玄文講

日記

自然は不道徳であり、道徳は不自然であることについて

2005-04-15 18:43:15 | 人の話
昨日私は「両性具有者は繁殖に不利だから自然淘汰される」と書いた。
こう書くと少なくない数の人が、

それは優生学思想なのではないか?

と思うことだろう。
「両性具有が自然淘汰されるという考え方は、肉体的ハンディを持つ人や異なる人種を劣等種として排除する行為を望んでいる。もしくは正当化させてしまう」、という反論が予想される。

今日はそんな当然のように予想される反論について答えたいと思う。

まず昨日の「人類が両性具有にならない理由」の部分だけは私の愚考に過ぎず、他の説と異なり検証にさらされたものではないこと、つまり仮説、ヨタ話に過ぎないことをはっきりと申し上げておきたい。
しかし自然が「両性具有の人類」を選択しなかったことだけは明白な事実である。人類は両性具有者には進化しなかったのである。


ここで、まず進化と進歩は違うことを強調しなくてはいけない。
より劣った存在がより優れた存在へと変わるのが「進歩」
環境に適応して自らの存在を作り替えるのが「進化」である。
例えば、砂漠に適応して「進化」したサボテンは別に他の植物より「進歩」した優秀な存在というわけではない。水の無い地域に適応したか、水のある地域に適応したかという差があるだけである。

進化とはしょせん今の環境に適応したというだけのことである。
それは進歩ではないし、特に優れているとか劣っているかを考えたりはしない。

人類が両性具有ではないのは、単に現在の環境が「男女が別れている」方が繁殖に都合がいいというだけの話だ。

そうなったのは優秀な者が生き残るという必然ではなく、環境がたまたま彼らにとって都合がよかったという偶然である。

もし環境が変化すれば、両性具有の方が繁殖に都合がよくなり、人類はそのように進化するかもしれない。

そして私は「男女が別れている人類」と「両性具有の人類」のどちらに対しても特に思い入れはなく、また嫌悪感もない。


また自然淘汰を決めるのは「優秀か劣等か」ではなく「繁殖に有利か否か」であり、
人間の持つ優劣の価値観とは(繁殖に不利にならない限り)関係がない。

たとえば人間は個体としての能力の追求をやめて、社会性を獲得したからこそ ここまで繁殖したのだという考え方もある。

自然淘汰されるというのはたかがその程度の意味しか持たず、その言葉の中身を勝手に拡大解釈して一喜一憂するのは誤解でしかない。

優生学はその仮説を検証させることなく発展し、その後の検証に耐えることもできなかった間違った仮説でしかない。
そしてひどく政治的で、暴力的であった。
自然のきまぐれの産物である進化を進歩と勘違いしたマヌケであり、自分をエリートだと思い込んでいたバカである。私の主張はそんなものとはまるで違うのである。



肉体的ハンディを持つ人や異なる人種を劣等種として排除する行為を正当化させてしまう、という反論についてはどうだろうか。

確かにそういうことはありえるし、過去にも進化学はそういう目的のために悪用されたことがある。

しかしそれは単に科学の成果を誤解し、曲解して自分の政治的目的に利用しているだけであり、事実に罪はない。

もし、

「悪用される恐れがあるから真実を隠せ」

「その真実は不愉快だから、見たくないし、他人にも見せないようにしよう」

と言うのであれば、それこそナチス的な考え方である。
事実が感情や特定の目的のために抹殺される社会を許すべきではない。
正しい対策は、正しい原因を知ってこそ、立てることができるのだ。
私たちはナチス、旧日本帝国、そしてソビエト連邦の失敗からその教訓を学んだはずである。


事実は語る。
自然は両性具有者を自然淘汰する、と。
この事実を認めたら、私たちは彼らを排除しなくてはいけないのだろうか?
自然の法則が道徳的な思考と一致していない場合、私たちは自然を採用し、道徳を捨てるべきなのだろうか?

答えは否だ。そんなわけはない。
昨日も言ったように自然は道徳ではなく、道徳は自然ではないのだ。
自然淘汰は人間を無視して行われるプロセスなのだから、「人間のために作られた道徳」に反する結果などいくらでも作ることができる。

自然は障害者を抹殺し、強姦で繁殖し、暴力で他者を排除することを私たちに推奨する。
しかし自然がそうできているからといって、私たちの道徳がそれに従う必要はない。

私たちには母なる自然を裏切る理性がある。
それさえも自然から与えらたものだが、子が親に反抗するのはよくあることだ。


まず生物学的、遺伝的な運命は絶対ではない。
人間は自力で環境を変化させることができる。

たとえばフェニルケトン尿症を起こす先天的な遺伝子異常を持つ人は、脳細胞の発達が正常に行われず知能障害を起こす。
しかし新生児のうちにこれを発見し、食事療法を行うのならば、脳細胞は正常に発達して知能も正常になる。
原因を正しく知ることで運命への対策はいくらでも立てられるのだ。



そして医学的にだけではなく、社会的に環境を改善することも可能だ。
私たちはそのために人権という虚構を作り出し、法によってそれを定義したのである。

(ここでの虚構は、生物に生来備わっていないもの。定義があいまいでいかようにも拡大解釈されるものという意味である。「全ての人間は生まれながらに人としての権利を持つ」なんてことは、人が、そして人の道徳が作り出したフィクション以外のなにものでもない。)

弱者を滅ぼし、女を犯し、邪魔者を皆殺しにするのならば、道徳を捨て、人権を捨て、社会からはぐれ自然のままに生きる獣になるしかない。

しかし民主主義国家において、私たちに人権を捨てる権利は認められていないし、少なくとも私はそれを捨てるつもりもない。
私たちがいくら犯して、殺そうが、私たちは人間として裁かれ、処罰され、更生を強いられる。
自然がどうなっているのかとは関係なく、私たちは道徳的な社会で生きているのだ。
そういう社会を、法による秩序のある世界を人間は苦労して作り上げ、自然を克服しているのである。

そんな現代において、今更「自然の法則が道徳的な思考と一致しなくては、私たちの世界は秩序を失う」なんて考えるのはバカバカしい。

自然の法則が道徳的な思考と一致していないからこそ、私たちはわざわざ法を作って秩序を確保しているのだから。
人と人が慈しみあい、相互に助け合う世界は不自然である。そして私はそんな世界の方を好ましく思う。

(参考文献)
社会生物学の勝利
ジョン・オルコック