がんぼのぶらり紀行

北海道オホーツク遠軽で、昭和時代のお茶の間みたいな食堂 やってる おばちゃんです。

旭川 お墓参り

2013年08月21日 02時24分08秒 | 徒然

30分かけて書いてたブログ、操作ミスで消しちまった。。。泣   もう午前3時だし復旧無理、写真だけにする。

午後2時、自宅前。突然の豪雨。 出発はしたものの豊里ローソン前で立ち往生。

十数分後、小降りに?なったので先へ進む。 瀬戸瀬で青空。遠軽方面は真っ黒な雲の下。丸瀬布はピーカン青空。

午後3時、高規格道路走行中、前方(旭川方面)の空模様。

第一の目的、川端市場。 休み。 水曜定休でしょうが、今日は火曜日だぞ。

途中のスーパーでお供え物を揃えて、墓地へ直行。 一昨年よりすんなりお墓を見つけることができた。

あらまぁ。お尻つきだして・・(^o^;  娘は何やってんだ??

「見て見て!カエル~♪」 (笑)

 

空模様が怪しい・・

息子~、見た目、土建屋の大将だなぁ。(笑)

そして、永山の親戚宅へ。

お元気で何より。(*^^*)

あがりなさいと言ってくれたのですが、「写真だけでも」と撮影中にポッポッ・・「きゃ~!降ってくる~!急いで急いで!!」

まさに「台風並みのお騒がせ訪問」でスミマセン。(^o^;

午後5時過ぎ、第二の目的、手芸店マリエッタ。休み。棚卸だと。泣

隣のメガスーパー・ドンキホーテで数点お買い物。 食事をして帰宅。 帰りは・・

満月。 今日の嵐はどこへいった?

大変な一日でしたが、娘の望み、「旭川のお墓参りへ行きたい。(済) マリエッタへ行きたい。(不) 市場へ行きたい(不) ドンキ~ドンキホーテ~へ行きたい(済)」 は終了しました。 いや~、これまた想い出の1日になりましたわ~  (;´▽`A``

 

珍しく、お顔ストレートのブログでございました♪

かぁちゃん見たら、隠します~(笑)


別れと出会い

2013年08月19日 17時05分51秒 | 車とガソリンと燃料と

16年、一日も欠かさず乗り続けたレジアスとついにお別れの日が来た。

新車(ここでは、がんぼにとっての新しい車という意味。実際には中古車)と交換するべく、待ち合わせ場所である同僚の自宅前に到着。

私がレジアスを運転し、ブレーキを踏むのは、この場所が最後となる。 

キーを回してエンジンを切るのに、「これで最後」と思うと、胸がいっぱいになった。

最終走行距離数 306,062km。

 

ディーラー担当さんが時間きっちりに到着。 車の説明を受け、あれよあれよと事務的に事は進んでいく。

そして・・・

恥ずかしながら、涙ボロボロ。 同僚の前だろうが構うもんか。

ありがとうレジアス。 長いこと私を見てきてくれました。私に付き合ってくれました。壊れても傷ついても何をされても黙って一緒に走ってくれました。

お世話になりました。。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん

 

 

角を曲がるまで、姿が見えなくなるまで見送りました。 ・・ 書いてる今も涙出てくる~。泣

廃車となる運命。 二度と会えません。

本当にありがとう。

 

 

 

新しい相棒は、

トヨタのイプー。 これからどうぞよろしくお願いします。m(_ _)m

きっと君とも長いお付き合いになると思います。 大切に乗るね。よろしくね。


「食堂のおばちゃん」奮闘記 001

2013年08月18日 20時29分11秒 | 食堂のおばちゃん

打診していたお宅は、「貸せない」と返事が来た。

残念、非常に残念。

お金がないから仕方がない。

 

○先方様

1.亡くなったご主人が建てた家

2.公営住宅へ入るために「持ち家」は持っていてはいけない。→手放す

3.建物が残っているのを見つづけるのは忍びないので、買い手が今年中に買い手がつかない場合は取り壊す

ということだそう。

 

○当方

1.一時払いのまとまったお金が作れない。

2.ローンが組めない。

3.借りられるのであれば、(2年契約・・継続)その間に少しずつでも動きがあるようなら、最終的には買えるのでは・・

4.両親の売り地が片付けば方向性も決まるのだが・・ < 隣家に打診しているが無理のよう・・

 

諦めるしかなさそうだ。 直接談判には応じない。

 

再びスタート地点に戻ろう・・

1.コーヒーを美味しく淹れる勉強を続ける。

2.実家の両親を少しでも助けていこう。

3.お金がないからといって、コンビニバイトや清掃や新聞配達等、今以上に仕事を増やすことはやはりできない。 先にも書いたが、昼時間の食堂の両親を手伝うことを考え、自分自身の現状の仕事を考え、自分自身の身体のことを考えると、現状ですすめていくしかないのか。

現状=いつまで経っても、お金の動きが小さい → いつまで経ってもお金はたまらない → 家賃や光熱費などかかるものは払っていかなければならないから出費は変わらない → 支払いに追われる → いつまで経っても新規に店を持つことはできない。

 

同僚は 「寝ずに働くことが大事」 という。 わかってはいるが、もう 「寝ずに働く」 ことはできない。 そりゃ、やることがあるときは頑張るよ。 頑張ってきたつもりだよ。

けれど、身体が追いつかないことを実感してきている。 寝ずに働くことができるのは、40代までだろうな、と。

急ぐことをやめよう。 でも、急がないと。 この中途半端な焦り。泣

私の将来はどうなっていくのだろう。


自分自身の再確認 ~超・長文 見たい人だけどうぞ(笑)

2013年08月16日 00時19分59秒 | 徒然

2012年11月中旬。

ひとり娘は実家食堂へ戻った。 

いや、戻ったという言い方はおかしい。 でも適当な言葉も見当たらない。

「好きなことをやってみたい」 「違う仕事をしてみたい」 勝手なことを口走って、両親のもとを飛び出した2004年2月。あれから10年近く。



女性は嫁に行けば、通常 先方の苗字をかたることになる。 

一人娘の家は、父が三男坊の、いわゆる 「分家」。

父から派生した苗字は一人娘が嫁に行った時点で通常は先方の苗字をかたることになり、途絶えることになる。



そしてもうひとつ。

ものごころついてから、ずっと見つづけてきた両親の仕事。 食堂。

いつからか当然のように言われ続けてきた 「店を継ぐ」 「継いで当然」。

幼少時から、「婿養子をもらい店を継ぐ」 「苗字をつなぐ」 「実家食堂をつぶすな」 「そば打ちを覚えろ」



両親からではなく、親戚や来店されるお客様から毎日言われ続けてきた。

社交辞令だったと今になっては思うが、私にとっては大きなプレッシャーとなっていった。



ひとり娘は親の心配をよそに、見た目・年齢ともに充実(コロコロ)して育っていった。

中学生時代に初めて見た「タイプライター」に憧れ、高いそれを買ってもらったものの使いこなせなくていつのまにか飾り物。 < 英語わからないのに英文タイプだよ。(^o^;

高校時代は吹奏楽にどっぷりとはまり、当時18万を越える値のクラリネットを親に買ってもらって、それを引きずったまま就職2年目。 

就職先の会社で事務部門がコンピューターを導入。 厚さ10センチを超える取扱説明書とプログラミング言語学習の本を横目にうんざりしている上司に、「勉強したい!やらせてください!」と頼んだが、「建築資材部の事務女子に何ができる」と頭っから否定される。



4年後、退職・結婚、長女の妊娠、出産・・

夫と共に店を手伝うはずが、のらりくらりと遊びが優先。両親にはいつも迷惑ばかりをかけていた。



キーボードへの憧れは止まることなく、ワードプロセッサー「書院」を分割で購入。 入力した「自分の思い」を活字で出力できることに感動。 さらにのめりこんでいく。

6年後、二人目の妊娠がわかり、2DKのアパートから一軒家へと4度目の引越し。 出産。 

高校入学時から続けてきた吹奏楽への執着は、ここで一段落。 < 生活が大変で自分を楽しむ時間がなくなった。

無理を言ってMSXコンピューターを分割で購入。

通信教育でプログラム言語の勉強を続ける。

TVをモニタ代わりに黒い画面に白い文字。 趣味の範囲でしかないと言われながら続ける。



Windows95 キャンビーが発売されてから再び気持ちは再燃。

長男が小学校へ入学するのをきっかけにWindowsマシンを分割で購入。

プログラムの勉強をしたり、関連雑誌を読み漁ったり、とにかくキーボードに関わりたかった。



そして、平成15年。 紆余曲折があって食堂と両親を横目に、自分の新しい道を求めて歩き出した。

ホームページを作る仕事、パソコン操作のご指導、インターネット回線設定、物理的PC環境の設置、プログラムを組む仕事・・


同僚と二人でどれだけ走り回ったか、どれだけ喧嘩したか、どれだけ泣いたか。

初めてのお客様、初めての仕事、初めての失敗、初めての挫折、初めての悔しさ、初めての・・・

いったい何度、自分の技術の低さと情けなさと頼りなさと悲しさとを味わってきたのだろう。

それでも、「この道で生きると決めたんだ!頑張るんだ!」と思いなおしながら。

世間は甘くない。 付け焼刃の、なまじ 「かじっただけの」 独学、中途半端、技術者カタリを誰が信じるものか。

仕事をもらえるようになるまで、3年。 仕事をもらってからも、お客様に育てられるように、お客様の要求にこたえられるようになるまで3年。

しかしその後3年は、ホームページを作る仕事そのものが縮小~無料でブログやホームページ作成や~時代はまたたくまに変わった。

年単位ではなく、日単位で急激に縮小していく、私の仕事。



これじゃダメだ。 待っているだけじゃダメだ。PCの前に座っているだけじゃ生きていけない。

働けよ、身体、動かせよ。

新しい仕事を見つけるのが理想かもしれない。 けど、これ以上 職種の違う仕事を見つけてやっていけるのか?

PC作業、食堂おばちゃん、フリーペーパー営業、配達、その他にバイト?パート?



たとえば現状で1つ2つ仕事を増やしてみようか。

6:00~10:00、コンビニバイト。

10:00~14:00 ※食堂おばちゃん。

14:00~18:00 コンビニバイト。

18:00~22:00 ※フリーペーパー

22:00~25:00 ※ホームページ更新作業

25:00~28:00 (午前3時) 新聞配達

 とか。 ※は現状ね。

これが毎日で、更に週一で別途フリーペーパー配達。

今以上仕事を増やすということは、1日に18時間以上働くということ。

上記のスケジュールでは、ご飯食べる時間とかお風呂入る時間とか、入ってない。

時間の調整が無理、体力的に無理。

 



できることを改めて考えてみた。

お客様だけでなく、両親にも、子供たちにも、同僚にも、周りに多くの迷惑をかけつづけながら必死に走り抜けてきた10年。

走り続けてきた道は、年齢と自分の脳意識の低下と共に、下降の一途をたどる。

独学で始めた知識は、10年前にはともかく、もう現代のIT世界では通用しない。

IT社会はあまりにも早すぎて、1日油断すると置いてきぼり。



毎日、PC画面に向かっていてもお金は入ってこない。 営業に行っても仕事は見つからない。

これだけにしがみついていても生活はできない。 明日の食べ物にさえもありつけない。

両親にも、子供らにも、同僚にも、これ以上の迷惑はかけたくない。 自分も両親も、年齢は重ねていくのだ。



切り替えるときだと思った。 「私には次のするべきことがある」

あるきっかけで、「私のできることは、やはりこれなんだ。」と認識した。

食事を作ることができる。 誰かに食べてもらうことができる。 きっとそれで生きていける。



そして、同僚の母様をお送りし、改めて感じたこと。 

「両親のもとにもう一度帰ろう」



これまで培ってきたことは忘れない。 まだまだつながっている部分もたくさんある。 新しい出会いも見つけてきた。

それらを踏まえて、もう一度、両親が頑張る実家食堂に、再び戻らせてもらうことにした。



両親様。 勝手なことばかりやってきた娘を許してください。

娘はやはり、この道で進むことが 生きていける道だと思います。

2013年8月中旬。

「食堂のおばちゃん」 を もう一度、やらせてください。m(_ _)m


補聴器

2013年08月14日 20時19分19秒 | 自身の健康

お盆恒例の 「本家宅、訪問」

いろんな話をするうちに、「じいちゃん、すっかり耳が遠くなって・・」 の話が出て、 「(本家の)ばあちゃん! どうせ使ってないんだ、貢献しろよ!」 と本家様息子。(笑) < いとこ

出してきた補聴器は耳かけタイプ。 一緒にあった電池を入れ替えてみたけれど反応がなく、「ダメかもしれない。 やるから補聴器買ったチェーン店へ行って見な」

ありがとうございます!

 

何とかしないと、と日々思っていたので思わぬハッピー出来事に親子ともども大喜び。

 

さっそく、100均行って、補聴器専用電池を1個購入。105円也。

これで使えりゃ御の字だわ~(笑)

 

 

 

 

使えた。(笑)

 

 

 

 

よく聞く 「ピーピーガーガーうるさいだけで役に立たない、いらない」 は、実際に使ってみてよくわかりました。

耳の穴へ密着しているときはとてもよく聞こえるんだけど、つけはずしの際に、ちょっと耳から離れる瞬間、補聴器自身のスピーカーから出る音を補聴器がまた拾ってしまい、増幅することによるハウリングでした。

つけはずしの時だけ注意してあげればいいな。

あと、つけている間に緩んでくると、この音が出てしまうので、緩まないような対処をしなければ。

耳あてとか、サージカルテープも試してみよう。


勉強

2013年08月05日 21時37分26秒 | 徒然

火がついたようにスタートしてしまった、この3日ほどだけど。

ちょっと落ち着こうね。 自分 。 (;´▽`A`` 

物件はあてにできないこととなった。

もう少しの間は現状で動くことになるのだ。

 

数歩 戻って、考えていた事を実行しようと思う。

 

コーヒーの勉強。

美味しいコーヒーを入れる修行。

 

明日、先輩の店へ相談に行こう。


保健所

2013年08月05日 21時21分20秒 | My House♡ My Fashion♡

必要なこと

・調理場に2槽のシンク。(食品洗浄用・食器洗浄用)

・調理場入り口に手洗い場と石鹸水。

・調理場の床はタイルまたは撥水のものであること。

・調理場の入り口に扉があること。(ウエスタンスタイル可)

・冷蔵庫

・換気扇

・食器棚(扉があること)

 

・トイレに手洗い場と石鹸水。(水洗の給水は対象外)

 

・めん打ち室の独立。(壁・扉あり)

・めん打ち室は製品を運ぶに居住区・客室を通らないこと。

 

・営業許可証の住所変更。現在の住所での「営業を廃止」することになり、新規の住所で「新規登録」となる。

・営業許可証の変更登録に約2万円。

 

保健所と仲良くなっておくことが大事だな。

仮に設備を何とかしなくてはならない場合も、手をかける前に間取り図等を作って、「ここに手洗い場を作る」とか、こっちから攻めていく。 必要なら現場へ呼びつけて実際に見てもらう。

「ここなら大丈夫ですね」 の言葉をもらってから、手作りあるいは業者に頼む必要があるならそうして、設備を作る。 あとから文句を言われないため。

いろいろと現状を全て話して、相談に乗ってもらった。

出かけることが多いので、あらかじめ連絡をさせてもらうということで名刺ももらった。

 

打診している物件は、すぐにお金が用意できないことから、借りれる可能性がなくなった時点で白紙になる。

でも今後、皆でお金を貯めながら、他の物件を捜すに当たり、上記はつきまとうわけだ。

娘と私が、店を持ちたいとしても、やはり同じ手続きが必要になるのだ。

 

ここでもまた、ひとつ勉強をさせていただいた。 ありがとうございます。m(_ _)m


またも荒波をたてるワタシ・・・

2013年08月04日 19時24分45秒 | 徒然

両親、娘と息子、すまんです。m(_ _)m

でも、「お風呂のある暖かい家に親を住まわせたい」気持ちに変わりはない。

 

問題は、お金がない。

他のことなら 「何とかなるさ」 ということができても、お金だけはどうしようもない。

来るか来ないか、開いてみないとわからない 『食堂』。

あけていれば、運がよければ、お客は入ってくる。 

でも今日みたいに、一人も来ない日が続くと、メゲる。

当然、売上もないから 「お金もないのに引越しなんて・・」 になるよね。

 

確かにお金はない。 

しかしこのチャンス??に、今の生活に区切りをつけないと、また今年の冬も、少ない売上から大金を家につぎ込み、年金を削り、それでも寒くて灯油をガンガン焚いて、それでも起こる水道凍結修理代に泣いて を繰り返すんでしょう。

思い切ろう。 姉が助けてくれる。 

100%も150%も頼ってしまうのはダメだけれど、少しだけ、寄りかからせてもらおうよ。

その分、身体を動かして、姉のできない部分と両親のできない部分をワタシは埋めることはできると思ってる。

 

I専務にも、N父さんにも、Sさんにも、M氏にも、去年からこちら、言われた言葉が強烈に刺さっているんだ。

「あんなところに家賃5万円? なんて無駄金を。」

「まとまったお金がなくて引越しができないんです」 と言ったら、 「少しでも早くに他を捜した方がお金を大事に使うことになるのに」 って。

踏み出してしまったら後には引けないことはわかってる。

 

そして今回、私自身のためでもある。(姉を利用するようで心苦しいけど・・m(_ _)m)

 

10年前に勝手に店を飛び出して、パソコンで生計をたてていくんだ!って。 これも結局モノにならず。

跡を継ぐ! なんてえらそうなことを言って店を手伝うに戻ったけれど、現状は両親も私も生活が成り立つほど売上はない。

WPの営業回りにがんばることも結局できなかった。

出来ない営業の仕事 ~見知らぬお客さんの所へ足げく通って広告代を下さい~ も、ロクにできず、役立たずで本社に迷惑をかけ続けた4年間。 本社には、先行投資として一体いくらつかわせたのかわからないのだ。

この後もダラダラ続ければ、営業はやっぱりできない私がグダグダやれば、それだけ経費がかかっていくだけ。 本社に迷惑がかかるだけ。

私は営業には向いていないことをはっきりと自覚した。 

お客さんのところへいけない、行っても営業トークができない、広告料をもらってこれない、フリーペーパーの埋め合わせが、また今回号もできない。今号も結局、数百万近い持ち出しを本社に強要することになる。 ← 人件費や印刷費は毎回必ずかかっているわけだから。

精神的に圧迫されて、日々の精神状態にも響いてきはじめていた。

このままでは全てダメにしてしまう、と思った。 だから思い切って紋別本社へ行って I 専務に 「私には出来ません。4年間ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 と頭を下げてきた。

 

パソコンを使った仕事も、5年前からは目に見えて仕事がなくなり、まぐれにぽつぽつと来る程度。でも長いこと付き合ってくれているお客様からの依頼なので、金額が小さくても日々の作業は続けなくてはいけない。

日中はいろいろ作業があるので、PCの仕事は朝と夜帯にしている。 時間がおすと、その分作業時間は夜遅くにまでなる。 「明日でいいや」の仕事ではないから。

同僚も頑張ってはくれているけれど、毎日の生計を立てられる目処は当面つかない。

 

結局、何一つ モノにできずに生きてきた私。 53歳にもなるのに、何も遺せずにきた私。

M氏に怒られたことがあるのよ。 「この10年、一体何をやってきたんだ!」 って。

自分なりに必死に仕事を探して、仕事をして、生きてきたつもりだったけど、

1日に18時間も仕事し続けて、眠ることも満足にできない時期もあって、鬱になりかけて回りに心配かけて、繰り返す引越し騒ぎ・・

何も残ってない。 お金もない。 失ったのは、10年の時間と体力と我慢する心。

 

今回、店を開きたい、どこか借りないとと思ったときに、お金を手に入れるため

他の仕事を探そうと思ったこともあるけど、あたまっから問題になるのは年齢制限。

それから、簡単に抜け出す事は不可能なこと。

 

まぐれにどこかに使って貰えることになっても 「店の手伝いがあるので帰ります」 などということはできない。 中途半端なことをするなら最初から勤めることはできない。

できるとすると、食堂の仕事に響かない、早朝の新聞配達? 深夜帯のコンビニ?

いずれにしても今の生活スケジュールで、これ以上 仕事を増やすと、寝る時間が3時間きってしまうだろうな。 体調崩して間違いなく病院行きになりそうだな・・(笑) 

 

昨年11月、親に助けてもらおうと思って実家へ転がり込んだつもりはない。

自分は 「料理を作って人様に食べてもらうこと」 ができる と思ったから。 それで少しでも生活ができるならば、それが自分の 『できること』 と思ったから。

同時に、両親の元へ戻り毎日顔をあわせることでお互い心配もなくなる。

そしてその合間に、抱えたPCの仕事が少しでもできるから。

だからこの道へ戻った。

 

新しいことを始めようとしたのは、姉としても同じ。

違う場所へ行っても、皆で頑張ればきっと何とかなると思ってる。 家族だから。

問題が起これば、皆で話して相談して (喧嘩になることもあるけど) 解決していけばいい。

 

はじめにやりたいこと。 

(保健所へ行って引越しの際の必要事項を聞いてくる)

新しいところが見つかったら、カレーライスの ” のぼり ” を持っていって家の前へ立てる。

片付けと、調理場の準備と、ひとつでいいからテーブルセットを置いて、玄関を開放してスリッパをそろえて。

カレーと鍋と皿と、姉の冷蔵庫を一時借りて、刻みキャベツとサラダとラッキョと福神漬。

コップと水、スプーンと箸。

 

ごそごそ始めたのを誰かが見て 「何してるの?」 と興味をもって近づいてきたら、「こんにちは~!!」 と挨拶する。

うん! できる! がんばるよ!


内容掲示

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