玄文講

日記

冗談「靖国参拝」

2005-10-19 17:03:55 | バカな話
高校生のとき、歴史の先生が口癖のように何度も言うセリフがあった。

国内で政府への批難が強くなった時、政府は国民の不満をそらすために外にわざわざ敵を作るものだ。

そして昨今、靖国参拝問題において心ある人は言う。
「相手の気持ちを考えろ」
「今後の友好関係のために、相手のいやがることをすべきではない」

ならば答えは簡単だ。
それならば参拝を止めるだなんて不粋なマネをするのは失礼なことだ。
相手の気持ちを考え、今後の友好関係を重んずるのならば、もっと相手に拳を振り上げる理由を与えてやらなくてはいけない。

中国政府は私たちとケンカがしたいのである。
それは国民の政府への批難を外に向かせたいからだ。
沿岸部と内陸部の貧富の差の拡大。
為替相場制への移行に伴う国内の動揺。
発言力を増す資本家たち。
不安材料だらけの今こそ、外に敵が欲しいところだ。

しかし血の出るケンカも、お金のかかるケンカも、大事になるケンカはしたくはない。
それでいて、とにかく目立つケンカがしたいのだ。

そんな都合のいいケンカがあるわけがない。
しかし、あったのである。
それが参拝問題だ。

ああ、日本はなんて素晴らしいことをしてくれるのだ。
日本様様だ。

これほど人民の心をくすぐる出来事は滅多に起こるものではない。
人民は怒っている、怒っている、怒っている。
なんて好都合。これは是非とも利用しない手はない。
これを利用しないのは、よほどの低能か平和ボケしたマヌケだけだ。
火をつければあっという間に燃え上がり、喝采を浴びる英雄的行動「厳重抗議」をいくらでも行うことができる。

それでいて、実際に起きていることは、たかが神社に詣でているだけだ。
これを理由に経済摩擦が起きたり、戦争に発展することなんて、まずありえない。
起きることは、せいぜい、会談が何度か中止になったり、延期になることくらいだ。
安心して喝采を浴びる英雄的行動「厳重抗議」をいくらでも行うことができる。

血は出ない。
お金もいらない。
チンケな騒動しか引き起こさない。
それでいて、目立つ、目立つ。
パフォーマンス性抜群だ。

彼らの喜ぶ姿が目に浮かぶようだ。




参拝を止めれば、彼らは苦労して次のケンカをする理由を探さなくてはいけなくなる。
南京虐殺、某歴史教科書、材料はいろいろとあるが、これらは参拝問題ほど使い勝手が良くない。

政府間で話し合いが終わっていたり、一部の民間人の行動に過ぎなかったり、一国の首相が参拝してくれるのと比べれば弱すぎる批難材料だ。

それにケンカは飽くまでも、誇りを傷つけられた人民による自発的な行動であり、政府は人民の要望に応えているだけでなくてはいけない。
それには今回のように相手が先に墓穴を掘ってくれたほうが都合がいい。

ああ、考えれば、考えるほど、素晴らしきかな、靖国参拝。
中国のことを思いやる人ならば、参拝をやめさせるだなんて嫌がらせをしてはいけない。




国家間の友好と個人同士の友好を混同する必要はない。
国同士はせいぜいケンカをすればいい。

私は彼らと仲良くしよう。
私は彼らを我が家に招き入れよう。
私は彼らの幸福を喜ぼう。
それでいて、私たちは罵りあえばいい。

この罵詈雑言と憎悪が未来の平和に役立つと思うと、私は冗談の一つも言いたくなるというものだ。

天国への道は憎悪で敷き詰められている。

選挙には行かない(続)

2005-09-17 16:18:29 | バカな話
選挙に行かないという事は現在の政府を、現在の政治の在り方でいいと言う事ですよね。
いまの日本は赤字国債を馬鹿みたいに発行しまくって借金塗れです、その額なんと700兆
その700兆を返済できないので政府は増税案を出しました、そのせいで1世帯の非消費支出は60万ほど増えます
ですが少子高齢化が進む以上これからは社会福祉などの負担も増え我々の非消費支出は増え生活が苦しくなるでしょう
そんな日本でいいんでしょうかね?

まぁ貴方が年収億を越すリッチマンなら何も問題無いんでしょうけど・・・


というご意見を「選挙には行かない」のコメント欄でいただきましたので、返事をさせていただきます。

まず「選挙に行かないという事は現在の政府を、現在の政治の在り方でいいと言う事ですよね。」というご発言は、国民全員が参加する現在の選挙制度の有効性を前提にしておられます。

ですが私の記事は2つの理由で「全員(私)が選挙に行かなくても」、「政治の在り方を変えられる」ということを言っているのです。

1つは現在の選挙制度が統計を利用すれば全員が参加する必要はないということです。
つまり私を含めて全ての人間が選挙に行かなくても十分に民意を反映できるということが重要です。

ただ、これはそういう制度も可能だという話なので、今回の話とは関係ありませんが。
今回の話と関係するのは次の理由の方です。

もう一つの理由は、経済、政治にうとい人間が問題の本質を理解しないまま選挙に行けば、分かりやすい善悪の対立構造(小泉VS利権集団)で人気投票をしてしまい、問題の解決を遅らせかねないことです。

つまり思慮の浅い人間が無用な投票活動で現場を混乱させることで、かえって政治改革が遅れてしまうかもしれないということです。
ですから自分に知恵がないと思うならば、静かに見守ることこそが「政治の在り方を変える」のに役立つということです。

ですから私の理屈では、「選挙に行かない」=「現状肯定」ということにはならないのです。
むしろ現状を変えるために、適切な判断材料を持った他人に選択を任せる、という選択肢もありえるわけです。

乱暴に言えば「何も知らないやつは邪魔だから黙って見てろ」ということです。
そして私は何も知らないから黙って見ていたのです。


**************

次に「そんな日本でいいんでしょうかね?」というご発言は、今回の選挙が日本の将来を変えるということを前提にしておられます。

ですが私は赤字財政の改善はデフレを克服することでしか改善されないと考えています。

今回の選挙の争点である、郵政民営化とそれに伴う構造改革、緊縮財政は問題の解決には特に貢献しないと思っているのです。

ですから私にとっては、こんな日本でいいから選挙に行かないのではなく、こんな日本を変えることのできない選挙だから興味がなかったのです。

もちろんこれは私の考えが間違っていて、今回の選挙や郵政改革こそが日本の未来を明るくする(もしくは暗くする)のかもしれません。
そして、それならば選挙へ行き、小泉(もしくは反小泉)に投票することこそが国の将来を憂れう人の取るべき行為であります。

私の仲間の何人かもそういう考えで選挙に行きました。
ですが私はそうは思えないから、何もしなかったのです。現状でいいとは決して思ってはいないのですよ。
なにせ私も社会の底辺を這いつくばっている人間なのですから。

**************

私が構造改革では財政赤字が改善されないと思っている理由は、

bewaadさんの『文科系人間から見た「小泉改革の本質」』で解説されていることと同じもの(と言うか受け売り)です。

消費を増やす方向に仕向けないと事態は改善されない。
そのためにはインフレ期待を起こすことが大事で、構造改革は二の次だというのが私の考えです。

また構造改革、緊縮財政の意味に疑問を持ったり、財政改善に悪影響を与えることを危惧する意見も幾つかあります。

本石町日記さん
新・自民党と日銀の関係

svnseedsさん
南島行雑感
帰国雑感

渡久地明の時事解説
財政出動で債務の対GDP比が縮小する
どっちが勝っても構造改革、トホホ

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」
跡田直澄『郵貯消滅』(PHP研究所)他を読む

(おまけ)
Economics Lovers Live
バンドワゴン
(私は徹夜で選挙に行かなかったことになります。)

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(追記)
「分かっている奴だけ選挙に行けばいい」という意見は、「小泉政権(もしくは反小泉政権)に投票する奴は無知な愚民だ。衆愚政治だ」という意見につながりやすいので注意しないといけない。

自分だけは愚かしさとは無縁だと思い、他人を衆愚だとみなす人間は嫌悪され、軽蔑されるだけなのだから。

私の言う「分かっている奴だけ選挙に行けばいい」というのは「関心を持ち、判断材料を持っている人だけが選挙に行けばいい」ということである。

関心を持つか否かは、頭の良し悪しとは関係がない。

罵倒を望む

2005-09-08 12:12:16 | バカな話
選挙には行かないに以下のようなコメントが寄せられていました。

ただ単に、興味がないから行かないだけでしょ?何、くどくど屁理屈こねてんの?うっとおしい

あはははは。
よほど私の「理屈」が気に障ったとみえます。

言葉で勝てないときは「うっとおしい」とみもふたもない感情論で切り捨てる。
口喧嘩の基本ですな。

******

それと私は文中ではっきりと

「選挙に興味がなかったので、投票日なんてまるで覚えていなかったのである。」

と言って、興味がないから行かないだけだと明言しております。

それを今更自分が発見したかのように威張られても困ります。
批判をするなら、せめて批判相手の記事くらいは読んでいただきたいものですが、貴方様にそのような「高尚」な要求をするのはやめておきましょう。

******

ついでに言っておけば私は自分の行動の正当化のために理屈をこねているわけではないのですよ。
(そもそも選挙に行かないのが悪いことだと少しも思っていないので、理屈をこねる必要がないのです。)

純粋に選挙制度の有効性を疑問に思い、そのことを共に考えてもらいたいから理屈をこね、他の人の意見を紹介しているのです。

私が選挙に行かないという話は、この壮大なテーマの枕に過ぎないのですよ。
それがまるで枕の方がメインで、主題がそのための言い訳でしかないと思われるとは、、、。

私は自分の表現力のなさを反省するとともに、貴方様の読解力のなさを嘆くものであります。




********************

それにしても私は確かに「石を投げてください」と言いました。
しかし私が欲しいのはこんな小石ではないのです。

1秒で思いついて、10秒で書き捨てられたような、私にわずかなダメージさえも与えないような言葉は要らないのです。


自分の意見を述べてくだされば、異なる意見を知ることができます。

質問や疑問を寄せてくだされば、新しく考える材料になります。

反論をくだされば、自分の過ちを正すいい機会になります。

高度な罵倒はそれ自体が芸術品です。

ですが勘ぐりと下手くそな心理分析と紋切り型の罵倒はいらないのです。

私は自分の耳に心地良いだけの言葉を求めてはいません。私が欲しいのは、、、


グウの音も出ないほどの辛らつな言葉!

言われた私が怒りと屈辱でのたうちまわり、丸一日は悶々として何もできなくなるような罵倒!

反論の余地のない理路整然とした追求!

私自身の思想を180度回転させてしまうような新鮮な意思!

私はそれを望むのです。

私は反論を望みます。

炎上を望みます。

鉄風雷火を望みます。

ここは謗中傷歓迎。批判、訂正大歓迎。遠慮無用な場なのですから。

選挙には行かない

2005-09-05 20:25:59 | バカな話
今日、知人と話していて「来週は選挙がある」と言われ、私は「何の選挙?」と答えてバカにされた。

選挙に興味がなかったので、投票日なんてまるで覚えていなかったのである。
もちろん私は投票にも行かないつもりである。

このように選挙に行かないと言うと、「民主主義を軽んじているのか!」と怒る政治意識の高い人がよくいる。

しかし選挙権は「権利」であって「義務」ではない。私には権利を放棄する権利がある。

たしか民主主義というのは「人権」を信仰する思想であり、「自分の権利を守り、かつ他人の権利を尊重する」思想であると私は理解している。

ということは、選挙に行かないことを怒る人は他人の権利を尊重しない人間であり、民主主義を愚弄する大悪党ということになるのではなかろうか。

そんなに選挙が好きならば「民主主義的な手続き」を踏んだ上で選挙を「権利」ではなく「国民の義務」に法制化すればいいのだ。
実際、国によっては選挙は「権利」ではなく「義務」であり、選挙に行かない者は罰金を課される。選挙が国民の義務ならば私も投票に行くだろう。

また明治から昭和にかけての普通選挙制度が確立されるまでの歴史を語り、「選挙権の尊さ」を説く人もいる。

しかし過去に価値があったからといって現在も価値があるとは限らない。
今回の選挙に価値があるとは、私にはどうしても思えないのである。

それにこんな話もある。

全員が投票しなければいけないという発想がそもそも古い。
これはギリシャの直接民主制を引きずった考えである。

統計力学の教えるところによれば、選挙のサンプルは有権者の1%(任意抽出)でも十分正確な結果が得られる。

現在の投票率は50%前後もあり、多すぎるくらいである。テレビの視聴率なんか数百万世帯の動向をわずか数百世帯のサンプルで測定しているのである。


みんなにあげるな選挙権」より引用

だから選挙も各地域、各世代、各職種から数世帯を選んで投票させれば十分である。それならば管理も楽であるし、先のアメリカ大統領選のような不毛な混乱も起きずにすむ。

前にこの話を同僚にしたところ、「それでは国民は納得しないでしょう。そんな選挙で選ばれた政治家は支持されませんよ。選挙は全員を参加させることに意義があります」と言われたことがある。

確かにそうだろうと思う。
国民全員が参加できた選挙で選ばれたということが政治家の権利の正当性を保証しているのだろう。

しかし私はそんな保証には興味がない。
「自分の1票の軽さ」と「選挙に行くことで要する時間と費用」を比較すれば、家でゴロゴロしているほうが私には有意義なことなのである。


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もちろん私は選挙に行く人をバカにしてはいない。

しかし選挙に行かないと怒る人には、少しヘキエキしている。
そんな私には「みんなにあげるな選挙権」での以下の発言は愉快であった。

「自分の一票で政治を変えるために投票する」と本気で思っている人がいたら、失礼だがよほど確率計算のできない人であろう。
「この一票で政治が変わる」と考えるのは一種の信仰か妄想である。


選挙とは脳への名前刷りこみの結果でしかない。その程度の感覚で投票する者がシタリ顔で「政治に無関心はよくない」とか「棄権するのは無責任」などとのたまっている。

選挙制度最大の問題点は、棄権することよりも棄権しないことにある。みんなが投票するなんてまちがいなのだ。

政治に関心もない、主張もない、政策も知らない人が投票に行くのは無責任な行為だとハッキリ言おうではないか(ボクなんかそんな無責任なことは一度もしたことないぞ)。選挙はよく考え、よくわかった者だけが投票すればいいのである。


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全員参加する選挙制度だけが民主主義を正しく機能させるものなのだろうか?と私は思う。

山形浩生氏は選挙権の売買制度を(半ば冗談、意外と本気で?)提言している。「市場制民主主義――選挙権を売ろう!
とても面白いので、是非御一読を。

ランド・オブ・ザ・デッド

2005-08-30 01:09:25 | バカな話
「ランド・オブ・ザ・デッド」はゾンビ映画だ。
これが、まさしく、私が学生時代にほれ込んだ、あのゾンビ映画である。



通常のホラー映画はヒーローーやヒロインが強大な力を持った未知の敵を人知れず滅ぼすというパターンが多い。

しかし、「ランド・オブ・ザ・デッド」にはヒーローもヒロインもいない。そんなものは必要ないからだ。

この世界においてゾンビは特別に恐ろしい存在でもなければ、驚異的な能力の持ち主でもなく、また特に珍しい現象でもない。
ゾンビは世界中にいて、誰もが知っている日常的な存在である。

そんなゾンビたちは、動きはのろく、知恵はなく、人間にいたずら半分で狩り殺される程度の存在でしかない。
事実、街中にはゾンビを逆さ釣りにして並べている射撃練習所、ゾンビ同士を戦わせて金を賭ける闘犬ならぬ闘ゾンビ、鎖でつながれたゾンビと写真をとる商売などがあり、ゾンビは娯楽の一部とさえなっている。
そういう設定が「ゾンビ」にホラー映画なのに牧歌的な雰囲気を持たせている。

ただゾンビは数が多く、感染力が強く、個々の能力は弱くても集団で襲われると厄介なのである。
そして1日24時間、暖かい血肉を求めてさまよっているので、襲われる方の人間は気の休まる暇がない。

だから人間は安心して暮らすために、ゾンビと隔離された基地で暮らすことを望む。
ただし食料や旧文明の高級品はゾンビであふれる廃墟へ取りに行かないといけない。

だからゾンビへの対策は公共事業的な性格を持ってさえいる。それがこの作品に社会風刺を含ませ、かつ笑える映画にしているのである。

そしてゾンビ映画はこちらの想像力を刺激する。この映画に触発されて生まれた映画、小説、ゲームの数は多い。

有名作品だけではなく、無名の人物が考えた個人的なゾンビ物語だって無数に存在するはずだ。
たとえば私は、この作品の舞台はアメリカだが、もしこれが日本で自分の住む場所で起きたらどうなるだろうか?と考えたりする。

まず人口密度の高い東京などの都市は壊滅するだろう。各種インフラも止まるかもしれない。
銃火器の普及していない日本では組織だった自警団の設立も困難だ。

その点、私は武器だけは何とかなる。まずは手持ちの武器を頼りに生き延びないといけない。
窓から外を見ると既に何体かのゾンビがうろついていたりするのだ。
それを部屋から狙撃しつつ、街へ物資を略奪しに行こう。

それからどこかの自警団に入るか、生き残っている仲間を集めて、ゾンビを殺し、他のグループから略奪したりして勢力を拡大していく。
やがてそういうグループが集まって都市を作ることだろう。

もしくは私が既にゾンビになっているという可能性もある。生前の習慣で行動する私は研究室に出かけ、生き残った同僚を食ったり、意味もなくキーボードを叩き続けるのだ。

想像はふくらむばかりである。
このように、ゾンビ映画ファン皆の中にMy ZOMBIE SAGAは存在するのである。

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前作の「ゾンビ、DAWN OF THE DEAD」は4人の主人公がショッピングセンターをバリケードで封鎖して基地を作っていた。
これは先の想像での「自警団」の時期に相当する。

そして今回の基地は、川と高圧電流の流れるフェンスに守られた都市である。
そこに住む人々も千人単位と数が多く、街を支配する権力者もいる。
まるで中世の都市国家のような状態になっている。
これは先に想像した「都市時代」であり、私が見てみたかったゾンビサーガの歴史の一幕でもある。

その街では金持ちは町の中央にそびえる高層ビルに閉じこもって、優雅な生活を楽しんでいる。
その周囲にはスラム街が広がり、彼らは反発と憧れを持って彼らをながめる。

資本家は金を出してインフラを整備し、武器と壁におおわれた街を提供し、労働者は装甲車「デッド・リコニング(死の報い)号」に乗ってゾンビであふれる街へ略奪に出かける。

ただし、その街の支配者カウフマンは統治能力に欠けており、私財を蓄えこむだけで、十分なインフラ整備も社会保障も公共事業も行わない人物だ。
それが原因で貧民層の反乱、部下の裏切り、ゾンビの都市への侵入を許してしまう。

ロメロ監督が言うには、これは現代アメリカの病理を風刺しているそうだ。
パンフレットには「貧富の差が広がり、第三世界から武力を使って搾取しているアメリカ」を批判していると書かれていた。
しかし私は芸術家の社会批評なんてものは信用していない。

世界において、生活レベルが向上し、教育、医療が充実できている地域は、彼らの言うところの「搾取」が進んでいる地域である。

資本が投入されなければ地域は発展しない。

資本家は自分の利益にならないところに資本を投じる意味がない。

資本家が金を儲けているのは悪いことをしているからではない。
リスクが高く手間もかかる地域に投資しているのだから、少しばかり大きめの利益率を設定するのは当然のことである。
それで飢餓、市場の崩壊、インフラの不足が防げるのだから、少しの「搾取」は安いものだ。

しかし社会風刺は信用できなくても、それが社会の縮図になっていることは確かだ。
ロメロ監督は、社会の縮図を提示することで、批判を共有してもらいたかったのかもしれない。

しかし私は逆に、その社会の縮図を見て「今の世界は大丈夫だ。このやり方でいいのだ」と確信を持ってしまうのである。

もしも私がこの世界にいれば、カウフマンと同じことをするだろう。
金持ちに快適で安全な住処を提供し、彼らから集めた資本で自警団を作り、都市を防衛する。
防衛や都市の建築は貧しい人々に職業を与え、彼らも豊かにする。
そして社会保障や教育を充実させて、徐々に貧困層を減少させ、ゾンビ対策を科学的に研究する機関を設けて、増えた人口を養うために都市を更に拡大させる。

カウフマンは少し足りなかっただけで、基本路線は正しかったはずだ。
その世界の腐敗や享楽を非難したい人もいるかもしれないが、人々が堕落できる社会は都市が正しく機能している証拠でもある。
どうやら私はロメロ監督が批判する世界、アメリカを信用しているようである。

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最後に都市は知恵を持った一匹の黒人ゾンビに率いられた無数のゾンビによって襲われる。
スラム街から高層ビルまでいたるところにゾンビがあふれ、街の横暴な長は殺される。

敵の侵入を許した都市で起きることと言えば、ただ一つと決まっている。それは一方的な殺戮だ。
過去の戦争においても、都市が陥落したときには、これと同じような光景が繰り広げられていたのであろう。

今回の「ランド・オブ・ザ・デッド」ではゾンビが進化して、少しの知性を持ち、道具を使うようになっている。
個人的には少し不満な設定だが(理知的にガソリンと火を使って人を殺すゾンビなんてガッカリである)、ロメロ監督以降に出てきた様々な映画の亜流ゾンビ、走るゾンビ、話すゾンビなどが本流に再度取り込まれたのだと見るべきかもしれない。

おかげで前作では自然災害のごときであったゾンビが、本作では私たちとは別の論理と正義をもって都市を襲う蛮族のようなイメージに変化している。
これは「9.11テロ」後のアメリカ世相が映画に反映されているのかもしれない。

そうして都市は壊滅し、金持ちもスラムの住人の多くも死に絶え、一つの秩序は失われるのだが、生き残った人々は、それぞれが新しい秩序を求めて再び動き出す。
遠くへ去るゾンビという蛮族。
故郷を再建しようとする生存者。
遠く新天地を求めて旅たつ武装した一団。
あてもなく別の基地へと向かう者。

ゾンビという大自然災害や蛮族により秩序の失われた世界で、人々は新しい秩序と生きる場所を求めて、社会を構築していく。
その過程には、暴力や略奪もあれば、信頼や希望もある。経済の原理もあれば、力の論理も存在する。仲間もいれば敵もいる。前向きに生きる者もいれば、怠惰に生きる者やニヒリズムにとり付かれた者もいるし、難しいことを考えないで生きている者もいる。

あらゆることが無意味に思える絶望的な世界でも、彼らは冗談を交わすし、愛をささやくし、娯楽にも興じるし、姑息な悪巧みだってする。人間にはどんな過酷な環境でも日常を維持しようとする健全さがある。
その姿に私は感動を覚える。

人類の営みそのものがロメロ監督のゾンビ映画には存在している。
「ランド・オブ・ザ・デッド」は現代社会の縮図でもあると同時に、人類の歴史の縮図でもあるのだ。

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最後に、ゾンビ映画といえば、大量のゾンビによる大襲撃シーンである。
内臓をぶちまけて、人もゾンビも切り刻み、潰し、蜂の巣にした血の池地獄がゾンビ映画の醍醐味である。

社会批評なんてこれをやるためのいいわけですよね?
えっ?違う?


ゾンビたちは後ろから抱き付いて首や腕を噛み千切る。地面に落ちた指も残さず食べる。ヘソピアスをヘソごと食いちぎる。

アハハハッハハハ

首を引っ張り、延髄、背骨ごと引き抜く。身を食べる前に骨は頭ごとキレイに抜きましょうってか?

ゲヒャヒャヒャヒャーヒャッヒャッヒャッ

生きたまま内臓をむさぼり食われる兵士が悲鳴をあげれば、別の兵士は手榴弾で自爆してしまう。

ウヒヘヘヘヘヘ

安全なはずの高層ビル内に進入されて、抱きつかれて食い散らかされる人々。いたるところで飛び散る血しぶき。

ギッャヒゲゲゲゲゲゲゲゲ


上映中、私は心の中で大爆笑。
少しおとなしめだったのが不満だが、ひさしぶりにいいものを見れて大変愉快であった。