GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

ロッテ3―6ソフトバンク(8/8分)

2024-08-10 20:03:12 | 野球

 先発投手の朗希(ロ)・石川(ソ)共に球数が多かったわなぁ(汗)相手先発投手が右でも、佑京(ソ)がスタメンを外れたな・・・軒並み打者の調子が上がる時期やのに、彼は6月ぐらいから下降気味やったからな。それか朗希との相性を鑑みたか・・・暫く二軍に落ちてた佐藤直を早速中堅でスタメン起用。2回表の牧原大の中前タイムリーも一塁走者がエンドランでスタートしてたから、二塁ベースカバーにセカンドが打球の方向に動いてたけど、打球が抜けて行ったんは、ソフに運もあったし相手の方が一枚上やったな。2回裏に小川のセンター前にフラフラッと上がった打球をその佐藤が、スライディングキャッチでピンチを救う。これはこのZOZOマリンでは、強風で打球がどこに行くか判らん球場やから、ファインプレーやったな!ドーム球場なら、普通のプレーやった。ロッテは8回裏に藤岡が、指輪装着で微妙にボールを変化させてた疑惑?の昨シーズン途中加入のダーウィンゾン・ヘルナンデスから、左投手にもかかわらずようタイムリーを放ったぐらいやったかな(汗)

 それと石川雅規(ヤ)が、野手を含めてルーキーイヤーから23年連続で安打を放つ(1年に最低1本は打ってる事になる)プロ野球新記録を達成!!!おめでとうございます!!DH制の無いセ・リーグの投手でないと、中々達成出来ん記録やな。パでも毎年交流戦で、セの本拠地で投手でも打者としても出場して、ヒットを打てば出来ん事はないけど、まあ至難の業!なおルーキーイヤーの肩書きを取っ払えば、三浦大輔(DeNA)監督の24年連続です。

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日本で結果を残せなかったが・・・

2024-08-09 23:27:11 | 野球

 ダグ・クリーク(阪神)氏が、亡くなられました。期待された左腕やったし、投手コーチも小山正明で大物コーチの入閣でもあった上、解説者のコーちゃんも計算出来る戦力と評していたけど、時は弱小時代真っ只中。1998年はアロンゾ・パウエル、大豊泰昭、矢野輝弘の加入、開幕直後桧山進次郎の攻撃的2番・「200点打線」構想も、全く機能せず最下位の時代やったからな。二軍では無双も、一軍では全く通用せず・・・翌年にメジャーに復帰し、2005年まで選手を続けた。通線成績は、試7 0勝4敗 防5.65 でした。お悔やみ申し上げます・・・

 あとビリー・ビーン(近鉄)氏も、亡くなりました。当時は、まだ外国人の一軍登録枠は2名までやったんで、元々第3の助っ人外国人選手扱いの保険選手であった(大汗)近鉄でいえば、中日で第三の助っ人で二軍でくすぶっていた(ゲーリー・レーシッチ、郭源治がバリバリ一軍戦力やったんで・・・)ブライアントを獲得した経緯があった事もあった。さらに未来の話をすれば、2000年に獲得したアンディ・エイバッド(近鉄)もローズとクラークの保険やったけど、後者の状態が前年の1999年から怪しくなって来てたのもあって・・・その1992年にブライアントが6月に故障離脱したと同時に一軍昇格。しかし成績は全く振るわず、10日後のブライアントの再登録とともに登録抹消。そのまま7試合に出場しただけでシーズン途中で解雇されました・・・翌年にメジャー復帰し、主に代打として活躍し、1995年に引退。通算成績は、試7率.208 0本2点 安5 でした。お悔やみ申し上げます・・・

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捉え切れているのか?・・・

2024-08-06 22:34:04 | 野球

 阿南準郎(潤一)氏が、亡くなりました。丁度前日にふと彼を思い出したんは、虫の報せやったんかな(汗)阿南氏は、1955年に広島に入団。高卒ながら、内野が手薄であった為、ルーキーイヤーの8月から遊撃手として起用され、28試合に先発出場。遊撃の控えで出場機会を増やしていたが、1959年に古葉毅がレギュラーに定着した事で、打撃に難のあった阿南氏は内野のユーティリティプレーヤーとしての役割として重宝する。翌年にはファーストに回った興津立雄の後継三塁手となり、阿南氏は「守備の職人」として古葉と共に鉄壁の三遊間を形成し、ガッツあふれた守備でファンを魅了。62年には興津が三塁手に復帰するが、その後も内野の準レギュラーとして活躍し、63年には二塁へ回る。古葉との三遊間は鉄壁、二遊間は絶品と言われる名コンビとなっていった。64年には登録名を変更し、セカンドの定位置を獲得。序盤は首位打者を争って夏場から失速したものの、生涯唯一の規定打席&率.246到達を記録する。65年からは古葉が二塁手に回り、再び三塁へ回され、遊撃のバックアップとしても存在感を発揮。1968年に近鉄へトレード移籍し、三塁手として活躍。1964年と同様、序盤は首位打者を争うなどの活躍を見せた。近鉄では同期の三原脩監督に可愛がられ、三原の趣味であった囲碁の相手を、たった一人で務めていた。1970年に引退。毎年のように複数のポジションを守りながら100試合前後に出場していたが、失策数が10を超えたのは現役15年の内3シーズンのみで、打撃は非力であったが、堅守が光るユーティリティープレーヤーであった。なお近鉄への移籍でも三原監督からの薫陶を受けたのが、のちのコーチ業や監督業に非常に役立ったとも述懐していて、言われてもいる!引退後は近鉄の二軍内野守備コーチ(1971年)→一軍守備コーチ(1972・73年)を務め、在任中はユニホームの尻のポケットにはいつもメモがびっしりと書かれたノートが入っていて、選手達は「チェックマン」と呼んだ。1974年広島に二軍コーチとして復帰。翌年はシーズン当初は二軍コーチを務めていたが、ルーツ監督の辞任で古葉が監督に昇格すると一軍コーチとして招聘され、球団創立25年目の初優勝に貢献した。1986年、勇退した古葉の後を受け継ぎ、広島一軍監督に就任。本来は山本浩二が監督に就任する予定であった事もあり、つなぎ役なのは既定路線であった(汗)ただ就任1年目に先発投手であった津田恒実を守護神に配置転換や"タツのリードは攻める時は攻め、引くべき時は引くという出し引きが非常に上手い捕手!正捕手で行くからな!とシーズン前の自主トレ中に本人に声を掛けた通り"達川光男を正捕手で起用し、後半戦開始時点の巨人との5.5ゲーム差をひっくり返し、壮絶なデッドヒートの末就任1年目でのリーグ優勝を成し遂げる!ただし、日シリは1戦目は敗色から息を吹き返して引き分けに持ち込んだだけでなく、2戦目以降は3連勝し早々と王手をかけたものの、若手の多い西武に大逆転負けを喰らい第8戦までもつれたが、惜しくも3勝4敗1分で敗れた・・・翌年は山本浩二が引退し、古葉が監督に就任した大洋にコーチ、スカウト、マネージャーを大量に引き抜かれるなど、チーム力の低下が懸念されたが、大物コーチを招聘するなど、コーチ陣の整備でチーム力低下を抑える戦略を採った。2年連続3位を記録し3年間全てAクラスを記録!監督業は退き、フロント入りし、取締役育成部長、常務取締役球団本部長兼連盟担当、取締役相談役を歴任した。ヤフコメにも書いてあったけど、これだけ指導者としての実績もあったのに、どうして現場復帰や他球団からのオファーが無かったのか?という意見もあったけど、単純に広島がフロントで囲ってたのとご本人が他球団でするつもりやなかったんやないかな?それに野球狂のネタ3の大喜利でオチでも使われてたけど、お題「○○は△△より✕✕」で「伊原は阿南より地味」というのがあった(当時、2001年12月オンエアで翌年から西武監督に伊原春樹が就任するという話題があったから)ように"観客動員が見込めない・・・"というのもあったでしょうなぁ(涙)

 それに昔は「一度監督業をやって退任すると、あまりコーチに就任したりする事は先ず無いという典型例」やったな・・・親父やO君は"一度一軍監督になると、中々コーチとかになる事は、無いからな(左遷みたいな感じになるし、格的には落ちるからな)。"って言ってたけど、確かに昔からなくはなかったし、特に最近はそうでもなくなって来たでな(汗)親父も「中西(太さん)ぐらいやで、監督からコーチっていうのは」って言ってたけど。具体例として僕が浮かんだんは、稲尾和久(西鉄・太平洋監督→中日投手コーチ)、須藤豊(大洋監督→巨人・西武ヘッドコーチ)、杉下茂(阪神・中日監督→巨人・西武投手コーチ)、武上四郎(ヤクルト監督→巨人打撃コーチ)、八木沢壮六(ロッテ監督→横浜・巨人・阪神・オリックス投手コーチ・ヤクルト二軍投手コーチ)、佐々木恭介(近鉄監督→西武・中日打撃コーチ、中日一軍監督代行)、山本功児(ロッテ監督→巨人二軍打撃コーチ、一軍ヘッドコーチ)、権藤博(横浜監督→中日投手コーチ)、尾花髙夫(横浜監督→巨人二軍・一軍投手コーチ・ヤクルト二軍投手コーチ)、達川光男(広島監督→阪神・中日バッテリーコーチ・ソフトバンクヘッドコーチ)、近藤昭仁(横浜・ロッテ監督→巨人ヘッドコーチ)、三村敏之(広島監督→広島ヘッドコーチ)、三木肇(楽天監督→楽天二軍監督)、和田豊(阪神監督→阪神二軍監督)、大久保博元(楽天監督→巨人打撃コーチ)、伊東勤(西武・ロッテ監督→中日ヘッドコーチ)、大石大二郎(オリックス監督→ソフトバンクヘッドコーチ)・・・他にも居るかも・・・

 話が飛躍しすぎたけど、ユニフォームの名前の表記が「ANAN」だったため、女性ファッション誌になぞらえて「アンアン監督」と呼ぶファンもいた。→これは、初耳やったな・・・他には以前、少し書いてる↓

 

大阪近鉄バファローズ回顧(1968年~1973年) - GRの戯れ言日記 (hatenablog.com)

 かっとばせキヨハラくんにもたびたび出てたし、幼少期の思い出の監督でしたなぁ。1巻の最後の選手名鑑に阿南氏は"目立たない、地味な裏方一筋30年"と書いてましたし、主人公の清原和博が左打ちと誤植してましたが・・・「江川卓の引退を決断した広島市民球場での小早川毅彦のサヨナラホームランの試合」もテレビ中継で観てたけど、この時の監督が阿南監督やったもんなぁ。通算成績は、試1415率.218 34本254点 安746/試390 203勝163敗24分 率.555 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

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新作(創作)落語の可能性に

2024-08-05 21:39:42 | お笑い考

挑戦し続けた桂米丸(よねまる) 師匠が、亡くなられました!現役落語家最年長者の99歳でした。米丸師匠は、五代目・古今亭今輔(いますけ)に弟子入り。師匠に「古典落語は、競争相手が多いから、新作をやりなさい」と勧められ、古典落語は一切やらず生涯新作落語道を邁進しました!古今亭今児(いまじ)という名で落語家をスタート。僅か3年というロケットスタートで真打昇進。4代目・桂米丸を襲名。数年前の雑誌内のインタビューでは、"新作落語って伝統芸能扱いされず、低く見られがちだけど、バカを言え!ありもしない話を一から作る事が、どんだけ大変な事だと思ってるんだ!それに初めて世に出た時点で(当時)は、古典落語も新作だよ。だから古典落語も新作と一緒みたいもんだ(笑)だから最初から古典落語というものは、後世に伝えられない限り古典落語とはならない(=古典も最初は、新作)訳で。"と意に介してないというか矜持・プライドが、ありましたなぁ。米丸師匠の落語は観た事はないけど、文枝師匠やったかな?との対談を演芸図鑑で観た事が、ありますし似た様な事を言ってたんやなかったかな。その文枝師匠も80歳を超えて、未だ創作(新作)落語をやり続けてる共に同じ道を歩み、バイタリティーが凄い!なお文枝師匠もプライドがあるか、江戸落語と上方落語との差別化を図る為か、新作と言わず創作と言ってるな(汗)観た事がないというのはざこば師匠もそうでしたが、先日の追悼番組で、最初で最期かもの本業を拝見させていただきました!江戸落語の「厩(うまや)火事」を上方(関西)風にざこば師匠が、アレンジしたものです。元々全く知らん噺ではなかったし、番組で事前に出演者が若干解説してくれたおかげで、ストーリーを100%理解出来ました!上手い・下手かは、判りませんでしたが。結構ええ話ですよね。話が飛んだけど、多才で落語だけでなく、お笑いスター誕生の審査員や『お笑いマンガ道場』の初代司会者も務めた。さらに家電にも造詣が深く、落語や落語の演目にも多分に取り入れていた。代表作に「ドローン出前」などが、ある。私見ながら、新作落語ならばお笑いの審査員は、余計やり易い気がする・・・ネタの作り方が、漫才やコントや一人コントに似てるやろうしな。弟子には、桂歌丸やタレント・落語家のヨネスケ・桂米助らが、居ました。前者に関しては弟子ではあったが、米丸師匠自身が戦時中や戦後の混乱期で全く弟子修行をせずに落語家になった為、何を教えたら良いのかも分からず何も教える事が無かった為、放任主義であった。その為、どちらが師匠か判らず、他の弟子をとっても弟子の歌丸がその弟子に古典落語教えたり稽古をつけるという現象が、漫画の様な話やリアルなお笑いの現象が見られた(笑)一方で固い面も見せ、所属の落語芸術協会と落語協会と方針の対立から上野鈴本演芸場から寄席出演を完全撤退し、これは亡くなるまで貫いた。コロナ禍騒動では、寄席や高座への出演は控えていたが、家電に強いだけあって配信落語にも精力的に取り組んだ。落語会としては、2019年9月の新宿末広亭が寄席での最期の高座となった・・・お悔やみ申し上げます(涙)

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規模の大きな店を予想してたが

2024-08-04 02:22:55 | ミックス

 「淀川花火大会」、何それ?美味しいの?たくさん浴衣姿の方々を見掛けたけど、昨日行われてたのを電車に乗ってて、初めて知ったぐらいやったからな。興味ねー。JR・大阪メトロの玉造駅の近くで玉造自体、初めて来ましたな。2年前に何か上本町から新今宮まで歩いた事があったけど、その時暗がりやったから知らん間に通ってたかも知れんし、見覚えのある景色も無くはなかったけどな(汗)

 勝手に命名してる「オリックス・バファローズを楽しむ本内に載ってた飲食店に行ってみる企画」第2弾として「穂゜ん亭」さんに行って来た!報ステでも取り上げられた事があったのは、観た事あった(他の番組とかにも取り上げられてた事あり)。初めて着たT―岡田のTシャツを身に纏い。Tのシャツは、去年の御堂筋パレードに掲げる用として初めて新品袋から出した物やし、その時はあんまり掲げる余裕も無かったんですが(汗)あとはオリのタオル、近鉄の帽子、1988年の藤井寺・大阪球場のチケットの半券を持参し・・・これらは、あまり自己主張の優先順位としては低く、ほんまにアピールしたいのは本名晒し2級合格特典手記と週ベと週べの投稿採用実績とNPB一軍全チーム・全試合の翌日の新聞でのボックス読みを20年超行(おこな)ってるというのやな。まぁベラベラと喋り明かし、誰から依頼されてる・仕事でもない覆面調査にも何にもなってないし、「覆面調査みたいなもの」って言うてしまってる時点で、何の意味も無かったんですが(大汗)1球団一筋でなく、全チーム対応型の人や思考のかたを探してるというのを暴露して来たんですが、まぁ総体数的に観たら、我々は少数派やからな。でも何故他球団も観るか言うたら、"常々日本プロ野球の発展・繁栄を願ってるから"やからな!!浮気とか言う人も未だおるけど、そんな低次元・近視眼的思考は、早く捨ててください!まぁそこの価値観や思考も、「各チームのファンが考える事やない!」と言われればそれまでで、僕とは一生相容れん訳やけどな。やから何べんも言うてるけど、こういったお店のコンセプトは向いてないんですが。昨日の小料理屋的な女将さんを始め、常連さんの皆さんもある程度良くしていただき、ありがとうございました!なお女将さんを始め多数のかたが、日生球場時代の近鉄ファンで、古参と言ったら語弊があるかも知れませんが、濃いファンでしたなぁ。僕は、別の意味での濃さがあるんやけど(大汗) 

                         

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