「ランド・オブ・ザ・デッド」はゾンビ映画だ。
これが、まさしく、私が学生時代にほれ込んだ、あのゾンビ映画である。
通常のホラー映画はヒーローーやヒロインが強大な力を持った未知の敵を人知れず滅ぼすというパターンが多い。
しかし、「ランド・オブ・ザ・デッド」にはヒーローもヒロインもいない。そんなものは必要ないからだ。
この世界においてゾンビは特別に恐ろしい存在でもなければ、驚異的な能力の持ち主でもなく、また特に珍しい現象でもない。
ゾンビは世界中にいて、誰もが知っている日常的な存在である。
そんなゾンビたちは、動きはのろく、知恵はなく、人間にいたずら半分で狩り殺される程度の存在でしかない。
事実、街中にはゾンビを逆さ釣りにして並べている射撃練習所、ゾンビ同士を戦わせて金を賭ける闘犬ならぬ闘ゾンビ、鎖でつながれたゾンビと写真をとる商売などがあり、ゾンビは娯楽の一部とさえなっている。
そういう設定が「ゾンビ」にホラー映画なのに牧歌的な雰囲気を持たせている。
ただゾンビは数が多く、感染力が強く、個々の能力は弱くても集団で襲われると厄介なのである。
そして1日24時間、暖かい血肉を求めてさまよっているので、襲われる方の人間は気の休まる暇がない。
だから人間は安心して暮らすために、ゾンビと隔離された基地で暮らすことを望む。
ただし食料や旧文明の高級品はゾンビであふれる廃墟へ取りに行かないといけない。
だからゾンビへの対策は公共事業的な性格を持ってさえいる。それがこの作品に社会風刺を含ませ、かつ笑える映画にしているのである。
そしてゾンビ映画はこちらの想像力を刺激する。この映画に触発されて生まれた映画、小説、ゲームの数は多い。
有名作品だけではなく、無名の人物が考えた個人的なゾンビ物語だって無数に存在するはずだ。
たとえば私は、この作品の舞台はアメリカだが、もしこれが日本で自分の住む場所で起きたらどうなるだろうか?と考えたりする。
まず人口密度の高い東京などの都市は壊滅するだろう。各種インフラも止まるかもしれない。
銃火器の普及していない日本では組織だった自警団の設立も困難だ。
その点、私は武器だけは何とかなる。まずは手持ちの武器を頼りに生き延びないといけない。
窓から外を見ると既に何体かのゾンビがうろついていたりするのだ。
それを部屋から狙撃しつつ、街へ物資を略奪しに行こう。
それからどこかの自警団に入るか、生き残っている仲間を集めて、ゾンビを殺し、他のグループから略奪したりして勢力を拡大していく。
やがてそういうグループが集まって都市を作ることだろう。
もしくは私が既にゾンビになっているという可能性もある。生前の習慣で行動する私は研究室に出かけ、生き残った同僚を食ったり、意味もなくキーボードを叩き続けるのだ。
想像はふくらむばかりである。
このように、ゾンビ映画ファン皆の中にMy ZOMBIE SAGAは存在するのである。
************************
前作の「ゾンビ、DAWN OF THE DEAD」は4人の主人公がショッピングセンターをバリケードで封鎖して基地を作っていた。
これは先の想像での「自警団」の時期に相当する。
そして今回の基地は、川と高圧電流の流れるフェンスに守られた都市である。
そこに住む人々も千人単位と数が多く、街を支配する権力者もいる。
まるで中世の都市国家のような状態になっている。
これは先に想像した「都市時代」であり、私が見てみたかったゾンビサーガの歴史の一幕でもある。
その街では金持ちは町の中央にそびえる高層ビルに閉じこもって、優雅な生活を楽しんでいる。
その周囲にはスラム街が広がり、彼らは反発と憧れを持って彼らをながめる。
資本家は金を出してインフラを整備し、武器と壁におおわれた街を提供し、労働者は装甲車「デッド・リコニング(死の報い)号」に乗ってゾンビであふれる街へ略奪に出かける。
ただし、その街の支配者カウフマンは統治能力に欠けており、私財を蓄えこむだけで、十分なインフラ整備も社会保障も公共事業も行わない人物だ。
それが原因で貧民層の反乱、部下の裏切り、ゾンビの都市への侵入を許してしまう。
ロメロ監督が言うには、これは現代アメリカの病理を風刺しているそうだ。
パンフレットには「貧富の差が広がり、第三世界から武力を使って搾取しているアメリカ」を批判していると書かれていた。
しかし私は芸術家の社会批評なんてものは信用していない。
世界において、生活レベルが向上し、教育、医療が充実できている地域は、彼らの言うところの「搾取」が進んでいる地域である。
資本が投入されなければ地域は発展しない。
資本家は自分の利益にならないところに資本を投じる意味がない。
資本家が金を儲けているのは悪いことをしているからではない。
リスクが高く手間もかかる地域に投資しているのだから、少しばかり大きめの利益率を設定するのは当然のことである。
それで飢餓、市場の崩壊、インフラの不足が防げるのだから、少しの「搾取」は安いものだ。
しかし社会風刺は信用できなくても、それが社会の縮図になっていることは確かだ。
ロメロ監督は、社会の縮図を提示することで、批判を共有してもらいたかったのかもしれない。
しかし私は逆に、その社会の縮図を見て「今の世界は大丈夫だ。このやり方でいいのだ」と確信を持ってしまうのである。
もしも私がこの世界にいれば、カウフマンと同じことをするだろう。
金持ちに快適で安全な住処を提供し、彼らから集めた資本で自警団を作り、都市を防衛する。
防衛や都市の建築は貧しい人々に職業を与え、彼らも豊かにする。
そして社会保障や教育を充実させて、徐々に貧困層を減少させ、ゾンビ対策を科学的に研究する機関を設けて、増えた人口を養うために都市を更に拡大させる。
カウフマンは少し足りなかっただけで、基本路線は正しかったはずだ。
その世界の腐敗や享楽を非難したい人もいるかもしれないが、人々が堕落できる社会は都市が正しく機能している証拠でもある。
どうやら私はロメロ監督が批判する世界、アメリカを信用しているようである。
************************
最後に都市は知恵を持った一匹の黒人ゾンビに率いられた無数のゾンビによって襲われる。
スラム街から高層ビルまでいたるところにゾンビがあふれ、街の横暴な長は殺される。
敵の侵入を許した都市で起きることと言えば、ただ一つと決まっている。それは一方的な殺戮だ。
過去の戦争においても、都市が陥落したときには、これと同じような光景が繰り広げられていたのであろう。
今回の「ランド・オブ・ザ・デッド」ではゾンビが進化して、少しの知性を持ち、道具を使うようになっている。
個人的には少し不満な設定だが(理知的にガソリンと火を使って人を殺すゾンビなんてガッカリである)、ロメロ監督以降に出てきた様々な映画の亜流ゾンビ、走るゾンビ、話すゾンビなどが本流に再度取り込まれたのだと見るべきかもしれない。
おかげで前作では自然災害のごときであったゾンビが、本作では私たちとは別の論理と正義をもって都市を襲う蛮族のようなイメージに変化している。
これは「9.11テロ」後のアメリカ世相が映画に反映されているのかもしれない。
そうして都市は壊滅し、金持ちもスラムの住人の多くも死に絶え、一つの秩序は失われるのだが、生き残った人々は、それぞれが新しい秩序を求めて再び動き出す。
遠くへ去るゾンビという蛮族。
故郷を再建しようとする生存者。
遠く新天地を求めて旅たつ武装した一団。
あてもなく別の基地へと向かう者。
ゾンビという大自然災害や蛮族により秩序の失われた世界で、人々は新しい秩序と生きる場所を求めて、社会を構築していく。
その過程には、暴力や略奪もあれば、信頼や希望もある。経済の原理もあれば、力の論理も存在する。仲間もいれば敵もいる。前向きに生きる者もいれば、怠惰に生きる者やニヒリズムにとり付かれた者もいるし、難しいことを考えないで生きている者もいる。
あらゆることが無意味に思える絶望的な世界でも、彼らは冗談を交わすし、愛をささやくし、娯楽にも興じるし、姑息な悪巧みだってする。人間にはどんな過酷な環境でも日常を維持しようとする健全さがある。
その姿に私は感動を覚える。
人類の営みそのものがロメロ監督のゾンビ映画には存在している。
「ランド・オブ・ザ・デッド」は現代社会の縮図でもあると同時に、人類の歴史の縮図でもあるのだ。
************************
最後に、ゾンビ映画といえば、大量のゾンビによる大襲撃シーンである。
内臓をぶちまけて、人もゾンビも切り刻み、潰し、蜂の巣にした血の池地獄がゾンビ映画の醍醐味である。
社会批評なんてこれをやるためのいいわけですよね?
えっ?違う?
ゾンビたちは後ろから抱き付いて首や腕を噛み千切る。地面に落ちた指も残さず食べる。ヘソピアスをヘソごと食いちぎる。
アハハハッハハハ
首を引っ張り、延髄、背骨ごと引き抜く。身を食べる前に骨は頭ごとキレイに抜きましょうってか?
ゲヒャヒャヒャヒャーヒャッヒャッヒャッ
生きたまま内臓をむさぼり食われる兵士が悲鳴をあげれば、別の兵士は手榴弾で自爆してしまう。
ウヒヘヘヘヘヘ
安全なはずの高層ビル内に進入されて、抱きつかれて食い散らかされる人々。いたるところで飛び散る血しぶき。
ギッャヒゲゲゲゲゲゲゲゲ
上映中、私は心の中で大爆笑。
少しおとなしめだったのが不満だが、ひさしぶりにいいものを見れて大変愉快であった。
これが、まさしく、私が学生時代にほれ込んだ、あのゾンビ映画である。
通常のホラー映画はヒーローーやヒロインが強大な力を持った未知の敵を人知れず滅ぼすというパターンが多い。
しかし、「ランド・オブ・ザ・デッド」にはヒーローもヒロインもいない。そんなものは必要ないからだ。
この世界においてゾンビは特別に恐ろしい存在でもなければ、驚異的な能力の持ち主でもなく、また特に珍しい現象でもない。
ゾンビは世界中にいて、誰もが知っている日常的な存在である。
そんなゾンビたちは、動きはのろく、知恵はなく、人間にいたずら半分で狩り殺される程度の存在でしかない。
事実、街中にはゾンビを逆さ釣りにして並べている射撃練習所、ゾンビ同士を戦わせて金を賭ける闘犬ならぬ闘ゾンビ、鎖でつながれたゾンビと写真をとる商売などがあり、ゾンビは娯楽の一部とさえなっている。
そういう設定が「ゾンビ」にホラー映画なのに牧歌的な雰囲気を持たせている。
ただゾンビは数が多く、感染力が強く、個々の能力は弱くても集団で襲われると厄介なのである。
そして1日24時間、暖かい血肉を求めてさまよっているので、襲われる方の人間は気の休まる暇がない。
だから人間は安心して暮らすために、ゾンビと隔離された基地で暮らすことを望む。
ただし食料や旧文明の高級品はゾンビであふれる廃墟へ取りに行かないといけない。
だからゾンビへの対策は公共事業的な性格を持ってさえいる。それがこの作品に社会風刺を含ませ、かつ笑える映画にしているのである。
そしてゾンビ映画はこちらの想像力を刺激する。この映画に触発されて生まれた映画、小説、ゲームの数は多い。
有名作品だけではなく、無名の人物が考えた個人的なゾンビ物語だって無数に存在するはずだ。
たとえば私は、この作品の舞台はアメリカだが、もしこれが日本で自分の住む場所で起きたらどうなるだろうか?と考えたりする。
まず人口密度の高い東京などの都市は壊滅するだろう。各種インフラも止まるかもしれない。
銃火器の普及していない日本では組織だった自警団の設立も困難だ。
その点、私は武器だけは何とかなる。まずは手持ちの武器を頼りに生き延びないといけない。
窓から外を見ると既に何体かのゾンビがうろついていたりするのだ。
それを部屋から狙撃しつつ、街へ物資を略奪しに行こう。
それからどこかの自警団に入るか、生き残っている仲間を集めて、ゾンビを殺し、他のグループから略奪したりして勢力を拡大していく。
やがてそういうグループが集まって都市を作ることだろう。
もしくは私が既にゾンビになっているという可能性もある。生前の習慣で行動する私は研究室に出かけ、生き残った同僚を食ったり、意味もなくキーボードを叩き続けるのだ。
想像はふくらむばかりである。
このように、ゾンビ映画ファン皆の中にMy ZOMBIE SAGAは存在するのである。
************************
前作の「ゾンビ、DAWN OF THE DEAD」は4人の主人公がショッピングセンターをバリケードで封鎖して基地を作っていた。
これは先の想像での「自警団」の時期に相当する。
そして今回の基地は、川と高圧電流の流れるフェンスに守られた都市である。
そこに住む人々も千人単位と数が多く、街を支配する権力者もいる。
まるで中世の都市国家のような状態になっている。
これは先に想像した「都市時代」であり、私が見てみたかったゾンビサーガの歴史の一幕でもある。
その街では金持ちは町の中央にそびえる高層ビルに閉じこもって、優雅な生活を楽しんでいる。
その周囲にはスラム街が広がり、彼らは反発と憧れを持って彼らをながめる。
資本家は金を出してインフラを整備し、武器と壁におおわれた街を提供し、労働者は装甲車「デッド・リコニング(死の報い)号」に乗ってゾンビであふれる街へ略奪に出かける。
ただし、その街の支配者カウフマンは統治能力に欠けており、私財を蓄えこむだけで、十分なインフラ整備も社会保障も公共事業も行わない人物だ。
それが原因で貧民層の反乱、部下の裏切り、ゾンビの都市への侵入を許してしまう。
ロメロ監督が言うには、これは現代アメリカの病理を風刺しているそうだ。
パンフレットには「貧富の差が広がり、第三世界から武力を使って搾取しているアメリカ」を批判していると書かれていた。
しかし私は芸術家の社会批評なんてものは信用していない。
世界において、生活レベルが向上し、教育、医療が充実できている地域は、彼らの言うところの「搾取」が進んでいる地域である。
資本が投入されなければ地域は発展しない。
資本家は自分の利益にならないところに資本を投じる意味がない。
資本家が金を儲けているのは悪いことをしているからではない。
リスクが高く手間もかかる地域に投資しているのだから、少しばかり大きめの利益率を設定するのは当然のことである。
それで飢餓、市場の崩壊、インフラの不足が防げるのだから、少しの「搾取」は安いものだ。
しかし社会風刺は信用できなくても、それが社会の縮図になっていることは確かだ。
ロメロ監督は、社会の縮図を提示することで、批判を共有してもらいたかったのかもしれない。
しかし私は逆に、その社会の縮図を見て「今の世界は大丈夫だ。このやり方でいいのだ」と確信を持ってしまうのである。
もしも私がこの世界にいれば、カウフマンと同じことをするだろう。
金持ちに快適で安全な住処を提供し、彼らから集めた資本で自警団を作り、都市を防衛する。
防衛や都市の建築は貧しい人々に職業を与え、彼らも豊かにする。
そして社会保障や教育を充実させて、徐々に貧困層を減少させ、ゾンビ対策を科学的に研究する機関を設けて、増えた人口を養うために都市を更に拡大させる。
カウフマンは少し足りなかっただけで、基本路線は正しかったはずだ。
その世界の腐敗や享楽を非難したい人もいるかもしれないが、人々が堕落できる社会は都市が正しく機能している証拠でもある。
どうやら私はロメロ監督が批判する世界、アメリカを信用しているようである。
************************
最後に都市は知恵を持った一匹の黒人ゾンビに率いられた無数のゾンビによって襲われる。
スラム街から高層ビルまでいたるところにゾンビがあふれ、街の横暴な長は殺される。
敵の侵入を許した都市で起きることと言えば、ただ一つと決まっている。それは一方的な殺戮だ。
過去の戦争においても、都市が陥落したときには、これと同じような光景が繰り広げられていたのであろう。
今回の「ランド・オブ・ザ・デッド」ではゾンビが進化して、少しの知性を持ち、道具を使うようになっている。
個人的には少し不満な設定だが(理知的にガソリンと火を使って人を殺すゾンビなんてガッカリである)、ロメロ監督以降に出てきた様々な映画の亜流ゾンビ、走るゾンビ、話すゾンビなどが本流に再度取り込まれたのだと見るべきかもしれない。
おかげで前作では自然災害のごときであったゾンビが、本作では私たちとは別の論理と正義をもって都市を襲う蛮族のようなイメージに変化している。
これは「9.11テロ」後のアメリカ世相が映画に反映されているのかもしれない。
そうして都市は壊滅し、金持ちもスラムの住人の多くも死に絶え、一つの秩序は失われるのだが、生き残った人々は、それぞれが新しい秩序を求めて再び動き出す。
遠くへ去るゾンビという蛮族。
故郷を再建しようとする生存者。
遠く新天地を求めて旅たつ武装した一団。
あてもなく別の基地へと向かう者。
ゾンビという大自然災害や蛮族により秩序の失われた世界で、人々は新しい秩序と生きる場所を求めて、社会を構築していく。
その過程には、暴力や略奪もあれば、信頼や希望もある。経済の原理もあれば、力の論理も存在する。仲間もいれば敵もいる。前向きに生きる者もいれば、怠惰に生きる者やニヒリズムにとり付かれた者もいるし、難しいことを考えないで生きている者もいる。
あらゆることが無意味に思える絶望的な世界でも、彼らは冗談を交わすし、愛をささやくし、娯楽にも興じるし、姑息な悪巧みだってする。人間にはどんな過酷な環境でも日常を維持しようとする健全さがある。
その姿に私は感動を覚える。
人類の営みそのものがロメロ監督のゾンビ映画には存在している。
「ランド・オブ・ザ・デッド」は現代社会の縮図でもあると同時に、人類の歴史の縮図でもあるのだ。
************************
最後に、ゾンビ映画といえば、大量のゾンビによる大襲撃シーンである。
内臓をぶちまけて、人もゾンビも切り刻み、潰し、蜂の巣にした血の池地獄がゾンビ映画の醍醐味である。
社会批評なんてこれをやるためのいいわけですよね?
えっ?違う?
ゾンビたちは後ろから抱き付いて首や腕を噛み千切る。地面に落ちた指も残さず食べる。ヘソピアスをヘソごと食いちぎる。
アハハハッハハハ
首を引っ張り、延髄、背骨ごと引き抜く。身を食べる前に骨は頭ごとキレイに抜きましょうってか?
ゲヒャヒャヒャヒャーヒャッヒャッヒャッ
生きたまま内臓をむさぼり食われる兵士が悲鳴をあげれば、別の兵士は手榴弾で自爆してしまう。
ウヒヘヘヘヘヘ
安全なはずの高層ビル内に進入されて、抱きつかれて食い散らかされる人々。いたるところで飛び散る血しぶき。
ギッャヒゲゲゲゲゲゲゲゲ
上映中、私は心の中で大爆笑。
少しおとなしめだったのが不満だが、ひさしぶりにいいものを見れて大変愉快であった。