2022年3月13日に観察会をしました。今回は水車橋から寺橋にかけて、去年ナラ枯れになったコナラの木が伐採されたので、良い機会と思い、その年輪を測定することにしました。
挨拶をした後、今の状態を概説しました。
「見てもらうと、上の方にある木はまだ芽を出していません。コナラやクヌギが主ですが、落葉広葉樹です。それに比べると下の方には常緑広葉樹があります。例えばネズミモチ、モチノキ、シラカシ、アオキなどです。これにはわけがあります。コナラやクヌギは成長が速いですが、常緑樹のうちアオキなどは低木なので高くはなれません。シラカシなどは高くなれますが、成長はゆっくりです。だから高いところに落葉樹、低い方に常緑樹が多いということが、この季節にはよくわかります。コナラは大きいですが、これまで調べた範囲では大体70歳くらいが多いようで、それを今回もっと調べたいというわけです。」
その調査をする前に、毎年3月下旬にアマナが咲く場所に行って確認しました。ところが葉は出ていましたが、花はまだのようでした。
「私はここで照度計を使って明るさを調べました。そうすると今くらいの時は林の外の90%ほどあったのですが、4月になると急に葉っぱが伸びて暗くなります。アマナはその前に花を咲かせますが、しばらくすると葉っぱごと消えてしまいます。落葉広葉樹林が明るいうちに葉を伸ばして開花し、暗くなると栄養分を地下に貯めて来年まで休眠してしまうのです。これに対してセイタカアワダチソウとか、ススキなど直射日光のものとでどんどん大きくなる草本類があって、そういう植物は暗いところはダメなので、こういう林の下にはありません。アマナのような植物は競争を好まず、ひっそりと咲いてほかの植物があると、<ではお邪魔します>と消えてしまいます。セイタカアワダチソウは小さい植物があれば覆って<文句あるか>という生き方です。<ロシア型>ですね」
「これはなんですか?」
という声がありました。見ると高さ10cmくらいのみずみずしい円錐状のものが見えました。
「ミミガタテンナンショウです」
「これだけで、どのテンナンショウか分かるんですか」
「いや、去年見たから」
それから少し歩くとコナラの切り株がありました。そこでモノサシを出して切り株の年輪の中心点にモノサシの0点を置いて固定しました。そして年輪10本ごとに中心点からの長さを読み取りました。それが終わってから周囲の長さを測定しました。長さ1.5 mのメジャーを持ってきましたが、長さが足らないので、荷造り紐で測定してからその長さを折り釈で確認するようにしました。
年輪を数える
測定する豊口さん
周を測定する。
最初のコナラは年輪が75本で周囲は228 cmでした。この切り株面までに何年かかかっているでしょうから、樹齢は80歳あまりと思われます。
「この前、子供の観察会でも話したのですが、この一番外側が2021年の年輪です。そうすると一年ずつ遡ってこの辺が2010年で、子供たちには<君たちはこの辺で生まれたんだよ>というとキョトンとしていました。で、私が生まれたのがこの辺でこの木はこんなに細かったわけです」
と言って、手で内側の5 cmほどのところの太さを作りました。そのように見ると、年輪の持つ意味がリアルに感じられると思います。
これらのコナラはナラ枯れで枯れたわけですが、その原因はカシノナガキクイムシが幹にトンネルを掘って維管束の導管を塞ぐため、水が流れなくなって枯れることによります。切り株の一部を見たらそのトンネルと思われるものがありました。
調べているときに豊口さんが「あ、シュンランが咲いてます」と言いました。それで撮影していました。後であちこちにシュンランが咲いているのが見つかりました。
シュンランを撮影する豊口さんと、年輪を数える高槻
シュンラン
こうしてお昼までに8本のコナラを測定しましたが、年輪の最多は82本でした。これは90歳くらいのはずです。8本だけなので結論めいたことは言えませんが、一応、樹齢と太さには相関があります。
年輪数(およその樹齢)と周囲(直径に比例)の関係
樹齢が70歳程度のものが多く、戦後に伸びたものといえます。これはこれまで調べたことと符合します。
なおコナラの伐採処理のために一緒に切られたと思われるエゴノキも参考のために調べましたが、年輪数は25本(直径は10cm程度)でした。
そのまま上流の寺橋まで行き、橋から玉川上水を眺めました。
「こうしてみると、確かに上の方に落葉樹、下の方に常緑樹があるのがよくわかります。落葉樹の芽はまだ硬いですが、すぐに芽吹きます。
今朝の朝日新聞の天声人語にいいことが書いてありました。縄文の土偶について、あれは女性だとされてきたが、実は果実ではないかという説を出した人がいるそうです。その背景として、春になって植物が芽生えるのを見た時に、植物の再生力を感じた縄文人が植物が芽吹くことに、自然にはなんらかの善意があると感じてそれを土偶にしたのではないか、というのです。その説には強引さがあるとは思いますが、現代人よりも自然に近く生きていた縄文人が冬が過ぎて春になった時、樹木から芽吹く葉、花、地面から生える草、花に不思議な力を感じるのは当然だと思います。
この景色を見ているとやはりそのことを感じます。思えばこの玉川上水が暗渠にされて舗装道路になる可能性はあったわけです。そうなっていたら、私たちは自然から離れてしまってそういう感覚を持てなくなっていたかもしれません。この文章を読んでそんなことを感じました」
先月はコロナのことがあって観察会を中止しました。今月も収まったとはいえないのですが、あえて実施しました。花の観察には少し早かったようで、コナラの年輪測定に絞りましたが、こういう観察会も「あり」かなと思います。
参加者は以下の通りですが、今回はうっかり記念撮影をし忘れました。
大西、笹川、澤田、辻、豊口、長峰、リー
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