今年の野球殿堂入りの表彰者が、発表されましたな。エキスパート部門で野球解説者の田淵幸一 氏です!田淵氏は、大学時代は「法政三羽烏」の1人!巨人入りを熱望も1968年の巨人のドラフトは、投手優先に指名した為、阪神が1位指名をし、泣く泣く阪神に入団。入団後は強肩、強打の捕手として1年目からレギュラーに定着。22本塁打を放ち、捕手として史上初の「新人王」を受賞した。1970年8月26日の対広島戦で外木場義郎から左こめかみに死球を受けて病院へ搬送されるほどの重傷を負った事を切っ掛けに耳あて付きヘルメットが導入されたきっかけを作った選手でもあった。この時の怪我(3日ぐらい意識は、回復せず)は「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われる程大きなもので、翌年以降まで尾を引き、入団当時「もやし」「キリン」のあだ名をつけられるほどやせていたが、だんだんと太りだしてしまったとされる。この頃、打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、1972年には34本塁打を記録した。江夏豊とのコンビは「黄金バッテリー」と呼ばれた。 1975年には王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を打ち、初タイトルを獲得した。怪我で出遅れた王を尻目に開幕から打ちまくり、最終的に王に10本差をつけてタイトルを獲得した。死球を受け、左手をまともに使えない状況で右手だけを使い、打ったホームランも含まれている。 1978年オフに深夜に球団から呼ばれ西武へトレード通告(汗)阪神時代は、一時期外野に転向していた年度(1971年)もあった!入団前は嫌がっていた阪神に愛着を感じていた彼は、この通告に号泣していた・・・
西武では一塁手やDHに転向して活躍も続けた。5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録(西武球団史上初の40本塁打でもある)。1982年・83年には阪神時代に成しえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。1979・80年には、ノムさんとチームメイトになったが、捕手での配球面では全くの考えの違いで、ノムさんには捕手としては相手にされなかったようである(大汗)田淵氏曰く"だって投げるのは、投手じゃないですか?どこに球が来るかなんて判らんから、キャッチャーは受けるだけで結局は、投手次第でリードしたってあまり仕方が無い"と"殆ど考えていない・投手の出来次第の打撃の事しか考えていないタイプのキャッチャー"と見受けていたそうです・・・1984年限りで現役引退。 翌年から解説者に。1989年オフにダイエーの監督に就任。外様であった上初の監督業務であっただけに失敗も多く、ファンの不満も多かった。ただエース・村田勝喜を中心に佐々木誠・大野久・吉永幸一郎といった野手は、幾分か育った気もしますし、チームは年々順位を上げていた(6・5・4位)!が!ただチームは、1度もAクラス入りならず・・・4位で平和台球場の有終の美を終え、翌年の福岡ドーム移転及び根本陸夫 監督への橋渡しをする。1993年からは野球解説者。2001年オフに星野仙一監督の熱烈な要望を受け、阪神復帰に渋い態度を見せていたものの、古巣阪神のチーフ打撃コーチに就任!濱中おさむ(治)を指定強化選手のように扱い、「うねり打法」を伝授するが、濱ちゃんに限らず彼の指導法は「成功した」とは言い難く彼は、教えるのが上手いんやろうか?・・・2003年のリーグ優勝&仙ちゃん勇退を置き土産に退団・・・2007・2008年には、再び仙ちゃんの下、北京五輪の予選・本戦の打撃コーチに就任。本戦では「お友達内閣」は失敗に終わった事は、あまり触れん方がええんかな・・・2011年に次は、またしても星野監督率いる楽天のヘッド兼打撃コーチに就任!!今度は、「骨盤打法」を選手に伝授も統一球の影響を受けてか、これもあまり成功したとは言い難い・・・チームの極度の打撃不振から6月5日付で打撃コーチ職を解任。ヘッドコーチ専任となり、翌2012年もヘッドコーチを務めたが、同年シーズン終了を以って解任となった・・・翌年の日本一には、関わることは出来ず’(涙)ただ大半を激務の捕手で過ごし、474本塁打は、立派!!殿堂入り、おめでとうございます!!!
他には、特別表彰に故・石井連蔵 氏、故・前田祐吉 氏が、殿堂入りされました。前者は、「日米大学野球の開催」に尽力し、前田氏は、アジア野球連盟の事務局長としてアジアへの野球普及に力を注がれました。両氏共、おめでとうございます!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます