絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

芸術(芸能)におけるスタイル

2006年03月24日 14時29分16秒 | Weblog
前々から、あるひとつのことがずっと頭の片隅に引っかかっていた。

それは、芸能でも芸術でもなんでもいいのだが、
一つのことを窮めた人、あるいは窮めようとストイックなまでに
精進を重ね、かなりな水準に到達した人というのは、
同じことをなしても、他者と全く異なる、その人独自の型(スタイル)を
形成するのではないかということだ。
このことに気づいたのは、最初は「ピアノ演奏」次に「バイオリン」
そして「狂言」「二胡(中国のもの)」「ギター」「三味線」…他に朗読。
まだまだこれからももっとそのことを発見していくだろう。

たとえていえば、同じ曲を演奏していても、その奏者によって
まったく異なる曲に聴こえる、ということだ。
それは、音の長短や早い遅いや強弱という、目に見えた差異ではないのだ。
なんだろう?音の色が違うというか…
そして、ひとりの演奏家がどの曲もすばらしく均一にうまいかというと
そうでもなく、ある曲はAという演奏家がすばらしく
また、ある曲はむしろBのほうが胸に迫ってくるものがあるとか
そういう違いもあるのである。

音楽だけでなく、たとえば「狂言」でよく知られている
『萩大名』というのがあるが、これなどは同じような動作を演者は
しているのだけれども、やはり、その人のもつ味わいみたいなものが
違うように感じるのだ。

このスタイルの違いについて書いてある本を見つけた。
斎藤孝「スタイル間コミニュケーション論 生き方のスタイルを磨く」
太宰治の短編をとりあげて人間の「癖を技に変える生き方」について
書いており、なかなか興味深い。


今様

2006年03月24日 13時54分58秒 | 一絃琴
「今様」とは、当世風な、という意味で歌詞は七五調、
曲調は越天楽(平調)を基にしているようだ。
それぞれの時代の流行り歌を、越天楽の調べにのせて歌う
つまり替え歌のようにして、神社などで披露されていたのだろう。
本文は長いので、春の部分だけ書いておく。

春の弥生のあけぼのに 四方の山辺を見渡せば
花盛りかも白雲の かからぬ峰こそなかりけれ

この歌の旋律は、黒田節とほとんど違わない。
上の歌を、黒田節の「さあ~けえ~わ~、のお~めえ~のおめえ~」に
当て嵌めてみるとすぐわかる。
黒田節があって、今様になったのではなく
筑前地方の民謡として歌われた<筑前今様>が黒田節のルーツであり
そのようにして各地で当世風の歌が歌われていたということのようだ。

一絃琴の歌と演奏は、他の邦楽の伝統のように何百年と濃密に
引き継がれたものとはいいがたいが、
ルーツをさぐり、その変化の歴史をたどってみるのは結構楽しい。
演奏会などで、自分たちのへたな演奏を棚に上げ、
「一絃琴は他人に聴かせるものではなく、自らの心に向かうものである」
などと、解説しているのをきくとがっくりきてしまうが
基本的に、弾いて自らのこころの中を旅する、ということには異論はない。