大震災から1ヵ月半が過ぎました・・・。
人類が未だかつて経験したことの無い「地震」「津波」「原発(放射線)」の【三重苦】に、まだまだ日本中が苦しみ続けています。
道は険しくはるかに遠く、その歩みは遅々としているけれど、懸命に「生きて」います。
その健気さに、世界が驚いています。
家も家族も友人・知人も職さえも失い、将来の「希望」さえ見失いがちな中でも、決して「絶望」をしない被災者の方々・・・。
そんな日本人の強さに「世界」が驚いています。
・・・・・・・
被災者の口からは、決して「神」という言葉が出てきません。
1ヶ月目の「追悼」の儀式でも、「宗教者」の姿は見られませんでした。(「9・11」と比べるといいでしょう。)
「キリスト教」なら、きっと今回の震災を“神の与えた「試練」”とか言うことでしょう。
冗談じゃない! そんな「神」なんか、いらない!!!
そのくせ、“神は、いつもあなたのそばにいる”なんてことも、平気で言うのです。
彼ら、とりわけ「アメリカ人」は、心が弱く、宗教(神)に頼らないと生きていけないのです。
暗がりを「独り」で歩けない、「チキン」なんです・・・!
日本人は、決して「神」を「ないがしろ」にしているわけではありません。
豊かな「自然」に恵まれている日本人は、ずっと人智を超えた存在である「自然」を畏れ・敬ってきました。
ただし、決して「頼って」きたのではありません。
時には人間の力などはるかに及ばない「自然」を受け入れて、それでもなお自然に「挑んで」きたのです。
時には「打ち負かされ」ても、何度でも「立ち上がって」きたのです。
「神(すべての自然に宿る)」を畏れ敬うけれど、「頼らない」のです。
その場で「祈る」よりも、「立ち上がって」行動するのです。
自分たちの「未来」を作るのは「神」ではなく、自分たち(人間)だと知っているからです。
「神」など存在しないことは【事実】です。 ただ、弱い人類は現世という“暗い夜道”を「独り」で生きていくよりも、「神」という名の絶対的存在を創り出し仮想のパートナーを考え出しました。
それは、人類共通の“個々の「文化」”です。
・・・・・・
週末に、「池上彰」さんの「宗教」特番が再放送されました。
いかにアメリカ人が弱虫・意気地無しかが分かりましたね。
池上さんは、先日も『文藝春秋』でも「宗教特集」を企画していました。
「仏教」「キリスト教」「イスラム教」「神道」の第一人者とインタビューしました。「養老孟司」さんの話もありました。
日本人は「無」宗教だと言われますが、その「無」は「無い」ではなく(仏教の)「無常」の「無」なんだという意見も興味深かったです。
要するに、日本人は“あいまい”なんです。
“白黒つける”のではなく、“白でも黒でもいいんじゃない?”なんです・・・w
日本人は「神」を信じ・頼るのではなく、「人間」を信じているのです。
困っている自分たちに助けの手を差し伸べてくれるのは、神ではなく「人間」だと知っているのです。
自分もその人間の「ひとり」なんだってことを・・・。
自分(たち)がやらなければいけない(神様は助けてくれない)ことを知っているから、「強い」のです。
目に見えない(本当はいない)「神」ではなく、実際にたくさんの「仲間(人間)」が「居る」のです。
望めば(機会があれば)実際に会うこともできるし、たとえ名前さえ分からなくてもこの世界のどこかに(自分と同じように)生きているのです・・・。
道は険しくはるかに遠いけれど、遅々としていても一歩ずつでも歩き続ければ、何時かは辿り着けるのです。
人類が未だかつて経験したことの無い「地震」「津波」「原発(放射線)」の【三重苦】に、まだまだ日本中が苦しみ続けています。
道は険しくはるかに遠く、その歩みは遅々としているけれど、懸命に「生きて」います。
その健気さに、世界が驚いています。
家も家族も友人・知人も職さえも失い、将来の「希望」さえ見失いがちな中でも、決して「絶望」をしない被災者の方々・・・。
そんな日本人の強さに「世界」が驚いています。
・・・・・・・
被災者の口からは、決して「神」という言葉が出てきません。
1ヶ月目の「追悼」の儀式でも、「宗教者」の姿は見られませんでした。(「9・11」と比べるといいでしょう。)
「キリスト教」なら、きっと今回の震災を“神の与えた「試練」”とか言うことでしょう。
冗談じゃない! そんな「神」なんか、いらない!!!
そのくせ、“神は、いつもあなたのそばにいる”なんてことも、平気で言うのです。
彼ら、とりわけ「アメリカ人」は、心が弱く、宗教(神)に頼らないと生きていけないのです。
暗がりを「独り」で歩けない、「チキン」なんです・・・!
日本人は、決して「神」を「ないがしろ」にしているわけではありません。
豊かな「自然」に恵まれている日本人は、ずっと人智を超えた存在である「自然」を畏れ・敬ってきました。
ただし、決して「頼って」きたのではありません。
時には人間の力などはるかに及ばない「自然」を受け入れて、それでもなお自然に「挑んで」きたのです。
時には「打ち負かされ」ても、何度でも「立ち上がって」きたのです。
「神(すべての自然に宿る)」を畏れ敬うけれど、「頼らない」のです。
その場で「祈る」よりも、「立ち上がって」行動するのです。
自分たちの「未来」を作るのは「神」ではなく、自分たち(人間)だと知っているからです。
「神」など存在しないことは【事実】です。 ただ、弱い人類は現世という“暗い夜道”を「独り」で生きていくよりも、「神」という名の絶対的存在を創り出し仮想のパートナーを考え出しました。
それは、人類共通の“個々の「文化」”です。
・・・・・・
週末に、「池上彰」さんの「宗教」特番が再放送されました。
いかにアメリカ人が弱虫・意気地無しかが分かりましたね。
池上さんは、先日も『文藝春秋』でも「宗教特集」を企画していました。
「仏教」「キリスト教」「イスラム教」「神道」の第一人者とインタビューしました。「養老孟司」さんの話もありました。
日本人は「無」宗教だと言われますが、その「無」は「無い」ではなく(仏教の)「無常」の「無」なんだという意見も興味深かったです。
要するに、日本人は“あいまい”なんです。
“白黒つける”のではなく、“白でも黒でもいいんじゃない?”なんです・・・w
日本人は「神」を信じ・頼るのではなく、「人間」を信じているのです。
困っている自分たちに助けの手を差し伸べてくれるのは、神ではなく「人間」だと知っているのです。
自分もその人間の「ひとり」なんだってことを・・・。
自分(たち)がやらなければいけない(神様は助けてくれない)ことを知っているから、「強い」のです。
目に見えない(本当はいない)「神」ではなく、実際にたくさんの「仲間(人間)」が「居る」のです。
望めば(機会があれば)実際に会うこともできるし、たとえ名前さえ分からなくてもこの世界のどこかに(自分と同じように)生きているのです・・・。
道は険しくはるかに遠いけれど、遅々としていても一歩ずつでも歩き続ければ、何時かは辿り着けるのです。
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