今年から中継が、BS朝日になった事によって試合終了までやらず(怒)で、枠内に収まり切らずタイトル通りに!というか、今年から「コリジョンルール」によるビデオ判定で全体的に試合時間が、長くなってんぞ。それは別にええんやが、熊崎コミッショナーの意向やオリンピック復活向けては、真逆な事態が起こってますがな。僕は個人的には、「オリンピックに野球は不要」と思ってるから。今日もビデオ判定が1回?在って、「ああ!面倒臭い」!!流れが、悪すぎる!コリジョンルールはええにしても、今からでもビデオ判定は止めてくれんかなぁ・・・ソフの先発投手の武田は、立ち上がりからどっか痛めてるらしく"しんどそうに投げてました"が、要所を締め、7回まで投げてたんは、中々の根性やな!西武打線も捉え切れそうで捉えられない(汗)一方の西武の先発投手の野上も好投。ローテに入ってるだけありますね!今日の西武のスタメン捕手は、岡田でしたが、彼は長距離打者やないねんなぁ・・・てっきり"大阪桐蔭出身やから"という「先入観」が(謝)あと木村昇吾も元気そうで何より(笑)前日サヨナラ打の鬼崎も金子侑が、一軍昇格後も何とか一軍に留まっており!女子アナと付き合ってるからというやっかみもあり、辛口になってまうその金子侑(→もっとええ女子アナとも付き合える気がするけど、同じフジでも内田嶺氏とか・汗)も、やはり使われてるだけありますなぁ、中々良いものを持ってます。ソフトバンクも珍しく城所が、スタメン(驚)"レギュラーを獲ってもおかしくない存在・他球団ならレギュラークラスかも"という存在やったんですなぁ、2年前まで"代走・守備固め専門選手"やったから!!
あと田島慎二(中)が、岡島秀樹(ソフトバンク)を抜く"開幕から27試合連続無失点記録"の「プロ野球新記録」を樹立しました!!おめでとうございます!!!「無失点ていうのは、凄い事」ですよね!
そして遅れましたが、山本功児([現役時代]巨人―ロッテ[監督]ロッテ)氏が、亡くなりました・・・あの「ミスター赤ヘル」山本浩二と「同音異字性」の為と実績がやや目劣りする為僕らは、よく"偽コウジ"と呼んでましたが(謝)左投げ・左打ちの山本氏は、1976年に本田技研鈴鹿から巨人に入団。しかし一塁手には、世界の王貞治が居たんで、当然ながら?控え(汗)しかしファーストの守備は、ワンちゃんが羨むほどの守備の上手さやったそうです!!先ずは、第1次長嶋政権の強豪時代の巨人の「代打の切り札」として君臨!1979年には準レギュラーとして117試合に出場、打率.291の好成績を残す。さらに同年には、"代打打率.395"に加えてシーズン終盤には、ワンちゃんに代わり6試合「4番・一塁」を任されました!!左投げの為、時には外野手としても出場してました。1981年からワンちゃんの引退により一塁が空きましたが、自身の不調もあり、中畑清に一塁のポジションを奪われてしまう・・・その中畑も、原辰徳の入団・コンバート(二塁→三塁)によりサードのポジションを奪われ、ファーストにコンバートされたものであった・・・その為、代打や外野での起用が増加。志願する形で1984年にロッテへトレード移籍するや、ファーストのレギュラーを獲得。同年には初めて規定打席に到達し、打率.301(9位)を記録しました!!3年間レギュラー!1987年も控えながら、3割をキープするも、翌年にはコーチ兼任となり、10.19で代打で出場もしていましたが、引退・・・10.19のビデオを高3の時に観た時に、山本氏を知らなくて、名前を観て大笑いしたのは、改めて謝罪します(汗)引退後は、直ぐにロッテの首脳陣!1997年から二軍監督となり、若手育成に心血を注ぐ。ついに1999年には、ロッテの一軍監督に就任!近藤昭仁前監督も若手起用に積極的でしたが、それ以上に若手を起用する機会が、増え。7/7までは首位も、徐々に失速してしまいました・・・特にこの年から、前監督時代には全く起用されていなかったサブロー・大塚明の起用を発揮してました。特に大塚には目を懸けていたようでよう「3番・センター」で起用してました。サブローはドライチやったし、イチロー、パンチ、キク・山田の次に登録名で騒がれましたが、山本監督以前は、起用される事なく"忘れかけらてる存在"でしたからね!ただ(というか元々内野手)内野手も出来る選手でしたが、この頃には完全に外野手に転向してました(汗)福浦和也は前監督の抜擢(立川隆史・福浦和也のコンビ)でしたが、二軍監督時代に野手に転向を命じたのも、彼やなかったかな?福浦を育成したといわれてる!さらに清水直行・小林宏(宏之)・小林雅英・渡辺俊介らの育成に尽力しましたね。2000年以降は、次期監督が見付からない事もあり、若手抜擢よりもややベテラン重視の方向となり、2003年まで指揮を採りました。ただ一度も最下位になる事なく、Aクラス入りはならなかったものの、確かにチーム力は上がりました(特に2001年を除く9月以降は、無類の強さ)!ロッテファンの友人も2001年頃(福浦、フランク・ボーリック[ロッテ]、デリック・メイ[ロッテ]のクリーンナップの安定感)のロッテは、「偽コウジ時代のロッテは、強かった」って言ってますが、僕の印象は"強くも弱くもない"という印象でしたね。2004年には、堀内恒夫監督の要請により巨人の二軍打撃コーチとして入閣(→監督辞任即コーチ就任は、極めて異例)。翌年には、一軍ヘッド兼打撃コーチを務めました。2006年からは、解説者となりました。宇野勝の伝説の「ヘディング事件」の打球を放った人物でもありましたな(笑)あと監督時代には、大島康徳日本ハム監督とよく揉めてましたな、その辺は大人しそうに見えて「熱血漢」の持ち主でした!なお息子の武白志(山本武白志)[D]は、現在で育成選手として汗を流しています。通算成績は、試1217率.277 64本369点 安699/試690 324勝352敗14分 率.479。
それと工藤幹夫(日本ハム)氏も亡くなられました!工藤氏は、1978年オフに日本ハムへ入団。入団当初はアンダースローだったが、サイドスローへとフォームを改造して頭角を現し、1981年の日本シリーズで2勝を挙げる。1982年は先発として20勝4敗・防御率2.10の成績を収め、最多勝・最高勝率・ベストナインに輝く。この年の9月に右手小指を骨折し、前期優勝の西武と対戦するプレーオフは絶望と見られていたが、驚異の回復を見せて10月9日の第1戦に先発。この時は6回0/3を投げて無失点だったものの、打線の援護が無く勝ちはつかなかった。しかし、第1戦から中2日の第3戦に再び先発すると1失点完投勝利、このプレーオフ日本ハム唯一の勝利をもたらした。監督だった大沢啓二によると、医師から「プレーオフには間に合う」と聞き、世間を驚かせようと考えて、ケガの具合は伏せたままひそかに練習をさせたという(本人によると、半ば強制・苦笑)。なおこの年、レギュラーシーズンでは西武相手に6勝1敗と抜群の相性を見せていた為の起用でもあった。しかし明らかにこの事で無理が祟り、他の箇所も故障し、1984年を最後に一軍から遠ざかる。1986年に右肩軟骨摘出手術を受け、1988年には野手に転向したが、一軍へ上がることは出来ず、現役を引退した。現役引退後は秋田へ戻り、スポーツ店を経営しながら、社会人野球チームの由利本荘ベースボールクラブの監督兼投手を務めていました。ほぼ同年代の工藤一彦(阪神)とややこしかったですが・・・通算成績は、試78 30勝22敗 防3.74 でした。ご両人共、合掌です(涙)