――行くべきか行かざるべきか、それが問題だわ――
凰鈴音は人生の命題に直面していた。
時は夜の11時に差しかかろうというころ。
場所はIS学園の学生寮。
曲がり角をひとつ挟んだ先には『1025』と刻まれたナンバープレートが掲げられたドアが見える。
言うまでもなく、あそこは一夏の部屋だ。
――行くべきか行かざるべきか――
凰鈴音は――鈴は人生の命題に直面している。
人生の命題とは言うまでもなく、一夏の部屋に行くべきか行かざるべきかということだった。
時は夜の11時に差しかかろうというころ。
冷静に考えると、異性の部屋を訪ねるのってどうよ? という時間帯だ。
一夏の性格を考えれば、いかがわしいあれこれなど起きようはずもないのだが、この場合そういうのは関係ない。
夜遅くに男の部屋を訪ねるなんて意味深なことこのうえないし、体裁だって決してよくはないし、何より鈴自身が一夏に「こいつって夜中に男の部屋にくるような軽い女なのか」とか思われるのは我慢ならなかった。
いや、一夏がそんなふうに思ったりはしないというのはわかりきっているので、これはあくまでも鈴の持つ貞操観念と女としてのプライドが混ざりあった化学反応の結果ということになる。
場所はIS学園の学生寮。
さほど寮則が厳しくないとはいえ、あまり遅くまで部屋の外を出歩くことは奨励されていない。
が、だからといって全員が全員、決まった時間に寝静まっているわけでもない。今も廊下はシンと静まり返っているが、寮生の誰かが通りがかる可能性はゼロではなく、寮監の山田麻耶が見回りにくることも考えられる。
つまり長い間ここに留まっているのも危険なのだ。
前に進むにせよ、後ろに退くにせよ、鈴はできるだけ早く決断を下さねばならない。
「……あー、もう……」
弱気の虫が「じゃあこのまま戻っちゃってもいいんじゃない?」と囁く。
そもそも一夏に特別な用事があるわけではなかった。鈴の胸にあるのは、寝る前にちょっと顔が見たくなったとか、寝る前に少し話せればいいなあとか、その程度のささやかな想いでしかない。しかし、ささやかな想いだからこそ、いざ一夏に出迎えられたとき、一夏に「こんな時間にどうした?」と訊ねられたとき、鈴は答える術を持っていないのだ。
というか、一夏を前にしたらテンパるのが目に見えていた。
前もって適当な理由をでっち上げていたとしても、いざ一夏の前に出たら絶対にキョドるのが凰鈴音という女なのだ。そして少しでも「こいつ俺に会いにきたんじゃねえの」とか「こいつってひょっとして俺に気があるんじゃ」とか感づかれたら死ぬしかない。むしろ殺すしかない。一夏を。動機は「恥ずかしかったから」。
ようするに鈴は。
どうしようもなく意地っ張りで。
どうしようもなく照れ屋で。
極めつけとして――肝心なときに意外とヘタレだったりする。
このへんの思惑が複雑怪奇に絡み合い、鈴は廊下で足を踏み出せずにいる。
それでも、すぐに部屋に戻ろうとしないのは、鈴は鈴なりに、多少なりとも焦りを感じているからだった。
ぶっちゃけ、転校してきた当初は、それほど危機感を持っていなかった。
たしかに女子の中にひとりだけ混ざって鼻の下を伸ばしている(あくまでも鈴の主観で)一夏を見ているのは腹が立ったし、ちょこまかとまとわりついているポニーテールと金髪は目についたが、鈴は彼女たちに比べれば大きなアドバンテージを得ていると思っていた。最終的に一夏と結ばれるのは自分であるとも思っていた。
なにせ近年の一夏と一番長い時間を過ごしたのは自分なのだ。
出会いこそファースト幼なじみに後れを取っているものの、ブランクがたった一年――鈴にとっては一日千秋の思いで過ごした一年だったが――しかない優位は揺るがない。ましてや一夏と出会ったばかりであろう金髪や、その他大勢の女子生徒など最初から相手にならない。しかもあたしには『約束』もあるし……と、鈴はぶっちゃけタカをくくっていた。
しかし、ここにきて状況は大きく変化している。
もはや予断を許さなくなっているというのは、決して鈴の思い込みではない。
いくつか要因は思い当たるが、特にあれだ。
クラスが別というのはマズイ。マズすぎる。
中学のときは同じクラスだったから意識したことがなかったが、こと学園生活においてクラスが違うというのは途方もないディスアドバンテージになる。それこそ、数年早く出会い、数年長く付き合いがある程度のアドバンテージが消し飛んでしまうほど、二組の鈴は大きな大きなハンデを背負ってしまっている。
だから、鈴はここにいるのだ。
特別な用事があるわけでもないのに、様々な葛藤を抱えつつ、一夏の部屋を訪ねるかどうしようか迷っているのだ。
と。
そんなふうに悶々としている鈴の脇を、銀色の影がふわりと横切る。
鈴がハッとして影を目で追いかけると、〝それ〟は躊躇のない仕草で『1025』のドアをノックした。
「一夏、私だ。入るぞ」
銀色の影は、返事を待たずにドアを開け、そして部屋の中へと入っていく。
呆気に取られた鈴の瞳に映るのは、ぱたん、と軽い音を立てて閉まったドアだけだ。
「…………」
あまりの出来事に、鈴の思考は完全に麻痺していた。
目の前で起きたことがなんなのか、まったく理解が追いつかない。
五秒。
十秒。
二十秒。
そして、静寂の中で硬直していた鈴は、たっぷり三十秒が経過したところで、
「……………………ふっ、」
ふざけんな――――――――――――――――――――――――――――――っ!!
心の中で、高らかに理不尽を叫ぶ。
このときの鈴に大声で叫ばないだけの理性が残っていたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。
鈴は2組だけど必要【いる】
心理的パラライズから回復した鈴は、すぐさま行動に移った。
疾風のような速さで『1025』のドアを開け、室内に駆け込んだのである。
ノックはしなかった。
ドアに鍵がかかっていなかったのは、誰にとっても幸運な結果だったに違いない。もしも鍵が閉まっていたら、それは「密室の中で一夏とラウラがふたりきり」ということに他ならないので、おそらく鈴はISを装着することも厭わず寮の壁をぶち破っていただろう。
「~~~~~~っ、一夏あっ!」
鈴は背中でドアの閉まる音を聞きながら、矢も楯もたまらず室内に踏み入り、
「りっ、鈴!?」
「――――」
驚きに両目を見開く一夏を視界に収め、
まるで鏡合わせのように、自らの両目を見開いて、
再びすべての行動を停止した。
「――なっ、な、なっ、ななな」
鈴の口元がわななく。
目の前の光景が信じられない。
寮の部屋は、基本的にすべて同じ間取りになっている。ベッドや机は備えつけであるし、鈴は何度か一夏の部屋に入ったこともあるので、いわば目の前の光景は〝見慣れている〟はずなのだ。
が、決定的な差違が、存在していた。
「……うん? どうして手を止めるのだ?」
その決定的な差違――ラウラは鈴が入ってきたことなどまるでなかったかのように、ベッドの上でいわゆる女の子座りをしていた。
そして、ゆったりとした黒いパジャマに、特徴的な黒い眼帯を身につけたラウラは、長い銀髪の世話を一夏に任せきりにしている。ふてぶてしくも可愛らしい子猫のように、少し眠たげな目つきで突然の闖入者が大口を開けているのを見つめていた。
「お前ってホント動じないのな……で、どうした、鈴? なにか用事か?」
ため息混じりに呟き、一夏が手の動きを再開する。
その様子を呆然と眺めていた鈴だったが、一夏の声で我に返ったのか、憤然とした表情で八重歯をむき出しにした。
「よ、用事か? じゃないわよ! なにしてんのよ! アンタたち!」
「なにって見りゃわかるだろ」
一夏はあっけらかんとした様子で、
「ラウラの髪をとかしてるんだ」
ラウラは一夏の回答に満足そうに頷き、
「嫁に髪をちゃんとしてもらっているのだ」
「そっ」頭に血が上りすぎて目の前が暗くなりかけた鈴だったが、ギリギリのところで踏みとどまる。「そうじゃないっての! あたしが聞いてるのは、どうしてアンタたちがそんなことをしてんのかってことで――」
ああもう、と鈴は今にも地団駄を踏みそうな剣幕だ。
正直な話、鈴はもうなにもかもが気に食わなかった。
ラウラが一夏の部屋にいるのは、まあいい。本当はよくないが、これに関しては自分も似たり寄ったりなので百歩譲って許そう。
一夏がラウラの髪をとかしているのも、まあいい。本当はよくないが、一夏を何発か引っぱたくくらいで勘弁してやってもいい。
しかし、それ以外は完全にNGである。
具体的には、ベッドに一緒に乗っているというのが、ダメ、絶対。
というか、それだけでは飽きたらず、一夏とラウラはまるで恋人同士がするようにベッドの上で身を寄せ合っていた。なんていうか距離が近すぎる。髪をとかすときに自然とこういう体勢になるのは、理屈としては当然だが納得はできない。
しかも、一夏の手つきが妙に手慣れている。いやらしい。
しかもしかも、室内の照明をしぼって、ベッドライトだけがふたりのシルエットを際立たせているのは妙にムーディーでいやらしく見えるのはどういうことだ。
しかもしかもしかも、一夏が労るように櫛を通すたびラウラがうっとりとしているのは、鈴にとっては悪い夢としか思えないほどいやらしい光景だった。
「うむ……」
などと考えている間にも、ラウラの身体が一夏のほうに寄りかかっていく。
実際は眠気に襲われたラウラがうとうとしているだけなのだが、鈴の目には「もっとお前のやりたいようにやってもいいのだぞ」みたいな扇情的な台詞が似合う仕草に映った。
もはや予断を許す状況ではない。
ここで勝負に出なければ終わる。
凰鈴音の初恋は終わってしまう。
鈴は決断した。
いつもみたいにISを展開して邪魔をする、なんて考えはハナから頭になかった。今ここで振りかざすべきは『甲龍』ではなく、そう、女である自分自身の武器なのだ、と鈴は天啓を得た思いで行動に移った。
ここだけの話、鈴もかなり眠気が強くなっているので、思考力が低下しているのである。
勉強と訓練に明け暮れるIS学園の学生は、大なり小なりの差はあれ、早寝早起きするのが当たり前の健康優良児たちなのだ。
鈴はぐるりとベッドの端から回り込み、一夏たちのいるほうに近づく。
そして素早く上履きを脱ぎ捨てると、栗色の長い髪をなびかせながら、ちょうどラウラの隣あたりに同じ女の子座りの格好でダイブした。
「おっ」「む」
波打ったベッドの上で、一夏とラウラは上手くバランスを取って、傍らの鈴を見やる。
鈴はふたりと視線を合わせようとはせずに、そっぽを向いたままぽつりとこう言った。
「……あ、あたしにも同じこと、しなさいよね」
*****
勢い込んで頼んでみたのはいいが、鈴は早くも軽く後悔しはじめていた。
なにせ今の自分は、寝間着で一夏のベッドの上に乗っているわけで、さしものセカンド幼なじみとはいえ、これは初めての体験、いや、経験だ。
ラウラという部外者(あくまでも鈴の主観で)こそいるものの、中学のときに弾を加えて一夏の部屋で遊んだり、修学旅行のときに皆で騒いだりしたのとはわけが違う。
そんなふうに意識すると、ベッドライトのみの照明は雰囲気作りにもってこいのように思えるのだから不思議なものだ。更に鈴にとっては幸か不幸か、部屋に入ったときから感じていた一夏の匂いが、近づいたことによって更に濃く感じるようになっている。
気を抜くとのぼせてしまいそうなので、鈴は必死で「あたしは匂いフェチじゃないあたしは匂いフェチじゃない」と心の中で唱え続けた。
「えーと、同じことってのは、ラウラにしてるのと同じって意味でいいんだよな?」
「そ、そうよ」
「ホントにいいのか?」
「あ、あたしがいいって言ってんだからいいのよ。それともなに? ラウラにはできてあたしにはできないっていうわけ?」
「べつにそういうわけじゃないけどよ」
一夏の声を聞く限り、ほんの少し戸惑っているが、さほど大きな違和感を覚えているというわけではなさそうだ。
鈴は内心で胸を撫で下ろし、最低限の落ち着きを取り戻した。
そうなのだ。一夏は並の唐変木ではない。女心の機微などというデリケートなものを察せるはずがないのだ。
しかし、それはそれで気に食わないところがないではない。自分がこれだけ舞い上がっているのに一夏だけ平然としているのはずるい、という理不尽な想いが頭をかすめる。
元々一夏は、千冬というとんでもない美人でスタイルのいい人が身内で、しかもべったりと世話をしていたせいか、こういうことに慣れている。付き合いの長い鈴は、そのへんも承知しているのだが、だからといって「はい、そうですか」なんて鷹揚に受け容れることはできない。
できれば自分がドキドキしている半分くらいは、一夏もドキドキしてくれたらいいのに、とは思うのだが、
「じゃあ、痛かったら言えよ?」
平然とした口ぶりを聞くに、一夏はどこまでも平常心を保ったままらしい。
鈴はひそかにため息をもらす。
見た目はともかく、自分のスタイルに関しては蚊ほどの自信も持てない鈴である。いわんや千冬と比べたら月とスッポンどころか、比べることさえおこがましいほどの歴然とした差があるのだ。
「……おい、貴様どういうつもりだ」
人知れず鈴が落ち込んでいると、横に座ったままのラウラが、ドスを効かせた声でささやいた。
どうやらひと騒ぎあったせいで、完全に意識が覚醒したらしい。まどろみの中にいるときとは雰囲気が一変し、ぎらぎらした殺気を放つその様は、さしづめ猫が虎に変わったかのようにも感じられる。
とはいえ、鈴も代表候補生を務める身にして、恋する乙女の端くれである。
この程度で怯んではいられない。
相手が恋敵であるなら尚更だ。
「なんの話よ?」
「しらばっくれるな。夫婦水入らずのひとときを邪魔しておきながら、いけしゃあしゃあと」
「だったらこっちも聞きたいんだけど。アンタさ、どうして当たり前みたいな顔して、こんな時間に一夏の部屋にいるわけ?」
「私は一夏の亭主であり、一夏は私の嫁だからな。夫婦の間では時間など傷害にはならん」
「っていうか、あたしその夫婦っての認めてないんだけど」
「お前の許可など必要ない」
「なんですって……ひゃん!」
徐々にヒートアップしつつあった鈴だったが、首筋に触れた感触に思わず悲鳴を漏らしてしまう。
「あ、悪い」
「へ、ヘンなとこ触らんないでよっ!」
「ん? ヘンなとこって、ちょっと首の後ろに当たっただけだろ?」
「あ、アンタにとってはそうかもしれないけど、あたしにとってはねえ……!」
どちらかというと普段から積極的にスキンシップをとる鈴だが、それはあくまでも「自分から」という条件つきの話だったりする。つまり「相手から」スキンシップをとる――触られることには、まったくもって耐性がないのだ。
そしてマズイことに、うなじのあたりに触れられ、鈴は背後を強く意識してしまった。先ほどまで一夏がラウラにしていた行為を、頭の中でそのまま自分に置き換えてイメージしてしまい、一度は収まった鼓動がぶり返しそうになる。
「ま、次から気をつけるって。つーか、ふたりともあんまりうるさくするなよな。時間が時間なんだから」
「う」
「む」
一夏に注意され、鈴とラウラはバツが悪そうに視線を交わらせた。
「あと夫婦云々はともかく、ラウラが俺のとこにきたのは、マジで髪の毛を乾かしたりするためだぞ」
「……はあ?」
よく意味がわからない、という反応を返した鈴に、一夏は手を動かしたまま話し続ける。
「いや、前にシャルと三人で話してるときに聞いたんだけどよ。ラウラって今まで髪を洗ったままほったらかしにしてたらしいんだよな」
「え……」鈴は隣のラウラをまじまじと見つめる。「マジで?」
ラウラは堂々と鈴の視線を受け止め、腕組みをして頷く。
偉そうな仕草なのに、最初のころに身に纏っていた威圧感のようなものは完全に消え失せている。
「ああ、そのとおりだ」
「どうしてそんなに自信満々なのよ……」
口元を引きつらせながら一夏のほうに振り返ると、苦笑混じりに「だろ?」とでも言いたげな表情を浮かべていた。
鈴も年頃の女子として、人並み以上には身だしなみに気を遣っている。というか、一般的な基準に照らし合わせても、女子が髪の毛を洗いっぱなしにしておくなどというのは言語道断だと思う。
「それを聞いたシャルが驚いてさ。『ちゃ、ちゃんとお手入れしなきゃダメだよ! え、でも手入れしてないのにこんなにキレイなのってズルイよ!?』とか言って。あれ以来、シャルがあれこれ世話を焼いてやってるんだ」
「シャルロットなら言いそうね……ていうかアンタの物真似は似てなさすぎて引くわね」
「そ、そこは流せよ。べつに物真似したわけじゃねーし」
「ふふん、一夏って昔っからおかしなところにこだわるわよね」
「……とまあ、そういうわけで」一夏はわざとらしく咳払いをする。「いつもはシャルが手入れしてるんだが、今日は先に寝ちゃったから俺のところにきたってわけだ。な?」
一夏に話を振られ、ラウラは腕組みを崩さず、実に満足そうに頷く。
「うむ。今夜は本国と連絡を取る必要があって入浴の時間が遅れたのだ。私の用事のためにシャルロットを起こすのも気が引けたので、嫁に頼もうと思ってな」
「……まあ、それで一夏の部屋にくるってのは気に食わないけど。なによ、普通に気遣いもできるんじゃない」
ラウラとシャルロットが仲良くしているのは知っていたが、彼女は基本的に他人などお構いなしで、唯我独尊を地でいくタイプだと思っていただけに、鈴は驚きを隠せなかった。
もっとも鈴のラウラ評は当たらずとも遠からずといった感じであり、むしろIS学園で過ごすことで最近のラウラが変わってきたと考えたほうが正しいのだろう。
「アンタね、髪は女の命なんて言葉があるくらいなんだから、シャルロットや一夏に頼りきりじゃなくて自分でもちゃんとできるようになりなさいよ」
「ふん。余計なお世話だ」
「ぐっ、ひ、人がせっかくアドバイスしてやったってのに」
邪険にされた鈴は肩をぷるぷると震わせる。
べつに敵意を抱いたわけではなく、言うなれば「他の人には懐いている子猫が自分にだけ懐かなかった」みたいな悔しさがこみ上げてきたのだ。
そんなふたりの様子を後ろから眺めていた一夏は、吹き出しそうになるのを堪えながら言った。
「髪は女の命ね――そういや、鈴の髪はキレイだよな」
「……………………………………ふえ?」
一瞬、なにを言われたのかわからず、鈴の口から間抜けな声がこぼれる。
遥か彼方に置き去りにされた『理解』が、必死に追いつこうと、鈴の脳内で一夏の台詞をリフレインさせた。
鈴の髪はキレイだよな……鈴の髪はキレイ……鈴はキレイ……。
よくよく考えてみると、あまりにも「気さくな友人」、「ざっくばらんな関係」というのが板につきすぎているせいか、鈴は一夏に容姿を褒められたことがほとんどない。一緒にいると楽しいとか、気を遣わずに付き合えるとか言われるのはもちろん嬉しいのだが、やはり鈴も女としてのあれこれを評価されたいという気持ちはある。
だからいきなり一夏に自分の髪を褒められて、鈴は喜ぶよりも先に、意外すぎて反応できなかった。
「これってなにか特別な手入れとかしてるのか?」
「え、あ、そ、その……べ、べつに……ふつう……だけど……」
鈴はくにくにと両手の指先を合わせながら、消え入りそうな声で答える。
できれば一夏がどんな顔をして話しているのか見てやりたかったが、あまりに恥ずかしすぎて振り返ることなどできそうにない。
「へえ。それでこんなにキレイになるなら、やっぱ男とは作りが違うんだなあ」
「き、キレイ……ま、またキレイって……」
「あと、何気に髪をおろしてるのって珍しくないか? 鈴といえば髪を結んでるイメージだったけど」
「そ、そんなの、寝る前まで結んでるわけないでしょ」
この期に及んで強がる鈴だったが、その口調にはまったく力がない。
「たしかにそっか。ま、あんまり見たことなかったけど、その髪型も似合ってるぜ」
「――っ!」
一夏の殺し文句に、鈴は顔を真っ赤にするだけでは飽きたらず、頭のてっぺんから湯気を出しそうなくらいのぼせあがってしまう。
「一夏」ピンク色に変わりはじめた空気の中、硬い声を出したのはラウラだ。「私の嫁ともあろうものが私の前で他の女を褒めるとは何事だ。ちゃんと私も褒めろ」
「は、はあ? いきなりなんだよ。……ラウラの髪もキレイだぞ?」
「ダメだな。いかにもとってつけたような感じがする。もっと自然に褒めろ」
自分で要求しておきながら自然もくそもあったもんじゃないだろ、と一夏は思うのだが、肩越しに振り向いて拗ねた表情を見せるラウラを見ていると、反論するのもはばかられる。
「くっ……一番の強敵はシャルロットだと思っていたが他の敵もあなどれんか……」
これはクラリッサに報告せねばならんな、とラウラは口の中で呟く。それから、どうしたものかと頭を掻く一夏と、初めて見るくらい緩みきった状態の鈴を横目で見比べ、敵性戦力の評価を見直したのだった。
*****
「――よし、これでいいよな?」
「あ、ありがと」
「むう」
鈴とラウラの髪をとかし終え、ベッドの上であぐらをかいていた一夏は、安堵の息を吐き出して両膝にぽんと手を乗せる。
態度には出していないが、一夏もそれなりに緊張していたのだ。どんなに唐変木と言われようと、一夏にも「同年代の女子が寝間着姿で自分の部屋にいる」というシチュエーションに対してまったく感じるところがないわけではない。
それに対して、当の同年代女子たちの反応は明暗がハッキリと分かれていた。
半分夢見心地でにへにへと八重歯を覗かせる鈴に比べ、ラウラは不満げにぷうっと頬を膨らませている。ラウラにしてみれば、一夏とふたりの時間を邪魔されただけではなく、自分がないがしろにされたような気がして納得がいかないのだ。
「そんなにふてくされるなよ、ラウラ。せっかくの可愛いパジャマが台無しだぞ?」
「んなっ!?」
「ほら、かぶせてやるからさ」
反射的に身を引いたラウラだったが、そもそもベッドに座ったままなので、大して距離を取ることができない。結果として、一夏にされるがまま、ラウラは猫耳のついたフードですっぽりと頭を覆われることになる。
「ば、馬鹿者……! どうしてお前はそうやっていつもいつもっ」
「ん? いつもなんだ?」
「し、知らんっ、知るかっ」
もぞもぞと悶えるラウラをよく見れば、着ているパジャマにはなぜか猫耳の他に肉球までついていた。黒猫を模したそれは、パジャマというより着ぐるみに近い。これまで自分のことで手一杯で気づかなかった鈴も、ようやくラウラの一風変わった格好に気づく。
「ふーん……アンタってそういうのも意外と似合ってんじゃない」
「お、お前までなにを言うか!」
常であれば一夏に対し「この女ったらしめぶん殴ってやる」となりそうな鈴だったが、かなり虫の居所がいいこともあってか、状況を冷静に判断することができていた。
なるほど。たしかにラウラには馬鹿馬鹿しいほど黒猫の着ぐるみがよく似合っている。欧州人特有とまでは言わないが、ラウラは目を見張るほど容姿が派手なので、少し過剰なくらい可愛らしい服装のほうが映えるのかもしれない。
それに、こうして一夏や自分の一言に照れている様子は、どこにでもいる普通の女の子にすぎなかった。いや、正確には、どこにでもいるはずがないくらい、とんでもなく可愛らしくて愛らしい女の子である。最初のころの冷徹な印象を引きずっていた鈴にとっては、新鮮な発見に他ならない。
「ま、だからって負ける気はしないけどね」
「ふん。それはこっちの台詞だ」
同じ想い人を持つ者同士、なにか響き合うものでもあったのだろう。
鈴とラウラは奇妙な連帯感を持って、水面下で火花を散らしていた。
「ふたりともなんの話をしてるんだよ?」
「秘密よ」
「秘密だ」
そのとき、部屋の中に控え目なノックの音が響く。
鈴たち三人は思わず顔を見合わせるが、ノックの主に見当がつくはずもない。
「はーい」
一夏が返事をしてベッドから下りると、ドアの向こうから遠慮がちな声が聞こえてくる。
「い、一夏? こんな時間にごめんね。……起きてるかな?」
「あれ、シャルか? どうした?」
「あっ、お、起きてたんだねっ」
「おう。カギはかかってないから入ってくれ」
そんなふうに平然と言う一夏は、どうやら本気で「シャルはどうして訪ねてきたんだ?」とか考えているようだったが、鈴とラウラは違う。ふたりはアイコンタクトを交わし、「シャルロットは寝てたんじゃないの?」「たしかに寝入っていた」「じゃあどうして一夏の部屋にくるのよ」「目が覚めたのだろうな。それで私がいないことに気づいてここにきたのだろう」くらいの無言のやり取りを行う。
「ご、ごめんね、突然押しかけちゃって」ドアを開けて室内に入ってきたシャルロットは、予想がついていたのかベッドの上のラウラに目を留めた。「あーっ、ラウラってばやっぱり一夏のところにいたしっ」
ドアを開けて室内に入ってきたシャルロットは、ラウラの着ぐるみと同じ、色違いのものを身につけていた。ラウラの黒に対し、シャルロットは白だ。
鈴もなんとなくそうじゃないかなあとは思っていたが、どうやらラウラのパジャマを選んだのはシャルロットだったようだ。さすがにコレは、ラウラのセンスではない。はず。
お揃いにするあたりが抜け目ないというか、ラウラへの配慮も怠らないあたりがなんともシャルロットらしい。そしてそれは、誰かと出くわす可能性は低いとはいえ、あの格好で出歩くことができる根性も含めての話だ。
人知れず鈴が恋敵たちへの理解を深めていると、シャルロットの視線がラウラから自分のほうに移ったのが見てとれた。
「……えっ? あ、あれっ? 鈴?」
「あー……こんばんは」
なんと言ったものかわからず、間が抜けていることを理解しながらも、鈴はゆっくりと片手をあげて晩の挨拶をする。
すると、シャルロットはみるみるうちに顔を赤くして、あたふたしはじめた。
「そ、そんな、ラウラだけじゃなくて鈴までっ? ひょ、ひょっとして三人でっ!? だ、ダメだよ一夏っ、三人までは夢でみたことがあるけど、四人は未知の領域だよっ!」
白猫の着ぐるみで狼狽するシャルロットの姿は、さすがに珍妙に見えた。
「な、なあ、鈴。シャルがなにを言ってるのかわかるか?」
「知らないわよ。……って言っとくわ。武士の情けで」
肩をすくめて左右に首を振る鈴。
「うむ。武士の情けだ」
同じジェスチャーを繰り返すラウラ。
「あ、あれ? なんだかふたりともすごく息が合ってない?」
ピタリとシンクロした鈴とラウラを見て、シャルロットは不思議そうに首を傾げる。
「そんなことないんじゃない?」「そんなことないぞ」
「え? ちょ、ちょっと一夏、これってどういうこと?」
「いや……俺にはもうなにがなんだかサッパリだぜ……」
完全にギブアップした一夏を尻目に、鈴とラウラは訳知り顔で頷いていた。
「でもねえ……シャルロットって意外とアレだったのねえ……」
「そうなのだ。シャルロットは意外とアレなのだぞ」
「あ、アレってなにさ!? 僕はアレじゃないよ!? ていうかふたりともなにがあったのか教えてよーっ!」
最初の思惑からはだいぶ外れてしまったが、たまにはこういうのも悪くない。
鈴はラウラと不敵な笑みを交わし、シャルロットの絶叫をBGMに、IS学園の夜は更けていくのだった。
おしまい
住宅街を歩く男女が一組。
彼と彼女は、知る人ぞ知る――どころか、知らない人のいないレベルで有名なIS学園の白い制服に身を包んでいた。
彼。
そう、彼である。
女性のみが動かすことのできるISの操縦技術を学ぶIS学園には、必然的に女生徒しか通っていないことになる。
にも関わらず、IS学園の制服を着た男。つまり男子生徒。
一見してどこにでもいるような普通の少年であるが、彼こそが世界で唯一ISを操縦することができる男、織斑一夏その人であった。
「いやあ、ホント助かったぜ」
両肩に大荷物を抱えながら、一夏は満面の笑みを浮かべる。
「ありがとな、シャル」
「う、うん。お役に立ててなによりだよ」
一夏の隣を歩いている金髪の女子は、彼と同じくIS学園に通うフランスの代表候補生シャルロット・デュノアだ。
「……あのさ、一夏。やっぱり僕がひとつ持つよ」
シャルロットは少しバツの悪そうな様子で、ひと抱えもあるダンボールを二つ担いだ一夏を見やる。それほどキツそうではないのだが、肩を並べて歩いている相手が荷物を持っているのに、自分だけ手ぶらというのはどうにも居心地が悪い。
「いいっていいって。これくらい軽……くはないけどさ」
「だったら」
「軽くないからこそ、女の子に持たせるわけにはいかないだろ?」
「う……そ、そう?」
「ああ。気にすんなよ」
そんなふうに言われて、シャルロットは意識せずとも頬が熱くなってしまう。爽やかに微笑む一夏がかっこいいやら、ごく自然に女の子扱いされて嬉しいやらで、もうなんていうかどうにかなってしまいそうだった。
実際のところ、一夏の荷物はけっこう重い。なにせあれは、ホームセンターで安売りしていた「お一人様一ケース限り」の洗剤なのである。
レジに並ぶときに自分でも持ってみたので、一ケースに八つ入った洗剤がそこそこの重量なのは身に染みてわかっている。それをふたつ抱えてもへっちゃらなんて、やっぱり一夏は男の子なんだなあ……などと考えてしまい、シャルロットはますます頭の中が煮えてきた。
このままではまずい。
口を閉じていたら身体の中に熱が溜まってオーバーヒートしてしまうかもしれない。
シャルロットは必死で思考を回転させ、どうにかこうにか話題を捻り出す。
「で、でも、あのホームセンター? だっけ。初めて行ったけど、面白い場所だよね」
「だろ!? いいよな、ホームセンター! あそこには全てが揃ってるっていうかさ、Do It Yourselfの精神っていうかさ。シャルも気に入ってくれるなんてマジで嬉しいぜ!」
「ぼ、僕が気に入ると嬉しいの?」
「そりゃそうだろ! 今まで俺の周りにホームセンターのよさをわかってくれるやつなんていなかったんだぜ!?」
冷静に考えれば、この発言こそ「そりゃそうだろ」なのだが、シャルロットはなによりも自分絡みで一夏が喜んでいるのが嬉しかった。むしろ「今までホームセンターのよさをわかってくれるやつがいなかった」というのを、「僕が一夏にとって初めての相手」くらいにまで膨らませて解釈していた。煮えているのだ。
そもそも、一般的にホームセンターの素晴らしさを熱っぽく語る男は、所帯じみているのを通り越してやや気持ち悪い。が、それはそれ。あばたもえくぼというやつで、惚れた弱みはあらゆる事象を好転させるのであった。
「っと、悪い。俺、熱くなりすぎだな」
「ううん、そんなことないよ。一夏の好きなものがわかって、その、僕も嬉しいし」
ぶっちゃけ一夏に参ってしまっているシャルロットにとっては、一緒に外出できただけでもかなりの幸運だったと言っていい。口にしたのは紛うことなき本心である。
しかし、だからこそシャルロットは胸の奥に小さな棘が刺さったような引っかかりを感じていた。
どこからかホムセンの特売情報を聞きつけ、学園に外出許可をもらって出かけようとしていた一夏と出くわしたのが一時間ほど前の話。シャルロットがこうして買い物に付き合えることになったのは本当に偶然だったが、どうしても抜け駆けをしてしまって申し訳ないという罪悪感がつきまとう。
篠ノ之箒。
凰鈴音。
セシリア・オルコット。
ラウラ・ボーデヴィッヒ。
他、大勢。
シャルロットの脳裏に、幾人もの同年代女子たちの顔が浮かんでは、消える。
彼女らは、皆少なからず一夏に対して好意を寄せている同級生たちだ。
シャルロットは、その事実を知っている。
そしてシャルロットが参ってしまっているのを、彼女たちも知っている。
だから一夏と二人きりで出かけるというのは、天からの贈り物に等しいイベントであると同時に、根が優しいシャルロットにとっては「抜け駆けしてしまって他の娘に申し訳ない」イベントでもあるのだった。
「どうかしたか? ぼーっとして」
黙り込んだシャルロットを気にしてか、一夏が訊ねる。
「なんか浮かない顔してるな。疲れたか?」
普段は唐変木・オブ・唐変木ズの名を(一部で)欲しいままにするほどニブいのに、一夏は時折、超人的な察しの良さを発揮することがあるからタチが悪い。
こんな気遣いを見せられたらますます好きになっちゃうじゃない……一夏のバカ……。
と、いい感じに煮えた思考を表に出さないようシャルロットは必死で平静を取り繕う。
「だ、だいじょびゅ」
噛んだ。
まったく取り繕えていなかった。
うわあ僕ってばなにやってるんだろ! 口から心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしてるしきっと顔も真っ赤だしこんなに焦ってたら一夏に色々バレちゃうよ! ……でもバレたらバレたで一夏は僕の好意を受け止めてくれるかも……いつも優しくしてくれるし……お、お風呂も嫌がってなかったし……少なくとも僕のこと嫌いじゃない……よね?
あれこれと都合のいい想像を頭の中で巡らせるシャルロットだったが、
「ははは、シャルは面白いな」
「……お、面白い……」
それって女の子の評価としてどうなのよ、みたいなことを言われて、がくっと肩から力が抜け落ちた。
結論。
やっぱり一夏は唐変木でした。
唐変木・オブ・唐変木ズでした。
満場一致。異議なし。
「ま、これを置いてさっさと学園に戻るか」
シャルロット脳内会議で不名誉な烙印を押されたことなどつゆ知らず、一夏は軽くかけ声をかけて洗剤の箱を担ぎ直す。
と、
「あ」
ぽつり、と頬に当たる雨がひとしずく。
先ほどから泣き出しそうだった曇天が、ついに堪えきれなくなったらしい。
「一夏」
「ああ、急ごう」
ふたりは慌てて駆け出すが、雨足はあっという間に強まり、地面の色を塗り替えるまでさほど時間はかからなかったのであった。
<はっちゃけ! シャルロットさん>
織斑家に辿り着いたころには、ふたりともすっかり濡れ鼠になっていた。
まるで夕立の見本のような、見事な集中豪雨だった。
「うひー、午後の降水確率0%だったのによ。天気予報ってアテにならんよなあ」
一夏はぼやきながらも荷物を下ろし、ズボンのポケットから自宅のカギを取り出す。
そして手早く玄関を開けると、洗剤の箱にかぶせていた制服の上着を掴んだ。
「ちょっと待っててくれ。すぐにタオル持ってくる」
「う、うん」
シャルロットの返事を待たず、一夏はさっさと家の奥へと進んでいく。
玄関に残されたシャルロットは、一夏がそうだったように、頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れだ。
「……うわあ、うわあ」
しかし、今のシャルロットは、正直そんなことを気にしている場合ではなかった。
一夏が傍にいたときはロボットのようにカクカクしていたのに、姿が見えなくなると今度はもぞもぞと身悶えはじめる。なんだか一夏のいなくなった方を見ていられなくて、家の中に背を向けた。
「い、一夏ってば、一夏ってば、目の前で急に上着を脱ぐなんて大胆すぎるよっ」
ついさっき、雨が本降りになるや否や、荷物が雨ざらしになることを気にした一夏が、自分の制服を脱いでダンボールに上からかぶせたのだ。季節柄、制服の下にシャツ一枚という格好だったため、隣を走っていたシャルロットは目のやり場に困ってしまった。
露出度でいえば裸だって見たこともあるし、何度か着替えを一緒にしたことすらあるし、そもそもISを操縦するときに着るスーツも薄着には変わらないのだが、濡れたシャツがぴったりと肌に張りついているのは、そういうのとはちょっと意味合いが違う。
うっすらと透ける肌の色は妙に扇情的に見えてしまって、荷物を抱えて緊張した肩から首筋のラインはすごく男らしくて、いけないいけないと思いつつも、シャルロットは一夏に気づかれないよう横目でずっと様子をうかがっていたのである。
うかがっていたというか、正直「あの逞しい腕で抱きしめられたいなあ……」くらいのことは考えていた。
だからして、それほど長距離を走ったわけでもないのに、シャルロットの胸はずっとドキドキと高鳴りっぱなしだったりする。
「おーい、シャル」
「うひゃい!」
意識が半分妄想の世界にトびかけていたので、シャルロットはその場で飛び上がらんばかりに驚いた。
「な、なんだ今の? くしゃみか?」
「あっ、あーっ! そう! そうだよ! 僕のくしゃみっておかしいよねっ!」
苦しい受け答えをして、シャルロットは引きつった笑みを浮かべながら振り返り、
「わーっ! い、一夏! どうして裸なの!?」
想像だにしていなかった光景を目の当たりにして、慌てて両手で顔を覆った。
戻ってきた一夏は、上半身が素っ裸だったのだ。
「どうしてもなにも、シャツまでびしょ濡れだったからさ」
大きめのバスタオルを手に、一夏は自身の肉体を堂々と見せつけるように(あくまでもシャルロットの主観で)立っている。この手の機微にとことん疎いので、「女と違って男なんだからこれくらい見られても平気」としか思っていないのである。
ちなみにシャルロットは両手で顔を覆っているようで、実は指の間からチラ見しているというのは言うまでもない。
「ていうか、くしゃみって大丈夫かよ。こんなんで風邪ひいたらシャレにならないぞ」
「だ、大丈夫だから、一夏は何か着ようよ!」
「ん? まあ夏場だし、少しの間なら平気だろ」
僕が平気じゃないの!
と本心を吐露できるはずもなく、シャルロットはもはやパニック寸前になっている。
「俺のことはいいから早く……って。ああ……わかった。なるほどな」
「――っ!」
シャルロットの胸の鼓動が、一際大きく跳ねた。
わかった? わかったってなにが? ひょっとして僕がずっと一夏に対してドキドキしてるのがバレちゃったの? なるほどな、可愛い子猫ちゃんめ、俺が捕まえてやる、とか言うつもりなの?
あちらの方向に極まりつつあるシャルロットの気持ちを知ってか知らずか、一夏はいたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべている。それは見方によってはニヒルな笑みに見えなくもなく、シャルロットは緊張のあまりごくりと喉を鳴らした。
「あれだろ。シャルのことだから濡れたままうちに上がっちゃ悪いとか思ってるんだろ?」
一瞬、時が止まった。
少なくとも、シャルロットの体感時間は止まっていた。
だから、
「……………………………………はい?」
理解の追いつかないシャルロットにできたのは、ちょこんと首を傾げることくらいだった。
「ったく、シャルは遠慮深すぎるぞ。ちょっとくらい濡れても構わないんだから、早く雨の始末しちゃおうぜ」
それでもなお呆然とするシャルロットの様子をどう受け取ったのか、一夏はずかずかと玄関のほうへと歩み寄ってくる。
「ほら」
「わぷっ」
頭からバスタオルをかけられ、フリーズしていたシャルロットの思考回路が再起動した。
そうなのだ。
結局、一夏が唐変木・オブ・唐変木ズであるという事実は、世界がひっくり返りでもしない限り揺るがないのだ。
こんなのわかりきっていたことではあるのだが、それでも毎回期待してしまうのは気のある素振りをとる唐変木が悪いのか、あまりにちょろすぎる乙女心がいけないのか。
唐変木が悪いに決まってる、とシャルロットは即断する。
そしてそこまで考えて、なんだか無性に腹立たしくなってきた。
バスタオルの隙間から見える唐変木の顔は、とてもとても清々しいものだった。
シャルロットにはわかる。これがわかる程度には一夏とともに過ごしてきたから、わかってしまう。あれは「シャルのやつめ、まったくしょうがないな」みたいな、ちょっと上からの微笑みだ。
シャルロットとしては、テンパっている自分とは対照的に、余裕すら感じさせる一夏の態度に納得がいかない。
どうして上からなのさ、僕がこんなにドキドキしているのに一夏はいつもどおりなんてずるいよ、もっと僕のことを女の子だって意識してよ、とほとんど言いがかりに近い感情すら抱いていた。
「さっさとしないと俺が拭いちゃうからな」
冗談めかした口調で一夏が言う。
これが決め手になった。
シャルロットの中にある、入れてはいけない類のスイッチが入ってしまった。
シャルロットは優しくて気配りのできる女の子だが、家の都合とはいえ、性別を偽って代表候補生になるくらい負けん気が強い子でもある。
負けられない、とシャルロットは思った。
ここで引いたら負けだ、とも思った。
だから打って出た。
「そ、それなら……そうしてくれる?」
消え入りそうな声で、シャルロットは究極の攻撃兵器を振りかざした。
いわゆる、女の武器、というやつである。
「え? なんだって?」
「い、一夏が、僕のこと拭いて?」
「……はい?」
「僕がもたもたしてたら代わりに拭いてくれるんでしょ? そう言ったよね?」
「いや、たしかに言ったが……」
「お、男に二言はない……よね?」
大胆な行動に出たシャルロットだったが、実際には全然余裕がなくて、うわあ僕すごいこと言っちゃってる、はしたない子だと思われたらどうしようとか考えていた。正直、浴場に乱入したり、更衣室に連れ込むほうがよっぽど大胆なのだが、そういうのは完全に頭から吹っ飛んでいる。
どちらにせよ、ここまできたら引くわけにはいかない。
シャルロットはぎゅっと目を閉じて、もはや湯気が出そうになっている頭を、ゆっくりと一夏のほうに差し出す。
「ま、まあ、シャルがいいなら、俺はべつに構わないぞ」
タオルで拭くという行為そのものはまったく意識していなかった一夏も、妙に真剣なシャルロットの剣幕にはやや気圧され気味だ。
「じゃあ、拭くぞ?」
「はっ、はいっ、よろしくお願いしますっ」
まるで「よろしくお願いします」の前に「不束者ですが」がつきそうなほど、シャルロットはガチガチだった。どうしてこんなに緊張しているのか自分でもよくわからなかったが、おそらく普段と違う場所とシチュエーションが脳の中で化学変化を起こしているに違いない。
IS学園の敷地内ではなく、一夏の家の玄関。
他の代表候補生たちはもちろんのこと、女子生徒たちの邪魔も入らない。
耳を澄ますと、自分の心臓の鼓動の他に、屋根を打つ雨音が聞こえてくる。閑静な住宅街というほど静かな場所ではないはずなのに、ちょうどそういう時間帯なのか、他の物音が漏れ聞こえてくることもない。
世界から切り離されたかのような静謐さのせいなのか。
過度に緊張したシャルロットの心理状態のせいなのか。
もしくは、その両方なのか。
とにかく、現在『織斑家の玄関』は一種の特殊空間のように。
いわゆる『良い雰囲気』に、なっている。
そして、そうした特殊性が思いも寄らない結果をもたらすことになった。
不幸な事故と言ってもいいかもしれない。
一夏が頼まれたとおりタオルで拭いてやろうと、無造作にシャルロットの頭に手を伸ばしたそのとき、
「――ふぁぁん」
なんだかすごい声がした。
すごいというか、艶めかしいというか、色っぽいというか、とにかくそういう類の声だった。
「…………」
「…………」
身長差に加え、玄関の段差のぶんだけいつもより離れた視線を、一夏とシャルロットが無言で交わらせる。
わけがわからなかった。
今、なにが起きたのか。
起きてしまったのか。
お互いに目を瞬かせ、数瞬前の出来事を、お互いの胸の内で反芻しはじめる。
え? 今のなに? もしかしてシャルの声か? と一夏。
え? なに? 今のってひょっとして僕の声? とシャルロット。
二人とも似たようなことを考えていたが、それぞれの持つ意味合いはかなり異なっていた。
一夏にしてみれば、シャルロットのあんな声は聞いたことがなかった。そりゃあシャルロットの声は可愛らしいし、男装していたときから「こいつホントに男かよ。っつーか声変わりしてんのかよ」なんて思いもしたが、あくまでも同年代の女の子の声でしかなかった。
シャルロットにしてみれば、これまであんな声を出したことはなかったし、自分がああいう声を出せるなんてことも知らなかった。さっきのあれは、いわば勝手に、自然に漏れてしまったようなものだった。
早い話が、
一夏に触れられたときのシャルロットの声は、
ほとんど喘ぎ声だったのである。
二人の思考が辿った道は違ったが、導き出された結論は同じだった。
「…………」
「…………」
沈黙が徐々に重くなる。
どちらからともなく、視線を外す。
こんなに気まずいことは、ちょっと他にない。
「……い、痛かったか?」
「……う、ううん……」
「……そ、そうか……」
「……うん……」
特にシャルロットはまずかった。
冷静に分析すると、好きな相手と二人きりで、しかも『良い雰囲気』になったおかげで感度が高まり、軽く一夏に触れられただけでちょっと気持ちよくなってしまったのだが、それがわかったところでなにが変わるわけでもない。
穴があったら入りたいというのは、まさにこのことだった。
死にたい、いっそ殺して、とすら思った。
シャルロットはいざとなれば女の武器を使うことも厭わないが、基本的には同年代の女子よりだいぶネンネなので、こんな形で思い人にはしたないところを見せてしまった自分の愚かさを呪うことしかできなかった。
「……こ、このままだと風邪ひいちまうから、続けるぞ」
もしゃもしゃとバスタオルを動かす一夏の手のひらから、戸惑いと気遣いが伝わってくる。
こういうときは気遣われるのも意外と辛い。
だからといって一夏に「ははは~シャルって結構やらしい女の子なんだな~」とか言われたら、仮に冗談だったとしてもこの場で舌を噛み切って死ぬか、出家して尼になるしかないと思う。想像しただけでちょっと泣きそうになる。
気力を使い果たしたシャルロットは、完全にまな板の上の鯉と化していた。
「でも雨がなかなか止まないな。てっきり通り雨だと思ったんだが」
「うん……」
「学園に戻ったら夕食まで時間あるから、ISの訓練でもしようぜ」
「うん……」
「学園のアリーナは空が見えるのに雨が入ってこないからすごいよな。近所のアーケードもあんなふうになればいいのに」
「そうだね……」
一夏があれこれと話しかけても、もう好きにして……状態のシャルロットは生返事しか返すことができない。
そうこうしている間にも、一夏は手際よくシャルロットの頭を拭き終わる。
一夏の手つきは優しくて丁寧だった。女の子の髪の毛の扱いに、妙に慣れているのは少し引っかかったが、こんな状態でなければきっと至福の時だったに違いない。
「よし、頭はこれでいいな。あとはどうする?」
「うん……あとは自分でできるよ。ありがとうね、一夏」
シャルロットが、無理矢理しぼり出したような笑みを表情に貼りつけながら、一夏からバスタオルを受け取る。
外で雨が降っていようと槍が降っていようと、さっさと走って逃げ出してしまいたい気分だったが、そんなことをしてもどうにもならないし、次に顔を合わせたら余計に気まずくなりそうなので、どれだけ辛くとも針のむしろに座ったままでいるしかないのだ。
シャルロットは恥ずかしいやら情けないやらで、すべてが終わって自分の部屋に戻ったら布団にくるまって泣こうと思っていた。一晩泣き明かしたくらいで復活するのは難しいかもしれないが、いつかきっと傷が癒えるときはくる。時間は万人に対して優しい。
そのとき、唐変木が動いた。
この世の終わりみたいな顔をするシャルロットを見て、なにかしなければと考えたのだ。
「シャル!」一夏はバスタオルを持ったシャルロットの右手をそのまま掴む。「いいか、よく聞け!」
「な、え?」
「俺はな! シャルの声、可愛くてすごく好きだぜ!」
「は、はい!?」
「これまで聞いたことのないシャルの声を聞けて嬉しかったぜ!」
「え? えええっ!?」
どうして僕、手を握られてるの? 可愛い? 可愛いってどゆこと? と混乱するシャルロットは、詰め寄る一夏と真っ正面から向き合う格好になる。
しかも一夏は上半身裸で、やたらと真剣な顔をしていて、力強く手まで握っている。琥珀色の瞳に、ホムセンについて語っていたとき以上の熱さが燻っている。そのうえ言ってることが言っていることなだけに、完全に口説きにかかっているとしか思えなかった。
だからして、一夏に参っているシャルロットがコロッといってしまっても、誰も彼女を責めることはできない。
「あわ、わ、わわ……」
シャルロットは口元をわななかせながら、何事か喋ろうとしているのだが、上手く言葉にならないらしい。おそらく「僕のこと好きってホント?」とか「僕って可愛いの?」とか聞こうとしている。一夏はそんなことまで言っていないが、なにぶん彼女は参ってしまっているので細かいことはどうでもいいのだ。
ぶっちゃけ、この時点でシャルロットは、自分が落ち込んでいたことなどすっかり忘れてしまっていた。
思い人の「好き」と「可愛い」には、それだけの破壊力がある。
そして、
「だからそんなに落ち込むなって。シャルが落ち込んでると俺も調子が出ないっていうか、やっぱ――いつもの明るいシャルのほうが可愛いからさ」
唐変木の口から、恐るべき殺し文句が放たれた。
勝負は決まった。
フランス代表候補生シャルロット・デュノア、撃沈。
緊張の連続と、衝撃的な出来事が重なったことにより、感極まったシャルロットはあっさりと自分の意識を手放したのだった。
***
「――と。こ、こんな感じだったんだけど」
「…………」
「ラ、ラウラ? 聞いてる?」
「……ああ、聞いている」
「わ、わかってくれたかな? じゃあ僕はこれで……」
「待て。まだ話は終わっていない。お前が一夏と共に出歩いていたのはわかったが、何故そんなものを――私の嫁の衣服を身につけているのかという説明がまだだぞ」
「い、いや、これは、だから雨で濡れちゃってね? 制服が乾くまで時間がかかりそうだったから一夏が用意してくれて……その、織斑先生の服を借りるわけにもいかないから……」
「そうか。では脱げ」
「ええっ!? どうしてそうなるのっ!?」
「代わりに私が着る」
「だ、ダメだよ、そんなのっ! そしたら僕、裸になっちゃうじゃないっ!」
「ここには着替えもあるだろう。裸になる必要はない」
「た、たしかにそうだけど」
「嫁の匂いに包まれながら眠るというのは実に心地よさそうだからな。最近は寝床に潜り込むのも難しくなったし、次善の策というやつだ」
「次善も最善もないよっ! ていうか匂いってなに!?」
「? 嫁の匂いのことだが」
「ま、まさか、これが一夏のだって見破ったのって……」
「ああ、匂いでわかった」
「……ラウラってすごいよね」
「うむ。それくらいは当然だ。とにかく、それを身につければあたかも嫁に抱きしめられているような感覚を味わえるだろう」
「う……たしかに……それは僕もちょっと考えてたかも……」
「…………」
「ど、どうしてそんな目で見るの!?」
「シャルロット。前々から言おうと思っていたが、お前は意外と……」
「う、うわーっ! うわーっ! いいからっ! 言わなくてもいいからっ!」
おしまい
今日も今日とて騒がしい夕食だった。
さすがに昼食のときほどではなかったが、やはり一緒に食べる人数が増えれば、そのぶんだけ賑やかになるのは必然と言えよう。日常的に食卓をともにする顔ぶれは、箒にセシリア、それに鈴とシャルとラウラ――いつの間にやら俺を合わせて六人の大所帯になっている。
「一夏はほうじ茶でよかったよね?」
「おう、サンキュ」
礼を言いつつ、シャルの差し出したカップを受け取った。各々が自分の食器を片付け、食後の軽い雑談タイムに入ろうかという空気を読んだのか、シャルが全員分の飲み物を持ってきてくれたのだ。
早めに制服を着替えて自室でくつろぎたい気もするのだが、こうして皆でリラックスした時間を過ごすのも悪くはない。最初のころは女ばかりの中で生活するなんてどうなるかと思っていたのに、人間の適応力というのは俺が考えていた以上に高いらしい。
「だけどシャル、俺がほうじ茶を飲みたがってるってよくわかったな」
こちらから注文したわけではないのに、まさに俺が飲みたいと思っていたベストチョイスだった。
「うん。なんとなく一夏が飲みたがってるかなって思ったんだけど」シャルは実に嬉しそうに微笑む。「僕も一夏の呼吸に合わせられるようになってきたのかも」
「いや、シャルは初めから合わせるのが上手かっただろ」
「そ、そうかな?」
「ああ。かなり助けられた……って、それは今も変わらないんだけどさ」
実際のところ、シャルは空気を読む力があるというか、場を取りなすのがかなり上手い。今だって俺に限らず箒たちの好みを熟知し、ちゃんと皆が欲しがっているであろう飲み物を的確に手渡していく。そして、このスキルはISの戦闘においてもいかんなく発揮されているというわけだ。
「そ、そんなふうに言ってもらえると嬉しいな……」
シャルが俯き加減にはにかんだ表情を浮かべる。
……う、いかん。
こんな可愛らしい顔を不意打ち気味に見せられると、なんだか妙に照れくさくなってしまう。
俺は自分の内心をごまかすように熱々のカップを両手で持ち上げ、中身を軽くすすった。
うん、うまい。
気持ちを落ち着けるためにはハーブティーがいいなんて言われるが、日本人にとってはほうじ茶にも同じ効果があるに違いない。この気持ち、箒なら同意してくれるんじゃないか……なんて思いながら、ちらりと正面に視線を向ける。
「…………」
修羅がいた。
というか、悪鬼羅刹のような顔をした箒がいた。ポニーテールが逆立つのではないかというくらいの怒気が全身から立ちのぼっている。
危うくお茶を吹き出すところだった。
「ほっ……箒?」
「……なんだ?」
そりゃこっちの台詞なんだが。
「どうしたんだよ、そんな顔して」
「知らん!」
箒は吐き捨てるように応えると、そのままの勢いでシャルの置いたカップ(おそらく中身は緑茶だ)を片手で掴んで一気飲みする。
「おい! それ熱いんじゃないのか!?」
「~~~~~~~~~~っ! 知るか! バカ!」
熱いものを冷まさずに食べたり飲んだりすると身体に悪いんだぞ――と言ってやりたかったが、箒の剣幕に押されて口にするのは躊躇われた。
あー、涙目になってる。
よっぽど熱かったんだろうな。
カップから湯気あがってたし。
「ったく――」
――なにしてんだか、という台詞が喉のところで詰まった。
何故なら、視線で同意を求めようとテーブルを囲む皆を見回したら、誰も彼も箒と似たような表情をしていたからだ。ま、全員女なのに、誰も『彼』もってのはおかしいんだけどな。
「アンタまたくっだらないこと考えてるでしょ」
「……人の頭の中を読むなよ」
セカンド幼なじみ恐るべし。
「読まれるようなことを考えている一夏さんが悪いんですわ」
「ふん。私も同感だ」
「一夏がバカなのがわりゅいのだ」
あっれぇ……? どうして俺、シャル以外の皆から総攻撃食らってんの?
あと箒は舌をヤケドしたっぽいのに、無理に俺を罵倒しなくてもいいぞ。
「ま、まあまあ、みんな落ち着いて。ね? お茶にしようよ」
カップを配り終わったシャルが、箒たちをたしなめながら椅子に座った。心なしか頬が紅潮しているように見える。
周囲から「勝者の余裕ね」「勝者の余裕ですわね」「勝者の余裕か」「勝ちゃの余裕らな」という声が聞こえてきたが、何の話をしてるんだろう。あと箒は早いとこ水を飲んだほうがいいと思う。
……む。
会話が途絶えたな。夕食のときはあれだけ賑やかだったのに、どうしてか今は互いに腹の内を探り合うような気配が伝わってくる。いわゆる、場に沈黙が降りてきた――というやつ。
なんだか俺のほうから何か口にするのも憚られる雰囲気。
多少の居づらさを感じつつ、ぬるくなってきたカップを手の中で遊ばせていると、セシリアが似たようなことをしているのが目に入った。あまり行儀のいい行為ではないはずなのに、セシリアがやると絵になるのだから不思議なものだ。
「一夏」
そんな重苦し……くもない沈黙を破ったのはラウラだった。
「な、なんだ?」
無言のプレッシャーに晒され続けたせいか声が裏返りそうになる。
乾いた喉を潤すために、カップを口に当て、
「お前は釣った魚に餌をやらないタイプなのだな」
俺はほうじ茶を水平噴射した。
「がはっ! げほっ!」
「き、きちゃないぞ! 一夏!」
箒は早く水を……って、そんなこと考えてる場合じゃねえ。
くっそ。ほうじ茶が思いっきり変なトコロに入ったぞ。
「指摘されて焦るということは、やはりそういうことか……」
「ちょ、ちょっと待て、ラウラ! 勝手に納得するな!」
備え付きの布巾でテーブルを拭きながら、必死に食い下がる俺。
「ん? どうかしたか?」
「どうかしまくりだ!」
「戦場においては正しい情報と正しい分析が明暗を分けるのだ。臨機応変な対応力は求められこそすれ、事前の分析を軽視していいというわけではあるまい」
「その分析そのものが間違ってるって話だ! 俺に妙なレッテルを貼るのはやめろ!」
「私なりに情報収集をした結果、一夏は釣った魚に餌をやらないタイプだという結論に至ったのだが……ああ、心配するな。こうした分析というのは、あくまでも一つの類型にすぎんからな。たとえどのようなお前であっても私の嫁であるという事実は揺るがん」
「そんな心配はしてないよ! ていうかそんな結論に至るなよ!」
「そ、その……私たちは、キ、キスも済ませたしな……」
ピシ、と空気の割れる音が聞こえた気がした。
……ずっるー。人の話を聞かないのずっるー。
しかし、これで言い返せなくなる俺も弱すぎるな。まあ、あれは俺にとってもファーストキスだったわけで、白状してしまうと思い返すだけで顔が熱くなる。
だから言い返せないのはしょうがないというか、頬を赤らめるラウラは以前の張り詰めた雰囲気とのギャップが凄まじいので卑怯というか。ぶっちゃけ全部言い訳です、ハイ。
「……一夏さん? まさかとは思いますけど、たまたま偶然突発的なアクシデントで唇と唇が重なっただけの行為を思い出したりなんてしていませんわよね?」
セシリア、超笑顔。ちなみに、「だけ」にアクセントをつけて強調していた。
喋り方が普段と同じで穏やかなだけに、内に秘めたエネルギーをひしひしと感じて怖い。
「べ、べつに何も思い出したりはしてないぜ」
「そうですか……んっ!」セシリアは小さく咳払いをする。「ま、まあ、わたくしとしましては、あのたまたま偶然突発的なアクシデントで唇と唇が重なっただけの行為は犬に噛まれたと思って忘れますから。……よ、よろしいですわね!?」
「え? あ、ああ。もちろん構わないぞ」
……ん? でもなんかおかしくないか? キスされたのは俺なのに、どうしてセシリアが犬に噛まれたと思って忘れるんだ?
というか、どうしてキスって言わないんだろう。年頃の女の子は、ああいうのを口に出すのが恥ずかしいんだろうか。……ラウラも同い年なんだけどなあ……おっかしいなあ……。
「……うう~、あんな形で先を越されるってわかってたら、中学のときにあたしが……!」
「鈴? どうした?」
「な、なんでもないわよ!」
「なんでもないってことはないだろ。ぷるぷる震えてたじゃねーか。ひょっとして晩飯を食い過ぎて腹が、」
「それ以上言わないで。その先を言われたら、――アンタを殺さないでいられる自信がないから」
「……おう」
目がマジでした。今の鈴は、千冬姉より怖かったかもしれない。
いや、冗談だってわかってるけどさ。……冗談だよな?
「あはは……一夏、おかわりいる?」
しょうがないなあ、とでも言いたげな様子で、シャルが苦笑いしている。
言われるまで気づかなかったが、知らないうちにカップの中身は空になっていた。ホントに気が利くな。こういうのって間を持たせるためにちびちびやってると、意外と減りが早かったりするんだよな。
テーブルが謎の緊迫感に包まれていることもあってか妙に喉が渇く。リラックスとはほど遠いティータイムだ。ここはシャルの厚意に甘えてしまうとしよう。
「あー、頼んでもいいか?」
「了解。箒は?」
シャルは笑顔で俺のカップを受け取り、箒にも声をかける。
「いや……私は結構だ」
「そっか」
どうやら飲みきっていたのは、俺と箒の二人だけだったらしい。箒は一気飲みしてたし。
シャルは申し出を辞した箒にも微笑みを返し、静かに席を立つとお茶のお代わりをもらいにいった。
さて――
「――で、ホントに大丈夫なのかよ?」
テーブルから身を乗り出して顔を近づけると、しかめっ面の箒は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それから、
「――っ!? なっ、何事だ!?」
まるでバネが仕掛けられていたように、椅子を引いて背後に飛び退った。長いポニーテールが映画のワンシーンみたいにふわりとなびく。
すごい勢いだったな……さすがは剣道部のホープ……ってそれは関係ないか。
「だからさ、お前さっき口の中ヤケドしただろ? それからずっと浮かない顔してるじゃん」
「わ、私はべつにヤケドをしたからそんな顔をしているわけでは……!」
「いいから、ちょっと見せてみろよ。あんまり酷いようならちゃんと冷やしたりしないといけないからな」
「お、お前は普段はちゃらんぽらんなくせに、どうしてこういうときだけ強引なんだ!」
「は? なんだそりゃ。わけわからんこと言ってないで、ほら、こっちこいよ」
「ううー……」
箒は手招きする俺を、うなり声をあげながら睨みつけている。それでも、じりじりと近づいてきてくれているので、無視したり断ったりするつもりはないようだ。
これってなんかあれだな。なかなか懐こうとしない犬や猫を手なずけようとしてる図だよな。
「……あの、鈴さん。あれって一夏さんは……」
「……ええ、そうよ。もちろん無意識でやってんのよ。はあ……」
「ふむ、なるほど。これが釣った魚に餌をやる行為か。どうやら認識を改めねばならないようだな」
横目で見ると、セシリアと鈴が顔を見合わせて互いにため息をついていた。
最初は険悪だったのに、仲良くなったもんだよなあ、二人とも。
つーかラウラはまだそのネタ引っ張ってたのかよ。
「う、うう……す、好きにするがいいっ!」
覚悟を決めたのか(なんの覚悟だ?)、箒がずずいっと距離を詰め、テーブルの上に身を乗り出して、俺と鏡合わせの格好になる。
勢いがついていたせいで、風に乗って箒の良い匂いが鼻孔をくすぐった。しばらくの間、同じ部屋で過ごしていたこともあって、なんと俺は箒の匂いをかぎ分けることができるのだ。
フェチではない。決してフェチではないぞ。……って誰に言い訳してるんだ俺。
「おい、箒」
「な……なん……だ……?」
「どうしてそんなにきつく目を閉じてるんだ? 目はべつに開けててもいいんだぞ」
「う、うるさいっ! そんなの私の勝手だろう!」
「いやまあそうなんだけど。とりあえず口を開けてくれよ。目は閉じててもいいけど、口を閉じたままじゃ中が見られない」
「わっ……わか……った……」
どうしていちいち『溜め』を作るんだ?
見れば、箒の顔はタコみたいに真っ赤になっているし……。
顔を真っ赤にして、ぎゅっと両目を閉じた箒が、俺のすぐ目の前で唇を震わせながら、ゆっくりとゆっくりと口を開いていく。湿り気を帯びた箒の口の中が、食堂の照明を受けててらてらと輝いていた。
……なんだか……。
……妙に……。
……エロい……。
……ような……。
「この国では自分の嫁が浮気をしたときには、どのような罰を与えるのだ?」
「死刑よ」「死刑ですわね」
横で交わされる不穏当な会話で正気に戻る。
ヤバイ。こんな人目があるところなのに、理性さんがかなり弱まってたぞ。
というか、死刑は重罰すぎるだろう!
鈴とセシリアはお国が違うんだから適当言うなよ!
もっとも、そんなことを言ったら、そもそも浮気なんてしていないし、それ以前に浮気に至る前提すら満たしていないわけだが、ラウラの言葉を聞いたとき背筋に寒気が走ったのも事実だった。
「い……一夏ぁ……早く……してくれ……」
「あ、ああ。すまん。ちょっと待ってくれ」
俺は一度かぶりを振り、脳裏に浮かびかけた邪な考えを完全に捨て去ると、箒の顎にそっと右手を添える。
「あっ……」箒がかすかに身をよじった。「い……一夏……」
「悪い。ちょっと触るぞ」
いくら幼なじみとはいえ、いきなり身体を触るのはまずいと思ったのだが、薄目を開けた箒は咎めるでもなく、とろんとした視線をこちらに向けていた。
「わ、私は……一夏にぜんぶ……任せるから……」
「? おう、任せとけ」
やけに熱っぽい声を出す箒の様子に内心で首を傾げながら、口の中を覗き込む。自分の頭で影ができないよう、角度をつけながら、じっくりと観察していく。
……ふむ。
少し舌が赤くなってはいるものの、酷いヤケドをしたってわけじゃなさそうだ。
まあ、口の中は手などに比べて熱さに強いっていうし、耐えられないくらい熱かったらさすがに途中で吐き出すなりなんなりするよな。一気飲みできたってことは、少し熱め程度だったんだろう、たぶん。
「うし、いいぞ」
「……も、もう終わりか?」
「ああ」
「こ、これだけでいいのか? そ、その……私はお前さえよければ……もっと先まで……」
「ん? なんだって?」
「い、いや! なんでもない! なんでもないぞ!」
「そうか? まあ、大したことなくてよかったな」
「よ、よかった……うむ……よかったな……」
よく考えると心配しすぎだったかもしれないが、心配するだけならタダだからな。タダより高いものはないなんて言うが、箒に大事なかったなら結果オーライってところだ。
ホッとひと息つき、椅子に腰を下ろす。
すると、俺と入れ替わりにセシリアがゆっくりと席を立った。
「一夏さん? わたくしお茶のお代わりを持ってこようと思いますので、少々お待ちいただけますかしら」
「そりゃ何も言わずに部屋に戻ったりはしないが……」
わざわざ俺に断らなくてもいいのに。
「さて、っと」
そんなことを考えていると、セシリアの隣で鈴も席を立った。
「あたしもお代わり持ってこよーっと」
お、鈴もか。ちょうどお茶を飲み干すタイミングまで一緒なんて、ホントに仲が良いな。
ちなみにセシリアは紅茶、鈴はジャスミンティーを飲んでいたはずだ。鈴はともかく、セシリアは紅茶にもうるさいだろうに、さらりと満足いくものを提供できるあたりでシャルの凄さを再確認してしまったり。
「……ちょっと鈴さん。わたくしの真似をしないでくださる?」
「……その台詞、そっくりそのまま返してあげるわ。ていうかセシリア。アンタまさか、二杯目のお茶はあっつ~いのにして、箒と同じことをしてもらおうなんて思ってないわよね?」
「あ、あああ、当たり前ですっ! わたくしがそんな浅ましいことをするとお思い!?」
「ふーん、まあそうよねー。セシリアってば、前に『紅茶の香りを楽しむためには、適度な温度というものがありましてよ』とか言ってたもんねー」
「そ、そうですとも。……で、でも、優雅で可憐なセシリア・オルコットにもミスというものはありますから、たまたま誤ってお湯の温度を間違えてしまうかもしれませんわね」
「じゃあ、そうならないようにあたしがお湯を沸かしたげるわ」
「いえいえ、おかまいなく」
「ふふふ」
「ほほほ」
……仲、いいんだよな?
何か小声で言い合ってたみたいなんだが。
「一夏」
おっ、シャルが戻ってきたな。
「はい、持ってきたよ」
足取りも軽くやってきたシャルは、カップの乗ったトレイをテーブルに置いた。
「おう、ありがとな、シャ……ル?」
「どうしたの? 一夏」
シャル、笑顔。
俺、冷や汗。
そしてシャルがお盆に乗せたまま差し出した俺のカップ、
大絶賛沸騰中。
え? コレ鍋とかじゃないよね? お茶だよね?
ぐつぐついってませんか? いってますよね?
直接火にかけてるわけでもないのに、おかしいだろ。
ひょっとしてこれも、IS学園ならではの超技術とかなのか?
だとしたら無駄すぎる!
「あ、あのさ……シャル……シャルロットさん?」
「ん? どうしたの?」
「これ……なに?」
「やだな一夏。――ほうじ茶だよ」
「そうだね! たしかにほうじ茶だね! でも沸騰してるのは何故!?」
「一夏が言ったんじゃない。日本茶は熱いほうが美味しいって。ヤケドするくらい熱いのをすするのが風情があっていいって」
「熱いのも限度がある! これを飲んだらヤケドじゃ済まないだろ!」
「ほら見て。茶柱が立ってるよ。縁起がいいなあ」
「これは立ってるとは言わない! 茶柱が熱湯の中で踊ってると言うんだ!」
「うん。飲んで?」
返事と台詞の中身が繋がってなかった。
微笑んだシャルから静かで激しい怒りを感じる。理由はさっぱりわからないが、知らないうちに何かしてしまったんだろうか。普段おとなしいやつほど怒ったときは恐ろしいってのは真実その通りらしい。
そのとき、追いつめられた俺を救ったのは、思わぬ伏兵だった。
「一夏が飲まないなら、私がもらおう」
「あっ」
と言う間もなく、ラウラがお盆に乗ったままのカップに口を近づける。
……熱すぎて手で持てないんだよな、なんて冷静に考えている自分がいることに驚く。
途端にシャルは慌てた様子で、
「ちょ、ちょっとラウラ! そんなの飲んだらダメだよ! 死んじゃうよ!」
今、そんなのって言ったよな!? ていうか死ぬの!? 俺死ぬところだったの!?
「むう……」カップに口をつけたか、つけないかというところで、ラウラは小さく呻いて顔を上げる。「一夏、どうやら私は舌をヤケドしてしまったらしい」
「……は?」
呆気に取られる俺にはお構いなしで、ラウラは自然な動作でこちらに身を寄せて、
「動物は怪我の治療をするとき〝つがい〟で患部を舐め合うものだ。だからほら、早く私の舌を舐めてくれ」
蠱惑的にも見える仕草で、ちろりと舌を出してから、両手で俺の顔を挟み込んだ。
に、逃げられねえ!
「お、おい! 待て! ラウラ!」
「ふん、待てんな。嫁ともあろうものが連れ合いの目の前であのような行為にふけるのは、私への挑戦と受け取った」
「い、意外と計画的……! って感心してる場合じゃないよ! ダメだってばラウラ! ていうかカップに口つけてなかったじゃない! 僕、ちゃんと見てたんだからね!」
「お前ら……人が目を離している隙に何をやっている! い、一夏……! 貴様は私にあんなことをしておいて……!」
「ふっざけんじゃないわよ! 幼なじみのあたしを差し置いてセカンドキスまで奪おうなんて絶対に許さないんだからっ!」
「い、一夏さんっ! わたくし、たまたま偶然突発的なアクシデントで唇と唇が触れあってもよろしくてよ!?」
「と……とりあえず落ち着け……」
なんて俺が言ったところで無駄なのは、過去に何度も実証済みなんだけどな。
歴史の積み重ねは貴く、偉大で、そしていつだって哀しい。
結局、どこからか騒ぎを聞きつけた千冬姉――もとい、織斑先生が現れるまで、この騒ぎが収まることはなかった。全員で仲良く一発ずつげんこつを頂いたが、俺ひとりだけ二発目をお代わりするハメになったのは、姉からの愛情だと思うことにしよう。
……愛って痛いなあ。
おしまい
その日、朝一番の起床ラッパが鳴り響く前――
芳佳とリーネは、お揃いの割烹着を身につけた格好で肩を並べ、ひっそりと静まり返った廊下を歩いていた。
時間が時間なので、周囲に人の気配は感じられない。夜間哨戒に出ているサーニャを除くウィッチたちは、おそらく未だ夢の中だろう。
あるいは美緒あたりが日の出前から自主訓練を行っているかもしれないが、それならば建物の中にはいないはずだ。
そんな状況で、芳佳とリーネが皆に先んじて起床したのには理由があった。
ようするに、皆の朝食を準備するためには、皆よりも早く起きなければならない。
ごくごく当たり前の理屈により、ふたりはいち早く寝床と別れを告げてきたのである。
「……ふあ」
「ふふ、眠そうだね、芳佳ちゃん」
「っん、うーん……ちゃんと寝たんだけどなー」
肩を並べて歩く親友の指摘に、芳佳はあくびをかみ殺しながら答える。
特別に低血圧だというわけではないのに、起きてからしばらくは頭も体も反応が鈍いままなのだ。こんなところを美緒に見られたら、きっと「気合が足りん!」と一喝されてしまうに違いない。
上官の怒鳴り声が容易に想像できてしまい、芳佳は思わず身をすくめた。
「朝早いからしょうがないよ」
楚々とした仕草で、口元に手を当てたままリーネが微笑む。
フォローしてくれるのはありがたいのだが、同じ時間に寝て同じ時間に起きたはずのリーネはきちっとしているというのが悩ましい。衣服が乱れているどころか、寝癖だってついていないし、もちろん芳佳のあくびが伝染ったりもしない。
やっぱりリーネちゃんはすごいや――と、割烹着を羽織ってなお存在を主張する膨らみを見ながら、芳佳は内心で頷いていた。
「あれ……?」
ふと、リーネが首を傾げた。
「ど、どうしたの? リーネちゃん」
邪な考えを見透かされたのかと思ったが、果たしてリーネは芳佳のほうを見ていない。
芳佳がリーネの視線を辿っていくと、廊下の少し先に、開け放たれたままになったドアがあった。
ふたりの目的地である、食堂に続くドアだ。
「あれー? 開いてる……?」
「昨夜、私たち閉めたよね?」
「うん」
芳佳とリーネは、思わず顔を見合わせた。
昨日、最後まで残っていたのは自分たちだったはず。そして今日、最初にここにやってきたのも自分たちのはず。
鍵がついているわけではないので、ドアが開いていてもそれほどおかしくはないのだが、なんとなく引っかかる。
周囲に人気がないせいで、どこかお化け屋敷じみた雰囲気が漂っているようにも感じられ、少しだけ薄気味悪い。
それら様々な要素が絡み合って、目の前のドアが闇の世界へ口を開けて誘っているように見えてくる。
そのとき、
「……ひっ!」
「お、音がした……!」
食堂のほうから何やら物音が聞こえた。空耳でないことは、芳佳の割烹着の裾を握りしめたリーネの反応で明らかだ。
芳佳はリーネの割烹着の袖を握り返しながら、薄暗いドアの向こうに目をこらしてみる。
が、当然ながら何も見えない。物音はドアの更に向こう。食堂の奥から聞こえてきたのだ。
確かめるためには近づかなければならない。食堂の奥へ進まなければならない。
「よ、芳佳ちゃん……」
「だ、だいじょうぶだよ。きっと坂本さんが訓練のあとで飲み物を取りにきたんだよ。サーニャちゃんが戻ってきたのかもしれないし」
「そうかな……」
「たぶん……」
ふたりは内緒話をする程度の声量で、ひそひそと声をかけ合う。
本当に美緒やサーニャならばよいが、そうでなかった場合――不審者か、はたまた物の怪か――を考えて自然とトーンが落ちていく。
「芳佳ちゃん……どうしよう……」
リーネが不安げに瞳をうるませる。
あまりこの手の話が得意ではないのだろう。
先ほどまでは割烹着の裾を握りしめるだけだったが、ついに芳佳の腕にしがみついてしまった。
ボリュームのある胸の膨らみが、惜しげもなく芳佳の二の腕に押しつけられる。
「――よし! 確かめよう!」
芳佳は決断した。
べつにリーネの胸の感触を堪能してテンションが上がったわけではない。
芳佳は、元々即断即決即行動の傾向が強い少女なのだ。
「そ、そうだね……」
リーネも反対しなかった。真面目な性格だけに、このまま物音の正体を放っておくのがはばかられたのだろう。
ふたりは身を寄せ合いながら、息を潜め、抜き足差し足で、じわじわとドアに近づいていく。
「芳佳ちゃん……」
「うん……」
食堂に近づくにつれ、ごそごそという物音がハッキリと聞こえるようになった。
やはり、ドアの向こうに、何かいる。
芳佳は不注意で音をたててしまわないよう、気をつけながらドアをくぐった。
まだ見えない。
しかし食堂の中に入ったことで、何者かの気配は確実に捉えられるようになった。
物音が聞こえるのは食堂の奥。
炊事場だ。
ちょうどドアの脇の石壁にモップが立てかけてあったので、芳佳はリーネに目配せをしてからその〝武器〟を手に取った。
これで右手にモップ、左手にリーネのおっぱいを装備したことになる。無敵だ。
白いクロスのかけられたテーブルセットの間を縫うように、慎重に、芳佳とリーネは歩みを進める。
五メートル。
四メートル。
三メートル。
二メートル。
そして、ふたりはついに、炊事場を覗ける位置に辿り着いた。
「……リーネちゃん」
「……芳佳ちゃん」
頷き合う。
訓練と実践で積み重ねたコンビネーションを今こそ発揮するのだ。
もはやふたりには、改めてタイミングをはかる必要すらなかった。
勢い込んでモップを中段に構えた芳佳が、炊事場に躍り出る。
「そ、そこにいるのは誰ですかっ!?」
芳佳は自らを奮い立たせるために大声で叫んだ。
リーネも腰が引けているものの、しっかりと芳佳をサポートできる位置に陣取っている。
そしてふたりは目撃した。
炊事場の影でモゾモゾと動く、
生成りのズボンを。
想像だにしていなかったものの出現に、芳佳とリーネは硬直した。
すると、そんなふたりの様子を知って知らずか、生成りのズボンは慌てるでもなく這い出してきて、
「――おー、おっはよー、宮藤、リーネ」
四つん這いの体勢で、背中越しに振り返ったのは、誰あろうエーリカ・ハルトマン、その人である。
炊事場。しかも早朝。
ある意味もっとも意外な人物が目の前に現れたことに、芳佳は驚きを隠せない。
「ハ……ハルトマン……さん?」
「ん? どしたの、ヘンな顔して」
エーリカが脳天気な顔で首を傾げたのとほぼ同時。
一日のはじまりを告げる起床ラッパが、基地内に響き渡った。
*****
炊事場には食材置き場がある。
そこから這い出してきたエーリカは、黒のタンクトップに生成りのズボンという緩みきった格好をしていた。
「な、なにしてるんですか、そんなところで」
とりあえずこれだけは聞かねばならない。
エーリカは毎日バルクホルンが愚痴をこぼすほどの寝起きの悪さを誇る。
しかも芳佳の知る限りで、これまで一度も炊事場に立ったことがない。
そんな彼女が、こんな時間にこんな場所で一体何をしていたというのか。
「ちょっと思いついたことがあってね。捜し物してたんだけど……宮藤は掃除?」
「え!? これはその……そうじゃなくて……えへへ……」
芳佳はバツが悪そうに愛想笑いをしながら、構えていたモップを背中に隠した。
まさか本人に不審者や物の怪の類が食堂に忍び込んだと思っていた――などとは言えない。
「そ、それよりハルトマンさん。捜し物ってなんですか?」
返答に窮した芳佳を見て、リーネが絶妙のタイミングで助け船を出した。
「へっへー」
するとエーリカは、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに天真爛漫な笑みを浮かべ、
「カボチャだよ」
「カボチャ?」
芳佳とリーネの声が重なる。
「ハルトマンさん、カボチャ料理が食べたいんですか?」
問いかけながら、芳佳は頭の中でカボチャを使った料理をいくつか思い浮かべた。
煮物、サラダ、天ぷら、他に味噌汁に入れたりもする。
隣でリーネも何やら思案しているので、あるいはカボチャを使ったパイのレシピでも思い浮かべているのかもしれない。
しかしエーリカは「ちっちっち」と目の前に立てた人差し指を左右に揺らしてもったいぶって見せた。
「えー、違うんですか?」
「まあ、カボチャ料理も捨てがたいけど、お芋ほど好きじゃないしね」
「じゃあどうしてカボチャを探してたんですか?」
「教えて欲しい?」
「そりゃそうですよ。教えてくださいよー」
「んー、どうしよっかなー」
芳佳の素直な反応にいたずら心を刺激されたのか、エーリカは実に楽しそうだ。
こういうときは『北風と太陽』よろしく、興味のないふりをしたほうが有効だったりするのだが、そういう駆け引きは芳佳のもっとも苦手とするところだったりする。
リーネはまだ考え込んでいるので、残念ながら先ほどのような助け船も期待できない。
と、
「――そういえば、今日はハロウィンだったわね」
「まったく……珍しく早起きしたかと思えば何をしているんだ、おまえは」
膠着した戦場を動かしたのは、食堂に現れたふたりの上官だった。
ミーナもバルクホルンもきっちりと制服を着込み、エーリカのだらしなさを補って余りあるほどの〝カールスラントの規範〟を示している。
「もー、ミーナってばどうして言っちゃうのさ」「ミーナ隊長、バルクホルンさん、おはようございます」「やっぱりそうだったんですね」
三者三様の反応を見て、ミーナはくすりと上品な笑みをこぼし、
「三人ともおはよう。リーネさんは気づいていたみたいね」
「はい。そういえば10月31日はハロウィンですもんね」
「はろうい?」
「ハロウィンだよ、芳佳ちゃん」
ただひとり戸惑った様子の芳佳に、リーネが微笑みかける。
「扶桑ではあまり馴染みがないかもしれないわね。ハロウィンっていうのは……そうね、10月31日に行われるお祭りのようなものかしら」
どうやら少し前から芳佳とエーリカのやり取りを聞いていたようで、ミーナが簡潔にハロウィンとは何か説明しはじめた。
「お祭り?」
「ええ。扶桑のお盆と似たようなものだと考えればわかりやすいと思うわ」
「へぇ~、欧州にもお盆があるんですね」
身近な例え話のお陰で、芳佳もようやく理解が追いついたらしく、大きな瞳に理解の色が浮かんだ。
「じゃあハルトマンさんは、カボチャを使って馬を作ろうとしていたんですか?」
「馬ぁ? ちがうちがう。私は中身をくりぬいてジャック・オー・ランタンを作るんだ」
「じ、じゃくおー?」
「……ハロウィンでは妖精や怪物の仮装をしたり、そういったシンボルで家を飾るのがならわしになっている」
話の噛み合わないふたりを見かねてバルクホルンが言う。
「その中でも一番伝統的なのが、オレンジ色のカボチャをくりぬいて刻み目を入れ、内側からロウソクで照らしたジャック・オー・ランタンというものだ。エーリカが作ろうとしているのはこれだな」
「なるほど~提灯みたいなものなんですね。なんだか楽しそうですね!」
「うむ。それに伝統というのは後の世に語り継がねばならないものだからな。いいか宮藤、そもそもハロウィンというものはだな――」
目をきらきらさせて感心する芳佳の様子に気をよくしたのか、バルクホルンは更に詳細なハロウィンの話をしようとするが、
「はいはい、面倒な話はしなくていいよ。今さら宮藤にいいとこ見せようとしても無駄だって」
「なっ!? ちょ、ちょっと待て! 私は別にそんなこと考えているわけでは……って今さら無駄とはどういう意味だ!?」
「いいからいいから」エーリカはバルクホルンを軽くあしらい芳佳を手招きする。「宮藤。ちょっとちょっと」
「は、はい?」
エーリカがにやにや笑いながら手招きしている。
怪しく光るブルーの瞳を見れば、ろくでもないことを考えているであろうことは、どれだけ鈍い芳佳でも理解できた。
だからといって無視するわけにもいかず、のろのろと近づいていくと、エーリカは芳佳の耳元にそっと口を寄せる。
「ハ、ハルトマンさん?」
「ちょっと耳貸して」言うが早いかエーリカは芳佳に耳打ちしはじめた。「………………だから、………………って」
他の皆は、そんなふたりを遠巻きに眺めるしかない。
「まったく、一体何を話しているのやら」
「ふふ。それにしても、こういうときのフラウは本当に生き生きしてるわね」
「ああ。ろくでもないことを考えているときのあいつは、空にいるときと同じくらい厄介だからな」
「厄介? 頼りになる、の間違いじゃないの?」
「バカいえ」
ポンポンと小気味よく言葉を投げ交わすバルクホルンとミーナを見て、リーネは何となく大人の世界を覗き見したような気分になり、
「……そうだ。朝ごはん作らなきゃ」
自分たちが早起きをして食堂にやってきた理由を思い出すのだった。
つづく
で、続き。
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