十勝・大地の気に包まれて

四季の美しい十勝ですが 自然が厳しいからでしょうか

北海道も夏は暑いが、木陰はひんやりしている

2005年07月23日 | Weblog
 ベンチの写真は受けも良いようなので、またまた掲載した。本州はかなり気温が上昇し、厳しい暑さが続いているようなので、北海道の林の中の写真は暑中見舞いになるかも。
 十勝は空に雲が広がっている時間が多く、太陽が顔を出すのは長い時間ではない。とはいえ、晴れた日の日差しは北の大地を豊作に導くものなので、バランスさえよければ曇りの日も悪くない。
 日が落ちて車を走らせていると庭でジンギスカンをやっていたり、建物の前で急作りのビアガーデンで酒盛りをしている団体を目にする。別荘地でないのに、こういうオープンなところが北海道的なのだ。自然に恵まれた北海道を実感する。

森林浴とまではいかないけれど、林の中はいい気持ち

2005年07月19日 | Weblog
 ベンチの写真が好きな人がいるので、撮りだめしてあった画像からチョイスして掲載。この時期の十勝も快晴なら30度前後まで気温が上昇するので、日陰の林のベンチは避暑気分を楽しむのは、うってつけのポイントとなる。
 ネットを利用する場所場所で気候が違い、それによって投稿文や記事の読み方が違うのは仕方ないが、「木陰のベンチ」のような多くの人が癒されるというか、安らぎを感じる共通点のことを考えてしまう。十勝の観光ポイントの「幸福駅」は、人それぞれ感じ方は違うと思うけれど、不愉快にならないと思うので、15日に撮影に行って来た。studiok2のWebsiteの一つである「まいぺーじ」の「幸福駅」の写真がイマイチなので、ここに利用するかもしれない写真も撮ったが、雰囲気は夏となっていた。
 幸福駅周辺の畑には、赤紫の花(メークイン)や白い花(紅丸)が、緑のじゅうたんに映えていた。

10度以上の気温変化の日々、林の中は気持ちいい

2005年07月14日 | Weblog
 厚めの長袖が必要だった昨日と違い、本日(13日)はTシャツでも暑い!
これほど気温が変化すると、体調にも気を配らなければならない。昨日は鍋料理があったかくておいしかったけれど、今夜は冷やし中華がおいしい。
 そんな気候でも、林の中のベンチは気持ちよさそうで、ベンチのある所まで歩くうちに気持ちがスッキリする。そして、ベンチで考える事は・・・ここに書けることは少ないが、ホームページの更新計画にはプラスになった。次の更新予定の7月15日には、その考えをホームページで実行しよう。

Hinokio(ヒノキオ)という邦画の特別番組に思う

2005年07月10日 | Weblog
 小学校に行けない子が、ロボットを自分の身代わりに登校させて、そこで学校というもの、授業、同級生、友人とのかかわりを体験してゆくという映画だが、自分が小学生のときにロボットを送る側、受け入れる側として考えた場合、かなり奥深い映画というのが感じられた。
 都市部の小学校と十勝の小学校では、展開は変わるかもしれないが、本質的にはあまり変わるとは思えず、それよりも、今の学校の教室の雰囲気が再現されているとすると、自分の小学生のときとの違いに驚いてしまう。今の小学生は、ずっと複雑な関係の中で過ごしているのだな。価値観の多様性は人格の多様性につながり、小学生の時に既に始まっている。それにしても、「いい映画が出来たものだ」というのが正直な感想。

 人間社会の急激な変化に、花々が言葉を発せられれば何と言うのだろうか。花が、人間社会に人型ロボットを送るSF映画が出来たら、見てみたいものだ。それにしても、美しい花を毎年咲かせるピアニストTさん、撮らせていただき、ありがとうございました。

天候不良により、ピアニストT氏の庭にて

2005年07月08日 | Weblog
 十勝に限らず、最低気温10度というのは、車で走る場合はヒーターを必要とする。
七夕で思い出すキーワードは「浴衣」「花火」「スイカ」「縁側」などであるが、寒い!シャツの上に長袖の薄物を羽織らないと寒いのは、夏とは言えないのではないか?!とはいえ、クーラーのついていない愛車では「ヒーターで快適」と言えるので、どーしたものか。
 十勝の農産物は、快晴の日が何日かあると遅れを取り戻すようで、自然の生命力のすごさを感じる。それに比べ、自分の精神面の弱さ、もろさは、なかなか強化できないので困ってしまう。写真を撮る、撮らないは別にして、撮りたくなる風景を目に出来ない日々が続くのはつらい。十勝の天候不順に、とうとう自分の心理面がリンクしてしまい、倦怠感や脱力感にさいなまれる日が続いた事もあった。7月に入って何とか気持ちを強くもてたのは、写真を愛するピアニストT氏の庭の花々を撮影してからである。
 
 写真の花は「テッセン」「カザグルマ」「クレマチス」とか呼ばれる花で、直径10センチくらいある大きなものだ。咲いた直後は群青色で、日数の経過により薄い赤紫となって、しおれてゆくそうだ。花大好きというタイプではないのだが、写真の被写体としてはトップモデル並みかもしれない。

病気も住所の一部と考えられれば・・・、△も必要。

2005年07月03日 | Weblog
 俳優・石原裕次郎の闘病生活を中心にした特集があった。華やかな映画スターでありながら、大怪我と大病と食事制限の暮らしという人生だったらしい。この番組を見て、作家・吉行淳之介の事を思い出した。
 吉行淳之介は子供の頃から亡くなるまで入退院を繰り返していたが、「体が弱い分、細胞レベルの感性で多くのことを感じられる」という言葉を残している。病気を含め、一般的に「幸せというラベル」を貼られない状況にある時、それさえも生活の一部と認めて、新たな自分探しをできるのは、誰にでも出来る可能性はあるのだろうか。
 石原裕次郎は「寿命を縮めても酒を飲みたい」と言ったが認められなかったとの事。逆に認めると、さじを投げるようで難しい。このような「○」か「×」しかない状況でも、「△」~(少しならいいよ)があれば人生も楽になると思う。「○」や「×」の状況に自分がいるときでも、「△」には何とか行けそうな気がしたり、行けるかもしれないからである。

 ところで、花の美しさを否定する人は少ないけれど、同じ花でも「○」や「×」の状況から眺めた場合は、当然違ったものに見えると思う。吉行淳之介のように一般的にマイナスといわれる側にいても、独自の視点で周囲を見つめられれば幸福だと言えると思う。人生が思いようでどうにでもなるものなら、もっともっと楽しんで生きられるのかもしれない。
 「△」のポジションで暮らすのもいいかも