goo blog サービス終了のお知らせ 

うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0429. ピクニック・アット・ハンギングロック (1975)

2014年04月01日 | 1970s

ピクニック・アット・ハンギングロック / ピーター・ウィアー
115 min Australia

Picnic at Hanging Rock (1975)
Directed by Peter Weir, Sydney 1944-. Novel by Joan Lindsay. Screenplay by Cliff Green. Cinematography by Russell Boyd. Film Editing by Max Lemon. Art Direction by David Copping. Costume Design by Judith Dorsman (as Judy Dorsman) . Performed by Rachel Roberts (Mrs. Appleyarda), Vivean Gray (Miss McCraw ), Anne-Louise Lambert (Miranda (as Anne Lambert)), Margaret Nelson (Sara).  


 
ずっとまえに見たきりだった、ピーター・ウィアーの初期の代表作。クリフ・グリーンの脚本に品があり、演出はまっすぐで若々しい。オーストラリアで1900年の聖ヴァレンタインの祝日にピクニックに出かけた女子生徒たちのうち、三人の少女と一人の教師が行方不明になった実話をもとにしている。けんめいな捜索がつづき、少女の一人は一週間後に生きて発見された。山中で靴を脱いでいたのに足は無傷だった。ほかは誰も戻らないまま、なんの痕跡も見つからなかった。消えてしまったのだ。ピクニックの当日、寄宿舎に居残りをさせられ、のちに温室に飛び降りて自死した少女セーラの逸話がハーメルンの物語を連想させる。ひとりだけ扉の内側に入れなかった子供のよう。

IMDBによれば、女子生徒たちの声にはあとからプロの俳優が全面的に吹き替えなおしたものがあるという。配役の選択肢が限定されていて難しかったであろうことは仕上がりのところどころからも想像がつくけれど、豊穣な示唆をはらむ魅力的な作品です。英国風の寄宿舎の抑圧的な価値観と、ダイナミックなオーストラリアの灼熱の夏の組み合わせが不思議なずれと非現実感を作り出していく。寄宿舎という閉鎖的な小共同体の秩序は、巨大な自然界のふところに飲み込まれるように消滅してしまう。〈外部〉にさらされた人間たちの無力と小ささを深い神話性のうちにえがきだしたことが、なによりも優れている。



メモリータグ■南半球の深い森陰から、コアラがひっそりとこちらをみつめている。





0409. コンボイ (1978)

2013年07月20日 | 1970s

コンボイ / サム・ペキンパー
110 min USA | UK

Convoy (1978)
Directed by Sam Peckinpah. Screen story and screenplay Bill L. Norton. Cinematography by Harry Stradling Jr. Performed by Kris Kristofferson (Martin 'Rubber Duck' Penwald). Ali MacGraw (Melissa). Ernest Borgnine (Sheriff Lyle 'Cottonmouth' Wallace).

大型トラックがつらなる光景で有名だけれど、田舎の安食堂を粉砕する大げんかの場面は、スローモーションをおりまぜた編集でペキンパーのリズムと独創性がよく出ている。拷問された仲間を救出しに建物をトラックでぶち破る場面も爽快に撮れていた。『わらの犬』や『ワイルドバンチ』ほどの評価は得ていないかもしれないが、この作品の暴力は風通しがいい。

意外なことに興行上も、生涯最大の成功なのだという。社会の弱者が一点だけの強みで事態を切り抜けていくという展開に、藤沢周平の剣豪小説につうじるような娯楽性があったのだろう。

ペキンパー自身は1984年に59歳で亡くなるので、この時点で残された時間はあと5年ほど。本質的に60年代から70年代初期の映像作家だったと思う――あの、すなおな「行儀の悪さ」においても。



メモリータグ■エンディングクレジットのカット集には、本編に使われていないものが入っている。楽しい。





0347. Mahler (1974)

2011年08月21日 | 1970s

マーラー / ケン・ラッセル

115 min UK

Mahler (1974)

Written and directed by Ken Russell (1927 -, England). Cinematography by Dick Bush. Art direction by Ian Whittaker. Costume design by Shirley Russell. Performed by Robert Powell (Gustav Mahler), Georgina Hale (Alma Mahler), Ronald Pickup (Nick).

 

ラッセルは何をやりだすかわからない作家の一人でけっこう緊張するのだけれど、これは最初から最後まで霊感があった。なによりマーラーの音楽のとめどもなく流れ出す肥沃さが、誇張と夢想を重ねて対象の核を表現しようとする映像の作風と深いところで共鳴している。

シンフォニーの九番を書いたのち死の強い恐怖にとらわれていた最晩年のマーラーがアルマと汽車で旅行するシーケンスを軸に、過去や夢を挿入してつなげていく。この構成処理が優れていた。役者はほぼ全員、驚くほどうまい。主演のロバート・パウエルなんてマーラー本人が演じるよりうまいに違いない(笑)。このあたりはイギリスの演劇人たちの底力を感じる。

冒頭すぐにシンフォニーの五番の四楽章が出てきて、ヴィスコンティのあの有名すぎる場面がパラフレーズされ、マーラーがそれを見つめる。その時点で、おお、なんでもありなのね、まあお好きにどうぞと笑いながら受容することになる(マンの『ヴェニスに死す』は1912年。マーラー没の翌年で、作中の時系列で言えばまだ書かれていない。ヴィスコンティにいたってはほぼ60年後の作品という大胆な未来参照である)。そして受容するだけの価値はある。寓意はつぎつぎと露骨なまでに具象的なかたちをとって挑発的に突きつけられる。それをおもしろく絵にする手腕こそがラッセルの真骨頂なのだ。実際これだけ変なことをやっていてスタイリッシュに成立するのは構図とリズムと光が美しいからで、ラッセルは演出家としてしたたかに冷静である。そう、彼はこの作品でうまく踊った。

マーラーがウィーンの芸術監督の地位を得るためにカトリックに改宗する寓話の場面だけは、そこまで踊るのかとはらはらしたけれど、ユダヤ人の音楽家とヴァーグナー家の関係をイギリス人がどれほどキッチュに描こうと、日本人のわたしはコメントする当事者の立場にない。なにしろ鉄製の六芒星を炎に投げ込んでマーラーが鍛えると、ひとふりの剣に変わっちゃうのです――もちろん『指輪』のジークフリートの剣である。

(一つだけ、しつこく書いておくと、ここも未来参照です。コジマ・ヴァーグナーが第三帝国風の衣装を身につけてマーラーを鞭で飼いならしていく演出で、十九世紀の人物を二十世紀の政党と同化して位置づけるのは言うまでもなく短絡。その危険ともども、ラッセルは百も承知だろう)。

なんであれヴァーグナーとマーラーの人間的な共通項は多い。その自我肥大、異様な世俗性と崇高、天才、妄執に近い野心、本質的にナラティヴな作家であること――それはお話に音楽をつけるといった水準の物語性ではない。音そのものに劇的な表象を負わせる傾向のことである――そして思い込みの強さ、神経質さ、迷信深さ。ヴァーグナーが一日に四回浣腸していた時期があるのをご存じですか? 水は体を浄化すると信じていたのだ、いやはや。

あれやこれやを考えると、あの改宗場面でサディスティックにマーラーを飼いならす役は、コジマ・ヴァーグナーのかわりにいっそリヒャルト本人にしてしまうほうが、よりアーティスティックだったかもしれない。ほんとうの問題はナチスでもないし、政治でも社会でも宗教でもない。その表層をこえた、人間性についてのもっと深い皮肉をえぐり出せる。音楽上の共通性と影響関係も語れる。あの二人の曲や、身勝手な言動の特徴を重ねることで、寓意はさらに残酷に、かつ内的なものになったろう。そもそもヴァーグナーの音楽を、ユダヤ人のマーラーほどよく理解し、自在に継承した人間も少ない。両者の根底にあった化け物のようないびつさと天才を併記して皮肉るほうが強烈だとわたしは思う――もちろんあの場面を見たから言えることですが。

演奏はハイティンクとアムステルダム。そうか、ちゃんと依頼したのね。ほんものの遊びは贅沢です。

 

メモリータグ■うるさいから外界の音を消せと妻に命じるマーラー。実際に消して歩くアルマ(!)。カウベル、教会の鐘、羊飼いの笛、村人の踊り、さまざまな音がマーラーの脳裡の音と重なり、夫妻の動作も重なる。楽音、外部音、挙動、風景、内面のもろもろが相乗し、輻輳し、速度を上げて凝縮していく。ここは絶妙。使われているのは(たぶん)四番一楽章、三番五楽章、一番二楽章、二番五楽章などなど。角笛のあたりですね。 

 

 

 


0327. Klute (1971)

2010年02月22日 | 1970s
コールガール / アラン J. パクラ
114 min USA

Klute (1971)
Directed by Alan J. Pakula, 1928 - 98, New York. Written by Andy Lewis and David P. Lewis. Music by Michael Small. Cinematography by Gordon Willis. Costume Design by Ann Roth. Performed by Donald Sutherland (John Klute), Jane Fonda (Bree Daniels) and Roy Scheider (Frank Ligourin).
Pakula: Sophie's Choice (1982)


スタイリッシュな映像でゆっくりとみせていくミステリー。探偵クルートは多くの俳優が演じたがる役にちがいない。原題はKlute, タイトルロールでもある。ドナルド・サザーランドは自然なふるまいでよかった。わたしは力演型のジェーン・フォンダがにがてなのだけれど、この作品ではていねいにおさえた演出がされている。カメラワークもずいぶんと凝っていて、映画らしい映画だった。

コールガールが精神分析医とディスカッションをする反復シーケンスは、やや冗長かもしれない。二度目からはカットをごく短くするか、回数をへらしてもよかった。あるいはナレーションとして重ねつつ話を進行させていくという終盤でのオーヴァーラップを早めに導入することもできたろう、でもちょっとした編集で調整できる点である。

下着をつけずにタイトフィットのニットで登場するフォンダの衣装はアン・ロスが担当している。多くの作品を手がけてきた第一線のデザイナーで、1970年代初頭のモードがよく伝わる。


from IMDb "Klute"

メモリータグ■最終シーン。家具が運び出されたあとの、がらんとした古いアパートメント。ハッピーエンドをクールな演出でおさめてみせた。





0306. Being There (1979)

2009年07月28日 | 1970s
チャンス / ハル・アシュビー
130 min USA

Being There (1979)
Directed by Hal Ashby, USA, 1929 - 88. Novel and screenplay by Jerzy Kosinski. Cinematography by Caleb Deschanel. Performed by Peter Sellers, 1925 - 80 (Chance), Shirley MacLaine (Eve Rand) and Melvyn Douglas (Benjamin Rand).


ピーター・セラーズにノックアウトされるひそかな名作として、ながらく記憶にのこっていた。『博士の異常な愛情』とはまた異なる演技で、ほとんど深遠な奥ゆきがただよう。端正な映像とロケーションで、脇の配役も的確だった。

ジャンルはコメディー。ありえない嘘がぬけぬけとつづく高度な手法で、もちろん脚本がいい。同時に、この洗練されたおかしみはセラーズだからこそと思う。ほんとうはスクリーンサイズでみるほうが、あの演技の絶妙の間合いと凄みがよくわかるのだけれど。

分類ごっこをして遊ぶなら、プロットパターンは 0304.『ガタカ』とおなじ。「犬のマットレスに座っている犬は、じつは猫である」という、ひとちがい、あるいは変身の系列に入る――と書いてびっくり。ずいぶん違うお話が作れるのですね。

テーマは「無邪気な庭師が、どのようにして大統領候補と目されるにいたったか」。

この構造で近い作品はあるかしら。うーん、バーナード・ショーの『ピュグマリオン』?――「無学な花売り娘が、どのようにして王女とみられるにいたったか」――と書いてまたびっくり。ずいぶん違うお話が作れるのですね(笑)。

映画化の企画はセラーズ自身によるのだそう。七年ごしでようやく実現し、公開の翌年にセラーズは心臓麻痺で去った。五十四歳。沼にたたずむ最終場面は、まるでかれの「ほんとうの姿」のようにみえる――さよなら。



メモリータグ■冬枯れた沼。





0265. The Towering Inferno (1974)

2008年08月06日 | 1970s
タワーリング・インフェルノ / ジョン・ギラーミン
165 min USA

The Towering Inferno (1974)
Directed by John Guillermin. Action sequences by Irwin Allen. Based on "The Tower" by Richard Martin Stern and "The Glass Inferno" by Thomas N. Scortia and Frank M. Robinson. Screenplay by Stirling Silliphant, cinematography by Fred J. Koenekamp, music by John Williams. Performed by Steve McQueen (Chief O'Hallorhan), Paul Newman (Doug Roberts), Faye Dunaway (Susan), William Holden (James Duncan), Richard Chamberlain (Roger Simmons), Susan Blakely (Patty Simmons), Fred Astaire (Harlee Claiborne), Jennifer Jones (Lisolette), O. J. Simpson (Jernigan), Robert Wagner (Bigelow) and Robert Vaughn (Senator Parker).


いまでは古典に数えられる1970年代の「パニックもの」。これこそオールスターキャストというのでしょう、出てくる俳優を何人知っているかで「映画通」のクイズができそう。わたしは全然だめですが(笑)。

スティーヴ・マックィーンは、消防局の現場指揮官というストレートな役柄がよく合っていた。毎回表情をつくるポール・ニューマンより、結局はるかに自然にみえる。誠実な警備員はO.J.シンプソンだったのですね。

物語の展開は、当時としてずいぶん速かったのでは。完成したての超高層ビルがオープニングパーティーで焼け落ちるという「陸のタイタニック」を、群像劇としてまとめている。事故の発端になる回線のショートは、本編開始からほんの数分で始まる印象だった(測ればよかったですね)。いまだったらさらにスピーディーに刈り込んでしまうだろうけれど、ディテールがていねいに描かれていて、うまい。監督のギラーミンはイギリス出身、これが突出した代表作だろう。



メモリータグ■居室にとりのこされた大きな猫は、ちゃんと救出されます。めでたし!






0250. La nuit americaine (1973)

2008年02月24日 | 1970s
アメリカの夜 / フランソワ・トリュフォー
115 min France / Italy

La nuit americaine (1973)
Directed by Francois Truffaut. written by Jean-Louis Richard, Suzanne Schiffman and Francois Truffaut. Music by Georges Delerue, cinematography by Pierre-William Glenn. Film Editing by Martine Barraque and Yann Dedet. Performed by Francois Truffaut (director Ferrand), Jean-Pierre Leaud (Alphonse), Jacqueline Bisset, 1944- (Julie), Nike Arrighi (Odile), David Markham (Doctor Nelson), Valentina Cortese (Severine), Dani (Liliane), Alexandra Stewart (Stacey), Jean-Pierre Aumont (Alexandre) and Nathalie Baye (Joelle).


ぼくは・映画が・大好きだ。

世界中に・それを・伝えたいっ。

全編から響く、このタマシイの叫び。見ていて涙があふれるひと、全然どうでもいいひと、やはり分かれる作品らしい。うさこはもちろん泣けるほうです。これを見ると、トリュフォーの失敗作のすべてがゆるせてしまう(笑)。不完全な人間たちが集まって、雑音だらけの現実から決定的な何かを切りとろうとする。時盗人(ときぬすびと)と呼びたい作業。映画というものの身体、体温が伝わってきました。

今回見直して気づいたことは、カメラワークと編集のよさ。全体の速いリズムを崩さず、つねに動的な絵をこころがけながら、決して単調なくり返しにならない。テークごとにすこしずつ手を加えて、アングルをずらしていく演出もこまやかだかった。毎回山のようなアイデアを出したのだろう、ほんの一瞬だけ映りこむさまざまな舞台裏が泣かせる。俳優が通りすぎた直後に雪を掻きならすスタッフ、つくりものの地下鉄出口をけんめいに走り上がる少年。なにもかもがたのしくて、かなしい。

それにしても、1980年代はむごかった。グールドが去り(1932-1982)、トリュフォーが去り(1932-1984)、タルコフスキーが去った(1932-1986)。全員おない年。あのあとは、もう憧れのヒーローをもたなくなった。『アメリカの夜』が仕上がった時点で、トリュフォーにのこされた時間はあと十年。この作品を残してくれて、ほんとうによかった。



メモリータグ■寝巻きのうえにコートを羽織ってホテルの廊下に出るジャクリーヌ・ビセット。無造作な感じも絵になっている。

猫タグ■そうそう、ただ一点。猫のあつかいだけはいけません(笑)。思うようにミルクをなめないからって、あんなに叱って。それも子猫なのに。





0247. The Sting (1973)

2008年02月12日 | 1970s
スティング / ジョージ・ロイ・ヒル
129 min USA

The Sting (1973)
Directed by George Roy Hill, written by David S. Ward, cinematography by Robert Surtees. Performed by Paul Newman, 1925- (Henry Gondorff), Robert Redford, 1936- (Johnny Hooker), Robert Shaw (Doyle Lonnegan) and Eileen Brennan (Billie).


ヒルの最高傑作。脚本がじつにていねいだった。冒頭の現金詐欺、中盤のCIA捜査チーム、大詰めの殺人など、おもだったプロットはどれも二枚じたてになっている。つまり、作中人物が知らない仕掛けが一枚あり、さらにそれを見ている観客にも明かされない仕掛けがもう一枚ついている。どれも垢ぬけていて、気持ちよくだまされることができる。セットは驚異。

こまかいところまで工夫がきいているのが、殺し屋のシークエンス。レッドフォードをねらっている「一流の」スナイパーとは誰なのか、ここもすなおに一枚の伏線にはしない。

冒頭のタイトルデザインをはじめ、初期映画のカメラワークをとりいれた随所の演出もおしゃれに仕上がっていた。レッドフォードはくせのない演技で見やすい。ブラックタイにトレンチコート、さまになっていましたね。



メモリータグ■屋内の木馬。これを回して撮ると、それだけで動きのある、たのしい絵になる。古びた建物のなかで、この壁だけがぴかぴかに塗りたてなのも新鮮だった。




0235. Stalker (1979)

2007年10月31日 | 1970s
ストーカー / アンドレイ・タルコフスキー
163 min West Germany / Soviet Union
Language: Russian

Stalker (1979)
Directed by Andrei Tarkovsky. Written by Arkadi Strugatsky and Boris Strugatsky (novel "The Roadside Picnic" and screenplay), Andrei Tarkovsky (screenplay). Cinematography by Aleksandr Knyazhinsky, Georgi Rerberg (1977) and Leonid Kalashnikov (uncredited). Original music by Eduard Artemyev. Performed by Aleksandr Kajdanovsky (Stalker), Alisa Frejndlikh (Stalker's Wife), Anatoli Solonitsyn (Writer), Nikolai Grinko (Scientist), Natasha Abramova (Martha, Stalker's daughter).


タルコフスキーでどれか一本、といわれたら、これ。
ふつうに投票をしたら、おそらく『ノスタルジア』や『サクリファイス』が上位にくるのだろうし、それは妥当だと思う。けれど、個人的にはどうしてもこれなのです。理由はわからない。最初から最後までつづく、あのおそろしい緊迫のためかもしれないし、最後に室内に降る、憐れむような雨のためかもしれない。冒頭の、黒い犬のためかもしれない。とにかくこわい話であることはまちがいない。自分の本心を知ることは、どんな恐怖映画よりもこわい。

いまさらこの作家を語ることばがなくて、ずっと書かずにきた。
タルコフスキーについては、昔、たまたま封切り後の『ノスタルジア』を二番館でみた。誰かは知らなかった。そのあと、ほぼ全作品をみた……といっても、ご存じのように超寡作です。べつに自慢にはならない。

ただ当時、まだタルコフスキー自身が生きていた。名前は、一部のひとのあいだでしか知られていなかった。古びた映画館でいきなりあの映像に遭遇すると、一秒ごとの異様な美しさと凝縮性にこおりつく。終わったあと、ただごとではないものにぶつかったということだけは確信があって、茫然としたまま、もう一度最初から、つまり二度つづけてみた。極限まで疲労困憊したけれど、やめることができなかった。空気の重さや、思考の密度が根本的に異なる、べつの惑星でつくられたようだった。いまもまだ、あれをこえる衝撃には出会わない。

『ストーカー』は、とりわけ激しくひとを選ぶ。年も性別も国籍も関係ない、ただ、選ぶ。作中の異空間が、受け入れる人間を選ぶように、観る相手を選ぶのだ。ものを作るなら、こうでなければならないのだろうけれど、観るがわをここまでふるい落としてしまう作品もすくない。友人は、逆になにも作りたくなくなるから、あのひとの作品はいやだと笑っていた。彼女はただしい。ふつうの人間である自分に絶望してもいいという物好きなかたには、おすすめしたい。

Andrei Tarkovsky
Date of Birth: 4 April 1932, Zavrazhe, Ivanono, USSR (now Russia).
Date of Death: 29 December 1986, Paris, France (lung cancer).



メモリータグ■水の反射。光のうごき。




0209. 病院坂の首縊りの家 (1979)

2007年07月08日 | 1970s
Byoinzaka no kubikukuri no ie / Kon Ichikawa
aka. The House of Hanging
139 min Japan

病院坂の首縊りの家 (1979)
監督:市川崑、原作:横溝正史、脚本:日高真也・久里子亭、撮影:長谷川清、音楽:田辺信一、企画:角川春樹事務所、出演:石坂浩二(金田一耕助)・佐久間良子(法眼弥生)・桜田淳子(法眼由香利)・久富惟晴(五十嵐猛蔵)・入江たか子(後妻五十嵐千鶴)・萩尾みどり(法眼琢也の愛人山内冬子)・あおい輝彦(義理の息子山内敏男)・草刈正雄(日夏黙太郎)・横溝正史(老推理作家)・加藤武(等々力警部)・三谷昇(石切鑑識課員)・三木のり平(野呂十次)・白石加代子(宮坂すみ)・草笛光子(雨宮じゅん)・ピーター(吉沢平次)

振袖を着た、丸い頬のお人形のような女の子が出てくる。時代をかんがえずに富田靖子さんだろうと思ってみていたら、富田さんは1969年生まれで当時まだ十歳。じっさいは桜田淳子さんでした。クレジットで知って、ちょっとびっくり。きちんと俳優として演じていたので……。全体はたいへん豪華なキャスト。

『病院坂の首縊りの家』は、このシリーズのなかで、いちばん暗い雰囲気かもしれない。といっても、どの作品も連続殺人なのだから、いまさら暗いもないのですけれど。ただ、ほかの作品はおおむね鄙びた山奥を舞台にしていて、伝説性が漂う。でもこれは都会的で、そういう遠さがないからかもしれない。

横溝さんが、いわゆるカメオ出演で登場している。おもえば角川が横溝さんのシリーズをプロモートしていこうという会議の席上で、スタッフは誰ひとり、横溝さんがご存命かさえ知らなかったというエピソードがあった。こうして映像になっているのをみると不思議な気がする。八つ墓村など、子供のころおもしろく読みましたけれど。



メモリータグ■画面の上から下へ、急坂を降りてくる人力車。カメラがふたたび上にあがると、坂の上に金田一さん。映像の切り取られ方は横長なのだけれど、これを上下にながく撮った構図が印象に残る。「病院坂」にふさわしい絵だった。




0192. 悪魔の手毬唄 (1977)

2007年05月01日 | 1970s
Akuma no temari-uta, aka The Devil's Ballad / Kon Ichikawa
144 min Japan

悪魔の手毬唄(1977)東宝
監督:市川崑、原作:横溝正史、脚本:久里子亭、撮影:長谷川清、音楽:村井邦彦、企画:角川春樹事務所、出演:石坂浩二(金田一耕助)・岸恵子(青池リカ)・永島暎子(青池里子)・渡辺美佐子(別所春江)・仁科明子(別所千恵)・草笛光子(由良敦子)・頭師孝雄(由良敏郎)・高橋洋子(由良泰子)・原ひさ子(由良五百子)・川口節子(由良栄子)・若山富三郎(磯川警部)・辻萬長 ツジカズナガ(野津刑事)・加藤武(立花捜査主任)・中村伸郎(多々良放庵)・大滝秀治(権堂医師)・三木のり平(野呂十兵衛)


市川さんの作品の風景、カメラの暗さと空間の奥行きはいつもたのしみ。脚本はいまなら二割くらいはことばを削ってしまうだろうけれど、ぜったいにわかる、という手順を抜かないていねいな方針で作っていると思う。

三人娘がつぎつぎに犠牲になる連続事件。歌手になった別所千恵を演じたのは仁科明子さんだったとあとで知りました。へえええ。ほっそりした娘さん。この映画に出てくる女優さんたちは、みんなごくおさえたメークをほどこされているひとが多い。繊細なしあがりなので、誰のキレイさも、「こちらから見に行く」感じ。いまからみるとまことに古風だけれど、こういう抑えた、品のあるみせかたは、いまはもう崩れてしまったのでは。

脇はみなさん、達者です。演出も、ひとりひとりの描きわけが徹底している。とんちんかんな捜査主任は加藤武さんの当たり役、大滝秀治さんも、えらそうな顔をしたすれっからしの開業医そのものだった。しかも、いちおう医者は医者なのである。

日本は、うまい役者さんは十分にいる。



メモリータグ■手毬唄をうたう本家のおばあさんの、少女のような声が魅力。





0164. The Gauntlet (1977)

2006年11月25日 | 1970s
ガントレット/クリント・イーストウッド
109 min USA


The Gauntlet (1977)
Directed by Clint Eastwood. Writing credits Michael Butler and Dennis Shryack. Cinematography by Rexford L. Metz. Performed by Clint Eastwood (Ben Shockley) and Sondra Locke (Gus Mally).



監督と主演をこなしたイーストウッドはまだ若い。1930年生まれ、この作品の時点で三十代なかば。でもこのひとは、感心するくらい雰囲気が変わらない。6フィート4インチ(1.93メートル)という背のたかさはそのまま、髪を白くして皺をふやせば今の顔になる。

ここでは証人になる娼婦を法廷まで護送する警察官を演じている。上司はスキャンダルをかくしていて、発覚をおそれて証人を抹殺しにかかる。定型どおりのストーリーだった。

山場は一斉射撃のシーンだろう。主役はバスをのっとって、証人と二人で法廷にむかう(「おれはただしいことをしている、だからバスをのっとってもゆるされる。バイクを盗んでもゆるされる、ひとを殺してもゆるされる」)。ところが悪役の上司の采配で、銃をかまえたおおぜいの警察官が配置されている。進んでくるバスにむかって、警官たちは大量の銃弾を浴びせる。ヒーローとヒロインは、鉄板で保護した運転席を死守しながら法廷にたどりつく。畏敬にうたれたように立ちつくす警官たち。おしまい。

アメリカン・ムーヴィーでスターの役柄といえば、まずはタフガイ系ヒーローが思いうかぶ。「ガンマンの系譜」である。この作品はその点でも典型的……と書くといかにもファロス神話のラベルがぺたりとはりつきそうだけれど(笑)、アメリカン・ヒーローの条件はかわらない。一にルックス、二に腕力。三、四がなくて五に弁舌。映画史上の「タフガイ」は誰から始まるの? ダグラス・フェアバンクス・シニアかな。



メモリータグ■ヒーローとヒロインが二人で貨車にのりこむと、まちかまえていたように「ならず者」たちに襲われる(ほんとうは、かれらはそのまえに主人公にバイクを奪われた被害者です)。ヒーローはとっさに銃を干草のなかに隠して手首を縛られるままになる。彼を助けようとヒロインはグリーンのシャツをはだけ、胸をさらして男たちを誘う(アメリカでメジャー興行の作品にヌードやセミヌードが使われるのは、おそらく1970年前後だけでは)。そこで主人公は憤然と縄をひきちぎって立ち上がり、隠しておいた銃を手に、暴行をくいとめる。ふふ、缶詰のほうれんそうがでてきそう。

#こうした状況で最後まで立ち上がれない男性主人公が出てくる例は、ヒッチコックの『裏窓』くらいでは。足をギプスに覆われた男が持っているのは銃ではなく、望遠レンズだけだった。ヒッチコックいいなあ、なさけなくて。




0159. ルパン三世 カリオストロの城 (1979)

2006年11月03日 | 1970s

Lupin the Third: The Castle of Cagliostro / Hayao Miyazaki
100 min Japan

ルパン三世 カリオストロの城 (1979)
監督:宮崎駿、脚本:宮崎駿、山崎晴哉、製作:藤岡豊、原作:モーリス・ルブラン、モンキー・パンチ、作画監督:大塚康生、音楽:大野雄二、美術:小林七郎、声優:山田康雄(ルパン三世)、島本須美(クラリス)、増山江威子(峰不二子)、小林清志(次元大介)、井上真樹夫(石川五右ヱ門)、納谷悟朗(銭形警部)


名作(笑)。宮崎さんは三十代の後半でこの作品をつくり、五年後に『風の谷のナウシカ』を発表する。うーむ、栴檀は双葉より芳し。練りこまれた脚本で、緻密な細部がすばらしかった。この作品はそれまでの蓄積においてひとつの集大成であると同時に、ここからさらに高度な新しい流れがあふれ出す結節点のような位置づけになっているのでは。非常に重要な作品だと思う。

ヒロインは冒頭ほどなく、ウェディングドレスで真っ赤なシトローエンを運転して逃走中、というもうしぶんなく印象的な演出で登場する。彼女は、自分を助けた人物が気をうしなっているのに気づくと、長い礼装用の手袋をはずし、水にひたして相手の額を冷やす。そのまま去っていったあとの手袋のなかに、重要な指輪がのこされている。この流れるようなシークエンス。はやい展開で観る側を引きつけながら、"果敢で清楚なヒロイン"という人格提示をすませ、しかも物語の核心につながる指輪が、ごく自然なかたちで主人公の手にはいる。物語は、こんなふうにして動き出すものなのだろう。

のちの『もののけ姫』で、タイトルロールのヒロインが冒頭から三十分たってまだ登場にいたらなかったような「思いいれの重さ」は、ここにはまだない。どうしたらたのしく、おもしろいものを作れるか。その職人的な課題がひたすら追求され、純粋に達成されている。才能には、ぞんぶんな自由をあたえればいいとはかぎらない。むしろ制約とむすびついたとき、思いがけない幸福な成果がうまれることもある。あるいはもともと、すぐれたひとは自分に制約を課すことがうまいのかもしれない。

たとえば舞台設定。ここではひとつの城が周到に使いつくされている。堀の水路、尖塔の幽閉室、急勾配の大屋根、城内の礼拝堂、地下室の造幣施設、庭先の森、大時計のメカニズム。シーンなどいくらでも増やせるセルアニメーションであるにもかかわらず、でたらめをしていない。それどころか、宮崎さんはこの城を庭園ごと、きちんと設計したに違いない。そしてどのシーンでどこを使うか、時空間をすべて配分したろう。本格的な実物感が出ているのは、その結果だと思う。小道具をふくめて時空のヴィジョンを克明に思いえがき、それぞれの性質をいかすという一流の仕事で、古典的な「娯楽作品のつくり」をよくふまえてもいる。

クライマックスでは主人公たちが塔の大時計という高所からもっとも低い水の中まで一気に落ちたあと、その水がひいていくというダイナミックな変化をはさんで、ひいたあとの水底から古代の都市があらわれる。つまり物語がもっとも大きく動くところで、主人公の空間的な移動ももっとも大きく、速く、そして舞台そのものの視覚変化も最大になっている。「わくわく」は偶然ではうまれない。さまざまな効果がぴったりかみあっているのです。



メモリータグ■いい脇役は、どうしたらつくれるのか。出番が少ないのに、場面をさらうという出し方がひとつありそう。この作品では五右衛門。キュートだった。



ちょっと余談:ルブランのいにしえの作品は、これとは無関係になんとも手軽な元祖エンターテインメントなのだけれど、映像化するならあれこそ若いころのアラン・ドロンでぴったりだったろう。あやしい伯爵夫人は誰かなあ、ジャンヌ・モローでは知的すぎる? 



0155. The Getaway (1972)

2006年10月07日 | 1970s
ゲッタウェイ/サム・ペキンパー
122 min USA

The Getaway (1972)
Directed by Sam Peckinpah (1925-84), written by Walter Hill based on a novel by Jim Thompson. Cinematography by Lucien Ballard, music by Quincy Jones. Costume-supervised by Ray Summers, mens' costume by Kent James, womens by Barbara Siebert and wardrobe by James M. George. Performed by Steve McQueen (Carter 'Doc' McCoy) and Ali MacGraw (Carol Ainsley McCoy).

Ref. The Wild Bunch (1969), Straw Dogs (1971), The Getaway (1972), Convoy (1978)


監督がペキンパーで主人公は犯罪者、それならもちろん最後は破滅にちがいない……という予断をあざやかに裏切るハッピーエンド。マックィーンとアリ・マクグロウというスターを揃えて、ごみ車に放り込むシーンをよくぞ撮ったものだとも思う(笑)。

大犯罪のあとの逃走につきまとうのが、華々しい危険ばかりとはかぎらない。大金が入った鞄をつい駅のコインロッカーに預けてしまう不安な気持ち、そしてありふれたすり替え詐欺にあってしまうという日常性。鞄をおいかける男、ひたすら駅で待つ女、とっぷりと暮れていく空。いったい相棒は戻ってくるのか、今夜はどうしよう、永遠にここで待つのかしら……あのお金がなかったら、わたしたちどうなるの? 現実というものの頼りなさがひしひしと迫るシーンだった。おみごと。

全般に、傍流のシーケンスがじつに冷静に演出されている。はげしいアクションの合間に、さりげなくはさみこまれる周囲のショットも細部までいきていて、作品をゆたかなものにしていた。目的だけの映像がつらなる作品が、いかに貧しいものかと気づく。

それにしてもマクグロウの足ってキレイ(笑)。こんなにプロポーションのいいひとだったの(身長は1メートル77センチ、体重はせいぜい55キロでは)。すくなくとも"Love Story"より、はるかにいろっぽく撮れている。たぶん、モデル・ビューティーとして写すのではなく、男性の目で撮っているから。

マクグロウは時代にのった女神の一人だったはずなのに、この作品をきっかけにマックィーンと結婚。それはかまわないけれど、降板した役が"Great Gatsby"と"Chinatown"のヒロインというのが、あまりに惜しい。いまだったら恋愛しようが結婚しようがクランクインしたでしょう、時代の意識の犠牲者である。



メモリータグ■この作品もコスチュームが学べる。逃走する話では登場人物を着替えさせるタイミングが限られるだろうに、うまい。




0147. Barry Lyndon (1975)

2006年09月09日 | 1970s
バリー・リンドン/スタンリー・キューブリック
184 min UK

Barry Lyndon (1975)
Directed by Stanley Kubrick based on William Makepeace Thackeray. Produced by Jan Harlan. Cinematography by John Alcott, music by Leonard Rosenman. Performed by Ryan O'Neal (Barry Lyndon), Marisa Berenson (Lady Lyndon), Patrick Magee (The Chevalier de Balibari), Hardy Kruger (Capt. Potzdorf), Marie Kean (Belle, Barry's mother).



たのしんで観た自分におどろく。これはこれで一流の作品だったことを知った。

かつてこれを劇場で観たときは、ほぼ全面的に却下した記憶がある。おそらく理由は二つ。最大の理由は、アクチュアリティーがまったく感じられなかったことだろう。18世紀に題材をとったサッカレーの俗物小説を、ハリウッドがコスチュームドラマとして盛大に映像化する必然性は、せいぜい階層コンプレックスと金満趣味しか思いつかない。サッカレーの風刺なんて、たいしたものじゃないのだ。それをあの鋭敏なキューブリックが引き受けて、皮肉もパロディックな要素もろくに伝わらないほど大真面目でおつとめをする。ほとんど信じられない思いでみていた……こちらも真剣だったのです。

評価しなかったもう一つの理由は、アメリカが「欧州の古典世界」という像をけんめいに模倣して視覚化する、小児的なすなおさが退屈だったから。ここについては不当だったと思う。いまみると『バリー・リンドン』は、たいへん美しい画面づくりをしている。図書館と美術館と衣裳博物館で調査をつくし、巨額の資本をそそぎこみ、才能のある監督が光と構図を吟味して実現した水準である。もちろん、そのようにして得られた美の質は、どこかしら紙芝居の美しさにとどまるかもしれない。ただ、それは国の文化性という記号に還元してすませるべき性質の限界ではないし、キューブリックだけの限界でもない。たとえば『赤と黒』のような映像もそうだった。どこまでもりっぱで、どこまでも表層的だった。様式をまじめに模倣することを目標と考えているぶん、どこか滑稽にさえみえた。

けれど、ふつうは誰もがその立場にちかい。たまたま同時期のヴィスコンティのコスチュームドラマが、あまりにも例外的なだけ。あれにくらべると、なまじの「古典」の幼稚さが露わにならざるをえない。けれど、くらべるほうがいけない。

成功しているときのヴィスコンティの映像は、特異な世界をつくりだす。一つの動作にこめられた記号の複雑な重層性、歴史的な美しさの堆積と変容の気配、その気配に対する鬱屈と、鋭い皮肉と嫌悪、しかも深い愛着をこめた洗練。腐敗寸前の官能と豊穣さ、髪を解いた寝室の女性の脂粉の匂いまで漂ってきそうな画面は、あの作家だけのものだろう。様式のなかでそだったひとが、それを崩すところから始めているという点で、出発点から圧倒的優位にある。ようするにあれはマドレーヌからはじまる映像なのだ。別格。

ふとかんがえ出すと、おもしろい逆説がいくつもみてとれる。たとえばキューブリックのキャスティングは「正しい」。BBCのドラマとおなじように、貴族の役であれば、できるだけ貴族にみえそうな人を選んでいる。ところがヴィスコンティのキャスティングは、しばしば「正しくない」。そこでは記号が発酵し、ねじまげられ、意図的に浸潤され、毒され、腐り始めている。

基本的にヴィスコンティはなりあがりの俳優をえらぶ。アラン・ドロンはとうてい男爵家の青年にはみえないし、ヘルムート・バーガーが演じるのは、もはや健全な王の機能をはたさないまま崩壊していく末期の王である。近代の容赦のない効率性が世界をおおいつくそうとしていた時期に、狂気という贅沢に惑溺していった人物をえがこうとする行為そのものをふくめて、そこには自己批評をこえた嗜虐趣味が漂う。ヴィスコンティ自身がそうであるような、なにかが終わろうとする末世の支配層の目からみた新鮮さ、すなわちいかがわしさや禁忌の匂いを漂わせた虚偽の美、逸脱、ある飢えとにがさを透かし見せることが、役者えらびをはじめ万事の好みになっていたように思えてならない。ようは残酷なのだ。彼が偏愛するのはジゴロであり、下司である。下降指向などというなまやさしいものではない。体に悪い腐敗寸前の美味を口にする自虐的な愉しみが追求されるのは、弱いくせに誇りが高いからだ。裏切り者をえらぶひとは、どこかで裏切られたくてえらぶ。それがヴィスコンディだった。

ひきかえ『バリー・リンドン』が、12歳の子どもの目に映った古典世界であることはしかたがない。一種のディズニーである。けれどそこにはディズニーとしての、のどかななぐさめがある。そして第一級の品質管理力がある。もはやこちらも、屈託なくディズニーを楽しめる年齢に達したのでしょうか。ほんとのことなんて、知りたくないとか(笑)。



この世をきらいだといいながら、
いざ別れるときには、もうすこしいたいと言い出す
                     ブレヒト



メモリータグ■ベルギーの庭園。水路がはるかに見渡せる。



追記:プロデュースのジャン・ハーランはBrother of Christiane Kubrick, Brother-in-law of Stanley Kubrick. どうりで一枚岩。手がけた作品は『バリー・リンドン』1975、『シャイニング』1980、『フルメタル・ジャケット』1987、『アイズ ワイド シャット』1999、『A.I.』2001など。撮影はイギリス人のジョン・オルコット。The Shining (1980) を撮っている。