がんぼのぶらり紀行

北海道オホーツク遠軽で、昭和時代のお茶の間みたいな食堂 やってる おばちゃんです。

母の事 100日目

2019年05月01日 18時07分00秒 | 徒然

4月17日。

見舞いに行った私たちのところに担当看護師が来て医師から近く説明があると言われた。

二日後、病院から電話あり、話があるので午後または明日朝来れないかと。

明日朝となると往復時間を考えると、店を休まざるを得なくなる。売上が少ない今、また店を休むのは正直なところ非常に厳しかった。

母の身体の事なので 当然心配だし 病院側からの話は大切なことは解ってはいるのだが。

だが、食堂の一日の売上を 店を休むことにより潰し、更に夕方からの夜パートに間に合うよう帰宅し、午後11時まで重労働するには自分の身体にとっても良しとしない判断。

母には申し訳ないが、店の売上と自分の身体を優先し、今日これから(午後3時発)北見へ向かい、午後6時までに遠軽へ戻り 夜パートへ出るつもりで動き出す。

午後4時には病院へ到着、医師を待つ身となったが、医師は外来診療が終わらず、結局 午後5時半近くまで待たされた。看護師に連れられ外来科へ行き、医師から説明を受ける。

「かさぶたが剥がれてみたら、問題が」

詳細は割愛するが、最初の手術で 壊死した右脳の腫れを外部へ逃がすため取り外した骨片を、脳の腫れが収まった時点で二度目の手術にて自身の骨片を戻したのだが、その後の回復期を過ぎても、傷口が接着できなかった箇所がある、接着式軟膏にするか再手術縫合にするか迷っている とのことだった。

急だが、週明けの23日に三度目の手術をするので同意書にサインをしてほしい との話だった。

もう今の時点で、イヤダのナンダの 選択肢はないのだ。

相変わらずの左半身麻痺、右目は開かず、首も動かせず寝返りもできない、声も出ず話もできず字も書けない、経鼻経管栄養の寝たきり。

高齢の母が、三度目の手術に耐えられるのか。

4月23日。

前日の電話連絡で、麻酔科担当医の説明があるから午前9時までに病院へ来るよう言われたので、7時半に遠軽を出て8時半までには病室に着いた。

ところが待てど暮らせど。3時間待っても連絡なし。ひたすら待つ。

ようやく説明で呼ばれたのは 間もなく手術が始まるという午後0時30分。こんなことなら11時までに来ても良かったのでは。

すぐに病室へ戻ったが、母はすぐに手術室へ移動することになり、一緒に向かう。

手術室入口で患者氏名の確認を行うと、そこからまた3~4時間待つことになる。

いつ呼ぶことになるかわからないので病院敷地内にいるように言われたが、休憩室を与えられるでもなく、病室にいられるわけでもなく(椅子がない)、患者さんが食事をとるデイルームの片隅で所在なく待ち続けるしかなかった。

午後3時。待ち疲れ、一緒にいてくれた息子と病院内テイクカフェを買い、駐車場の自分のクルマに移動。わずかだが眠った。

午後4時。連絡してあった私の携帯に「手術が終わったので手術室へ」との電話があり、向かう。

母は頭部を大判のテープでぐるぐる巻きにされていた。

最近は包帯の出番は少なくなったんだな。

担当医から術式が無事に終了したこと、問題はない。このあと三週間はまだこの病院でちゃんと責任を持って預かると話をされ、大きな声で名前を呼ばれた母は、わずかだが 開く方の左目を開け、意識があることを見せてくれた。

一緒に病室へ戻ったが、「点滴や注射などお世話があるので外でお待ちください」と、ここでもまた30分近く廊下で待たされ。

ようやく対面できたが 母は術後の疲れもあってか 声かけをしてもほとんど反応を示さず眠ったようだった。

このままいても面会時間の終了時間が近くなり、何より息子も私も疲れ果ててしまって言葉少なになってしまっていた。

母の寝顔を確認し、四人部屋なので、小さな声で「母さん、三度目の手術 頑張ってくれたね。ありがとう。疲れているだろうから今日はこれで帰るよ。少し眠って」と耳元で囁いて、息子に目配せをして病室を出た。

一時間かけ、遠軽へ。

くたくた。

で、手術の日は早朝から夜まで北見だったので食堂を休まざるをえず、翌日は息子も私も前日の待ち疲れ過ぎて仕事にならず 食堂を休むという。

店、潰れる。悲


内容掲示

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