ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

私の少女マンガ歴~特に吉田秋生への悲愴な思いを~1

2018-10-19 07:24:30 | マンガ


マンガに関してのことだけど、とても書きにくいことを書こうとしている。それは長い自分の読マンガ歴のほぼ全部にわたることなので、しかも語りたいことはその時間を網羅してはいないからなのだけど。


私はどちらかというと少年マンガを最初から好んでいたように思えるのだけど、今回ここでは少女マンガ歴を書いてみたいと思う。
少年マンガ歴については後にまた書きたい。

私は小学生時代はむしろあまりマンガを読んでいなかった。嫌いだったわけじゃなくて購読してなかったせいもあって友達や親せきの家でとか理髪店でとか(女子だけどその頃は理髪店に行ってた。ゆえあって今も理髪店に行ってるけど)歯科でとか手に取れる時だけマンガをむさぼり読んでた。親戚・理髪店・歯科で読めるのが少年マンガが多かったので少年マンガ好きになったかもしれない。少女マンガは友達から借りるしかなかった。

そんなこんなでマンガを少しずつ読み始めた。
それでもそこまで含めるならマンガ読み歴45年以上だし、中学生になってからはかなり自主的に読みだしたので43年ほどと言ってもいいかもしれない。

少女マンガへの目を開かせてくれたのは明確に萩尾望都「ポーの一族」だった。一巻のメリーベルが消えてしまう場面だった。衝撃、とはまさにこのことだろう。マンガでこんな情感が描けるとは、闇、雨の匂い、風の動き、声の響き、恐怖、悲しみ、そこに描かれていたすべてが今まで自分が読んでいたものとは全く違った。
今読んでもこの箇所は止まった絵とは思えないものがあり、映画を紙の上に写し取ったかのようにさえ思える。

それから私は本気でマンガを読み始めた。後で思えば文字どおり、24年組と呼ばれる作家たちを中心としたものであった。
竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子、山本鈴美香、河あきら、和田慎二、樹村みのり、佐藤史生、三原順、木原敏江、青池保子、西谷祥子、山田ミネコ、などなどなど。無造作に並べただけで読んだ順番ではないし(さすがにそこまでは覚えていない)少年マンガの絵柄のほうが好きだった私は華麗な絵ほど苦手意識があったので山岸凉子・木原敏江などはやや後からやっと読めるようになった(今はむしろ好き)し、和田慎二・河あきらは最初から読みやすかった。
それぞれのマンガ家に思い入れが強いけど、それは後々語っていくことにして今回は先に進む。


勿論、大好きなマンガ家がはっきりと意識出来てきたように嫌いなマンガ家、苦手なマンガ家も意識できるようになる。
上の漫画家名からわかるように思い切り小学館・集英社に偏っている。講談社(つまり少女フレンド)も読んではみたけど、里中満智子・大和和紀・庄司陽子といった方たちのマンガはどうも苦手だった。ほぼ読んではいないので分析する資格はないのだけど、のちに橋本治氏のマンガ論の本に「これを読んでる女性たちはほぼ少女フレンドを読んでないんだろうけど」というフレーズがあって苦笑した。「そうか。やっぱりそういう一派がいるのだ」とその時知った。
フレンド系は自分にとってはあまりにもリアル女性の風情があって自分的にはつまりドロドロとしたものを感じて遠ざけたかったのだと思う。
絵柄としてもリアル女性の重さがあって自分は苦手だった。
例えば主人公ではなく友達がレイプされる、というような展開のやり方が逃げている感がするのも嫌だった。全体的な考え方に賛同できない少女マンガ家が中心なのが講談社だったのだ。(なぜか少年マンガは違うというのが不思議)

そしてもちろん集英社の少女マンガ家がすべて好きなわけじゃない。一条ゆかりは上に挙げなかったけど、とても好きでかなり読んでいたし、陸奥A子は可愛いと思っていたけど、くらもちふさこのマンガはダメだった。絵柄的にはとても魅力的に感じていくつも読んでのだけど、内容に共感できないのだ。後年、読み返し、新しいマンガも読んでみたけど、くらもちふさこのマンガはどうしてもなじめないままだった。これも嫌な人間を描くのが、嫌な人間を描くのもそれが面白い人もいるのだけど、その描き方が嫌なのだと思う。

さてさて、ここまでは前置きで、本題はまだまだこれからである。

そうこうして少女マンガ読み歴も土台が固まって来た頃、出会ったのが小学館での吉田秋生だった。

吉田秋生に関してはデビュー作「ちょっと不思議な下宿人」から知っているのである。
子供の目から見てもやや稚拙に思えたもののその時から「この人は絶対凄い人になる」と感じたのは覚えている。絵も内容も最初からとても好きで、絵柄は少女マンガ独特のきらきら感がなく(笑)特に目の書き方が、私は少女マンガの目がどうしてもやはり苦手なのだけど吉田秋生はデビュー時から「良い目」を描ける人であった。

その後、2作ほど楽しませてくれた後、彼女は長編「カリフォルニア物語」を始める。
正直言ってこのころ、私が一番好きな少女マンガ家は吉田秋生だった。他の何より心躍らせて「カリフォルニア物語」を読んでいた。新しい少女マンガの時代が訪れた、と感じたしそれを感じている自分も嬉しかった。

一方、萩尾望都はその頃、絵柄が丸く変化していて、今思うとさほどのことはないのだけど、当時私の気持ちは離れていっていた。好きなマンガ家も時間が経つとあまり好きでなくなるとその時知った。
言っておきたいが、今その頃の萩尾マンガを読むとなにが嫌だったのか、逆に判らない。とても素晴らしいマンガだったのにその時の私にはよくわからなかったのだ。


とにかく高校生時代の私は吉田秋生が最高だった。カリフォルニア物語は自分にとってなにもかも素晴らしく思えた。男性的な描写が魅力的でそれほど起伏のないストーリーテリングも却ってリアルに感じた。
萩尾望都を含む上に挙げた度のマンガ家よりも私にとって大切な心を描いてくれるマンガ家だった。小説や映画でもアメリカ的なドライで荒々しい描写に惹かれていた私は、それをマンガにしてくれる吉田秋生のセンスに没頭していた。
ヒース・イーヴ・ブッチのキャラが最高に好きだった。
常になにか新しいものを描いてくれる予感がした。


「カリフォルニア物語」は最後まで私にとって完璧な世界だったのだ、その時は。

彼女の次なる長編「吉祥天女」私は夢中で読み始めたが、なにかが違う気がした。
これが吉田秋生のリアルで特性だから、とも思ったが「カリフォルニア物語」までに感じてなかったなにかを少し感じ始めた。
「河よりも長くゆるやかに」はコミカルな作品だったので楽しく読んでいた。
そして始まる「BANANA FISH」

待望だった。「カリフォルニア物語」の再来と思える、それ以上に本格的な展開を思わせてくれる始まり。美貌で天才的頭脳を持つ少年アッシュ。幼い頃、性的暴行を受け男娼を強いられながらニューヨーク・ストリートのボスになった。廃人となった兄が言い続けていた「バナナ・フィッシュ」の謎を追っている。

私は嬉しかったのだ。

続く。


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