第14ステーション イエスが墓に納められる
ビアドロローサの終着点です。部屋はとても小さく感じました。常に長い行列ができています。
マリアが遺骸を受け取ったあと、香油台で遺骸に香油を塗りきれいな亜麻布に包み、その後、ヨセフがお墓に入れたそうです。
墓の入り口には大きな石を転がしておいた、ということになっていて、その墓が第14ステーションってことです。
イエスの墓は、聖墳墓教会内部のロトンダ(円形建築物)の中央にあります。アナスタシス(復活聖堂)とも呼ばれます。
第14ステーションはキリストの墓とされるところで、複数の教派で管理しています。正面はコプト以外のキリスト教の聖地として共同管理されていますが、コプト教会のお墓はすぐ裏側にあります。
天井 光に吸い込まれていきそうな錯覚を起こします。
いったん離れて、別のところを撮ってみましたー
裏側のコプト教会のお墓、ちょっと違う感じですよね。不思議。
お墓の中は入れますが、すごい人なので・・・入りません。
イエス亡くなったのは金曜日でした。この日、埋葬され、その入り口に大きな石が転がされたのです。
安息日は土曜日です。
正確には、ユダヤでは日没から一日が始まりますから、金曜日の日没から土曜日の日没が安息日ということになります。
この日は、なんの仕事もしてはならないという掟で、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ、彼女達も安息日を守って、家でじっと過ごしておりました。しかし、じっとしていることは、たいへんな苦痛であったに違いありません。
彼女たちにとって、イエスの埋葬は決して十分なものではありませんでした。
安息日が始まる日没までにとりあえず形をつけたもので、イエス身体に香料を塗るいとまもなかったのです。
そして、ようやく土曜日の日没が来て、安息日が明けます。
彼女たちはすぐさま町に飛び出して、あちこちで必要なものを買いそろえ準備をし…そして、日曜日の朝早く「まだ暗いうちに」、準備した香料をもち、足早にお墓へと向かったのでした。
あの墓の入り口に置かれた石、その石は非常に大きかったといわれます。
「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、彼女たちは心配しながら道を急いだのでしょうか…
あの石を転がさなければ、すべて水の泡です。
どんな香料かよりもあの石のことをクリアしなければ…と思うと、あまりにも行き当たりばったり過ぎますよね。
彼女たちはイエス身体に香料を塗ることにこだわり続け、そのために町中を駆けずり回り、そんな風に無我夢中で努力をしたのです。
お墓が石でふさがれていること知りながら、なおもそれを無視するかのようにお墓に急いだ…
そういう姿にこそとても一途さを感じるませんか。理屈じゃないっていうか、もっとも合理的じゃないっていうか(男性には理解しがたいかな)でも、こんなところにこそ、気持ちの強さみたいなのでキュンときます。
そうして、墓に到着して、彼女たちが見たものは…何者かによって封印が解かれ、ぽっかりと口を開けたイエスの墓でした。
彼女たちは恐る恐る墓の中をのぞき込み、そっと中に入っていきました。
するとそこには白い長い衣を着た若者が静かに座って、この若者は神の天使でした。
天使は、彼女たちに、優しく語りかけ、こういう話をされたといいます。
「あの方は復活なさって、ここにはおられない・・・あの方は、先回りしてガリラヤにいかれた・・・あなたがたはそこでお目にかかれる」・・・
さて、彼女たちは一刻も早くイエスのお墓に駆けつけたいという願いを実現するために、困難にもめげず、それを克服して、精一杯やりとげたのです。
しかし、はじめから自分たちの手に負えないと思うこと(石)については、「なんとかなるでしょう」と、まるで人ごとのように…
この究極ともいえる楽観さは、どこから来たのでしょうか。。。
ここでいえば、彼女たちの信仰に根ざすものでしょうか。
「わが助けは来る。天地を造られた神のもとから」歌が、彼女たちの心の中から消えることがなかったということなのでしょう。
信仰は別として、私たちの人生の歩みも、彼女たちに考えされられることが多いのでは・・・
「お墓の前に置かれている石」のことを思案するばかりで、家から「一歩踏み出せない」者になってしまわぬようにと。
つまり考えたって仕方がないことをくよくよと悩まない。行け(踏み出せ)ば何とかなる!
もしくは、行って(踏み出して)から考えよう!
大いなる楽観主義です。
時には、無鉄砲にも思えるようなパワーをもって進んでみる。
そのことが大きな力を呼んできたり次の希望や喜びにつながっていく、そんな風に背中を押された気分です。
教会内をテクテクいろいろ歩いてみました^^