阿南準郎(潤一)氏が、亡くなりました。丁度前日にふと彼を思い出したんは、虫の報せやったんかな(汗)阿南氏は、1955年に広島に入団。高卒ながら、内野が手薄であった為、ルーキーイヤーの8月から遊撃手として起用され、28試合に先発出場。遊撃の控えで出場機会を増やしていたが、1959年に古葉毅がレギュラーに定着した事で、打撃に難のあった阿南氏は内野のユーティリティプレーヤーとしての役割として重宝する。翌年にはファーストに回った興津立雄の後継三塁手となり、阿南氏は「守備の職人」として古葉と共に鉄壁の三遊間を形成し、ガッツあふれた守備でファンを魅了。62年には興津が三塁手に復帰するが、その後も内野の準レギュラーとして活躍し、63年には二塁へ回る。古葉との三遊間は鉄壁、二遊間は絶品と言われる名コンビとなっていった。64年には登録名を変更し、セカンドの定位置を獲得。序盤は首位打者を争って夏場から失速したものの、生涯唯一の規定打席&率.246到達を記録する。65年からは古葉が二塁手に回り、再び三塁へ回され、遊撃のバックアップとしても存在感を発揮。1968年に近鉄へトレード移籍し、三塁手として活躍。1964年と同様、序盤は首位打者を争うなどの活躍を見せた。近鉄では同期の三原脩監督に可愛がられ、三原の趣味であった囲碁の相手を、たった一人で務めていた。1970年に引退。毎年のように複数のポジションを守りながら100試合前後に出場していたが、失策数が10を超えたのは現役15年の内3シーズンのみで、打撃は非力であったが、堅守が光るユーティリティープレーヤーであった。なお近鉄への移籍でも三原監督からの薫陶を受けたのが、のちのコーチ業や監督業に非常に役立ったとも述懐していて、言われてもいる!引退後は近鉄の二軍内野守備コーチ(1971年)→一軍守備コーチ(1972・73年)を務め、在任中はユニホームの尻のポケットにはいつもメモがびっしりと書かれたノートが入っていて、選手達は「チェックマン」と呼んだ。1974年広島に二軍コーチとして復帰。翌年はシーズン当初は二軍コーチを務めていたが、ルーツ監督の辞任で古葉が監督に昇格すると一軍コーチとして招聘され、球団創立25年目の初優勝に貢献した。1986年、勇退した古葉の後を受け継ぎ、広島一軍監督に就任。本来は山本浩二が監督に就任する予定であった事もあり、つなぎ役なのは既定路線であった(汗)ただ就任1年目に先発投手であった津田恒実を守護神に配置転換や"タツのリードは攻める時は攻め、引くべき時は引くという出し引きが非常に上手い捕手!正捕手で行くからな!とシーズン前の自主トレ中に本人に声を掛けた通り"達川光男を正捕手で起用し、後半戦開始時点の巨人との5.5ゲーム差をひっくり返し、壮絶なデッドヒートの末就任1年目でのリーグ優勝を成し遂げる!ただし、日シリは1戦目は敗色から息を吹き返して引き分けに持ち込んだだけでなく、2戦目以降は3連勝し早々と王手をかけたものの、若手の多い西武に大逆転負けを喰らい第8戦までもつれたが、惜しくも3勝4敗1分で敗れた・・・翌年は山本浩二が引退し、古葉が監督に就任した大洋にコーチ、スカウト、マネージャーを大量に引き抜かれるなど、チーム力の低下が懸念されたが、大物コーチを招聘するなど、コーチ陣の整備でチーム力低下を抑える戦略を採った。2年連続3位を記録し3年間全てAクラスを記録!監督業は退き、フロント入りし、取締役育成部長、常務取締役球団本部長兼連盟担当、取締役相談役を歴任した。ヤフコメにも書いてあったけど、これだけ指導者としての実績もあったのに、どうして現場復帰や他球団からのオファーが無かったのか?という意見もあったけど、単純に広島がフロントで囲ってたのとご本人が他球団でするつもりやなかったんやないかな?それに野球狂のネタ3の大喜利でオチでも使われてたけど、お題「○○は△△より✕✕」で「伊原は阿南より地味」というのがあった(当時、2001年12月オンエアで翌年から西武監督に伊原春樹が就任するという話題があったから)ように"観客動員が見込めない・・・"というのもあったでしょうなぁ(涙)
それに昔は「一度監督業をやって退任すると、あまりコーチに就任したりする事は先ず無いという典型例」やったな・・・親父やO君は"一度一軍監督になると、中々コーチとかになる事は、無いからな(左遷みたいな感じになるし、格的には落ちるからな)。"って言ってたけど、確かに昔からなくはなかったし、特に最近はそうでもなくなって来たでな(汗)親父も「中西(太さん)ぐらいやで、監督からコーチっていうのは」って言ってたけど。具体例として僕が浮かんだんは、稲尾和久(西鉄・太平洋監督→中日投手コーチ)、須藤豊(大洋監督→巨人・西武ヘッドコーチ)、杉下茂(阪神・中日監督→巨人・西武投手コーチ)、武上四郎(ヤクルト監督→巨人打撃コーチ)、八木沢壮六(ロッテ監督→横浜・巨人・阪神・オリックス投手コーチ・ヤクルト二軍投手コーチ)、佐々木恭介(近鉄監督→西武・中日打撃コーチ、中日一軍監督代行)、山本功児(ロッテ監督→巨人二軍打撃コーチ、一軍ヘッドコーチ)、権藤博(横浜監督→中日投手コーチ)、尾花髙夫(横浜監督→巨人二軍・一軍投手コーチ・ヤクルト二軍投手コーチ)、達川光男(広島監督→阪神・中日バッテリーコーチ・ソフトバンクヘッドコーチ)、近藤昭仁(横浜・ロッテ監督→巨人ヘッドコーチ)、三村敏之(広島監督→広島ヘッドコーチ)、三木肇(楽天監督→楽天二軍監督)、和田豊(阪神監督→阪神二軍監督)、大久保博元(楽天監督→巨人打撃コーチ)、伊東勤(西武・ロッテ監督→中日ヘッドコーチ)、大石大二郎(オリックス監督→ソフトバンクヘッドコーチ)・・・他にも居るかも・・・
話が飛躍しすぎたけど、ユニフォームの名前の表記が「ANAN」だったため、女性ファッション誌になぞらえて「アンアン監督」と呼ぶファンもいた。→これは、初耳やったな・・・他には以前、少し書いてる↓
大阪近鉄バファローズ回顧(1968年~1973年) - GRの戯れ言日記 (hatenablog.com)
かっとばせキヨハラくんにもたびたび出てたし、幼少期の思い出の監督でしたなぁ。1巻の最後の選手名鑑に阿南氏は"目立たない、地味な裏方一筋30年"と書いてましたし、主人公の清原和博が左打ちと誤植してましたが・・・「江川卓の引退を決断した広島市民球場での小早川毅彦のサヨナラホームランの試合」もテレビ中継で観てたけど、この時の監督が阿南監督やったもんなぁ。通算成績は、試1415率.218 34本254点 安746/試390 203勝163敗24分 率.555 でした。お悔やみ申し上げます(涙)