今年の野球殿堂入り表彰者が、発表されました!プレーヤー部門では、野球解説者の立浪和義 氏でエキスパート部門は、同職の権藤博 氏で特別表彰は、脇村春夫 氏でした。立浪氏は、前回書きましたhttp://forever545kb.hatenablog.com/entry/2010/01/22/231100 が、PL学園時代は、春・夏連覇を達成した時の3番・遊撃手でした!南海との争奪戦(抽選)により中日にドラ1で入団。ルーキーイヤーから遊撃手として全試合に出場して、低打率(.223)ながらも守備と走塁で新人王を獲得!翌年は、前年の疲労からか低迷するも、1990年は「野球センス抜群力」を発揮し、返り咲いた上1番打者として3割以上もマーク!!1992年には、肩の弱さを鑑みてか、志願してセカンドに転向しました(打順は、主に3番でしたが、ファミスタ2では1番になってますね・汗)・・・1993年には、16本塁打を放ち、自己最多記録を更新する(2002年も16ホームランを放ったが、1シーズンではこの本数が最多)!何故かファミスタ3では、2番打者になってますね(プロ野球データ事典では、1番打者)・・・1996年には、.323を記録し、キャリアハイ!!翌年は、ナゴヤドームチーム第1号本塁打を放ちサイクルヒットも1試合達成するも、全体的にはホームラン数以外は不振・・・1998年には、足の負担を減らす為にレフトへコンバートされるも、不慣れなポジションに打撃にも影響が出て、打率は3厘前年を上回ったものの、極度の打撃低下を招いた・・・翌1999年は、セカンドに戻り5番打者としてリーグ優勝に貢献!翌年も5番打者で久々の3割越えで、打点も53から58にアップした。2001年の後半ぐらいから荒木雅博の台頭により、サードを守る機会も増える。2002年の山田久志 監督時には、レオ・ゴメスの帰国により4番を任された時には、無茶やと思いましたが、チャンスには弱くなかったですもんね!翌年も、アレックス・オチョアの4番向きでないと判断され、4番に戻った!同年に2000本安打を達成!!!翌2004年は、3番・サードをガッチリと固め、リーグ優勝に貢献!!ただ翌年の2005年ぐらいから明らかに衰えが、目立つようになる・・・中村紀洋の入団や内野手として森野将彦の台頭もあり、スタメン出場は減って行く(=代打の切り札としてのポジションには、何とか残っていた)・・・2008年には、コーチ兼任選手。2009年に引退・・・2013年には、WBC日本代表で打撃コーチに就任し、4番の中田翔(日)から"良いアドバイスを貰えるコーチ"と感謝を受ける(拍手)!!先日の週ベには、"私は、足が速い訳でも、遅い訳でもなかったから、俊足選手なら三塁打になった打球が二塁打になったし、遅い選手なら一塁ストップでシングルヒットだったから、歴代最多二塁打数の記録を樹立で来たんでしょう"と述べられてますが、確かにそう言えるかも知れませんね!立浪氏は打撃3冠のタイトルは獲った事はないものの、僕は「野球センスの塊」やったと思ってます!守備を除けば(汗)守備は、正面で捕ろうとしすぎて、トンネルした所を見た事があり、通算では日本プロ野球史上初の3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)でゴールデングラブ賞を受賞していますが、上手いイメージは無かったですね・・・
権藤氏も以前一部、書いてます(汗)http://forever545kb.hatenablog.com/entry/2011/09/07/231900 権藤氏の件に関しては、前回は書き忘れて次の記事に書いたけど、"雨"とは「雨天中止試合」の事を指すんですよね!さらに「雨・雨・権藤・雨・権藤」とも言われてました(汗)このエピソードは、相手チームの選手に"権藤は、一体いつ休んでるんだ!?"と記者か何かに言ったのが、キッカケとか(苦笑)権藤氏は、ブリヂストンタイヤから1960年オフに中日に入団。61・62年と2年間で65勝(2年連続最多勝)・130試合登板・522奪三振・投球イニング数こそ800回未満であるが とてつもない酷使・起用法をされるが、後悔はあまりしていないという話・・・1964年までは投手も、故障もあり年々成績は下降していった。1965年には、内野手に転向するも、好調さがあまり持続せず、1968年に投手に戻る(汗)同年に1勝を挙げるも、故障が再発し、翌年に引退・・・引退後は、社会人としてサラリーマン生活をしていたが、1973年に中日の二軍投手コーチとして野球界に復帰!のちに一軍も。1988年には、近鉄の投手コーチに就任。仰木監督と相談し、吉井理人を守護神として育て上げただけでなく、近鉄投手陣から絶大な信頼を受けていたのは、2年目にリーグ優勝をしたからだけではなく、前回書いた通り「投げ込み不要論」・「四球必要論(四球は4つ出して初めて1点を取られる、ホームランは1球で1点を取られる。ホームランが怖けりゃあ[打たれる気が、すれば]、歩かせば良いんだ!)」といった画期的な手法やったからである(燃)!さらに飲みに行く相手も、特に派閥は無く、指揮官がスター選手を特に可愛がってた部分があったが、権藤氏は壁が一切無し。ただ西武戦中心に先発投手を立てようとした仰木さんに対し、権藤コーチは「こんなのは、邪道!どっから勝ち星を挙げても同じ1勝だし、もし雨天中止になったら無駄になる!」と度々衝突したし、吉井氏に至っては1989年の胴上げ参加を拒否して、ベンチ裏に引き返した(涙)それに直ぐ気付いた権藤氏は、自身も胴上げに参加せず、吉井氏を慰めに行き、日シリ終了後に以前から辞任の意思を固めていたらしいけど、契約年数が残ってたにも関わらず、正式に違約金を払ってまで近鉄を退団した・・・"権藤氏は、崩壊した投手陣を立て直した有能なコーチだった。投手の心情を思いやる温かい人でもあったが、その為に監督とも、球団とも関係が悪化した。1991年に権藤がダイエーの投手コーチに就任したあと、近鉄投手陣は「権藤杯ゴルフ」をやろうとした。同コーチが在籍時代から続いていた親ぼく会だが、球団は「オフとはいえ、ファンの手前もある。対戦チームのコーチを囲む会は好ましくない」と差し止めた"(""は、近鉄球団かく戦えり より)とある様に相当慕われてた事が、窺えますね!!ダイエー時代は、村田勝喜・池田親興(阪神―ダイエー―ヤクルト)らを育成し、名投手コーチの地位を欲しいまま?にする。1997年には、横浜のバッテリー・チーフコーチに就任して、投手陣を整備。翌年の1998年には、横浜の一軍監督に就任し、"監督呼び罰金"・"バントは必要最低限"・"ミーティング無し"・"攻めた上での失敗は責めない"・"大魔神(守護神)・佐々木への絶大な信頼"・"マシンガン打線"によって横浜を38年振りのリーグ優勝どころか、日本一に導く!!!!特に中継ぎ投手に関しては、自身が現役時代に酷使された経験からか「中継ぎにもローテーション制」を布き、無理をしない起用法が注目を浴びた(それでも、のちに大魔神・島田直也・五十嵐英樹[横浜]・阿波野秀幸・関口伊織などが、そこまで長生き出来なかったのは、やはり登板数を抑えてても、投手って無理が来るねんなぁ・・・)!ただ翌年からは、2年連続3位を記録するも、世代交代の失敗・権藤氏の投手コーチへの越権行為(監督時代から、口癖は「監督ではない、投手コーチの気持ちでグラウンドを観ている」と言ってはばからない)・コミュニケーション不足・ミーティング不足により、チームに不協和音が出始め、退陣に追い込まれました・・・特にミーティング不足は、選手からも不満の声が出てましたなぁ(号泣)・・・2001年からは、野球解説者。2012年に高齢ながらも、中日投手コーチに復帰。1年で退団し、解説者に復帰。2016年には、常設化されている日本代表投手コーチに就任し、翌年のWBCにも投手コーチを務めました!特に各球団での投手コーチとしての手腕は、凄かったですね(驚)!!立浪氏と権藤氏は、殆ど暗黒時代を経験していなかったけど、現在低迷期にある中日OBですが、昨今の体たらくをどない思ってるんでしょうなぁ(汗)?
脇村氏は、第5代日本高等学校野球連盟会長。2002年11月に就任し、08年11月に退任するまで、プロ・アマ関係の健全化等に尽力しました。自身は神奈川・湘南高2年だった1949年夏の全国高校野球選手権大会で初出場優勝を果たした。1学年下に佐々木信也が居たが、日本高野連会長に就任する際、「元プロも高校生を指導出来るようにして欲しいです」と頼まれ、2004年にプロ側と「新人選手選択に関する覚書」に調印。現役プロ選手による「夢の向こうに」を開催するなど、"プロアマ健全化の土台をつくった"事は、偉大でしたね。
各氏の皆様、今回の受賞、本当におめでとうございました!!!