玄文講

日記

法による差別規制の限界についての考察

2005-04-04 22:40:59 | メモ
syumutouさんのコメントに対する返信

私は「精神障害者」の者です。

この法案が国会で成立することを願っています。

この立場だといろいろ嫌なおもいをすることがあります。

特に、『役人』に不快なおもいをさせられることが多いのです。

障害者手帳や障害基礎年金などの認定の生殺与奪を彼らが握っているのでかれらの「パワーハラスメント」を受けてもただ耐えるしかありません。

法律が成立することで自分を守る『盾』を手に入れられると考えております。


弱い立場に立たされている人の権利が守られることには私も賛成します。
今回の法案に賛成する人が単なる「人権を名目にした恐喝行為」「弱者気取りの糾弾マニア」と同類の扱いを受けていることは宣伝不足のせいだと思われます。

また福祉関係者の中には「乞食に物をめぐんでやる」ような態度を取る人間や、やたらに「福祉たかり」を疑い責め立てる陰険な人間がいると聞いたことがあります。
腹の立つことも多いのでしょう。

この法の効果については実際に始まってみないとわからないので、ここで述べることは私の意見に過ぎないことを断った上で申し上げますと、今回の法が本当の意味での盾になればよいのですが私はあまり期待していません。

今回の法が成立しても組織的な差別運動に対してわずかばかりの効果が出る程度だと私は思っています。
人の心は法や規制では縛れないからです。むしろ精神が縛れる法は存在すべきではありません。
そして法は明確に立証できる実害に対してしか適用できません。
役人がsyumutouさんのことを気に入らないという理由で福祉を止めれば処罰されるでしょうが、差別団体でもない福祉の側を訴えても「うるさいやつが来た」「恩を仇で返した」と思われるのが関の山だと予想されます。

あの法は「役人の無神経さ」まで取り締まれるような強制力はないと思われます。
ではより法を厳しくして、差別行為を取り締まるべきでしょうか。
私はそれは不可能だと考えています。

こんな話を聞いたことがあります。詳細は覚えていないのですが、ある知恵遅れの子供がいました。
その子供が覚えることのできた単語は2つしかなかったそうです。

1つは「お母さん」

もう1つは「バカ」です。

ほとんど言葉を覚えることのできない子供が、その言葉を覚えてしまうほど様々な場所で色々な人から「バカ」と言われ続けてきたのでしょう。

ひどい話であります。

そして私にはこのような行為を取り締まることが可能な法が思いつきません。
誰が、いつ、どこで、どのような状況で、その子供を侮辱したのかは誰にも分かりません。
それが分かったとしても彼らを何の罪で裁くことができるでしょうか。
たかが「バカ」と言っただけです。
その程度のことが罪になる社会では生きていくのが大変です。

意味は違えども、「バカ」という言葉くらいは私もひんぱんに知人や親戚に向かって使いますから。
たとえばここによく表われる悪徳弁護士殿はまぎれもない大バカ野郎ですし、
講の仲間たちも100回死んでも治らない筋金入りのバカ共です。

しかし裁きの場では「バカ」という言葉は「軽い意味」で使われようと「侮辱」として使われようと同じ「バカ」という言葉として扱われることでしょう。
子供を侮辱した人が罪になるなら、私も罪人になるしかありません。

前回も言ったように「言葉」は取り締まれても「言葉の中身」は規制できず、
結局は人の心の方を変えるしかありません。
しかし人の心を変えるような法はただの暴力ですから存在するべきではありません。
そうすれば残った方法はただ一つ、饒舌(じょうぜつ)になることです。
言葉には言葉で対抗するしかないと私は考えています。

饒舌になれない人のためには代わりに饒舌な人が彼らの境遇について話すべきでしょう。
私たちのするべきことは相手の口をふさぐことではなく、言葉で味方を増やすことだと私は信じています。

私は当事者ではないので精神障害者とされた人々が具体的にどのような侮辱をされているのかは見当もつきません。
ただ今だに「健常者以外の人間が狂人である」という偏見が存在していることは知っています。

そういう偏見がなくなるためには、法に頼るだけではなく、言葉をもっと使っていくことの方がより有効であると私は考えています。