玄文講

日記

ランド・オブ・ザ・デッド

2005-08-30 01:09:25 | バカな話
「ランド・オブ・ザ・デッド」はゾンビ映画だ。
これが、まさしく、私が学生時代にほれ込んだ、あのゾンビ映画である。



通常のホラー映画はヒーローーやヒロインが強大な力を持った未知の敵を人知れず滅ぼすというパターンが多い。

しかし、「ランド・オブ・ザ・デッド」にはヒーローもヒロインもいない。そんなものは必要ないからだ。

この世界においてゾンビは特別に恐ろしい存在でもなければ、驚異的な能力の持ち主でもなく、また特に珍しい現象でもない。
ゾンビは世界中にいて、誰もが知っている日常的な存在である。

そんなゾンビたちは、動きはのろく、知恵はなく、人間にいたずら半分で狩り殺される程度の存在でしかない。
事実、街中にはゾンビを逆さ釣りにして並べている射撃練習所、ゾンビ同士を戦わせて金を賭ける闘犬ならぬ闘ゾンビ、鎖でつながれたゾンビと写真をとる商売などがあり、ゾンビは娯楽の一部とさえなっている。
そういう設定が「ゾンビ」にホラー映画なのに牧歌的な雰囲気を持たせている。

ただゾンビは数が多く、感染力が強く、個々の能力は弱くても集団で襲われると厄介なのである。
そして1日24時間、暖かい血肉を求めてさまよっているので、襲われる方の人間は気の休まる暇がない。

だから人間は安心して暮らすために、ゾンビと隔離された基地で暮らすことを望む。
ただし食料や旧文明の高級品はゾンビであふれる廃墟へ取りに行かないといけない。

だからゾンビへの対策は公共事業的な性格を持ってさえいる。それがこの作品に社会風刺を含ませ、かつ笑える映画にしているのである。

そしてゾンビ映画はこちらの想像力を刺激する。この映画に触発されて生まれた映画、小説、ゲームの数は多い。

有名作品だけではなく、無名の人物が考えた個人的なゾンビ物語だって無数に存在するはずだ。
たとえば私は、この作品の舞台はアメリカだが、もしこれが日本で自分の住む場所で起きたらどうなるだろうか?と考えたりする。

まず人口密度の高い東京などの都市は壊滅するだろう。各種インフラも止まるかもしれない。
銃火器の普及していない日本では組織だった自警団の設立も困難だ。

その点、私は武器だけは何とかなる。まずは手持ちの武器を頼りに生き延びないといけない。
窓から外を見ると既に何体かのゾンビがうろついていたりするのだ。
それを部屋から狙撃しつつ、街へ物資を略奪しに行こう。

それからどこかの自警団に入るか、生き残っている仲間を集めて、ゾンビを殺し、他のグループから略奪したりして勢力を拡大していく。
やがてそういうグループが集まって都市を作ることだろう。

もしくは私が既にゾンビになっているという可能性もある。生前の習慣で行動する私は研究室に出かけ、生き残った同僚を食ったり、意味もなくキーボードを叩き続けるのだ。

想像はふくらむばかりである。
このように、ゾンビ映画ファン皆の中にMy ZOMBIE SAGAは存在するのである。

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前作の「ゾンビ、DAWN OF THE DEAD」は4人の主人公がショッピングセンターをバリケードで封鎖して基地を作っていた。
これは先の想像での「自警団」の時期に相当する。

そして今回の基地は、川と高圧電流の流れるフェンスに守られた都市である。
そこに住む人々も千人単位と数が多く、街を支配する権力者もいる。
まるで中世の都市国家のような状態になっている。
これは先に想像した「都市時代」であり、私が見てみたかったゾンビサーガの歴史の一幕でもある。

その街では金持ちは町の中央にそびえる高層ビルに閉じこもって、優雅な生活を楽しんでいる。
その周囲にはスラム街が広がり、彼らは反発と憧れを持って彼らをながめる。

資本家は金を出してインフラを整備し、武器と壁におおわれた街を提供し、労働者は装甲車「デッド・リコニング(死の報い)号」に乗ってゾンビであふれる街へ略奪に出かける。

ただし、その街の支配者カウフマンは統治能力に欠けており、私財を蓄えこむだけで、十分なインフラ整備も社会保障も公共事業も行わない人物だ。
それが原因で貧民層の反乱、部下の裏切り、ゾンビの都市への侵入を許してしまう。

ロメロ監督が言うには、これは現代アメリカの病理を風刺しているそうだ。
パンフレットには「貧富の差が広がり、第三世界から武力を使って搾取しているアメリカ」を批判していると書かれていた。
しかし私は芸術家の社会批評なんてものは信用していない。

世界において、生活レベルが向上し、教育、医療が充実できている地域は、彼らの言うところの「搾取」が進んでいる地域である。

資本が投入されなければ地域は発展しない。

資本家は自分の利益にならないところに資本を投じる意味がない。

資本家が金を儲けているのは悪いことをしているからではない。
リスクが高く手間もかかる地域に投資しているのだから、少しばかり大きめの利益率を設定するのは当然のことである。
それで飢餓、市場の崩壊、インフラの不足が防げるのだから、少しの「搾取」は安いものだ。

しかし社会風刺は信用できなくても、それが社会の縮図になっていることは確かだ。
ロメロ監督は、社会の縮図を提示することで、批判を共有してもらいたかったのかもしれない。

しかし私は逆に、その社会の縮図を見て「今の世界は大丈夫だ。このやり方でいいのだ」と確信を持ってしまうのである。

もしも私がこの世界にいれば、カウフマンと同じことをするだろう。
金持ちに快適で安全な住処を提供し、彼らから集めた資本で自警団を作り、都市を防衛する。
防衛や都市の建築は貧しい人々に職業を与え、彼らも豊かにする。
そして社会保障や教育を充実させて、徐々に貧困層を減少させ、ゾンビ対策を科学的に研究する機関を設けて、増えた人口を養うために都市を更に拡大させる。

カウフマンは少し足りなかっただけで、基本路線は正しかったはずだ。
その世界の腐敗や享楽を非難したい人もいるかもしれないが、人々が堕落できる社会は都市が正しく機能している証拠でもある。
どうやら私はロメロ監督が批判する世界、アメリカを信用しているようである。

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最後に都市は知恵を持った一匹の黒人ゾンビに率いられた無数のゾンビによって襲われる。
スラム街から高層ビルまでいたるところにゾンビがあふれ、街の横暴な長は殺される。

敵の侵入を許した都市で起きることと言えば、ただ一つと決まっている。それは一方的な殺戮だ。
過去の戦争においても、都市が陥落したときには、これと同じような光景が繰り広げられていたのであろう。

今回の「ランド・オブ・ザ・デッド」ではゾンビが進化して、少しの知性を持ち、道具を使うようになっている。
個人的には少し不満な設定だが(理知的にガソリンと火を使って人を殺すゾンビなんてガッカリである)、ロメロ監督以降に出てきた様々な映画の亜流ゾンビ、走るゾンビ、話すゾンビなどが本流に再度取り込まれたのだと見るべきかもしれない。

おかげで前作では自然災害のごときであったゾンビが、本作では私たちとは別の論理と正義をもって都市を襲う蛮族のようなイメージに変化している。
これは「9.11テロ」後のアメリカ世相が映画に反映されているのかもしれない。

そうして都市は壊滅し、金持ちもスラムの住人の多くも死に絶え、一つの秩序は失われるのだが、生き残った人々は、それぞれが新しい秩序を求めて再び動き出す。
遠くへ去るゾンビという蛮族。
故郷を再建しようとする生存者。
遠く新天地を求めて旅たつ武装した一団。
あてもなく別の基地へと向かう者。

ゾンビという大自然災害や蛮族により秩序の失われた世界で、人々は新しい秩序と生きる場所を求めて、社会を構築していく。
その過程には、暴力や略奪もあれば、信頼や希望もある。経済の原理もあれば、力の論理も存在する。仲間もいれば敵もいる。前向きに生きる者もいれば、怠惰に生きる者やニヒリズムにとり付かれた者もいるし、難しいことを考えないで生きている者もいる。

あらゆることが無意味に思える絶望的な世界でも、彼らは冗談を交わすし、愛をささやくし、娯楽にも興じるし、姑息な悪巧みだってする。人間にはどんな過酷な環境でも日常を維持しようとする健全さがある。
その姿に私は感動を覚える。

人類の営みそのものがロメロ監督のゾンビ映画には存在している。
「ランド・オブ・ザ・デッド」は現代社会の縮図でもあると同時に、人類の歴史の縮図でもあるのだ。

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最後に、ゾンビ映画といえば、大量のゾンビによる大襲撃シーンである。
内臓をぶちまけて、人もゾンビも切り刻み、潰し、蜂の巣にした血の池地獄がゾンビ映画の醍醐味である。

社会批評なんてこれをやるためのいいわけですよね?
えっ?違う?


ゾンビたちは後ろから抱き付いて首や腕を噛み千切る。地面に落ちた指も残さず食べる。ヘソピアスをヘソごと食いちぎる。

アハハハッハハハ

首を引っ張り、延髄、背骨ごと引き抜く。身を食べる前に骨は頭ごとキレイに抜きましょうってか?

ゲヒャヒャヒャヒャーヒャッヒャッヒャッ

生きたまま内臓をむさぼり食われる兵士が悲鳴をあげれば、別の兵士は手榴弾で自爆してしまう。

ウヒヘヘヘヘヘ

安全なはずの高層ビル内に進入されて、抱きつかれて食い散らかされる人々。いたるところで飛び散る血しぶき。

ギッャヒゲゲゲゲゲゲゲゲ


上映中、私は心の中で大爆笑。
少しおとなしめだったのが不満だが、ひさしぶりにいいものを見れて大変愉快であった。

映画館へ行く

2005-08-29 00:43:23 | 個人的記録
今は博士論文を書いていて、なかなか更新する機会がなく、無駄足を運ばれた方には申し訳なく思っております。。

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今日の午後3時頃、ネットでメールを確認していたところ、偶然ロメロ監督の最新作「ランド・オブ・ザ・デッド」が公開されていることを知った。


ゾンビ・サーガの最新作!

私が最も好きな映画「ゾンビ、DAWN OF THE DEAD」と同じ監督、ジョージ・A・ロメロ!

あの偉大なる監督の作品なのだから、全国主要都市の映画館で連日連夜上映されるだろうと思って調べたところ、なんと近隣の映画館では上映予定なし、公開は9月2日まで。


あああああ。

博士論文の提出締め切りなんて、もはや気にしてはいられない。
しかしさすがに平日には行けない。

そういうわけで、今日ひたちなか市の映画館まで行ってきたのである。






映画は最高であった。
今日はゾンビに襲われるステキな夢が見れそうである。




それで当然、帰りはバスがない。
そもそもバスで来ている人間なんて私だけであった。
行きにバス停で降りたのは私一人だけだった。


そして21時に映画が終わって、家に着いたのが24時過ぎであった。3時間近く15キロばかり歩いた。

今日はもう疲れたので、感想は明日に。

ベンチャー起業者の傾向(2)

2005-08-23 17:18:21 | 個人的記録
中崎タツヤ「じみへん」にこんなエピソードがある。

(女のヒモをやって暮らしている自堕落な男が新聞の求人欄をながめている)

男「おっ、これいいな」

女「どれ?」

(男が示した求人広告には「やる気のない社員求む」と書かれている。)

女「こんなの間違いに決まってるじゃない」

男「でも、本当だったらくやしいだろ」

(翌日、その会社へ面接に向かう男。するとそこには既に黒山の人だかりができている。)

社長「だからぁ、あれは誤植なんですってば」

(困惑顔の社長の言葉を無視して、集まった人々は口々に言いたてる。)

「この会社は私の理想なんです!」

「やる気のなさでは誰にも負けません!」

「私もです。是非、私を御社に採用してください」

社長「まいったな、こりゃ」



私はこのエピソードに出てくる「やる気のなさでは誰にも負けない社員」に共感を覚えてしまうのである。

それで、ベンチャー関係の本を読むと、経営者も社員も「やる気まみれ」である。

「最近の社員には積極性や向上意欲が欠けている」

「夢を持つ社員を応援します」

「志を高く持て!」

こういうセリフを聞くと、ついつい私は「暑苦しくて、うるせぇよ。100円やるから、俺の視界から光速のスピードで消えてくれ」などと思ってしまうのである。
どうやら私には根本的に「べんちやあ・まいんど」なるものが欠落しているらしい。

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さて、今日の話は先回の続きであり、例の資料を参考にしてベンチャーの社長が考える「成功の条件」と彼らの資金繰りについて調べてみる。

アンケート調査で企業成功の理由を以下の7項目から選択させたところ、次のような結果が出たそうである。


適切な経営戦略     228社 23.8%

高い技術力     225社   23.5%

的確なマーケット選択   216社   22.5%

とにかく始めること 114社   11.9%

優秀な人材     113社   11.8%

厳格な損益管理  43社   4.4%

豊富な自己資金   18社   1.8%


上の3つは当然のことであり、またマネしようとしてマネできるものではない。
だから、あまり参考にならない。
ただ私には上の2つが完全に欠けていることだけは分かっている。マーケットについてだけは「いける」と期待している候補があるが、しょせんは素人の勘なので、私が私を信用していない。

4つ目の「とにかく始める」はベンチャーらしい回答である。
この言葉を聞いて、勇気を得て前向きになる人もいるであろう。
しかし、とにかく始めて成功した彼らの背後には、とにかく始めて失敗した人々が山のように存在しているのだと思うと、この言葉は決して私を勇気づけてはくれないのである。

5つ目の優秀な人材、、、。
やる気のない社員にシンパシーを感じる私は、人を集めると何故か「やる気のない」人間ばかり揃えてしまうのである。類は友を呼ぶ?

厳格な損益管理、豊富な自己資金なんて問題外。そんなものはない。

アハハハハ。私は成功要因0である。

また成功の外的要因については以下が挙げられている。

適切な公的支援を利用したから   124社   16.4%

ベンチャーキャピタルの支援   56社   7.4%

適切な銀行融資を利用したから   448社   59.3%

適切な経営コンサルを受けたから   128社   16.9%


要は外的要因とは資金をどのようにして調達したかという問題のようだ。
先ほどのアンケートでも自己資本が大事という回答があったが、彼らは融資してくれるところがなかったのであろう。

お金をどのように調達するかが大事なのは言われるまでもないことだ。
あとは「自己資本と借金のバランスシートについて、どのようなバランスが最適か?」という問題になるのだが、一番正しい答えは、おそらく「バランスなんてどうでもいい」である。

借金は返済できる程度に借りさえすればいい。資本なんて、どこでもいいから集められるところから必要なだけ集めればいいのである。

そして日本で大金を貸してくれるところといえば銀行しかないわけで、彼らが「適切な銀行融資」を重視することも、銀行の信用がない起業まもないベンチャーが公的支援やベンチャーキャピタルに頼るのも当然のことである。


ちなみに私の場合、既に実家は土地を担保に大金を借りているし、私が確実に用意できるのはたった1千万円だけであり、公的支援を受けるための条件も満たしていないので困ってしまう。

私は外的にも成功要因0である。

しかし状況が絶望的なほど嬉しくて楽しくなってしまう私は、どうしたものだろうか。
私はやる気のない人間なのに、絶望を思えば思うほど、どうやって商売を始めようかとワクワクしてしまうのである。

ベンチャー起業者の傾向(1)

2005-08-21 01:49:56 | 個人的記録
私には自分というものがない。欲しくもない。

自分で考えて、自らが動き、自己責任を負う、なんて面倒くさいことである。
他人任せで、長いものに巻かれて、波風立てずに人生をやり過ごしたい。
長生きにも幸福にも興味はないから、せめて静かで地味な生活だけは欲しい。
積極的とかポジティブとか、夢とか希望という言葉は好きではない。

それなのに今の私は、自分で商売を始めることを考えているのだ。
私らしくもないことをしようとしている。
しかし、私には私がないので、私らしいことにこだわる必要もないと考え、気にしないことにした。

それにしても私から見れば、自分で企業を起こす人間なんて別の星の生物のようである。
そこで科学技術政策研究所年報2003年度活動報告で公開されている資料「日本のベンチャー企業と起業者に関する調査研究」を参考にして、ベンチャー起業者とはどういう人間がやっているのかを調べてみた。

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これは次の条件を満たす約1000社のベンチャー企業を調査したレポートである。

①売上高研究開発費比率が10%以上の回答企業(167社)
②設立後10年未満の回答企業(177社)
③上場目的を持った回答企業(446社)
④上記3つを同時に満たす回答企業(40社)=「最狭義VB」



レポートによると彼らが企業を起こした平均年齢は37歳である。
彼らは長年経験を積んで得た熟練技術をもって商売を始めている。そんな彼らの学歴は決して高くはない。

経験はないが知識のある若者が企業を起こす、という私が持つベンチャーのイメージとは異なった結果である。

実態はどちらかというと、長年奉公した使用人がのれんわけをしてもらい独立する徒弟制度に近いものがある。

レポートは次のように報告している。

日本の場合、研究開発が強調され経営の中核に広い意味の「技術」がおかれるタイプのベンチャー企業において、その場合に創業の基盤となる「技術」とは、どちらかといえば長期の実務経験と経験知に基づく「熟練」(skill)の要素が強いものであることがうかがわれるのである。

これは10年以上前もここ10年間も同様であるが、熟練の必要度は近年とくに顕著になっているようである。

このことは、起業に対する高等教育の影響が日本では昔から小さく、それが近年いっそう小さくなっていることを推測させるものである。


これは、経験のない私には不利なデータのように思える。
もっとも産業に使える知識のほうも、私にはそんなにないのである。

どうやら私は自分の持つ理論物理の知識を工学用にチューニングする必要がありそうだ。
経験不足を補う手段も考えなくてはいけない。

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企業規模については、従業員数は平均112.7人で資本金は平均2億200万円とある。
今のところ私が用意できるのは、どちらとも上の数字の10分の1だけである。
資本は全て自己資本になりそうだ。
銀行の融資は期待できない。支援してくれるところもないであろう。

売り上げ規模はサービス業40億円、製造業30億円、情報系が10億円となっている。
意外と情報系は儲かっていないが、成長率は高いようである。
(もっとも売り上げが小さければ、成長率は高めに計算されるものである。)

また彼らは売り上げの10%から20%を研究開発に投資している。
もっとも同じ研究費でも、売り上げが小さいうちはそれの占める割合が高くなるのは当然のことである。
彼らが成長するにつれて、研究費の割合の方は小さくなっていく。

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また彼らには父の事業を継いだ2代目以降の人が多い。(全体の23.3%)
相続という形は、起業に余計な体力や準備期間を要せず、権威を獲得する手間も省け、いきなり自分の好きなことができるという利点がある。
(その好きなことが失敗すると道楽息子、バカな2代目と呼ばれるのである。)
また彼らは、子供の頃から親の姿を見て無形の経営ノウハウを吸収しているという強みもある。

一方、創業社長には大企業、中小企業で経験を積んだスピンアウト組が多い。
つまり自力で経験を積んだ熟練技術者たちだ。

私はこのどちらでもない。困ったものである。

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このレポートは「最狭義ベンチャービジネス」と定義した企業についても調べている。

それは

①売上高研究開発費比率10%以上、②設立後10年未満、③上場目的を持っていること。

を満たしている企業と定義されている。

彼らの特徴は

ハイテクエリートの起業者であり、ごく少数例が観察できる。彼らは技術系の高学歴を背景に大企業に入り、テクノクラートとして実績を上げたのちに、スピンアウトして起業している。

という点にある。
つまり高い学歴を持ち、大企業で経験を積んでから起業している。
こちらの方がベンチャーのイメージに近いものがある。

いずれにせよ、私にはないものだ。

ちなみに彼らの平均起業年齢は37歳。従業員数の平均が14.4人、資本金の平均が1億1000万円、売上げの平均が2億1300万円であり、東京に集中している。
(続く)

39年間しのぐために(2)

2005-08-18 23:52:00 | 個人的記録
もしやるとすれば何をすべきかということだが、製造業関係のことをやりたいと私は希望している。

なぜなら、それが好きだからだ。
溶接して、切断して、プレスして、鋳造して、鍛造して、焼き入れして、メッキして、塗装する。
そういうのが好きなのである。

私の地元である墨田区に工場が多く、知り合いに製造業者がいるというのも大きな理由である。


しかし私には工場の運営ノウハウも、高額な設備を用意する資本もない。

経験を積むにも、工員として工場で勤めるには、私は年をとりすぎてしまった。

理論面ならば一、二年ほど勉強すれば最先端の知識を理解できるだろう。
しかし技術面では一切の訓練を受けたことがなく、素人も同然である。

自前の技術も産業に応用できるような知識もないので、何をしたらいいのかさえわかっていない。

つまりなんとなく何か製造関係の仕事ができればいいと思っているだけなのである。
このままでは何もできない。

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自分が何をできるかがわからないときは、周りが何をさせたがっているかを見るといい。
つまり、今がどういう時代で、自分はその中のどこにいて、どんなものが人々に求められているかを知ればいいのである。

その上で自分が、その時代と人々の要求に応えられるものを与えることができるかどうか判断すればいい。
何かをするかしないかは、それで決めればいいのである。

そこで、まずは一番身近な時代と場所、もし何かを始めるときには最初の拠点になるであろう私の地元、墨田区と台東区の今を見てみたい。

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墨田区は「日用消費財」の一大生産拠点である。
メリヤスなどの繊維関係、かばんや靴などの皮革関連、ゴム製品、石鹸、装飾用メッキに関する工場が多いことで知られている。

たとえば私の釣り仲間のおじさんたちは、墨田区で靴や化粧用品の工場を営んでいる。
兄さんの奥さんの実家はラードを製造する工場を経営しており、仕事では印刷、断裁、製本、箔押しなどの工場と付き合いがある。

江戸時代から浅草には、皮製品を扱う卑民や染物をつくる職人が大勢いるという地盤があった。
そして明治時代には安い地価、交通の便により、マッチ、セルロイド、カバン、メリヤスを作る工場が進出し、職にあふれた下級武士や農民を吸収した。
戦前には軍事用品として、靴や軍での日用品を多く作り、それがやがて民間用の日用品の製造にまで拡張した。
そして戦後には、大量生産体制が確立し、台東区に集まった問屋を仲介して、全国に日用品を送る生産拠点になったのである。

活況は高度経済成長時代にピークに達し、オイルショックから下降線をたどりはじめた。
アジアという強力な競争相手が表われたからである。
安い日用品の大量生産は、安い人件費によるアジアの工場の方が適していた。
高くなる地価、長引く不況、従業員の高齢化。
悪い要因が重なり、全盛期には9700もあった墨田区の工場は5700にまで減少した。

例の私の釣り仲間のおじさん達も後継者不足と経営不振に悩んでおり、その中の一人は夜中にコンビニでバイトをしているくらいである。


しかし不況時代が始まる前から、産業構造の改革をせまられていた墨田区は、その対策も他の地域より一歩先んじている。
「すみだ中小企業センター」を始めとして中小企業の支援が盛んであり、技術指導、経営相談、交流会などが活発に行われている。

また地方の工場は、特定の企業の要求に応える特定の技術だけに特化してしまい、その企業が生産拠点を海外に移してしまったり、倒産すると、他の企業の注文に応じる技術もないため衰退してしまうという傾向がある。

しかし墨田区などの工場は、昔から多様な企業からの注文に応じてきたため、技術の幅が広く、一見の客の注文にも応じる柔軟性を持っている。

そのような特徴を生かして、これまでの大量生産型から、研究開発にともなう特殊で小数の注文に応えて「試作型」を作る工場へと変化していくことが求められている。

これが私の地元の今の姿である。
(続く)