「その言葉を嫌がる人がいる」という最低の理由が出される程度だ。
何故この理由が最低なのかについて言いたいことは色々あるが、要するに「人は言葉に傷つくのではなく、言葉の中身に傷つくのだから、言葉を憎むことに意味はない。また私たちは傷ついた人間とただの被害妄想家を区別すべきである」ということである。

一番の問題は、自主規制には理由が要らないということだ。
それは規制する側の良心の問題だからだ。私たちは他人の精神には介入できない。
もし彼らが「こんにちは」を差別語として自主規制したとしても、私たちには文句を言う権利はない。
そして現実には声の大きい人間の良心だけが採用されているのが現在の悲惨な状況である。



しかし、もし差別の規制を法案化するならば、理由のない「差別語」は認められなくなるだろう。
使用を禁止するからには説明責任が生じるからだ。

彼らは何故「片目」が差別語で「隻眼」が差別語でないのか説明しなくてはいけない。
声が大きいだけで主張が認められることはない。
自主規制は自分の良心だけで決めることができるが、公的な規制は大勢の人が納得できる理由を提示しなくてはいけない。


私は人間の良心なんてものは信じていないが、法律とそれを運用する人間ならば信用できる。
だから私は、差別を規制する法案には基本的に賛成するのである。
そうすれば現在のような差別語狩りは沈静化するはずである。

この法案については「人権擁護法反対論批判 趣旨説明編」でなされている一連の記事で詳しく論じられている。

ここでの議論を見ると、今回の法案は私の望むような「差別規制」ではないようである。
そして反対派の言うほど危険なものでもないことが分かる。

つまり、やっぱりどうでもいいことなのである。