うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0456. アデル、ブルーは熱い色 (2013)

2017年04月09日 | カンヌ映画祭パルムドール

アデル、ブルーは熱い色 / アブデラティフ・ケシシュ
3h  France | Belgium | Spain

La vie d'Adele (2013)
Directed by Abdellatif Kechiche, Tunisia, 1960-. Written by Abdellatif Kechiche and Ghalia Lacroix based on the comic book "Le Bleu est une couleur chaude". Cinematography by Sofian El Fani. Performed by Adele Exarchopoulos (Adele), Lea Seydoux (Emma).


http://www.ferdyonfilms.com/wp-content/uploads/2013/12/yrQ0A9jRWigig18ojSH07ZLgJeu-1.jpg


原作はコミックブックだそう。被写体の撮影方法はごく日常的でリアルなトーンでなされている。パスタをすする油だらけの口元や、睡眠中にかすかに痙攣する身体が写されたりもする。ハリウッドの商業映像をひとつの極とする「整った表情」の定型では没になるであろうカットを投入した映像表現のなかで、主演の2人が臨場感のある自然な呼吸を伝えていた。2013年カンヌ映画祭パルムドール。主演俳優2人が監督と連名でこの賞の受賞者とされた初めての例とされる。審査員長はスピルバーグ、ほかにニコル・キッドマンなどが審査員に入っていた。

編集はやや冗長で、観客は主人公の女性アデルの高校時代と、その後の数年間にじっくりと寄り添うことになる。アデルは恋人とめぐりあい、一緒に暮らし始める。だが小さなすれ違いに不安になり、ほかの相手とも散発的につき会う。その事実を恋人に知られて破局に至る。約3年後の再会をへても、かつての親密さは戻らなかった。

それだけ? はい、それだけです。しいていえばアデルの恋人が同性であるだけ。そこにまだ、かすかな社会的偏見が残っていることが示唆される。性の多様性、いわゆるエルジビティー(LGBT)という観点からあえていえば、バイセクシュアル、ゲイ、レズビアン、ストレートなどさまざまなありかたが画面を横切る。だがどれもふつうの恋愛で、逆にその平凡さがひとつの主眼だったに違いない。たとえばアデルは庶民層の家庭に育ち、両親は保守的な価値観をもっている。本人も安定した職業をと考えて幼児教育の教諭になる。いっぽう恋人エマは画家で、家庭もおそらくリベラルな知識層に属している。アデルは教養の差に悩んだりする。これが古典的な両性愛の恋人同士だったらほとんど19世紀の悩みに近い。すなおすぎる。ある意味ではこの作品もそうかもしれない。すなおすぎる。

ただ、男性同士の恋愛をえがいた映像作品の数と質にくらべて、おそらく女性同士の恋愛を主体にした作品は現時点ではるかに少ない。カンヌはその領域を支援するという積極的なメッセージを発したといえる。いいかえれば同性愛の描写でさえ「女性の立場」がまだまだ未開発なのだ。作中、美術館の場面では、裸体の古典的女性画が何点も映されていく。それらの画家たちが意図していたであろう「男性的視点」とは異なる目で眺めていることを、こちらも意識するようになる。そこは新鮮だった。この主題でほんとうの傑作が生まれるのはまだすこし先かもしれないけれど、楽しみに待ちたい。

作品とは別に、こののち社会の通念が健全に推移して、エルジビティーといった概念そのものがすこしずつ不要になっていくといいと思う。「あなたが誰であるか」という定義はより流動的な、可変のものになる。愛情という主題においても、性や年齢や種の差異はしばしば意味をなさなくなっていく。いっそアルジビティー(ALGBT)という呼びかたも有効かもしれない。愛した相手が(たまたま)人間ではなくロボット――AI――だったとしても、べつに「ふつう」なのだから。



メモリータグ■それにしても、フランスっていまだに高校生にラクロを読ませて分析を講義したりするのですね。とほほ。あんなおもしろいものを教室で読まされるのは逆に残念だわ。





0455. 蜂蜜 (2010)

2017年04月02日 | ベルリン映画祭金熊賞

蜂蜜 / セミフ・カプランオール
トルコ 1h 43 min.

Bal (2010)
Directed by Semih Kaplanoglu. Written by Semih Kaplanoglu and Orçun Köksal. Cinematography by Baris Özbiçer. Performed by Bora Altas (Yusuf), Erdal Besikçioglu (Yakup), Tülin Özen (Zehra). 監督:セミフ・カプランオール、脚本:セミフ・カプランオール、オルチュン・コクサル、出演:ボラ・アルタシュ(ユスフ)、エルダル・ベシクチオール(Yakup)、トゥリン・オゼン(Zehra)。    


https://www.youtube.com/watch?v=LF7LcMdlNQs


自然音がすばらしい。森の木々を揺さぶる風の音、したたる雨の音、遠雷、虫の声、川の水音。翳りの深い映像と共に、一人の子供の心に積もっていく果てしない時間と遠い孤独を、世界の響きが表現していた。

光と音だけでどこまでものを語ることができるか、妥協なく賭けてくる映像作家は少ない。カプランオールはそれをする。映像の時空に融け込んだような、一種不思議な演劇性がそこに生まれていく。強靭な作風は変わらない。完全にカメラを固定した冒頭のカットは3分40秒を超えていた。被写体をとらえて微妙に調整するためのわずかなパンさえおこなわない。画面の奥行き軸を使ってゆっくり手前に移動してくる被写体はフレームアウトして、また戻る。このショットをふくめた冒頭場面が物語の核心をなすことは最後近くまであきらかにされないが、そのスタイルは三部構成の第一作『卵』を連想させて、詩的な様式性を醸している。

寡黙な挿話をつみ重ねてわずかずつ記号の織物を紡いでいく語りの速度は、けっして観客ににじり寄ってはこない。観る側は、最後の糸が中央に縫い込まれて図絵の意匠が全貌を現すその瞬間まで、ただ集中して光と音の新鮮な変化を追いつづけるのだ。いま、内なる勝負に立ち会っているという厳しい臨場感ののちに、静かな成就が訪れる。2010年ベルリン映画祭金熊賞。



メモリータグ■水に映る銀色の月。ここは強く舞台的な映像演出だけれど、行き過ぎてはいなかった。