玄文講

日記

貿易その2「歴史に見る国際競争力主義者の行動」

2006-11-17 13:26:40 | 経済
戦略的貿易論。
それは「貿易黒字は善で貿易赤字は悪である」と考える人々が作り出した政策のことである。

90年代の日本は巨額の貿易黒字を抱えていた。
それは不況のせいで国内の消費が停滞し、余った資産が投資として海外に流れた結果にすぎなかった。
日本では使い道のない資産が海外でお金を必要としている人々の手に渡っていただけのことなのだ。
つまりこの貿易黒字は不況の産物であり、決して日本人にとって嬉しい出来事ではなかったのだ。
一方で自国の資金需要を満たせないで困っている国は、日本から流れる資金のおかげで経済成長をスムーズに達成できるという恩恵を受けていた。

だが「貿易黒字は無条件で良いことであり、それが多いほど国際競争力が強い証拠だ」と信じる人は、「日本ばかりが得をしている」と思い込んだ。
そして日本は不正な手段、貿易障壁による閉鎖的な市場により得をしている卑劣な国だと憎んだのである。

そのような世論を反映して、修正主義者(リビジョニスト)のエコノミストを迎えたクリントン政権により戦略的貿易論が生まれた。
それは日本に対抗してアメリカも市場を閉ざし、「輸入数値目標」を定めた通商協定を押しつける管理貿易政策を行おうというものであった。

この動きに対して、アメリカ内外の経済学者は猛反対した。
たとえばエコノミスト93年11月2日号では、日米40名の経済学者連名の記事「細川首相・クリントン大統領への公開書簡」が日本語で読める。
そこで彼らは
市場開放はそれを行った全ての国に利益をもたらすのであり、日本だけが得をしているわけではない。日本に対抗してアメリカが市場を閉鎖すれば、アメリカ自身にも損失を与えること。
貿易黒字や赤字は国内の貯蓄と投資のバランスの問題であり、市場の閉鎖性とは関係ないこと。
などを強調した。そしてGATTを通さずに貿易問題を強攻的に解決しようとする姿勢は、国際貿易秩序を破壊する危険行為であるとして批判した。
目的のためなら国際ルールを通さずに、スタンドプレーに走るアメリカの傾向を批判したわけである。
しかもその目的が妄想にもとづくものであれば、なおさらだ。

このようにアメリカではトンデモ理論に扇動された反日感情が高まっていたわけだが、そのような危険な事態に日本はどのような対応をしたのであろうか。
毅然とした態度で無謀な要求を退け、礼節をわきまえながら冷静に相手の過ちを諭したのだろうか?
残念なことに、トンデモが幅を利かせる事態は日本でも同様であった。
その代表的で無惨な実例が「前川リポート」と石原慎太郎氏の著書「NOと言える日本」であった。

「前川リポート」は86年当時の中曽根首相の私的諮問機関により制作されたレポートで、2つの点で間違っていた。

1つは、膨大な貿易黒字は自国が過剰に他国から利益を奪っている国際関係上よろしくない行為だという前提に立っていることである。
そのレポートは貿易黒字の削減を唱っていた。

しかし前回も言ったように、貿易黒字は善でも悪でもない。国内で余った資本が、資本の不足している国に流れているだけの話である。
「我が国の貿易黒字が他国に迷惑をかけている」というのは加害妄想である。

そしてもう一つは、その貿易黒字削減の手段として「海外直接投資を増加させるべきだ」と言い出したことである。
おそらくは「海外への投資を増やせば、生産拠点が海外に移って日本は輸入を増やすだろう。そうすれば、貿易黒字も削減されるにちがいない」なんて考えたのだろう。

しかし、貿易による収支は(貯蓄―投資)だ。これが正、つまり貿易黒字であるとは、もはや投資先のない余った自国の貯蓄資産そのものが、外国へ輸出されることを意味する。これは現実には海外の債券の購入を通して行われる。

そして海外直接投資は外国企業の株を購入することなので、これは資本を外国に貸し付けているわけである。
つまり海外直接投資を増やせば貿易黒字も増えてしまうのだ。
「前川リポート」は因果関係を根本から取り違えていたのである。
日本はアメリカの間違いを毅然と正すどころか、お追従をうちながらドブ川に足を突っ込んだのだ。

「おべっかつかい」が役立たずならば、勇ましきサムライたちはどうだろうか?

彼らは果敢にアメリカへと抗議した。しかし、それは貿易黒字が減らされることへの抗議でしかなかった。
彼らも貿易黒字は善であると信じている点で海外のトンデモさんと同じ穴のムジナだった。
サムライの正体は、貿易を国際間の闘争と見なす、カビの生えた重商主義の残党、落ち武者であった。
彼らは無礼な偏屈なナショナリズムを唱えるアメリカ人と同じように、無礼で偏屈なナショナリズムを鼓舞した。

アメリカが
「卑怯な日本人が陰謀により貿易を妨害し、不当な利益をあげている。団結せよ、アメリカ!今こそ日本を打ち倒せ!!」
と怒鳴ったように、日本のサムライは
「姑息なアメリカ人が陰謀により貿易を妨害し、不当な損失をもたらしている。団結せよ、東アジア共和圏!今こそアメリカを打ち倒せ!!」
と叫んだ。

礼節?
そんなものはみじんのカケラもありはしなかった。

その代表的な一例が石原慎太郎氏らの著書「NOと言える日本」であった。
(この本にはアジア共通通貨を目指せというどうしようもないアジテーションも書かれている。)
この行為は「日本人はナショナリズムにこりかたまった連中で、卑怯なマネをすることも辞さない連中だ」というアメリカの偏見に証拠を与えただけであった。

(参考文献:野口旭「経済対立は誰が起こすのか」)

貿易その1「国際競争力の幻想」

2006-11-10 00:00:13 | 経済
経済政策において、貿易は実は最重要問題ではない。


もちろん貿易は重要ではあるが、どこかのエコノミストように
「日本人は創意工夫して、国際競争力に打ち勝っていかなければならない」
と拳を振り上げるような大げさな問題ではない。


アメリカや日本などにおいて、輸入や輸出はGDPのせいぜい10%前後を占めているに過ぎない。
輸出入が熱心な経済政策で5%や10%変化しても、GDPにはほんの0.5%や1.0%程度の影響しか与えない。
そんなものは焼け石に水であり、金融政策で国内のインフレやデフレを調整した方がよっぽど効率よくGDPを上昇させることができる。


だから貿易を盛り上げれば景気がよくなるという議論は大げさなものでしかない。
輸出入に大きく依存する企業にとって貿易政策は死活問題かもしれないが、私たちにとって大事なのは国内の経済政策なのだ。


(例)2005年の日本の場合
名目GDP  502.9兆円
輸出額 65兆6,565億円(対GDP比約13%)
輸入額 56兆9,494億円(対GDP比約11%)


しかし、だからといって、私は「貿易なんかしても国の繁栄とは関係ない」なんて言っているわけではない。
貿易の存在そのものは国の繁栄には必要不可欠である。

私が否定するのは、貿易黒字で不況を抜け出そうとして、金融政策をないがしろにする態度である。


そして更にはその背後にある


貿易黒字は善で、貿易赤字は悪


という思想を否定しているのである。


* ******************


比較優位


そもそも貿易とは相互に利益を与える共存共栄行為であり、勝者と敗者の分かれるゼロサム・ゲームではないのだ。


比較優位により、貿易をする国は全て確実に生産効率を上昇させ、GDPを向上させることができる。


比較優位とは何だろうか。
それは他国に比べて効率よく生産できる産業に労力を使い、自国より効率よく生産されているものは他国に任せてしまおうということである。


時おり、比較優位を「優れたハイテク技術と生産性」を持つ国が発展途上国の労働力を酷使することだと思い込んでいる人がいる。
比較優位を優劣関係のことだと勘違いしているのだ。


ノコギリを使うのは上手いけど釘を打つのが下手な人と
ノコギリを使うのは下手だけど釘を打つのが上手な人がいたとする。
彼らが木材から椅子を作ろうとすれば、前者が木を切るのを担当し、後者が組み立てを担当するのが一番効率がいい。
比較優位とはただそれだけのことである。絶対的な優劣を判断する言葉ではないのだ。


以下の文献
クルーグマン「良い経済学 悪い経済学」第6章
竹森俊平「世界経済の謎」第1章
などが上手に比較優位を説明してくれている。


ネットでは
[http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/50273567.html:title]

[http://www.ne.jp/asahi/british/pub/econ/comparative.html:title]

[http://ja.wikipedia.org/wiki/比較優位]

[http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/tohya/model/ricardo.htm:title]

[http://bewaad.com/20050803.html:title]

などが参考になる。


つまり貿易はそれをする双方の国民の所得を上げ、医療や教育を受けることが可能になり、娯楽を楽しむ余裕も生まれるのだ。
そこには勝者も敗者もない。


警戒すべきは、グローバル経済を先進諸国が発展途上国を搾取する手段と思い込んで憎悪することなのである。
彼らが活躍することで不幸になるのは、発展途上国の貧しい人々なのであるから。


そして、もう一つ警戒すべきは先ほども述べた「貿易黒字は善で、貿易赤字は悪」という考えである。


* ******************


開放経済モデル


貿易をしない場合を考えた閉鎖経済モデルでは、国内総生産と総支出が等しくなる。
このモデルでは貯蓄と投資のバランスだけで利子率が決まるので、因果関係が分かりやすい。


最初に述べたように、GDPに占める貿易の割合は大きくはないので、現実の経済での因果関係を理解するには閉鎖経済モデルを学ぶだけでもある程度は大丈夫だったりする。


それでも貿易は大事なので、それも考えたいところだ。
そこで次に単純なモデルとして開放経済モデルを導入する。


このモデルが閉鎖モデルと違う点は、外国が自国の生産物を買い(輸出)、自国が他国の生産物を買うということだ(輸入)。
式で書けば以下のようになる。


Y = C_d + I_d + G_d + EX
= C + I + G ― (C_f + I_f + G_f) + EX


(国内での消費)C_d = (消費)C ― (外国での消費)C_f
(国内への投資)I_d = (投資)I ― (外国への投資)I_f
(国内の生産物に対する政府購入)G_d = (政府購入)G ― (外国の生産物に対する政府購入)G_f
(添字のdはDomestic、fはForeignを表す)

(国内総生産)Yは (消費)C + (貯蓄)S + (税収)T である。
自国の総支出は (消費)C + (投資)I + (政府購入)G である。
閉鎖経済では欲しい物は全て国内で生産された物を買うしかないので、総支出が国内総生産と等しくなる。
しかし開放経済では輸入による支出は自国の生産物に対してのものではないので、国内総生産には含まない。
だから総支出と国内総生産は等しくはならないのだ。


つまり以下の2つが新しく導入されているのである。
(輸出)EX:外国が自国の生産物に支払った財
(輸入)IM = C_f + I_f + G_f:自国が外国の生産物に支払った財


上の式を輸入と輸出の差に注目して、変形してみよう。


NX = EX ― IM
  = 国内総生産Y ― 自国の総支出(C+I+G)
  = 国民貯蓄(Y―C―G)- 投資I


この式のにおいて、原因に相当する外生変数は貯蓄と投資であり、結果に相当する内生変数がNXである。
これより次の極めて重要かつ明白な因果関係が明らかになる。


因果関係(最重要)
貯蓄が投資を上回ると貿易黒字になり、貯蓄が投資を下回ると貿易赤字になる。
つまりNXが正ならば自国は貿易黒字になり、負ならば貿易赤字になる。
何故そうなるのか以下で説明してみよう。


このNXは対外純投資と呼ばれ、国家間の資本の貸し借りを表わす。
NXが負であるとは、自国が資本不足に陥り海外から資金を借りている状態を表している。
そして借りたお金で物を買うので貿易赤字になる。
物を買う必要がなければ、そもそも資本不足にならないし、他国から資本も借りないし、だから貿易赤字にもならない。
因果関係でいうと、貸し借りが先にあり、その結果貿易赤字が生じたのだ。


逆に正であるとは、自国が余剰資金を資本不足の国に貸し付けている状態を表す。
他国は貸し付けられた資本で物を買うので貿易黒字になる。
今回も他国が物を買いたいと思ったから私たちから資本を借りて、その結果彼らが物を買い、こちらの貿易黒字が生じたのである。
貿易黒字があったから他国に金を貸したわけではない。金を貸したから貿易黒字ができたのだ。


間違えてはいけないのは貿易黒字になったから、所得が増えて貯蓄率が上がるわけではないということだ。


このように因果関係を逆に捉えている人は多い。経済学を知らない人が最も勘違いしやすい部分である。
この点を勘違いしていると、貿易黒字は所得の増加につながるから「日本は国際競争力をつけないといけない」と言う羽目になる。


しかし上の因果関係をふまえれば、不況で消費が停滞して、貯蓄が増えたり投資が減ると貿易黒字になったりすることが分かる。


不思議なことは何もないのだが、因果関係を理解していない人は「貿易黒字なのに不況なのは何故だ?」などという疑問に捕われてしまうのである。


貿易黒字とは良いことや悪いことの結果として与えられるものでしかなく、決して貿易黒字が原因で何か良いことが起きるわけではないのである。


そういえば、いつか日銀総裁の福井氏が日経新聞で「日本は国際競争力をつけないといけない」という主旨の発言をしていたことがある。
国際競争力とは定義が不明だが、とりあえず(日本を貿易黒字にすること)と解釈しておこう。


なるほど。だから福井総裁はゼロ金利を解除して、日本を不況にさせて貿易黒字に持っていき、国際競争に勝とうとしているのですね。
さすが福井総裁。有言実行の人。真の日本男児です。
「欲しがりません。勝つまでは」
「試合に勝って、勝負に負ける」
「一億国民総玉砕。神風アタックで国際競争大勝利」
そんな標語が頭の中を横切ります。


国際競争力とは目指すものではない。
目指すべきは経済成長であり、貿易黒字とかはその結果でしかない。
場合によっては経済成長したことで貿易赤字になることもある。
経済が発展して、消費が盛んになり、海外からの投資を多く必要とすれば貿易赤字になるのだから。


だから「国家の持つ国際競争力の重要性」などと口走る人間を見たら、その人はまずマクロ経済学の初歩さえも理解していないと思ってさしつかえない。


* ******************


ちなみに私は以上で単純化したモデルを考えている。


経済学を批判する人には、そういったモデルを使うことに腹を立てる人が多い。
「複雑な経済現象をこんな簡単なモデルで説明できるわけがない」
「こんな簡単な足し算と引き算だけで物事を説明しようとするから、今までの経済学はダメなんだ」
なんて言うのである。


しかし熱力学の基本法則だって単純な足し算でできている。
だが、おおまかな因果関係の説明にはそれで十分なのだ。
物質は熱すれば膨張し、エネルギーが低いところから高いところへ流れることはない。


より詳細な解析をしようとすれば、計算は量も手段も複雑になる。それこそ非線形やカオスのオンパレードだ。
しかし、それを理由に熱力学とそれが導く因果関係を否定する人はいないだろう。


つまり彼らはエネルギー保存則のごとき経済学の基本的な因果関係を知りもせずに、経済学者を頭の固い新しい発想を受け入れられないバカと見下して批判しているのだ。
そして妄想が誇大化すると、自分には経済学を変革する大発見ができると信じ込んでしまうのである。


「スカラー量を超えたベクトルを使った経済学を私は発明した。どうだスゴいだろう。頭の固い経済学者どもにはマネできまい」


「線形を凌駕する非線形を使った経済学を私は発明した。どうだスゴいだろう。頭の固い経済学者どもにはマネできまい」


「実数を超越した複素数を使った経済学を私は発明した。どうだスゴいだろう。頭の固い経済学者どもにはマネできまい」


批判者の数だけ「革新的な経済学」が存在するありさまである。
彼らは相対論を否定するトンデモさんと同じことをしている。

ゆーせーみんえーかー

2005-08-17 11:45:16 | 経済
やる気のないタイトルですみませんねぇ、先生。

いちおう以下では真面目にやりますので、ご勘弁下さい。

今日は、昨日にコメント欄において先生から話題をふられました郵政民営化について議論をします。
まずはですね、議論の土台をしっかりしておこうと思います。
他のところでされている議論を見ますと、大まかに次の2つの問題が論じられています。

1)郵政民営化による経営効率、サービスの向上は実現されるか、否か。

2)郵政民営化に伴う政権構造、政策の変化について。

最近の議論は、選挙絡みで(2)についてのものが多いようです。
とりあえず、この2つを混同すると議論が混乱し、あらぬ方向に行ってしまう恐れがあるので気をつけたいと思います。
もっとも、この2つを一番混同しているのが、当の自民党、小泉首相だったりするわけですが。

先生が議論したがっているのは(1)の方だと思います。
それで、まず個人的に(2)について私が持っている感想を書いてから、(1)についての議論に移りたいと思います。

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先生もご存知の通り、私は「リフレ派」と呼ばれるものに賛成しているわけです。

簡単に言えば、とりあえず金融政策を通してデフレをなんとかしよう。

ゆるやかなインフレを起こすことで、税収入を増やし、消費を促進させて、金持ちから貧者への所得の再分配をして、企業を活性化させて、官民ともに体力をつけてから改造に乗り出そう。

そうでないと財政再建も不良債権対策も、失業問題も、年金問題も解決しないぞ、という主張を持っているわけです。


だから「郵政民営化を足がかりにして、構造改革を進め、財政再建をするんだ」という発言を聞いたりしますと

自分の家が今、目の前で燃えているのに、来年の家計の心配をしている。

という印象を持ってしまうわけです。
「どうでもいいから、早く火を消せ」と思ってしまうわけですね。火というのは、つまりデフレのことです。


それで小泉首相は、いつの間にか郵政民営化に伴う政治の駆け引きにうつつを抜かしすぎていないか。
反対勢力の排除にそれを利用しているだけでは?
本来の目的を忘れて、手段そのものが目的になっていないか?という疑問がわくわけです。

そういう批判としては、たとえば次のようなものがあります。田中秀臣氏の「ノーガード経済論戦」見失われた「第3の道」から引用しますと、


問題は政策当事者がえてして陥りやすいのだが、民営化や緊縮財政などは公平で持続的な成長(つまり公平と効率のトレードオフを適切にみたすこと)を実現する「手段」であるのに、これらの「手段」がいつの間にか「目的」になってしまっていることである。

現在の郵政民営化もいつの間にかその内実とそれがみたすべき「目的」がかえりみられることなく、民営化か否かの二元論に陥っている



もちろん反対勢力の排除で、政治運営がやりやすくなり日本が良くなるのならばいいのです。
混迷期の改革は独裁政権の方が適しているということもありますし。要は独裁政権を目的遂行後に速やかに解散させればいいわけですから。

しかし「リフレ派」は、そもそも構造改革を優先する政策に反対しているわけです。
(「優先」することに反対しているわけで、「実行」することに反対しているわけではありませんので、ご注意を。)

だから独裁が成功して、彼らの望む構造改革が実行されても景気は回復しないと考えているのです。


それに、これは以下の記事を読んだ上での受け売りに過ぎないのですが、郵政民営化で財政赤字の解消なんて起こらないだろうとも考えています。



なんのための郵政民営化か?
私の郵政民営化への基本スタンス


前者の公的部門への資金流入を減らせば、後者の民間部門への資金流入が増加して、それによって国民経済がより成長するという一見するともつともらしい発想である。

そしてこのような資金循環の歪みを正せば、700兆円以上に膨れ上がった日本の財政赤字問題も解決できるというのがまた大きな狙いになっている。

2000年の財投改革以前におこなわれていた郵貯を介した事実上の補助金政策をいっている場合が多く、それは確かに“市場原理”を歪めて多量のマネーを特殊法人などに与えて、非効率化の温床にしたであろう。

 しかし現行ではそのような補助金は撤廃され、郵貯の資産運用は国債を中心にして“市場原理”に親和的に行われているだけである。

いいかえると特殊法人や政府などの公的部門への資金流入は、経済主体(家計、企業、政府、仲介機関など)が“市場原理”に基づいて選択した結果である。

そのため郵貯・簡保などは単なる資金の流れの仲介にすぎず、これを民営化すること事態が劇的に資金の流れを変更することはありえない。




つまり郵政民営化で構造改革、財政赤字解消、景気回復という意見に私は反対しているわけです。

ですが、それは郵政民営化が成功するかどうかとは直接関係のない話でして、次は(1)の件について議論したいと思います。


ところで、先生は「リフレ派」ではないはずでしたから、もしこちらの件で反論などがありましたら何でもおっしゃって下さい。

確か先生は「デフレ対策の重要性は認めるが、インフレを起こすのは不安だ」という意見でしたよね?

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郵政民営化に賛成か反対か?と問われれば、「まー、その、どうでもいいから、やればぁ?」という自堕落な感想しか持っていないというのが正直なところです。

それに私は議論できるほどのデータを何も持っておらず、印象とか感情を書き連ねることしかできないのです。
だから反対する理由も賛成する理由もないわけです。何も知らないわけですから。

昨日のコメント欄における先生のご意見は


私は中立派(強いて言えば条件付賛成)
 理由は、
 賛成理由/民営化によるサーヴィス向上への期待
 反対理由/①成否の見通しの悪さ・②コスト


というサービスの維持が可能かどうかということに焦点をあてたものでした。
まずサービスの向上についてですが

採算の取れない地方が切り捨てられる。→ サービス低下

競争にさらされることで利用者のニーズにこたえられるようになる。→ サービス向上

という2つのことが同時に起こりそうですね。
何の芸もない感想ですけど。

でも地方を切り捨てないとも言ってるんですよね。

それで採算が取れないのを維持すれば経営が悪化して、政府の保護が必要になり、結局税金が投入されて皆が損をするということになりませんかね。

見通しの悪さというか、何がしたいのか、何ができるのかが、私にはよくわからないのですが、先生は何か知っていますか?

それで結局は郵政民営化とは直接関係ない政策談議をするしかなくなってしまううのです。

えーと、この他に言うことなんて特に思いつきません。
これを読めば何か分かるかもしれませんが、そこまで興味もないのです。

なんか結局やる気のない結論でもうしわけありません。

企業負担の幻想

2005-06-29 21:03:19 | 経済
「企業」対「個人」とか「国」対「個人」という図式が頭の中にこびりついている人の発言は時おり私をうんざりさせる。

なぜなら彼らにとって企業や国は常に私利私欲のために自分達を犠牲にしようとするものでしかなく、企業の思い通りに行動する者をバカにし、国益のために働く人を犬とののしるからだ。
そして個人の尊厳は企業や国に逆らうことによって得られると考え、企業を糾弾し、反体制こそが良識だと思い込んでいる。

彼らは多くの人は企業に勤める個人でもあることを忘れているのだろうか?
企業が得をするということは、その企業に勤めている多くの個人も得をするのである。

また国を構成する要素は国民である。
国益とは最大多数の個人の利益であり、底辺に暮らす個人たちの利益でもある。

*****************

岩田規久男氏の「間違いだらけの経済常識」という本には以下のような話が紹介されている。

ある環境保護運動家は言う。

「環境を守るために環境税を導入すべきだ」

それは良い方法である。昔も排気ガス規制により、自動車会社は競って新しい規制をクリアしようと励んだ。おかげで車はガスを抑え、更には燃費も改善した。

彼は続けて言う。
「企業は環境税を製品の価格に上乗せするので、消費者が負担することになる。消費者に責任を転換するのはよくないことだ」

実際にこういう事を言う人はたくさんいる。
たとえばサイゾーで山形氏が紹介していた記事において、神保氏は

「重い炭素税だの排出権取引だのと多大な負担を求められた企業が、政府に泣きつき、その結果として国民の血税が温暖化対策のために投入されるなんてことにならないように、今からしっかりと企業を監視しておくことにしましょう」

と言っている。
「負担は全部企業が負え。国民はかすり傷一つ負うべきではない」という考え方だ。
しかしその考えは間違いである。理由は2つある。

まず一つは、人は自分の損にならない限り行動を改めたりはしないということだ。
例えば排出権取引による損失全てを企業が負担したとしよう。価格はそのままだ。そうしたら国民は今まで通りに車を使い続けることだろう。
そうしたら排気ガスは結局いつまでたっても減りはしない。

企業が増税による損失分を自動車やガソリンの価格に上乗せする。そうして初めて、国民は損を避けるために自動車の使用を控え、環境も改善されるようになることだろう。
それだと負担は国民だけが負うことになり不公平だろうか?そんなことはない。
企業は、国民が自動車の使用を控えることで売り上げが落ち込み、きちんと損をする。
だからこそ企業も燃費のいい車や無公害車を開発して売り上げを回復させようと努力し、それが更に環境改善につながるのである。


もう一つの大きな理由は、この世に企業という独立した生物がいるのではないということだ。
企業を構成する要素はなんだろうか。
企業には経営者の他にも、株主や従業員も含まれている。


企業が負担をしょいこめば、その損失は株主の配当や従業員の給料に反映されて減少する。
つまりその企業に勤める私たちや私たちの家族の収入の減少につながるのだ。
給料が減れば消費が落ち込み、それは連鎖的に全ての人々に負担をまわすことにもなる。
企業に全部を押し付けても、結局は私たちの損になるのである。

多くの国民は企業に勤める個人でもあるのだ。
だから企業の損は国民の損でもあり、この2つを明確に分けることはできない。
だから「公害問題の責任は企業が負担すべきだ」なんて何の意味もない要求なのである。公害問題にしろ、なんにせよ、負担は全ての個人が負わなくてはいけない。
それが企業からの恩恵を受けている私たちの責任でもある。

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労働運動は大事である。
労働組合は存在しないといけない組織だ。

しかし彼らもまた「企業が負担」幻想を持っていることがある。
たとえば岩田氏の本では「三・七闘争」などの社会保険料は企業が負担すべきかどうかという問題を無意味な問題だとしている。

もし社会保険料を全額従業員の負担にしたとしても、企業は単にその分を彼らの給料に上乗せするだけである。
逆に企業の社会保険料の負担金が増えれば、その分従業員の給料が減るだけである。

100円を取り上げて100円を渡すか、100円を渡して100円を取り上げるかの違いしかない。
だからそんなことは、どうでもいい問題なのだ。

反論があるかもしれない。
企業は社会保険料を従業員の負担にしておきながら、彼らの給料を増やさないに違いない、と。
しかしよほど経営者側が強くない限り、それは無理である。そのために労働組合が存在し、毎年給料の上下を巡り論争しているのだから。

環境運動にせよ、労働運動にせよ、何かをする人はお金がどこをどのように巡るかを考えてから行動すべきである。
そうでないと無意味な要求にエネルギーを使い果たしてしまい、異常気象や所得の再分配などの本当に大事な問題の解決が遅くなってしまうからだ。

貨幣の話(復習)実質利子率の重要性

2005-06-03 19:09:33 | 経済
今日も今までの話の復習をしてみよう。まずは次の話を枕にしたいと思う。

EU憲法の是非をめぐって国民投票が行われている。「svnseeds’ ghoti!、フランスとスペイン-国民投票を決めたもの」においてsvnseedsさんはフランスでそれが否決され、スペインでそれが可決された原因について、それらの国々のGDPの上昇率に注目している。

実質GDP成長率が2002~2004年の平均を取るとフランスは1.4%、スペインは2.9%になっている。
失業率はフランスは1.6%だけ低下し、スペインは6.4%も低下している。
これだけ景気に違いが出れば、EUに否定的になるか好意的になるか国民投票の結果は変わるに決まっている。

この差はどこから生じたのだろうか?svnseedsさんは更に言う。

それは実質金利の差からであると。
その数値はフランスは常にプラスでスペインは1999年を除きマイナスである。
実質金利が低ければそれだけ投資は盛んになり景気も良くなる。

それでは実質金利の差はどこから来たのか?
それはインフレ率の差である。
何度も紹介しているがフィッシャーの方程式

実質利子率 = 名目利子率 - インフレ率

というものがある。
そして失業率はインフレ率と反比例するという「フィリップ曲線」という法則がある。
スペインの失業率が低いということは、インフレ率が高いということになる。(実際に3%前後の高い値を取っている。)
一方でフランスの失業率は高いので、インフレ率は低くなる。

そして名目利子率であるが、これは欧州中央銀行が決める短期金利によりEU全体で似たような数値を取る。
そうなると同じ名目利子率でも、インフレ率が高いスペインでは実質利子率は低く「金融緩和」状態になり、インフレ率が低いフランスでは実質利子率は高くなり「金融引き締め」状態になる。

優れた力とはコントロールできるものでなくてはいけない。
svnseedsさんは「金融政策の不自由さが招く景気動向の各国の不平等」ゆえにユーロ統合には否定的立場を取られている。
つまりそれはコントロールできない力ゆえに良くないものだということである。

(補足)

本当は人々は事前に予測されている利子率、期待インフレ率に合わせて行動をする。
将来インフレになりそうなら早めに物を買っておこうとか、名目金利に期待インフレ率を上乗せしておこうとか、お金を借りて投資するなら今の内だとか考える。
そしてそれが景気に影響を与える。だから問題にすべきは事後の利子率ではなく、期待利子率となる。
昨日紹介した「利子率」も「インフレ率」も事前に期待されているものを想定している。

しかしここで扱っているデータは事後実質金利である。
そこでsvnseedsさんは

ちなみにユーロ加盟というイベントは誰がどうみてもわかりやすい予定されたものなので、期待実質金利は事後的な実質金利とそれ程差はないのではないか

とみなして、今回の場合は近似的に事後(結果)と事前(期待)は等しいと仮定している。(補足終)

svnseeds’ ghoti!

つまりこの話の教訓はこうだ。
景気回復には期待実質金利の動向が重要な役割を果たす。

ところで日本は名目金利は低いが、インフレ率はマイナス(つまりデフレ)なので実質金利は見かけほど低くはない。
時おり議論において「金融緩和すべきと言うが、日本の金利は既に十分低い」と主張されるが、それは名目利子率だけに注目したせいでそう見えるだけであり実質金利はまだ十分に低くはないのである。

また日本の失業率が高いのはインフレ率が低すぎるせいである。
インフレ率を上げれば、失業率は下がることだろう。

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今回は「貨幣の話(6)」の補足である。
そこで私はマネタリストとケイジアンの論争を紹介した。簡単に要約すると、利子率は景気に影響を与えないので「名目利子率をコントロールする金融政策」は無意味だ、というのがマネタリストの主張である。

しかし上の話では実質利子率が景気に影響を与えているように見える。
フランスが景気回復をするには、名目利子率を下げるという金融政策が有効そうだ。
マネタリストならばマネーサプライを増加させてインフレ率を上げるだけでいいと主張するかもしれない。
(日本は名目利子率を既に0にまでしてしまっているので、マネーサプライの増加以外に取るべき手段が残されていない。)

どちらがいいのかは分からないが、スペインが金融緩和でうるおっているのを見れば少なくとも金融政策が無意味という結論は出ないであろう。


ここでマネタリストの歴史について簡単に振り返ってみよう。

マネタリストは新古典派と呼ばれる学派に属している。
この学派の代表はミルトン・フリードマンである。泣く子も黙る「ノーベル賞」だってもらっている有名人だ。
彼らは1970年代から80年代初めにかけて強い影響力を持っていた。
フリードマンは経済における「貨幣の重要性」、つまり短期においてはマネーサプライが景気に強い影響を与えることを示した。
そして長期においては貨幣数量説による「貨幣の中立性」が成立する。つまりマネーサプライは物価にしか影響を与えず景気とは関係なくなるとした。
この短期と長期の区別、貨幣の重要性はきちんと検証され、現在ではほとんどの経済学者も認めている。

しかしそこからマネタリストは現在ではあまり認められていない行為に走った。彼らは「貨幣の重要性」を極端なまでに信じた。
中央銀行は利子率やマネーサプライのコントロールなんてやめて、マネーサプライの目標値を設定して単純に増加させるだけでいい。そう彼らは主張した。

これは金融政策の否定であり、中央銀行は何もしなくていいと言っているに等しかった。
そして多くの国の中央銀行はこのマネタリストの見解を支持した。

そして79年にはアメリカの中銀である連邦準備銀行は「通貨総量の目標値を定めて、その実現を目指す」ことを宣言した。
つまりマネーサプライを単純に増加だけさせることを宣言したのである。
中央銀行が自分で自分の役割を否定したのだから驚くべきことであり、マネタリストは天下を取ったかにみえた。

だけどクルーグマンはこう言っている。連邦準備銀行は柔道をしたのである、と。つまり敵の力を利用して自分の目的を達成したのだ。
彼の説によると、連邦準備銀行は実はマネタリストではなかった。
ただ高いインフレ率をどうにかする必要は感じていた。しかしインフレ率を下げるには失業率の増加を受け入れないといけない。それは不況を招いてしまう。
そこで彼らはマネタリストにその仕事を押し付けた。

「私たちはこれからマネタリストの言う通りにマネーサプライを調整します。もしそれで不況が起きてもそれはマネタリストのせいです」

つまりマネタリストの言う通りにマネ-サプライの増加率を一定にすると、その供給量が減りインフレ率が下がるのである。
かくして3年後、インフレはおさまり、失業率は上がり、アメリカは不景気になった。
マネタリストは批難された。「お前たちの言う通りにしたらこの様だ」。彼らの信用はなくなった。
そして連邦準備銀行は本性を表わし、急激にマネーサプライを上げたり下げたりしてマネタリストを驚かせた。
マネタリストは惨事や大不況を予言したが、それとは逆にアメリカの景気は良くなってしまったのである。
ビバビバ(めでたし、めでたし)。

以上がマネタリストの歴史である。
最後のクルーグマンの説は「クルーグマン教授の経済入門8章」にのっている。少し陰謀論が入っていてマユツバものだが、マネタリストの言う通りにして不景気が起き、彼らの信用がなくなったのは確かなことだ。
現在でも金融政策の有効性は何度も証明されている。

さて次に利子率が重要である例をもう一つ挙げようと思ったのだが、長くなり過ぎたので続きは明日にしたいと思う。