がんぼのぶらり紀行

北海道オホーツク遠軽で、昭和時代のお茶の間みたいな食堂 やってる おばちゃんです。

想いを変える

2019年05月05日 23時54分35秒 | 徒然

一人っ子で育った私。

子どもの頃も、学生時代も、結婚してからも、両親の経営する食堂を手伝うという名目で、

人生の半分以上を、母と仕事をし、友達のように暮らしてきた。

どんなことでも口に出して相談し、笑い合い、時には一緒に憤慨したり。

自分にとって、母のいない生活など想像もできなかった。

それが突然、目の前から 「いつもの母」 が消えてしまった。

目に映るのは、ベッドに寝たきりで 自分の意思疎通も叶わぬ 人形のような女性。

左目は動くが、以前のように、問いかけには応えてくれない。

自分の半分が死んでしまった感覚。まさにそれ。

1月中旬に倒れて北見市の病院に運ばれ、今日までずっと私の気持ちはひたすら右下がり。

先週は、娘の私を「わからない」(言葉は出せない。「私、〇〇だよ、わかるかい?」の問いに小さく首を横に振られた)とされ、少なからずショックを受けた。

二度と、母の元の姿には戻れない悲しさと、15年前に離婚し、二人の子供たちを育てながら、自身を養うしかなかった。

両親とて裕福ではなく、転がり込むこともできず。

父をなくし、母が大病を患い、

これからの生活さえ どうなるかわからない不安が入り交じり、

暗い毎日を過ごしてきた。

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今日。突然。何かがふっ切れた。

「この道が戻れないなら、別の道を歩けばいいじゃないか。

母が元の姿に戻れないのはもう仕方がない。でも、まだ生きてる。生きてくれている。

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母とは元気な時に何度も話し合った。

何かあったら(今回のように突然倒れたりしたら)施設でお世話になってもらうよ。母も「それでいいよ。子供らの生活を脅かしてまで生きていなくてもいい」

そんな会話を、数日に一度は冗談交じりに話していた。

悲しいかな、現実になってしまった今

一人娘の私は、相談する相手もなく 八方塞がりで泣きながらこの数カ月を突っ走ってきた。

これからも、どうしていいのかわからず 立ち止まり 心は泣きじゃくっていた。

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息子が一緒に、両親の作り上げて来た食堂を立て直すため、尽力してくれるようになった。

不安を抱えながらも、地道に一歩ずつ、間違いなく、売り上げを伸ばしているじゃないか。

母のことはこれからも気になり続けるが、命の不安はなくなったのだ。

生きてくれているだけでもうれしい。

母だって、娘がいつまでもメソメソしている姿はみたくないはずだ。

母の想いをポケットに大切にしまって、助けてくれる息子と歩き出そうと思う。

母さん。会いに行く回数は減るけど、決して忘れているわけじゃない。働いてお金を作って、母さんの暮らしを少しでも助けたい。

リハビリ主体の病院へ転院したら、また新たな道筋が見えてくるかもしれない。

忘れちゃってる娘の顔も、思い出してくれるかもしれない。

小さな期待を持って、明日も一日 笑顔で働くよ。うん。*\(^o^)/*


内容掲示

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