goo blog サービス終了のお知らせ 

いったりきたり

いつも通りの日をまじめに過ごしながらにっこりしたりきゅんと身にしみたり

ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol34

2015-03-02 | 海外旅行

車中よりマサダの要塞を方面を望みます!

マサダは、四方を絶壁に囲まれた難攻不落の要塞でした。
ユダヤ王家により紀元前120年頃から造られはじめ、ヘロデ大王が、離宮兼要塞として大規模改修を行った場所です。
紀元70年、ユダヤ戦争でイエスが予言したとおりエルサレムが陥落し崩壊した後、ここに約1000人のユダヤ人集団が3年半にわたり籠城しました。
イエスの十字架刑から約40年後のことです。
こんな荒野に約1000人のユダヤ人が立てこもり、3年半に渡って生活していたというのは驚きです。

エルサレム地方で降る雨の一時的な鉄砲水を、上手く設計された水路で導き、要塞内の巨大な貯水施設に注ぎ込むのだそうです。
なんと、12の水槽があり、4トンもの水を貯めることができたそうです。

1万5千のローマの軍隊にしても、攻めあぐねる要塞、やがてローマ軍はイスラエルの捕虜と奴隷を使って崖を埋め、防壁を乗り越える建設をします。
懸命に防戦するも、要塞の陥落は目前となります。
抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば奴隷となります。

そこで、マサダが選んだ結末は・・・集団での自決でした。
マサダが最後に集団自決した際、生き残ったのは、この地下貯水施設に水汲みに行っていた2人の女性と5人の子供だけ。
なんという悲劇だったのでしょうか。
 

ユダヤ戦争はマサダ陥落によって終結しましたが、マサダは現代のユダヤ人にとっても民族の聖地となっています。
イスラエルの国防軍はマサダでの入隊宣誓式を実施し、イスラエル軍士官学校の卒業生は山頂で「マサダは再び陥落せず」と唱え、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さぬことを誓うそうです。

死海から近いマサダには死海のグッズがたくさんお土産であります。
私もお友達のバスソルト買いましたー 

デザートローズをデザインしたブレスレット。かわいいけど・・・きっとつけませんから、写真だけ!

 イスラエルとヨルダンの国境を越え、再びヨルダンの首都アンマンに向かいます!


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol33

2015-03-01 | 海外旅行

オリーブ山エリア ゲッセマネの丘です。

ゲッセマネとは、ヘブライ語で油搾りを意味しています。
この辺り一面オリーブ畑で、オリーブの精製が盛んに行なわれていました。
現在庭園には8本のオリーブの木が昔から受け継がれています。
ここは、イエスが祈りのためによく訪れる場所で、弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエスが、このゲッセマネに入り、このあと起こるできごとを予感しながら神に祈りを捧げた場所でした。 

古いオリーブの木があり、中には樹齢1000年以上のものもあるそうです。日本では見られないオリーブの老巨木です。

(岩にイエスが祈っている姿が描かれています)
弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエスが、ゲッセマネの園に入り、このあとに起こる出来事を予感しながら、地の汗を流し、神に祈る様子が描かれています。

 最後の晩餐の後、イエスと弟子たちは、オリーブ山のふもとにあるゲッセマネにやって来ます。


イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈っていなさい」といって、そこからやや先に進んだところで、ひざまずいて必死に祈ります。

その祈りはあまりにも必死だったので、彼の全身から汗が血のしずくのようにボタボタと地面に流れ落ちていました。
祈りの途中で弟子たちを3回見にいったが、彼らは3回ともぐっすり眠っていたのです。

イエスが3回目に、疲れて眠っている弟子たちを起こしにいったとき、剣や棒を手にした大勢の群衆がやってきました。
この群衆は、みな祭司長や律法学者たちがさしむけた者で、その先頭に、12弟子のひとりユダが立っていました。

夜中なので、彼らを取り巻く支持者もなく、イエスを拘束しやすかったのです。
ユダは、そのタイミングを狙って先導してきたようです。

弟子たちはここゲッセマネで眠っていましたが、イエスは拘束されることを知っており、恐れおののきながらも祈っていたのです。

とうとう逮捕の瞬間がやってきますが、イエスにはもう覚悟ができていました。 

イエスがまだ話してるうちに、ユダが進みよってきます。
群衆も、剣と棒とを持って彼について・・・
ユダはあらかじめ彼らに合図をしておいてあります。「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」と。
ユダは来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻します。
人々はイエスに手をかけてつかまえたのでした。

イエスが捕えられた際、弟子の一人が暴徒に切りかかり、その片耳を切り落したようです。
それをイエスは制し「・・・聖書の言葉は成就されねばならない」と拘束されていきました。 

そして、弟子たちは・・・というと、皆イエスを見捨てて逃げ去ったのです。
たったひとり、マルコではないかと思われる若者が後を追いますが、人々が彼をつかまえようとしたので、着物を捨てて、裸で逃げて行ったといいます。

イエスは捕まり、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまったのでした。

 

過ぎ越しの食事、イエスが覚悟を決めていたその時、同じ食事をいただきながら、裏切りを企む者がいました。ユダです。
彼はこの過ぎ越しの食事の直前、司祭たちのところに行ってイエスを引き渡すのと引き換えに銀貨30枚を受け取る約束をするのです。
銀貨30枚というのは、その当時定められた成年男子の奴隷ひとり分の取引額です。
奴隷の苦しみを偲び、そして奴隷からの解放を祝い、また、他者を奴隷とすることのないよう自ら戒め、解放をもたらした神に感謝するその食事を前に、ユダは奴隷ひとり分の値段でイエスを売ったのでした。

少しの金と引き換えに人の命を売り渡し…ユダの裏切りです。
しかし、それはユダ一人のことではなく、イエスが「あなた方の一人が裏切る」と爆弾発言した時、すべての弟子が「まさか、わたしでは?」と自分の裏切りの可能性を自分自身に疑わざるを得なかったのだし、まさに、そうなったわけでもありました。

でも、これはイエスと弟子たちの話だけではなく、自分の欲望や利益のために、人を不幸にすること、私たちの中の浅ましさ、業の深さを戒めるためのことでもあると思います。
オリーブの木の下にpeaceと描かれていますが、peaceの本質とは??と。

万国民の教会です。1925年に世界12カ国からの献金によって再建されたので万国民教会と名付られたそうです。
イエスが最後の夜を、苦悶しつつ祈って過ごしたところに建つ教会です。

礼拝堂です。
教会の中は、窓がほとんどなく、照明も抑えられており、暗く感じます。
礼拝堂正面のモザイク画、「苦悶のキリスト」です。


イエスは、この後に続く鞭打ちの拷問と十字架刑の運命を知っていたのでしょう。

それが神の意志で、救世主として耐えなければならないとわかってはいましたのですが、死の恐怖を待ちつづけるこの時間を、冷静に過ごす事は出来なかったのでしょうか… 

地面にひれ伏し「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」とこう言って祈ったそうです。

 イエスが血の汗を流しながら祈ったといわれる岩

茨の冠で囲まれた2000年前のゲッセマネの園の岩肌、触れることができました。 

結局イエスは自ら選んだこの場所で捕まり、エルサレムの大司祭の館に連れていかれたのでした。

 ガイドの信夫さんと!!

中央「イエス」、左「キリスト教徒」、右「ユダヤ教徒」です。 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol32

2015-02-28 | 海外旅行

展望台からユダヤ人墓地の横の急な坂道を100mほど下ると「涙の教会」に出ます。 

 

素朴な感じの門をくぐっていきます。『十字にスモール十字×4』の十字
エルサレム十字、十字軍の十字としても知られています。 

 お墓の後、お墓の石も切ってました。

自生しているカトレアがめずらしかったー

やっぱり旗も。。。『十字にスモール十字×4』・・・エルサレム十字
エルサレムから四方に福音が述べ伝えられたことを表すともいわれます。また五つの十字架はキリストの5つの傷を表すともいわれています。  

クロスパティ、ドイツ騎士団が使用していた十字ですね。ドイツ騎士団とは12世紀後半のパレスチナで聖地巡礼者の保護を目的として設立されたローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つです。
・・・の名残なのでしょうか?? 

教会内に入ると、とても印象的でユニーク祭壇が!
大きなアーチの格子窓の向こうに岩のドームが真正面に見えるように造られているのです。
雛鳥を羽の下に囲うめんどりのモザイクが優しさを感じさせてくれます。
「全能者の陰」という言葉があって、親鳥が自分の羽の下に雛鳥を守る姿を指しています。
「イエスはその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう」と言われています。

私はちょうど雌鶏がヒナ鶏を包むように何度あなたがたを愛したことでしょう。というような意味ですね。

エルサレムの滅亡を予言し、イエスが涙を流したという言い伝えにちなんでフランシスコ会が建てたのが、この教会で、涙をかたどったと言われるドームを持つ建物です。

 涙の教会の象徴的な絵葉書です。とりあえず、写真だけ!


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol31

2015-02-27 | 海外旅行

オリーブ山の展望台へ向かいます。
この展望台は岩のドームが輝く旧市街が眺望できる名所となっている。高さ825mのなだらかな丘陵地帯で、古くからオリーブ畑になっていたためにこの名がついたといいます。
また、この山は旧約、新約の聖書にたびたび出てくる由緒ある丘です。

 朝ごはん!チーズテンコ盛り!

大規模なユダヤ人墓地。墓石が密集して並んでいます。
旧約聖書で最後の審判の日に神が立ち、死者がよみがえる場所とされているため、この地に墓地が作られるようになったとか。

 

その遠く向こうには旧市街の城壁と岩のドームが見えます。

このお墓はすべて土葬です。お墓にお参りに来たしるしに墓石の上に石を置いていきます。シンドラーのリストという映画の撮影でも実際にこの場所で行われたそうです。


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol30

2015-02-26 | 海外旅行

キリストの生誕教会はベツレヘムにあります。
エルサレムから南へ10km、標高726mの小高い丘の上にあるのが聖地ベツレヘムです。
パレスチナ自治区の中にあり、分離壁で隔離されているため、観光バスで検問所を越えます。ベツレヘムに入る時には、それほど検問は厳しくありません。
検問所を通過した後はベツレヘムの小型のバスに乗り換えて、キリスト生誕教会へ向かいました。

ベツレヘムではクリスマスのお祝いは、3つ。
12月25日はローマカトリックとプロテスタントにとって伝統的な祝日。
エルサレム総主教庁、コプト正教会、シリア正教会では1月6日から。
アルメニア正教会では1月18日から祝います。

コンスタンティヌス帝の母ヘレナにより、イエス生誕の地とされた地下洞窟の上に聖誕教会が建設され、339年に完成されました。
その後火災にあい、6世紀にユスティニアヌス帝により再建。
現在の建物は十字軍時代に修復され、外敵の攻撃を防ぐために要塞化されたものです。

教会の入口は「謙虚の扉」と呼ばれる狭い入口。そこを入ると大理石の太い柱が並び、天井からは金属製のランプがたくさんぶら下がっています。

高い天井と両側に大理石の列柱が並ぶ壮大で荘厳な雰囲気がただよう礼拝堂です。講堂みたいな広いフロアで明日のXmasの準備中でした。

珍しい「褐色の聖母子像」がかけてあります。キリスト教が広がる前のローマ帝国には、豊穣をもたらす大地母神が盛んに崇拝されていました。栄養分のある大地は黒い。
キリスト教的には悪魔の色でもある黒だが、それ以外の多くの信仰においては、よき作物を育てる大地、豊穣の象徴といえば「黒」なのでした。

「黒いマリア」は、この大地母神をキリスト教に取り込んだものだといわれています。

ローマ帝国で最も人気の有ったエジプト神話の大地母神イシスを取り込み、キリスト教を広めるために役立てたとも、褐色のマリアを問題にした修道会もあったようですが、キリスト教が新大陸で勢力を伸ばしたのは、褐色のマリアのおかげだったようです。 

 正面の祭壇はギリシア正教会が管理しています。

このフロアを通り抜けて進み、狭い階段を下りて地下へ行くと、キリストが生まれたとされる洞窟の場所があります。
そこへの入口は巡礼者や観光客であふれており、順番待ちの行列です。

 なんか「Together! Together!」ってゆわれて。。。 

順番が来て狭い階段を下って地下洞窟に下りると大理石の祭壇があます。

ろうそくが灯されていて、その下に生まれたとされる場所があり、その中央に銀製の星型が取り付けられて、生誕場所を示しています。

イエスの時代は、この洞穴は馬小屋として使われていたらしいです。

 

 

その隣には生まれたイエスを寝かせたという石造りの飼い葉桶がある。当時は木製ではなく石造りだったようです。
簡素で分かりやすいです。イエスは飼い葉桶の中で眠っています。 

ベツレヘムは「ダビデの町」とも呼ばれています。また、この地から救世主が出現すると信じられており、この地でイエスは生まれたのです。
イエスの両親であるヨセフとマリアは、ガリラヤのナザレに住んでいましたが、マリアが出生のお告げを受けてから、ベツレヘムに来た理由は「人口調査のため」となっているそうです。
日が暮れようとしたとき、ふたりはベツレヘムで宿を探しました。
しかし、住民登録のための客があまりにも大勢いたため、宿は満員で泊まることができなかったそうです。
やむなくふたりは、近くにあった洞窟のなかに入り、そこでマリアはイエスを出産します。
そして、その子を布に包んで、飼い葉桶に寝かせのでした。

そして、ベツレヘムで生まれたイエスは、ナザレで育ち、やがてガリラヤ湖周辺で宣教活動をし、数々の奇跡を起こし民衆の心をとらえ、熱狂的な支持を得て行くことになるのです。

聖誕教会内部の古いモザイクの床、教会の床にはところどころ穴が開けてあり、モザイクが見られます。それはコンスタンティヌス帝の頃のもの。

聖カテリーナ教会、生誕教会に隣接してフランシスコ会の聖カテリーナ教会があります。
ヒエロニムスの像 
彼はこの教会の洞窟にたてこもって、ヘブライ語の聖書をラテン語に翻訳した人です。ヒエロニムスを援助したのがバウラと呼ばれるローマの婦人です。
彼女の協力で翻訳を完成させることができたといいます。
バウラの死後、彼は彼女の骨をそばに置き、翻訳作業を続けたと。ヒエロニムスの像をよく見ると、彼の足下に頭蓋骨が置かれています。

密度の濃い一日でした!ホテルに帰って夕食。。。


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol29

2015-02-25 | 海外旅行

 イエスが拷問を受けた地下牢があります。 

 拘束されたイエスの像、絶命の叫びが聞こえてきそうです。

 くくりつけられた紐で手首をしばられて、こん棒や鉛の入った鞭で打たれ・・・

 瀕死の状態で投げ込まれた地下牢

 少し極端に信仰するグループが声を張り上げて傷んでいる様子でした。

 鶏鳴教会の2階

「鶏が2度鳴く前に、3度知らない」というペトロさえも否認した・・・この事実に愕然としますが・・・

ペトロは後に、イエス死後のキリスト教団の指導者となります。
普通は指導者の失敗や弱さを隠そうとするものです。

ペトロはイエスを「知らない」という裏切りをしてしまいますが、そのことを改心しエネルギーに変えて、後にイエスの精神を継ぎキリスト教を指導して行きます。
懺悔と改心、人間の弱さと強さ、本当の責任の方・・・いろいろ考えさせられる話です。

イエス誕生のオブジェ 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol28

2015-02-24 | 海外旅行

鶏鳴教会への道のり。 少し高台の方へ移動し、そこに位置する鶏鳴教会へ向かいます。2000年前、最後の晩餐を過ごした翌日、イエスはゲッセマネで逮捕され、大祭司の邸宅に連行されますが、その邸宅跡に建つのが鶏鳴教会です。

鶏鳴という名前の由来は…イエスの予言どおり、弟子のペテロが「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らない」と言うだろうという聖書の話に由来しています。

 

イエスはすでに最後の晩餐の後、「弟子たちは皆、私につまずくであろう」と予言していました。

イエスはペトロに、「あなたによく言っておく。あなたこそ今日、今夜、にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」。ペトロは力をこめてこう答えます。「たとえあなたと一緒に死なねばならぬとしても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」

 鶏鳴教会の門扉のレリーフに描かれた、イエスのペトロ三度の否認の予告(イエスが三という指を立てています)

ぺテロと3人の像 「ぺテロは三度イエスのことは知らないと言った。その時、鶏が鳴いた。」この話に因んだ像。
ペテロに質問した3人とペテロが並びます。 上には鶏が・・・

イエスは捕えられ大祭司の屋敷で尋問と拷問を受けます。

イエスが逮捕された時、ゲッセマネから逃げ去ったペテロですが、弟子のリーダー格なのですから責任を感じたのでしょうか。
しばらくして、イエスが連れて行かれた大祭司の屋敷の中庭まで忍び込み、下役どもにまじってすわり、様子をうかがっていました。

ペトロは下で中庭にいましたが、大祭司の女中のひとりがきて、ペテロが火にあたっているのを見ると…
「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」といます。
するとペトロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行きます。
そして、鶏が鳴きます。
ところが、また、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだしますた。
ペトロは再びそれを打ち消します。
しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペトロに言います、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。
しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめした。
するとすぐ、鶏が二度目に鳴いたのです。
ペトロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言う」と言われたイエスの言葉を思い出し、身を投げ出して泣いたといいます。

教会側面にある石の階段は2000年前のイエスの時代のものらしく、イエスがオリーブ山まで祈りに行く時に通ったといわれ、またゲッセマネで捕まってイエスが大祭司の邸宅に連行される時も通ったとされています。


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol27

2015-02-23 | 海外旅行

最後の晩餐の部屋 :イエスが捕えられる前夜、ユダを含む弟子たちとともに食事をし、ユダの裏切りを予言したところです。
現在の建物は十字軍が建てたもので、ゴシック様式になっています。

 「最後の晩餐」というとダビンチが描いた絵が有名ですが、何の記念日なのかというのが大事になってきます。

最後の晩餐は、過ぎ越し祭というお祭りの夜の食事でした。旧約聖書の「出エジプト」に起源があります。

 中は非常に殺風景で、がらんとした場所でした。

部屋のミフラーブです。カアバの方向を示す礼拝堂正面の壁に設置された窪み。あえていうならばミフラーブがあればそれでモスクなのです。
15世紀のオスマン朝時代には、イスラム寺院として使われていました。 

 あんまり、キレイでもないオリーブのオブジェ!

ペリカンが彫像されています。
キリスト教ではペリカンをイエスの象徴としているようです。中世ヨーロッパではペリカンは愛と犠牲的精神に溢れた動物だと思われていたからのようです。

なぜそう思われたのかというと、ペリカンは我が子を大変愛する鳥であり、自らの胸に穴を開けて、自分の血を与えて我が子を育てるという伝説があったからなのです。
この伝説には異説もあり、自分の雛が殺されると、親は自分の胸をかきむしって、流れ出た血で雛を蘇らせるというものもあります。

これらの伝説によってペリカンは「母性愛、父性愛、慈愛、復活」の象徴として知られるようになり、自らが十字架にかかることで、人類の罪をあがなったイエスと同一視され、彫像や絵画、聖杯などに刻まれるようになったのだそうです。

 

・・・さて、最後の晩餐で重要な意味を持つ過ぎ越し際とは??ですが…

「出エジプト記」の中で、イスラエルの民はエジプトで奴隷としてこき使われ苦しめられていました。神さまはモーゼという指導者を遣わせて人々を連れ出そうとします。
しかし、そう簡単にエジプトの王が奴隷のイスラエル人を手放すはずがありません。
神さまはモーゼを通して10の奇跡の力を現わし王をイスラエルを解放せよと説得しますが、王は神の力を侮ります。
そして、神さまは最後の裁きを・・・ 
それは、エジプトにいる全ての家庭の長子が殺されるというもの。
「初子の死」です。それはエジプト人でもイスラエル人でも同じです。
しかし、神さまはその災いから守られる方法も示しました。それが、過ぎ越しという儀式です。
「各家庭の入口の柱に、オスの子羊の血を塗りなさい。入口に血を塗った家は、もう罰が済んだとしてその前を過ぎ越す。」
神の言葉を信じたイスラエルの民は、それによって罰を受けずにすんだのです。
そして、反対に神さまの力にようやく恐れをなしたエジプトの王は、イスラエルの民を解放して、彼らはエジプトを脱出します。

これが過ぎ越しです。神の裁きが自分たちの上を過ぎ越していったことです。
モーゼから1500年後の過ぎ越しの祭りの晩、イエスは弟子たちと一緒に食事をしました。
明日十字架にかかることを、意識していたイエスはぶどう酒とパンを渡し、私の血と肉体だといいます。
エジプトで、イスラエルの民が過ぎ越しの子羊の血によって救われたように、自分が十字架で流された血が全ての人の救いの為であると、そのことを示したのが最後の晩餐です。

もし、この夜の過ぎ越しの食事がなかったら、弟子たちにとって十字架は意味のない苦しみとなってしまうのでした。
もっというと、十字架は過ぎ越しの成就であるのだと。イエスの血は罪の赦しを与える贖罪です。

ユダヤの人々は、出エジプトの出来事、奴隷だったころの苦しい体験をその食事を一品一品食べることで追体験するのです。

カルパス:鉢の中の塩水に浸した生野菜
→緑の野菜は命を象徴し、塩水は涙を象徴。先祖たちの命が涙に満ちていたことを記憶する。


ベイツァー:ゆで卵を火で炙ったもの
→ 炙ったゆで卵は幾度となく崩壊し焼き払われた神殿を思い出すための料理。

マロール:苦い野菜(西洋わさび) 涙が出るほど
→奴隷の苦しみを覚えるため

ハセロット:みじん切りした、リンゴとナッツ、蜂蜜、シナモンに少量のワインを練った粘土状のもの
→エジプト時代に泥をこねてレンガ作りをさせられた民族の苦難の歴史を偲び、泥状のものを食べる。

子羊:入口の柱に血を塗るために殺した子羊の肉で、急いで焼いた即席パン。エジプト人だけに災いがもたらされているそのすきに、急いで腹ごしらえしてエジプトを脱出していく、そのために食べた。

そんなわけで過ぎ越しのメインは子羊と種なしパンと決まっています。

イエスもこんな食事をしながら、民のことを思い浮かべ自分の覚悟を固めたのでしょうか。


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol26

2015-02-20 | 海外旅行

 ダビデ王の墓
 「ここは、2000年の間、ダビデが葬られたところとして言い伝えられています。けれども、ダビデが葬られたのは3000年前のことですから…
実際はどこに葬られたかは知らされていません。

古代ヘブライ王国の二代目の王であるダビデ。(初代:サウル、三代ソロモン)ダビデはミケランジェロの作品でも有名で、ペリシテ人の侵略からヘブライ王国を守った英雄です。

ダビデ王の像。そのダビデ王は竪琴を持っています。
なぜダビデが竪琴を持っているのかというとそれは神話に由来して、羊飼いの少年であったダビデは心の病をわずらっていたサウル王を竪琴で癒したとされているからです。

 入るとき、頭を隠すためのストールが用意されていたので、それをかぶりました。 

ダビデの墓が安置されているところに入ります。小さく、意外に簡素で拍子抜けしてしまいました!
中に入ると、ビロードの布が掛けられていた棺桶がありました。祈祷書を手にしながら、祈りをささげている人が何人かいました。

ダビデは晩年、家臣のウリヤの妻であるバト・シェバという女性の水浴び姿に一目ぼれします。
彼女を呼び出しそして我がものに。
彼女が妊娠すると、これがバレるとまずい!と!
戦場で戦っている夫ウリヤをわざわざ連れ戻し、バト・シェバと床に入るように画策したりします。
でも、これがなかなかうまく行かず…
窮地に立ったダビデがとった画策は、ウリヤを最前線に追いやり、戦死させること。
古代イスラエルの王、正真正銘の英雄がなんともオロオロしているようで…
いつの時代も男って!!っていうか。。。人間臭さを感じるエピソードです。
ちなみに、このバト・シェバから生まれたのが次の王、ソロモンの知恵のソロモンです!

 

簡単にダビデの一生♪♪

羊飼いの末の子ダビデが神の目にとまる。
サウルの悪霊を琴で癒す
小さなダビデが信仰の力で巨漢ゴリヤテを倒す。
ダビデ人々の人気を買う。
嫉妬に狂うサウル(イスラエルの初代王)に追われるダビデ。
2度にわたってサウルの命を助けたダビデ。
神の寵愛を失い無残なサウルの最期。
ダビデ、ユダ族の王になる。ついにダビデがイスラエル全土の王になる。
ダビデのもとでイスラエル王国が栄える。
ダビデが人妻横取りと殺人の罪を犯す。
預言者ナタンによるダビデへの叱責。
ダビデ家でトラブル続出。
実の息子に追われ逃げまわるダビデ。
ダビデがふたたびイスラエルの王に復帰する。
ダビデ、息子のソロモンに戒めを残して世を去り、ダビデの町に葬られる。


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol25

2015-02-19 | 海外旅行

シオン門から手前の方に狭い道が続いています。シオンの丘へと通じる道です。
丘と言ってもそれほど高いものではなく、周りが小さい谷になっているような感じです。「シオンの丘」は第2神殿時代、神殿に仕える祭司や貴族が多く住んでいました。シオンの丘には、現在、イエスが最後の晩餐をした部屋、ダビデの墓、聖母マリア永眠教会があります。では、この小道を手前に100メートルほど歩いて、上記3か所を訪れます!

ニャンコかわゆい❤❤ネコがネコなでなで。。。

狭い路地の間から聖母マリア永眠教会を眺めます。チラッ!
町並みが、USJのハリーポッター思い出さしてくれます。

この教会はエルサレムでも有数の大きな教会とされています。
聖母マリア永眠教会です。左側の路地を50メートルほど行くと、「ダビデの墓」とイエスの「最後の晩餐の部屋」のある建物があります。

聖母マリアの生涯については長い間2つの説が唱えられています。
ひとつはエルサレムで生涯を終えたというもの。もうひとつはここエフェソスで死を迎えたというもの。

 描き方が、だんだんポップな感じになってきます!

トランプにでありそうな、感じです。 

この辺りになると、もうまるで絵本みたい。ピンクの使われ方が教会では斬新な感じがしました。 

地下聖堂へ行くと、桜の木と象牙で作られたマリアの像があります。 

イエスを中心に女性の使徒が描かれているのは、とても珍しくマリア永眠教会だけなのかも!

日本では布教当初から、イエズス会はマリア信仰を広めることに力をさいていました。
ザビエルが来日したときからして、8月15日というマリア被昇天の祝日だったらしいです。

日本人にもマリアの存在は親しみやすかったようです。

 

聖書ではマリア自体は聖者的に崇拝される存在ではありません。

ところが、聖母マリア信仰が大きく存在してきたのです。

キリスト教文化圏の絵画や像のモチーフとして最も多いのが、聖母、聖母子、受胎告知、などの聖母マリア関連です。
本来、キリスト教は救世主イエスの信仰が根本のはずですが、むしろ聖母マリア教とでもいうべき現象がおこっているのです。

カトリックでは、聖母マリアは永遠の乙女として「マリアの被昇天」から「マリアの無原罪」に至ることが説かれるようになります。中世以降の聖母マリア信仰の一因が、ここにあります。

聖書の記述はともかく、ごく普通に考えると、聖母マリアは、イエスの母として特別の存在であることは確かです。
キリスト教が「愛の宗教」として普及して行ったことに、聖母マリア信仰が大きな役割を果たしました。
この世に母の愛ほど分りやすいものはないからです。
人の道を説くには、母の愛はもっともわかりやすいものです。

また、世界の古代的社会には、はるか古くから地母神、女神信仰がありました。

もともとイエスは、ユダヤ律法を刷新し(奇跡的な)病気治癒により宗教旋風を巻き起こした人でした。

イエスには、ユダヤ教社会からは見捨てられた病人こそ救われるべきだとする認識がありました。
ユダヤ教では病人は罪びとだったのですから、この救済というのが新しい教えだったのです。

母子神としての聖母マリア信仰が加わることによって、キリスト教は、古代宗教に肩を並べることが可能になったと…
ユダヤ教が特殊な一民族の宗教であったのに対し、キリスト教はイエスの癒しの教えと聖母マリア信仰を加えることで、各地域の地母神や女神信仰と融和し世界中に広がったのでしょう。

これは、イエスの母マリアが実際にどうであったかという史的事実とは関係なく、人々の間にキリスト教が広まり得た大きな要因で、また、一般民衆による聖母マリア信仰なしには、キリスト教の普及が有り得なかったと言っても過言ではありません。

こうして聖母マリア信仰は、結果的にキリスト教の世界普及戦略となってしまったかのようです。

そして、民衆の間では、母であり女神??である「母性の神」としてマリア信仰が、より人気のある存在として強く崇拝されていったのです。

また、別の話ですが、その後カトリックではマリア信仰から派生して聖者の信仰が広がって行きます。
実際上、カトリック教会は、非常に多数の聖者が祀られています。


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol24

2015-02-18 | 海外旅行

聖墳墓教会を出て、外の空気!

毎週、ストリートパフォーマーがいるそうですよ!
ダビデの町の城壁  市壁に囲まれた1平方キロに満たない旧市街は、「エルサレムの旧市街とその城壁群」として世界遺産に登録されています。

お昼ご飯。。。だいたいいつも一緒! 日本人だけやに・・・いつもいろんな違うモン食べとるの。

シオン門
シオン門はエルサレム旧市街城壁の一番南側にある門です。
この後訪れる「ダビデの墓」に近いことから「ダビデ門」とも呼ばれています。また、旧市街のユダヤ人地区に近いことから「ユダヤ人地区ゲットー」とも呼ばれるようです。

1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争でこの地区は激戦となりました。
その時の弾痕が現在でも数多く残っています。その時、ユダヤ人地区に取り残された人々を救出しようとしたイスラエル義勇軍がこの門から突入しましたが、敗れました。
エルサレム旧市街がイスラエル領となるのは、1967年の第3次中東戦争でのイスラエルの勝利以降です。

シオニズムという思想があります。
これは、世界に離散しているユダヤ人がパレスチナ(現在のイスラエル)に帰還しようという考え方です。
シオニズムのシオンは、「シオンの丘」に由来します。シオンの丘はイスラエル建国の原点ともいえる場所なのかもしれません。 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol23

2015-02-17 | 海外旅行

第14ステーション イエスが墓に納められる 
ビアドロローサの終着点です。部屋はとても小さく感じました。常に長い行列ができています。

マリアが遺骸を受け取ったあと、香油台で遺骸に香油を塗りきれいな亜麻布に包み、その後、ヨセフがお墓に入れたそうです。
墓の入り口には大きな石を転がしておいた、ということになっていて、その墓が第14ステーションってことです。

イエスの墓は、聖墳墓教会内部のロトンダ(円形建築物)の中央にあります。アナスタシス(復活聖堂)とも呼ばれます。

第14ステーションはキリストの墓とされるところで、複数の教派で管理しています。正面はコプト以外のキリスト教の聖地として共同管理されていますが、コプト教会のお墓はすぐ裏側にあります。

天井 光に吸い込まれていきそうな錯覚を起こします。

いったん離れて、別のところを撮ってみましたー 

裏側のコプト教会のお墓、ちょっと違う感じですよね。不思議。

お墓の中は入れますが、すごい人なので・・・入りません。

 

イエス亡くなったのは金曜日でした。この日、埋葬され、その入り口に大きな石が転がされたのです。
安息日は土曜日です。
正確には、ユダヤでは日没から一日が始まりますから、金曜日の日没から土曜日の日没が安息日ということになります。

この日は、なんの仕事もしてはならないという掟で、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ、彼女達も安息日を守って、家でじっと過ごしておりました。しかし、じっとしていることは、たいへんな苦痛であったに違いありません。

彼女たちにとって、イエスの埋葬は決して十分なものではありませんでした。
安息日が始まる日没までにとりあえず形をつけたもので、イエス身体に香料を塗るいとまもなかったのです。

そして、ようやく土曜日の日没が来て、安息日が明けます。
彼女たちはすぐさま町に飛び出して、あちこちで必要なものを買いそろえ準備をし…そして、日曜日の朝早く「まだ暗いうちに」、準備した香料をもち、足早にお墓へと向かったのでした。

あの墓の入り口に置かれた石、その石は非常に大きかったといわれます。
「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、彼女たちは心配しながら道を急いだのでしょうか…

あの石を転がさなければ、すべて水の泡です。
どんな香料かよりもあの石のことをクリアしなければ…と思うと、あまりにも行き当たりばったり過ぎますよね。

彼女たちはイエス身体に香料を塗ることにこだわり続け、そのために町中を駆けずり回り、そんな風に無我夢中で努力をしたのです。
お墓が石でふさがれていること知りながら、なおもそれを無視するかのようにお墓に急いだ…
そういう姿にこそとても一途さを感じるませんか。理屈じゃないっていうか、もっとも合理的じゃないっていうか(男性には理解しがたいかな)でも、こんなところにこそ、気持ちの強さみたいなのでキュンときます。

そうして、墓に到着して、彼女たちが見たものは…何者かによって封印が解かれ、ぽっかりと口を開けたイエスの墓でした。

彼女たちは恐る恐る墓の中をのぞき込み、そっと中に入っていきました。
するとそこには白い長い衣を着た若者が静かに座って、この若者は神の天使でした。
天使は、彼女たちに、優しく語りかけ、こういう話をされたといいます。

 「あの方は復活なさって、ここにはおられない・・・あの方は、先回りしてガリラヤにいかれた・・・あなたがたはそこでお目にかかれる」・・・

 

さて、彼女たちは一刻も早くイエスのお墓に駆けつけたいという願いを実現するために、困難にもめげず、それを克服して、精一杯やりとげたのです。
しかし、はじめから自分たちの手に負えないと思うこと(石)については、「なんとかなるでしょう」と、まるで人ごとのように…
この究極ともいえる楽観さは、どこから来たのでしょうか。。。
ここでいえば、彼女たちの信仰に根ざすものでしょうか。
「わが助けは来る。天地を造られた神のもとから」歌が、彼女たちの心の中から消えることがなかったということなのでしょう。

信仰は別として、私たちの人生の歩みも、彼女たちに考えされられることが多いのでは・・・

「お墓の前に置かれている石」のことを思案するばかりで、家から「一歩踏み出せない」者になってしまわぬようにと。
つまり考えたって仕方がないことをくよくよと悩まない。行け(踏み出せ)ば何とかなる!
もしくは、行って(踏み出して)から考えよう!
大いなる楽観主義です。

時には、無鉄砲にも思えるようなパワーをもって進んでみる。
そのことが大きな力を呼んできたり次の希望や喜びにつながっていく、そんな風に背中を押された気分です。 

教会内をテクテクいろいろ歩いてみました^^

 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol22

2015-02-16 | 海外旅行

第13ステーション イエスの遺体を引き取る

アリマタヤのヨセフがローマ総督ピラトの許しを得てイエスの遺体を引き取った場所とされています。
そして、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包ん場所です。

イエスの遺体を置いて香料を塗ったとされる長方形の石台(塗油の石)がフロアに置いてあります。
多くの観光客や巡礼団の人々が取り囲み、キスをしたり、礼拝する人でごった返していますが、一瞬、人がはけて私も触ることができました!

当時十字架で死ぬような犯罪者たちの死体は、香料を添えて亜麻布で包まれることはおろか、埋葬されることもなく、当時動物の死骸も含めたゴミ捨て場に投げ捨てられたものだったらしいです。

イエスの死体もこのゴミ捨て場であったことでしょうが、ユダヤ人のみならず「まことに神の子であった」と告白したローマの隊長のように、イエスの死を神の業として受け止めた人がたくさんいたのでしょうか。

イエスが十字架につけられ、埋葬されるまでの時間はあまりのも短い時間の中で行われました。
通常、十字架刑というのは、長い時間をかけて死に至らせる処刑方法で、場合によっては数日かかって死んでいくと言うこともしばしばあったようです。

ところが、十字架に架けられたのが朝の9時で、息を引き取られたのが午後の3時頃ですから、だいたい6時間ぐらいでなくなっています。
それは、通常ではあまり考えられない早さだったのです。
だからこそ、アリマタヤのヨセフがイエス・キリスト様の遺体を引き取りたいと願いでたとき、ローマ総督ピラトは、イエスがそんなに早く死んでしまったのかと不思議に思い、ローマの兵隊の隊長に、本当に死んだかどうかを確かめさせたのです。

このように、ピラトが驚いたほど、人によっては、イエスは十字架の上で死んだのではなく、仮死状態になり、その仮死状態のまま十字架から降ろされ、後に蘇生して逃げたのだ!という人さえいるそうです。 

十字架の下に骸骨が描かれていますが、これはアダムの墓を指すものになります。
イエスの死後、地震が起きて地面が裂けイエスの流した血がアダムの骸骨に流れたのだとか。

亜麻布で遺体を巻かれ、まさに岩に掘られた墓に埋葬されようとするシーンです。

聖墳墓教会2階の第11-第13を降りると、その真下の1階廊下部分に、ゴルゴダの丘の岩がガラス越し見学できるようになっています。

イエスが死んだ時に雷で砕かれたという伝説のある岩


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol21

2015-02-15 | 海外旅行

第13ステーション イエスが十字架から降ろされマリアが亡骸を受け取った場所
悲しみの聖母の祭壇です。

イエスが死んだとき、逃げ去ったイエスの男性弟子たちは居なかったようです。しかし、ガリラヤからイエスに付き従って来た女性たちが見守っていました。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセとの母マリア、またサロメがいました。なおその他には、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいたようです。

ところで、聖母マリアの容姿について、いつも??って思っていたことがありました。いつみても、どこの描き方も・・・
若く美しい。。。イエス33歳で亡くなっているんですから、当然、その母なわけで。本来なら妙齢な女性のはず!

で、少し調べてみると・・・

マリアが男性なしにイエスを身ごもったという教義はほとんどのキリスト教の教派で信じられてきたもので、一般的にもそうです。
しかし、カトリック教会は、諸派にはない独自の教義をもっているようで、そして、マリアの奇跡や、様々な芸術の表現はそのようなカトリックのマリア理解と密接に関わっているというものです。

それは、聖母の「無原罪の御宿り」という教義です。
無原罪のイエスを身ごもったということではなく、マリアは受胎の瞬間から人の史祖、アダムとイブから受け継がれてきた原罪を免れていたというものらしいです。

もう一つは、聖母は生涯の終わりに、死ぬのではなく、身体と共に天に上がっていく「聖母被昇天」という教義。
この二つがどう関わっているかというと…

人間の死は、アダムとイブが原罪を犯すということで発生したというのがキリスト教の考えですがら、原罪を免れているといことは、罪の結果である死を免れているということになります。
つまり、マリアは原罪がないのですから、肉体的に死なないはずなので、生きたままで天に上がっていく・・・
この考え方によって、マリアは死の前兆である「老い」からも自由であると解釈されるのです。

ミケランジェロのピエタのマリアもその典型ですが、年を取っているはずなのに子のイエスよりも若く乙女のようです。
このような教義を背景を知ると、マリアの??がよくわかりました。

ただ…私が思うに…
このマリア「聖母被昇天」という考え方は、とくにバロック期以降盛んに信じられるようになり教義とされるに到ったそうで、バロックといえば秩序を超越するような大胆な芸術で、劇的で時には仰々しいまでの豊潤さや壮大さを魅力とします。

その時期とこの考え方が教義に「至った」ことリンクしているのは、単なる偶然でもないのかもと。
この頃のカトリックは対抗宗教改革(プロテスタントへの対抗)の時期でもあり、カトリック自体の自己改革のエポックメイキングの切り札のような要素だったんじゃないのかなーって少し感じました。


それと、バロックの芸術家たち。マリアがおばさんより・・・麗しい乙女に描ける方が作品に意欲がわくっていうか、鑑賞する側もよりドラマチックだし、そりゃぁ・・・ずっと観てたくなるだろうし。思い入れも深くなるよね。
カトリックがマリア信仰によって民衆の心をぐ~んと引き寄せ、芸術家たちがより魅力的で卓越した作品を手掛けられる・・・
そんな2つの思惑が、そうさせたんじゃぁ。。。なーんて少し穿った考えもしてみました! 

一通り鑑賞できて、ふと周りを見渡す余裕ができました!2階から天井を見上げて撮った一枚。

アーチの柱に14のステーションを描かれていました。ちょっと趣違うね!
エチオピア教会のかな??それともコプト教会のかな??


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol20

2015-02-14 | 海外旅行

第12ステーション イエスが十字架で息をひきとった場所
現在はギリシア正教の管理下です。
たくさんの人が列をつくって順番を待っていますが、祭壇の下には十字架が建てられた跡を示すプレートがあります。

 

昼の12時から暗くなって、3時になったころ、イエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」叫びます。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

そしてイエスはついに息をひきとります。
すると、、神殿の幕が上から下まで真二つに裂け、また地震があり、岩が裂け、また墓が開け眠っている多くの聖徒の死体が生き返ったといわれます。

「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか」という絶望的な言葉は、深く胸に刺さります。

神の子がこんな絶望の声をあげては困る?? イエスの神性を脅かしてしまうんじゃぁ・・・??

非常に悲痛な叫びです。
イエスの苦しみは本当に耐え難いものであって、とても人間的です。
耐えがたい苦痛に断末魔の叫びだったのではないでしょうか。

もしイエスが完全なる神だけであるなら、こんな叫びはあげません。
でも、もし、イエスが十字架刑など痛くもかゆくもなく、穏やかな微笑を浮かべて天に召されていったならイエスの受難はまったくの「受難」でなくなってしまいます。
そう思うと、ゲッセマネでの精神の受難、そして血を流しながら絶え絶えに苦しむ肉体の受難、受難が受難であるべく、最後の一幕だったのかもしれないです。

祭壇の下では、みんな手で十字を切り、口づけをしている様子です。
私はその光景を少し遠巻きにみながら次へ進みます。