玄文講

日記

就職活動2(完)

2005-03-29 19:11:52 | 個人的記録
会長、社長、専務との協議の結果、実家の印刷屋に就職することが決まりました。
「一刻も早く戻るべきだが、退学はしなくていい」だそうです。

零細企業、社員は家族ばかりなり。

これは社会復帰になるのでしょうか?
なにか敗戦処理をするような気分であります。

経営を立て直したら、またブラブラしたいと思います。
立て直しに失敗して失業したら、それはそれで、またブラブラしたいと思います。

人の話のまとめ

2005-03-26 14:23:18 | まとめ
「両性具有(アンドロジニー)」
社会生物学の考え方を通して、人はなぜ両性具有者にならないかを考察した。

人が「両性具有(アンドロジニー)」にならない理由

そして、それが優生学とは関係ないことを以下で強調した。

自然は不道徳であり、道徳は不自然であることについて

更にフェミニズムや自己中心的な人が陥る「自然」と「道徳」の混同について以下で何度も批判している。

昨日の続き
与那原恵「自殺志願者という物語」


「魂の座」
意識と無意識の差について論じ、ついでに脳死についての意見を書いた。

首なしニワトリ ~魂の座1
「自分探し」 ~魂の座2
魍魎の匣 ~魂の座3
脳死について

筆がすべって、「殺人論」なんかも書いてしまった。
正論のつもりだったのだが、毒舌と言われてしまった。

思い出不要
そういえば、私は自分の昔のアルバムを全て処分したことがある。
おかげで6歳以前の私の記録は一切残っていないのである。
思い出すことも、思い出されることもなく、思い出不要。思い出不要。

感覚は科学に反抗することについての短い考察
私は「人間原理」が嫌いなはずなのに、内容が「人間原理」みたいだと言われた。
「人間原理」は自我に重きを置き、世界を虚構とみなす考え方である。
私は逆に世界に重きを置き、自我を虚構とみなしているのである。

昨日には遠すぎる
博士の愛した数式」に出てきた前向性記憶障害について述べたもの。
その障害とは、この病気の発症時以降の出来事を記憶する能力が失われるというものである。
こんな興味深い症例があまりよく知られていないなんて意外である。

金縛りにあったこと
同僚にこの話をしたところ「それは心霊現象では?」なんて言われた。
なるほど、思いつきもしなかった。
たしかに霊山で雷雨の中、墓地に迷いこんで、石碑にぶつかりながら歩いたが、心霊とは予想外の原因である。
そう言えば、その竹林寺の近くにある牧野植物園で見た、植物学の大家、牧野先生が若い頃に書いた10訓の1つに
「不思議なことをすべて神様のせいにするな」
という意味の言葉があったのを思い出した。

古本の楽しみ

2005-03-25 14:24:12 | バカな話
私は古本をよく購入する。
そして思わずニンマリとしてしまうときがある。それは前の持ち主の痕跡が残されているのを見つけたときだ。

たとえば私はある日、塩野七生さん「神の代理人」の最後のページに「昭和五十二年六月七日、外務省にて求む」と書いてあるのを見つけた。

そして本の間には、しおり代わりにNHK受信料の領収ハガキがはさんであった。
ちなみにそのハガキには住所氏名も書いてあり、その支払い期間は「昭和五十年」。本の購入日より古いことを考えると、最初の持ち主のものだろう。

塩野さんの本を外務省で買い、NHK受信料をきちんと払う人間。
私は昨年、この住所に年賀状を送ってみた。意味はない。返事もなかった。
この本には川崎市の古本屋の値札もはってあり、約30年かけて、あちらこちらをさまよったことが分かる。
恐らく最初の持ち主はもうこの世の人ではないのだろう。持ち主が死んで、遺族が蔵書を売却した、というのが予想される。

堀辰雄氏の随筆に「風立ちぬ」という、サナトリウムで死にゆく恋人と過ごした時間を、過剰になることもなく、嘆き悲しむでもなく、穏やかに語った作品がある。
その本には「声楽科●●●番 吉野和音(仮名)」と前の持ち主の名前と所属が書いてあり、感銘を受けたと思われる箇所にところどころ線が引いてあった。
そして私は線が引かれた文章を見つけるたびに「なるほど、いかにも声楽科の人が感銘を受けそうなセリフだ」と感心しながら、本を読む楽しみが倍増していたのである。

また、哲学の本に「徳島大学」の生協レシートがはさまっていたこともあった。
しかし本は新品同様にきれいで、哲学青年になろうと意気込み、しかして購入した本の難解さに辟易し、読まずに売り払った姿が想像できた。
もちろん私もまだその難解な書を読んではいない。

また、しおりに何を使うかで、前の持ち主の性格が分かるような気がする。
ページを折る人、ハガキやレシートをはさむ人、付せんを貼る人、髪の毛や押し花が入っていたこともある。
切符に穴をあけて、ヒモで結んで自作のしおりをはさんでいた人もいた。しかし、この切符はキセルしたものでは?

「科学史の事件簿」という本に、フランス人科学者ブロンローがインチキ実験でねつ造した学説「N線」について紹介した記事がある。
英国人学者ルーベンスが、この学説がインチキであることを証明したエピソードは傑作である。

彼はブロンローの研究室を訪問し、彼の助手のやる実験を見学させてもらった。
実験は暗い部屋で行われ、彼はまず助手に「気づかれないよう」装置に細工をして正しく観測できないようにした。
それなのに助手は正しいとされる観測数値を読み上げた。

そして次に彼はわざと助手に「気づかれるように」装置に細工する振りをして「実は何もしなかった」。
しかし今度は助手は正しい観測数値ではなく「何も見えません」と報告したのである。
これでこの学説は終わった。

その記事にこんな一節がある。

この本は英語にも翻訳されている。旧制一高(現在の東大教養学部)の蔵書のなかにもこの英語訳の「N線」があり、チェックやアンダーラインが所々に入れられており、一高の学生、研究者もフランスで発見されたというN線なるものに相当の関心を持っていたように見受けられる。

新しくも怪しい学説に興奮している当時の雰囲気が伝わってくるようである。
私が古本の落書きを愛するのは、それが当時を生きていた人たちの姿を私に見せてくれるからである。

落書きもあれはあれで貴重な情報源なのである。大袈裟に言えば、文化の一部なのだ。
たとえば法隆寺の壁には、当時の職人の「ここの雇い主は焼酎も出さないケチだ」という落書きがあり、おかげではるか昔にも焼酎が存在していたことが分かった、という話がある。
(追記;法隆寺には確かに当時の大工の落書きがたくさんあるのだが、焼酎の落書きはこの寺ではなかったかもしれない。現在、調査中)

フェルマーの定理は彼が本の余白に書いた落書きから始まったのである。

古本の落書きを消し、美品にするのが古本屋の義務というのは理解できるが、せめて面白い落書きは消さずに見のがしてほしいものである。
同じ本はいくらでも見つかるが、同じ落書きは二つはないのだから。

科学予算バブルの観察報告

2005-03-24 00:09:25 | 経済
産学連携が叫ばれて、大学等技術移転促進法(TLO法)が施行されてから七年がたとうとしている。
それは企業が大学や研究者の持つ特許を活用し、新たな産業を振興しようという試みである。
同時に国による研究予算も大幅に増額され、96~00年度に17兆円、01~05年度に24兆円の政府研究開発投資が行われている。

ある意味、バブルである。
ただし急に予算が増えても使い道がなく、書類をすべてカラープリンタで出力して予算を消化している研究室がある、なんて噂も流れている。
もっとも悪い噂ばかりではなく、電気通信大学のようなうまくいっている話もいくつか聞いている。

私の研究室にも、特許の取り方を指南した冊子や内閣府からの「政府開発研究データベース」への登録用紙が送られてきたりした。

しかし内の研究室では誰もそんな本を読まなかったし、データベースに登録もしなかった。
「俺たちには関係のない話だよなぁ」
それが理論分野にいる私たちの共通した認識であった。

昨日も話したように、役に立たないことが存在理由でさえある私たちには、国のため産業のためと強迫観念のように唱えられてもピンと来ないのである。
たとえば、外に対しては温和で、身内に対しては猛々(たけだけ)しいことで知られる、かのノーベル物理学受賞者の小柴先生は

「先生の研究は何の役に立つのですか?」

というレポーターの何たらの一つ覚えの質問に対し

「今も、そして将来にも役に立つことなんて一つもない」

と自信満々に答えていた。そしてレポーターは「自慢するようなことじゃないだろう」とでも言いたげな、とまどいと侮蔑の表情を浮かべるのであった。
たしかに「今は役に立たなくても、100年後に残るのは自分達の仕事である」という彼らの自信と誇りを知らなければ、この発言を理解することはできないであろう。

これは産学連携からもっとも遠い分野である「理論物理」の世界から見た、この一連の「国興し」の観察報告である。

こんな話がある。
ある日、高名な学者のもとに国か何かの担当者が予算を決めるための話し合いに来た。そして

「先生の研究が完成するには、あとどれくらいの資金が必要ですか?」

と問われたその学者は「君ねぇ、研究というのはお金を投じたら、はい出来ました、というものではないのだよ」と苦言をていするつもりでいた。
しかし、その時、一緒にいた人が

「二千万ほどいりますね」

と返事をしてしまい、すると担当者も

「はい、分かりました」

と承諾し、話はめでたくまとまってしまったそうである。

お金の集まらない分野は衰退するというのは本当のことである。
だから振興したい分野に資金を注ぐのは間違いではない。しかし、問題はその注ぎ方である。

お金の使い方は2通りある。
細く長く使うか、太く短く使うかである。

理論研究はお金があまりいらない。紙と鉛筆と生活費だけあれば何とでもなる。
研究の成功に必要なのは地道で長い模索の期間と、一瞬の閃きを理論に導く情熱である。その過程でお金が果たす役割は、あまり大きくはない。
だから必要なのは、より多くの人間をより長い期間、養うための生活費の支給である。
つまり理論分野は「細く長く」お金を使う必要のある分野なのである。

今の投資計画は「太く短く」が方針であり、工学やバイオなどの産業関係はいざ知らず、理論分野との相性は決して良くはないのである。

それに太く短くでは、投資が消えた後に研究者があぶれる恐れもある。
私の先輩は、ある新設のナノテクノロジー研究所に5年契約で雇われた。5年後。それは偶然にも丁度、今の研究投資が打ち切られる時期と重なっていた。

しかし先輩にとってそこは専門外の分野であり、専門の人ではなく何故に先輩がそこに雇われたのかが私には不思議だった。

すると某先生はこう語るのであった。

「だって任期5年だよ。5年後にクビになるのがわかってて、優秀な研究者がすすんで入りたがるわけないだろう。もっと長期的に生活が保証されている企業とかに行くよ。だからそこには職にあぶれた専門外の人間ばかりが集まるんだよ」

幸いなのは、その専門外の人たちは無能ゆえに職にあぶれたのではなく、需要が少ない分野の研究者であっただけということである。
ちなみに、その後、先輩がどうしているのかを私は知らない。

そして研究予算の増額も終わろうとしている現在、人々が期待したような神風は吹く気配がない。
これから吹くのかも知れないし、吹いているのに私には見えていないだけの可能性も十分にある。

しかしいずれにせよ、科学は都合のいい奇跡を期待されているだけの存在なのだと思うと、残念な気持ちになってしまうのである。

(参考文献;フォーサイト11/2003、「産学連携バブル」の研究)

無用の要

2005-03-23 00:31:51 | バカな話
呉智英氏の「サルの正義」に明治時代、浄土宗の高僧、福田行誡氏の発言が紹介されていた。

ちかごろ仏法を世のために説くべしという者がいる。
私は言いたい。
釈尊が地位も財産も棄てて山に入り修行されたのは、はたして世のためだったのか。
本来、世を厭(いと)うて修行するのが仏法ではないか。
どうしてこの法をもって世のために説くことができようか。

ただし、その余徳で自然に民を利し世を益することまで妨げるものではないが。



科学者が同じ意味のことを言うのを私は何度も聞いたことがある。

「私の研究がなんの役に立つかだって?
なんで私の研究が役に立たなくてはいけないのだね」

人はこれをごうまんな発言だと思うかもしれない。
象牙の塔にこもり世間の常識や良識から逸脱した愚かな専門バカの寝言にしか聞こえないかもしれない。

しかし私も「役に立たない科学の何が悪い」と思う人間の一人である。

今の日本は官民が一体になって産業に役立つ科学を求めている。
しかし、それは彼らが科学を好きなのではなく、単にこの不況を解消してくれる神風を期待しているだけにしか思えないのである。
今の困難をなくしてくれるのならば、科学でも魔法でも占い師でも何でもいいと思っているのではないだろうか。

それは戦前の日本がしきりに「科学する心」を唱え、科学に戦局を打開する奇跡のみを期待し、その実、科学的な思考態度は一切身につけず不合理を重ねて惨敗したのと似ている。



学者だって、自分たちが研究できるのは税金のおかげだということは知っている。
お金をもらっているからには、何らかの形でそれを還元する義務のあることも理解しているはずだ。

ならば、なおのこと目先の利益ばかり追求する態度には異議を唱えなくてはいけないのである。

彼らが作るのは文化である。
人類が食べて、増やして、死ねだけの存在ならば、それは獣と何ら変わるところがない。
人間を人間たらしめているのは文化であり、昔よりも今がいい時代であるのは文化が発展しているからであり、その文化を作っているのが「無駄なこと」「役に立たないこと」をしている彼らなのである。

私は思う。
100年後、そして1000年後。この地球から日本という国が消滅した未来。
歴史の教科書に日本はどのように紹介されるのだろうか?

「旧世紀大戦(第2次世界大戦)に敗戦後、経済的に大いに発展し、その後ゆるやかに衰退し、なんの文化も芸術も残さずに消えていった国」

そんな紹介のされ方だけはごめんである。
ギリシャは今はパッとしない国だが、過去の「ギリシャ文明」を尊敬しない人はいない。
モンゴルはかつてアジア大陸のほとんどを支配する大国だったが、今はどこにも「モンゴル文明」なるものは残っていない。ただの目立たない小国が残っただけである。
(国破れて山河あり。上の発言は国の衰退を論じたものであり、かの国の風土およびギリシャ人、モンゴル人の人格を否定し、さげすむものではない。)

文化を残さないで衰退した国は惨めだ。
そして、この世に衰退の運命から逃れられる国など存在しないのである。
だから惨めになりたくないのならば文化を残すべきである。

素粒子論の湯川、朝永。分子生物学の木村資生。多くの優秀な科学者を日本は輩出した。
日本企業は多くの新製品、技術で世界を沸かせた。
マンガとかアニメは後世にも残るだろう。

それだけ?

これではまだ「日本文明」と呼ばれ、尊敬されるには不十分である。
何よりもこれでは私たちの世代の人間が全く貢献していない。私たちは既に過去の人々の作った文化にすがるだけの存在になりさがったのだろうか?


無駄を嫌い、役に立つことだけを求めれば文化は止まってしまうのである。
「世のため」などという器の小さいことにこだわるべきではない。
今こそ私たちは全身全霊で無駄なことに打ち込む人々を賛美するべきである。

もっとも彼らは別に人類や日本民族の名誉のために文化を作っているわけではない。
それこそ

「世を厭(いと)うて研究するのが学問ではないか。

ただし、その余徳で自然に民を利し世を益することまで妨げるものではないが」


なのである。
つまり、個人の欲望の追求が公共の利益になることもある、ということである。