GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

オリックス3―2広島(6/12分)

2021-06-23 21:04:41 | 野球

 優勝決定待ち試合でしたな、チラッと観ましたが、オリの投手陣は、全体的に球威があり、力強さを感じました。広島打線は、狙い球を絞り切れずに、カウントを悪くし、迷ってる間にやられてしまった印象を受けたな・・・

 あ~、それとネットでの話題騒然というか物議を醸してるのが、五輪日本代表"「侍ジャパン」の選出方法"ですが、「人選の意図」は、"「旬の選手」よりも「代表の経験者」を重視した選考やった"んでしょう!僕も、これは"ある程度正解や"と思います!それに"シーズンの野球の適性と国際大会の野球への対応力"は、"別もの"やからなぁ!シーズンの成績がええからといって、このまま代表で活躍出来る・通用するとは、限らんし(落合さんは、特にシーズンと国際試合は別もので、必ずしも通用するとは限らん、特にプロは!日本国内と国際大会では、ストライクゾーンをとっても違うし、「そもそもプロは国際大会に向いてない」とまで2003年に証言してた!)!ただ状態の良くない選手や旬でない選手を選ぶのも、それはそれで不安ですが・・・だから"旬の選手を選ぶのも1つの手"では、あるんですが(汗)栗林(広)や栗原(ソ)を選んだ(万が一が在った時に捕手としても使える!ただその点・ポジション近ちゃん[日]とも被ってるけど、同じタイプのポジション・左打ちの選手が2人居るのは、ちょっと枠が勿体無いかな・・・)んは、中々ヒット!千賀(ソ)が居ないのが、影響して来るか・・・侍経験のある"修羅場を潜り抜けて来た選手選考"の稲葉ジャパンに光が、射すんかな!?

 あと中村稔(巨人)氏が、亡くなられました・・・中村氏は1957年に巨人へ入団。1961年に17勝を挙げ川上哲治監督の初優勝に貢献。同年の南海との日シリでは6戦中5戦に登板し、第1戦で先発するが、主軸に2本塁打を喫し大敗。最終第6戦では堀本律夫をリリーフして勝利投手となり、6年ぶりの日本一を果たすと、このシリーズでは技能賞を獲得した。それでも遅咲きな方で1965年に復活して20勝4敗でリーグ5位の防御率2.21を記録!V9初年度の優勝に貢献。同年の南海との日シリでは第4戦に先発するが、6回に崩れ敗戦投手となる。0勝に終わった1969年限りで現役を引退。

 引退後は巨人で二軍投手コーチ・一軍投手コーチを務めた。コーチをしていない時代は、 解説者を務めた。藤田元司から手腕を信頼され、監督を務めた際は必ず投手コーチに中村を起用していた。斎藤雅樹の才能に惚れ込み、サイドスローへの転向を藤田に進言し、エースに育てた。1990年にはチーム防御率2.83、130試合でシーズン最多記録の70完投を記録し、防御率2点台でセの上位4位までを独占。2桁勝利投手5人という投手王国を作った。東京ドームはグラウンドが堅い為、ドームで試合がある時は多摩川グラウンドに投手を集め、ランニングさせてから球場入りさせた。投手の足腰の負担を軽減し、なおかつスタミナをつけさせる工夫が最多完投につながった。投手の打撃練習にも力を入れ、当時の巨人投手陣はバッティングが良かった。試合の終盤にチャンスで投手に打順が回ってくると、好投しているのに代打を出すという藤田に「それで代打は誰か」と聞き、名前を聞いて納得が行かないと、「それならピッチャーを打たせた方が良いですよ」と言ってしばしば藤田監督を押し切った。1997年にロッテの一軍投手コーチに就任。投手陣の整備に従事し、チーム防御率の改善に貢献したが、翌年の6月30日に記録的連敗の責任を問われ、コーチを解任された。近年は敬愛大学のコーチを務めたほか、アクロディアの発売する投球データを解析できるボール「TECHNICAL PITCH」のアドバイザー役も務め、大学での投球指導にも活用していた。最近でもしょっちゅうV9巨人の主力投手&元巨人投手コーチの立場として、週刊ポストで「日シリに苦戦中の今の巨人への提言」や「巨人大改革論」的な特集でも、取材を受けてましたから、もっとお元気なんかと思ってましたが・・・言うてる事はやや古臭く廣岡(達朗)御大と同じ様な意見を述べてましたね、あそこまで極端やないけど(汗)ちなみにかつてパ・リーグの審判にも、同姓同名の審判が、在籍してました。通算成績は、試352 72勝53敗 防2.76 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

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